クタビレ爺イの山日記

諸先達の記録などを後追いして高崎近辺の低山中心に歩いています。

月夜野の里山(3)味城山  H-21-5-2

2009-05-03 08:39:05 | 中之条・小野上・みなかみ・沼田・渋川
相変わらず今日も北毛の里山、狙いは新治と月夜野の境界線上にある
味城山。別名見城山・名胡桃富士とは「300山」の記録から。
連休の交通渋滞を避けるため新幹線で「上毛高原駅」へ。高崎から僅かに
17分、殆どトンネルの中をあっという間に到着。一分当たり100円相当だから
近距離の新幹線は割高だが車でなら二時間近くかかるから、まあ良しとするか。
駅舎の西口に出て目印の寿命院を目指す。(9.24)



案内書の通り、寺の入り口の角には数本の幟があり参道が真っ直ぐに伸びている。



寺の敷地に突き当たって右に曲がり敷地にそつて進むと民家の直ぐ脇を通過して
杉林に入り右手に墓地を見ると雑木林の中。たが途端に藪に遭遇。始末が悪いことに
笹の上に葛がびっしりと覆い被さり嫌な場所。兎に角、一旦膝で押し込んでから
一歩づつ。



右手の明るいほうに抜けると前面は畑。良く見ると道が数本見える。



振り返ると嶽林寺らしき建物が見え、山手への数本の細道もあるので、こつちから
来ればこんな藪を通過しないで済んだのだ。



急いで前方に見えた林道に入り込む。(9.55)最初から随分と無駄時間を
使ってしまった。
道は西に向いており、林の中でナビは沈黙だが地形図の実線に乗って
いると感じた。やがて両側から雑草の茎がのし掛かりトンネル状。



平坦道を調子よく進んだら道はいきなり下りに掛かる。位置が判らないが
どうも拙いので左に垂れている尾根を登り始めた。途端に目を覚ました
ナビを見ると既に545鞍部を100m以上通り越し。慌てて斜面を東南に戻る。
すると、又林道が現れた。道の様子からさっきの林道ではなく一本上のものらしい。
しかも、鞍部方向に上っている。それを辿ると簡単に東電の標柱が二本ある
鞍部に到着。標柱は38号と39号鉄塔の方向を表示している(10.13)。



目の前は北西への尾根が来ており、其の左に矢張り林道が延びている。
取り敢えず、尾根に取り付くと踏み跡もある。直ぐにさっきの林道の延長が
合流してきて、尾根を蛇行する道となつた。
やがて道は尾根と分かれて左に向かっていくので、こっちは尾根を外さない
様に進む。見慣れたブルーのビニール紐の処で少し露岩が現れる。(10.35)



小コブや平坦道を進むと案内書にある岩隗、右の細道を僅かに進んでから
岩頭に上る。



ここは見晴らし場所で巨大な三峰の頂上台地が良く見える。
北西への稜線はややきつくなり、やがて西南に向きを変えて一登りすると
頂上着で標識のお出迎え。(11.07)



小川城主・小川可遊斎の古事を記した看板、その側には三角点もある。



三等・點名 味城山 757.36m 地域はみなかみ町大字羽場字味城山に
なっているので、月夜野ではなく旧新治の管轄かな?



頂上台地は西へ更に80m程延びているので二つの堀切を経て行って見たが
こんな境界杭が一本あるだけ。



三角点のある場所は雑木が多くて展望は駄目だが、北斜面に僅かに下ると
樹間から霞みの掛かった穂高・谷川と北東の雪嶺、手前に大峰も見える。





僅かの花を前にして本日の爺イ。



休憩後、もう一つの三角点を探しに下山開始、鞍部から東南への平坦尾根を
進む。(11.44)



やがて東電送電線鉄塔、



ここから等高線二本のコブが二つ続き、疲れた足にズンと利いて来る。
三つ目は小ピーク、そこに石宮と三角点発見(12.10)。



四等 點名 原山 589.41m 位置は大字月夜野字八木野
ここで休憩・昼食。(12.10-12.30)



この頂点から東と南に稜線が分かれるが東90mのコブに向かう。
コブの突端から今度は北への急降尾根と東南への緩傾斜尾根に分かれる。
北の急降は回避して案内書にある蛇行道を探しに東南へ下る。
約50m下ると左への細い踏み跡。方向はさっき回避した尾根の東斜面を
北へ進んで結局、尾根に合流した。其の先に又送電鉄搭。



直ぐ先に木製のお宮。(12.47)



ここからははっきりとした登山道が蛇行して続く。どうも駅からはどんどん
離れていくが仕方が無い。やがて線路脇の金網のある車道に降り立つ。
寿命院から0.4Kも南に出てしまった。



今度は小川城址の見物に向かうので、下手に見える跨線橋を東に渡る。駅の方に
もう一つ見えるから二番目の跨線橋。背後に堂々とした三峰。



ここから再び雪嶺を眺める。




くねくねと道を東へ0.5k程辿ってR-291に出てから0.3K北上すると
小川城址入り口、



県道東側の本丸跡は遺構が僅かに残り、表示物も多数。



暫く見物してから駅に戻る。途中で見た二の丸跡は畑地と住宅地で看板以外
何も無い。(13.32)駅を西口に抜けて嶽林寺に向かう。道路補修を含めて
新規の造成がされているのでピカピカ部分が多くて興を殺ぐ。



高台に上って彼方に見える往路の検証。やはりこの寺からよく林道を見極めて
アプローチすれば無駄な藪突破などしないで済む事が良く分かった。
寺の周辺で古そうな石像物を見て回って本日は終了。






帰りも新幹線17分で高崎帰着であっという間に帰宅。

蛇足・
この味城山は戦国時代の「見城の柵跡」と云われている。主人公はR-291沿いに
ある小川城の城主であつた「小川可遊斎」なる武将。小川城は1482年に
沼田景久の築城、二男の景秋を配してから数十年、北面の武士上がりの
浪人・赤松祐正が頭角を現し、謙信の裁可で小川の名跡を継ぎ城主となり
「小川可遊斎」と名乗る。
1500年代の半ば、この沼田地区は上杉・北条・武田と目まぐるしく支配者が
変貌するが可遊斎は巧みにこの間を泳ぐ。当初は上杉方として西上州に
勢力を伸ばしていた武田の配下・真田昌幸と鍔迫り合いを続けが岩櫃城・
矢沢氏との戦いに大敗。
だが、その武勇を昌幸に認められて武田勢としての小川城主に衣替え。
やがて1573年信玄死去、1575年長篠の戦い、1578年謙信卒と時代は移り、
現在のNHK大河ドラマの時代になる。直江兼続の策略で北条を裏切り
景勝に荷担した勝頼の動きもあつて1579年に北条氏政は家康と同盟して
勝頼の挟撃を謀り、翌年には織田も同盟。
家康室の築山殿や信康を切腹に追い込まれたのにも拘らずに。
1580年、武田としての小川城は北条に攻められる。緒戦は快勝したが
北条本隊が出てくると惨敗、見城の柵に逃げ込んで防戦するも敗退して
越後に逃れたーーー
とする説と1582年の武田の滅亡後に北条への帰参を願ったが許されずに越後に
逃避したとも。
この年は信長か本能寺で倒れるが北条の滅亡は1590年のことである。



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