クタビレ爺イの山日記

諸先達の記録などを後追いして高崎近辺の低山中心に歩いています。

榛名神社見学 H-25- 5-14

2013-05-16 12:30:13 | 伝説・史跡探訪
榛名神社西稜線縦走に失敗して気分転換に神社の見学。
参拝者用の無料駐車場に車を留めて折からの団体客に混じって参道へ。

神社の遠景。この神社は維新前は満行宮大権現、明治元年(1868)から榛名神社ーと
言うより神仏分離で仏教色が一掃され神社として復活した。唯一の例外は三重の塔が
残されたことであり1872年に郷社、縣社への昇格は1884年の事。



入り口には見事な八重桜が満開。



正面には随神門が近づく。「鳥居を潜って随身橋を渡るとーー」と説明されて
いるらしいが、肝心の随神橋に気づかなかった。確かに神社領域を挟んで流れる
榛名川が合流するのだがそれは禊橋の下を流れて合流点に向かっているとばかり
思っているから。でも手前に赤い欄干があったような気もする。
とすると、天狗への道に平行した細流があるからそれに掛かった橋かな。
下の写真の下部にも橋の欄干らしきものが僅かに写っている。



さて、この国指定重要文化財の八脚門の随神門は神仏習合時代には運慶作と
伝えられる仁王像が置かれた仁王門であったが、現在は1907年に祀られた
随神像が祀られているからその名も随神門。
早い話が 仁王が入っていれば「仁王門」、四天王が前後左右に入っていれば
「四天門」、四天王のうち2つが入っていれば「二天門」、随神が入っていれば
「随神門」、二階建てなら「楼門」。
「随神」とは、社殿や神社社地などを守る神様とされ、矢大神・左大神とか
左大臣・右大臣という俗称で呼ばれるている。勿論、左大臣が格上。
本殿までは約550m。



 

みそぎ橋を渡るが川の名前が確か禊川。近くに毘沙門天や寿老人の像もある。







右手に鞍掛岩。対岸の中腹にあるがやや樹木が茂る時期になっているので、
判別しにくくなっている。元々は洞窟だったところが奥の岩が落ちて上の部分が
丸く半円を描くアーチ橋。手前にある石灯篭もこの関連かな。





右を流れる清流、水量が多ければ見ごたえがあるだろう。



左の山手に入る細道がありその先には秋葉神社一の鳥居が見える。この先には
社殿は無くその残骸が散乱し数個の石宮と三角点が置かれているだけ。
午前中に失敗した榛名神社西稜線縦走はここが終着点のはずだつた。
摂社と説明が付いているから本社の祭神と縁故の深い神を祭った神社なんだろうな。



その反対側に千本杉の案内板。但しその脇の杉が千本杉と言うわけではなく
この神域には樹齢400年から1000年のものが多数あるということ。



静寂の石畳の参道を進んで坂が終わったところに布袋の像。



左に水琴窟がある。
水神楽とも云われて地下の甕に落ちる水の反響音を楽しむものらしい。なんでも
1秒間に落ちる水滴の数が通常の3倍になるように設計されていて写真の左奥に写っている
二本の竹筒に二人が同時に耳を当ててそれぞれ異なった音色を楽しむことができる
そうだがその音色を水が奏でる雅楽(水神楽)と称しているとの事。
かって一度だけ聞いたことがあるが確か木琴の音色の様だった。
今回は回りに観光客が多いので何となくパス。



その先の福禄寿の像の前に来ると



前方に石段が現れ塩原太助寄進の玉垣と彫られている。塩原太助は利根郡新治村
生まれの1743年~1816年の人。炭屋奉公から身を起こし大商人に成長。
富豪になってからも謙虚な気持ちで清潔な生活を送り、私財を投じて道路改修や
治水事業などを行ったとされる。その塩原太助が、江戸へ出る時に榛名神社に祈願をし、
成功した後、この玉垣を奉納したという。



脇を見たら施工は高遠石工の藤沢政吉だった。この後、榛名湖に行く途中の
天神峠で見た太助寄進の巨大な石灯籠と同じ石工だ。



この階段の途中に三重塔と反対側に恵比寿像がある筈なのに記憶に無い。
帰宅して写真を調べても写っていない。若しかするとこの近辺が工事中で
防災壁が防塵幕があった記憶もあるので丁度隠されていたのかな。

左手に巨石出現。左が夕日岳で別名・風天岳とか。



右が朝日岳、こちらは雷天岳の別名を持ち、写真では判然としないが中腹に
「宝珠窟」という洞窟があるとのこと。



先に進むと禊橋に似ているが今度は「神橋」となっている。H-21の架け替え
なのでピカピカ。



この橋は 深い谷の行者渓にかかっている橋で左手にみえるのが行者渓らしい。
なんでも安藤広重六十余州名所 版画絵の中に「上野国榛名山雪中」として選ばれた
ところらしい。役小角もここで修行をおこなったとの伝説があるそうな。





続いて東面堂の案内看板。確かに大岩の下の方に、扉も見えるお堂の跡。





弁財天像前を通過すると



塞神社で祭神は八衢比古神と八衢比賣神だが爺イの感覚では道祖神と同等。
他界より侵入して災厄をもたらす邪神、悪魔等を防ぎ止め、追い返すことを
掌どるのだから。





石段下に萬年泉で雨乞いの神様。一年中水の涸れることがない事から万年泉。
旱続きで困った時この井戸の水を汲んで持ち帰り雨の降ることを願うんだそうだ。







石段を登り切った正面に御水屋、この水は、瓶子の滝と同じ榛名山麓の天然水で、
萬年泉の水とともに古くから、御神水として使用されている。



そこから右の対岸を見ると瓶子の滝。
滝の両脇の岩を瓶子(みすず)岩と呼んでいたことにより滝の名が付いたと。
瓶子とは神に供える神酒をいれる器のこと。





左手の巨大杉が国指定天然記念物の矢立杉。
永禄年間の 武田信玄箕輪城攻略の際、矢を立てて祈願したといわれる巨木。
矢立とは武将たちが戦勝を祈願するために境内の木に矢を射立てる儀式。
推定樹齢は1,000年、周囲は9m以上あり、高さも30m以上。
但し、ほかの古記録には「永禄年中武田信玄當社参拝に際し此処に兵士を休ましめ
武器を立てかけたるを以ってこの名ありと傳ふ」ともあるんだがな。



石段を曲がりながら登ると国指定重要文化財1859年建立の神幸殿(みゆきでん)
簡素な形式を持ち、塗装は施されておらず、古式の仏堂の形式を踏襲している。
毎年春の大祭に祭神は本殿より神輿に移されここに遷座し、15日に還御されるまでの
期間開かれ、参拝できまるそうだ。



この門を潜るが何も書いてない。だが、多分「神門」かも知れない。



目の前に1855年建立国指定重要文化財の見事な双龍門とその左の巨岩は鉾岩
(ヌボコ岩・ローソク岩とも)。
天井にある絵柄は薄くて写真にならなくて残念。




扉の龍の彫り物。これを上り竜、下り龍と云うのかは良く判らない。





両脇にも四面の彫り物。









双龍門を潜ってから振り返り。



神楽殿前に来る。これも国指定重要文化財で1764年11月の再建。





いよいよ本殿に到着。ここは本社・幣殿・拝殿の複合社殿で国指定重要文化財。





後ろに屹立しているのがお姿岩。
この御姿岩にご神体をお祀りし、接続して権現造の社殿が建てられているとの事。
くびれ部に梵天が刺さっている。





そして国祖殿。額殿との複合社殿でここも国指定重要文化財。
元は榛名山西部の御祖霊嶽にあったものを、いつの頃からか本社のそばに摂社として祭る
ようになったと伝えられ、1841年に修復された。神仏分離以前は本地仏を安置し、
本地堂とも呼ばれていたとの事。額殿は1814年のもの、国祖社に増築する形。
本来は神楽の拝見所だが、大小の「太々御神楽」の扁額を掲げてあることから
額殿と呼ばれています。
こんな所で御祖霊嶽ミソダマの名を見て嬉しくなる。かつてこの名に興味を持って
数回訪れているからだ。





振り返るとさっきの鉾岩が先端まで見えた。



最後は県指定重要文化財の鉄燈篭。
銘文によると1323年の奉納。材質が鉄で基礎の獅子が浮き彫りにされている
格狭間の形状などに鎌倉期の特徴がよく表れているとの事。鉄燈篭としては
県内最古のもの。





以上で見学は終了だかいつの間にか七福神の数体を撮り損なっていた。
再び車に戻って榛名湖に向かう。

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