折角の二日続きの好天ではあるが、午前中の所用のため残念ながら
山はお休み。昨日、少し張りきり過ぎたので丁度良い休養かも。
それでも午後になって先日の近所の史跡・伝説巡りの続きに出掛けた。
内山信次氏の「ぶらり高崎」の後追いである。
(1)「追分」の発祥
我が家の近くに「追分」と言われる所があるが、今ではバス停にその名が
残るだけ。小さな八坂神社のある場所である。
昔、未だ渋高線の道が無かった頃、「三国街道」と「箕輪道」の追分は
下小鳥の「越後道」の道しるべのある所であったが、明治初期の地図には
現追分の地点から、現高渋線と三国街道が分かれているので、幕末か明治
の初年ごろ追分は南下して今の地点に移動したらしい。
そして追分に
住民が増え、疫病を流行らす「牛頭天王」の八坂大神、雷神の愛宕の神を
祭って鎮めとしたのがこの神社。
(2)楽間薬師堂・閻魔の備品再び
先日、発見できなかった閻魔の備品と言われる「天秤」と「鏡」の石像物を
探しに再び楽間へ。良く探したがやっぱり判然としない。「天秤」らしき
ものは見付かったが自信は無いので専門家の内山氏に問い合わせ中。
「追記」
内山氏から返事を貰った。この写真は確かに「閻魔の備品」の
鏡と天秤だとのこと。正面上部の丸い彫りが鏡、横棒状になって
いるのが天秤で右側に横になった人間がぶら下げられており、
左に重りが確かにある。薬師堂の裏に誰知る事も無く放置され
ているが、こんな事で良いのだろうか?
その作業中に奪衣婆を発見、思わぬ収穫。
(3)住吉町の庚申搭
市街地に戻って信金駐車場に車を停めて、長野堰右岸の「川端の庚申」へ。
元は中国の道教の庚申信仰は平安時代に渡来し、江戸時代に盛んに信仰された、
と云うより習俗になったものであるが、この川端庚申を見るとそれがここでは
未だ生きていると感ずる。これは1711年の造立で基部には青面(ジョウメン)
金剛の神使・三猿が彫りこまれている。
(4)相生町・稲荷横丁の「青麻(アオソ)大明神」
相生町の西側に通称で稲荷横丁と言われる小路がある。其処を西進すると
左手に小さなお稲荷さん。
その社の中に「青麻大明神」と彫られた大正時代の小さな石碑がある。
誰が祭ったのかは不明だが、これは中風退徐の祈願らしい。
面白いのは祭神の一人に衣川で生き残った「常陸坊海尊」がいる事で、
この御仁、数百年の命を永らえて義経記を語り継いだとの伝説のある人。
江戸の始め百七歳の長寿を保った天海僧正は常陸坊に長生きの秘訣を
伝授されたと言う、これも説話。そんなことから中風になっても長生きしたいと
の誰かの願望であろう。下記ご参考までに。
森村誠一・平家物語第三巻
「落慶供養に臨んだ頼朝は鎌倉黒に跨って橋を渡り始めた。
その瞬間、橋板の隙間から白い切っ先が突き出して鎌倉黒の
脛を薙ぎ上げた。頼朝は馬の背から振り落とされ相模川に
落下した。周囲の混乱の中、一つの黒い影が橋桁から滑りだし
水中でもがく頼朝の足を掴んで水中深く引きずりこんだ。
影は平泉で義経が討たれた時に死に遅れた常陸坊海尊で
あつたが、引き上げられた頼朝の息は既に無かった。常陸坊の
行方はその後、杳として知れない」
(5)成田山・光徳寺の「成田橋」
成田山の境内に入ると左手に太子堂の建物がある。そしてその前に何やら
石の橋のような物があって柱には「成田橋」と彫られている。
江戸時代の高崎城は「遠構え」「遠掘り」で守られていたと言う。成田山の
前がその遠構えであった。明治時代の道路拡張でこの掘りに石橋が懸けられ
成田橋と名付けられたが、その後に掘りが埋めたてられたため、境内の中の
太子堂前に移設されたもの。
太子堂は聖徳太子を祭ったものであるが、成田さんの物は1930年に
老朽化によって多野郡美土里村の阿弥陀堂を移転したもの。1940に改築の
手が入っている。
移転後、暫くは阿弥陀堂と言われていて、太子堂となったのは1931年とか。
(7)末広町の川端薬師
末広町交叉点近くのデニーズの裏に回ると長野堰沿いに「川端薬師」がひっそり。
お堂の中の石像は1760年頃の作で、別の場所にあったのが1784年にここに
移されたと伝わるそうである。
この年は浅間噴火の翌年で疫病・飢餓が続いた頃で
あるので、苦しい時に村人・町人が神や仏を作る事で拠り所にしたのであろう。
まだまだ続きそうであるが今日はこれまで。
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山はお休み。昨日、少し張りきり過ぎたので丁度良い休養かも。
それでも午後になって先日の近所の史跡・伝説巡りの続きに出掛けた。
内山信次氏の「ぶらり高崎」の後追いである。
(1)「追分」の発祥
我が家の近くに「追分」と言われる所があるが、今ではバス停にその名が
残るだけ。小さな八坂神社のある場所である。
昔、未だ渋高線の道が無かった頃、「三国街道」と「箕輪道」の追分は
下小鳥の「越後道」の道しるべのある所であったが、明治初期の地図には
現追分の地点から、現高渋線と三国街道が分かれているので、幕末か明治
の初年ごろ追分は南下して今の地点に移動したらしい。
そして追分に
住民が増え、疫病を流行らす「牛頭天王」の八坂大神、雷神の愛宕の神を
祭って鎮めとしたのがこの神社。
(2)楽間薬師堂・閻魔の備品再び
先日、発見できなかった閻魔の備品と言われる「天秤」と「鏡」の石像物を
探しに再び楽間へ。良く探したがやっぱり判然としない。「天秤」らしき
ものは見付かったが自信は無いので専門家の内山氏に問い合わせ中。
「追記」
内山氏から返事を貰った。この写真は確かに「閻魔の備品」の
鏡と天秤だとのこと。正面上部の丸い彫りが鏡、横棒状になって
いるのが天秤で右側に横になった人間がぶら下げられており、
左に重りが確かにある。薬師堂の裏に誰知る事も無く放置され
ているが、こんな事で良いのだろうか?
その作業中に奪衣婆を発見、思わぬ収穫。
(3)住吉町の庚申搭
市街地に戻って信金駐車場に車を停めて、長野堰右岸の「川端の庚申」へ。
元は中国の道教の庚申信仰は平安時代に渡来し、江戸時代に盛んに信仰された、
と云うより習俗になったものであるが、この川端庚申を見るとそれがここでは
未だ生きていると感ずる。これは1711年の造立で基部には青面(ジョウメン)
金剛の神使・三猿が彫りこまれている。
(4)相生町・稲荷横丁の「青麻(アオソ)大明神」
相生町の西側に通称で稲荷横丁と言われる小路がある。其処を西進すると
左手に小さなお稲荷さん。
その社の中に「青麻大明神」と彫られた大正時代の小さな石碑がある。
誰が祭ったのかは不明だが、これは中風退徐の祈願らしい。
面白いのは祭神の一人に衣川で生き残った「常陸坊海尊」がいる事で、
この御仁、数百年の命を永らえて義経記を語り継いだとの伝説のある人。
江戸の始め百七歳の長寿を保った天海僧正は常陸坊に長生きの秘訣を
伝授されたと言う、これも説話。そんなことから中風になっても長生きしたいと
の誰かの願望であろう。下記ご参考までに。
森村誠一・平家物語第三巻
「落慶供養に臨んだ頼朝は鎌倉黒に跨って橋を渡り始めた。
その瞬間、橋板の隙間から白い切っ先が突き出して鎌倉黒の
脛を薙ぎ上げた。頼朝は馬の背から振り落とされ相模川に
落下した。周囲の混乱の中、一つの黒い影が橋桁から滑りだし
水中でもがく頼朝の足を掴んで水中深く引きずりこんだ。
影は平泉で義経が討たれた時に死に遅れた常陸坊海尊で
あつたが、引き上げられた頼朝の息は既に無かった。常陸坊の
行方はその後、杳として知れない」
(5)成田山・光徳寺の「成田橋」
成田山の境内に入ると左手に太子堂の建物がある。そしてその前に何やら
石の橋のような物があって柱には「成田橋」と彫られている。
江戸時代の高崎城は「遠構え」「遠掘り」で守られていたと言う。成田山の
前がその遠構えであった。明治時代の道路拡張でこの掘りに石橋が懸けられ
成田橋と名付けられたが、その後に掘りが埋めたてられたため、境内の中の
太子堂前に移設されたもの。
太子堂は聖徳太子を祭ったものであるが、成田さんの物は1930年に
老朽化によって多野郡美土里村の阿弥陀堂を移転したもの。1940に改築の
手が入っている。
移転後、暫くは阿弥陀堂と言われていて、太子堂となったのは1931年とか。
(7)末広町の川端薬師
末広町交叉点近くのデニーズの裏に回ると長野堰沿いに「川端薬師」がひっそり。
お堂の中の石像は1760年頃の作で、別の場所にあったのが1784年にここに
移されたと伝わるそうである。
この年は浅間噴火の翌年で疫病・飢餓が続いた頃で
あるので、苦しい時に村人・町人が神や仏を作る事で拠り所にしたのであろう。
まだまだ続きそうであるが今日はこれまで。
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登山とは言えない低山のハイキング
ですが、歳・体力相応のところで
山裾を這いまわっています。
よろしく。