またもや裏切られた。と言っても多寡が大河ドラマでの他愛無い話。
7/23の放映は家康の巧者振りを証明した「小牧・長久手の戦い」
場面、爺イは二つの逸話が上手く取り入れられている事を期待した。
一つは山内一豊が例の十両の名馬を見失ったまま逃げる所、もう
一つは当時未だ三好姓であつた「秀次」が敗走中に輩下の者に
見捨てられる件である。
残念ながら二つともカラ振り、おまけに制作費の節減のためか戦闘
場面を圧縮したので情況が視聴者には分かり難い感じ。
この女脚本家、イケ面「成宮」「上川」の惨めな姿を見せたく
なかったのか?
NHKに替わって再現描写をすると、両軍睨み合いの中、前哨戦で
恥をかいた森長可(ナガヨシ・蘭丸の兄)、功を焦る池田勝入斉
(輝政の父)、調子に乗る秀次(当時十七歳)が二万の兵の「中入り」
で夜間に忍んだ積りで岡崎城に向うが、延々長蛇の行軍は始めから
バレバレ、逆に徳川軍に隠密追尾され夜明けになってから後尾の
秀次本隊が急襲される。
瞬時に本隊壊滅、ここで一豊は馬を見失って徒歩で逃げる。ドラマでは
秀次を救援にいく事になっているが。秀次も同様に徒歩で必死で逃げるが
途中で馬に乗って逃げる美濃の豪傑・可児才蔵を発見、「馬を貸せ」と
頼むが、その時に才蔵が吐いた台詞が「雨降りの傘に候」だったのだ。
敗走する者にとって馬は雨降りの傘と同じで貸す事はできないと言う意味。
同じ戦国の逸話でも、長篠の敗戦で逃げ出して馬を乗り潰した勝頼には、
河西満秀が自分の馬を提供し、自らは防ぎ働きをして討ち死にしている。
両者への世間の思い入れの違いが逸話の違いを生んだのだろう。
次の山場は長浜移住後4ヶ月で遭遇し、娘のよね姫を失う1585年の
天正地震と1586年の家康上洛に絡む秀吉・家康の駆け引き。
今度こそ大石静の脚本に期待。
大体、小説で扱われる挿話は大概が江戸時代の「戦記ものがたり」で
あり、史書ではないそれらは、時の権力の顔色を覗いながらのもので
あったり、当時の幕府に諂う「クサレ儒者」によって捻じ曲げられた
ものである。例えば一豊の馬の話が扱われている「新井白石・藩翰譜」、
「室鳩巣・鳩巣小説」「湯浅常山・常山紀談」等は戦国逸話集であり
余り史実とは考え難いとの評判。爺イの子供の時代は教科書に載って
いたのだから良い面の皮である。家康が信玄に蹴散らされた三方ヶ原
などの既述は極めて少ないと言う。だから原作を離れる脚本でもどうって
事は無いのだが。原作を手元に広げながらドラマを見る爺イの方がどうか
しているのかも。
然し、作家・永井路子の次の言葉はモヤモヤを吹き飛ばしてくれる。
「小説と歴史は違うものだ。小説は虚構を逆手にとって新しい花を咲かせ
ていく。一つ一つは虚構でも、その積み重ねの中に、息づいている人間像
が作られていく。大胆に虚構を踏まえて話を進めていくところに作品の
面白さが出る」 確かに納得。
今日は何だか分からない愚痴を「雨と傘」からの連想で一くさり。
7/23の放映は家康の巧者振りを証明した「小牧・長久手の戦い」
場面、爺イは二つの逸話が上手く取り入れられている事を期待した。
一つは山内一豊が例の十両の名馬を見失ったまま逃げる所、もう
一つは当時未だ三好姓であつた「秀次」が敗走中に輩下の者に
見捨てられる件である。
残念ながら二つともカラ振り、おまけに制作費の節減のためか戦闘
場面を圧縮したので情況が視聴者には分かり難い感じ。
この女脚本家、イケ面「成宮」「上川」の惨めな姿を見せたく
なかったのか?
NHKに替わって再現描写をすると、両軍睨み合いの中、前哨戦で
恥をかいた森長可(ナガヨシ・蘭丸の兄)、功を焦る池田勝入斉
(輝政の父)、調子に乗る秀次(当時十七歳)が二万の兵の「中入り」
で夜間に忍んだ積りで岡崎城に向うが、延々長蛇の行軍は始めから
バレバレ、逆に徳川軍に隠密追尾され夜明けになってから後尾の
秀次本隊が急襲される。
瞬時に本隊壊滅、ここで一豊は馬を見失って徒歩で逃げる。ドラマでは
秀次を救援にいく事になっているが。秀次も同様に徒歩で必死で逃げるが
途中で馬に乗って逃げる美濃の豪傑・可児才蔵を発見、「馬を貸せ」と
頼むが、その時に才蔵が吐いた台詞が「雨降りの傘に候」だったのだ。
敗走する者にとって馬は雨降りの傘と同じで貸す事はできないと言う意味。
同じ戦国の逸話でも、長篠の敗戦で逃げ出して馬を乗り潰した勝頼には、
河西満秀が自分の馬を提供し、自らは防ぎ働きをして討ち死にしている。
両者への世間の思い入れの違いが逸話の違いを生んだのだろう。
次の山場は長浜移住後4ヶ月で遭遇し、娘のよね姫を失う1585年の
天正地震と1586年の家康上洛に絡む秀吉・家康の駆け引き。
今度こそ大石静の脚本に期待。
大体、小説で扱われる挿話は大概が江戸時代の「戦記ものがたり」で
あり、史書ではないそれらは、時の権力の顔色を覗いながらのもので
あったり、当時の幕府に諂う「クサレ儒者」によって捻じ曲げられた
ものである。例えば一豊の馬の話が扱われている「新井白石・藩翰譜」、
「室鳩巣・鳩巣小説」「湯浅常山・常山紀談」等は戦国逸話集であり
余り史実とは考え難いとの評判。爺イの子供の時代は教科書に載って
いたのだから良い面の皮である。家康が信玄に蹴散らされた三方ヶ原
などの既述は極めて少ないと言う。だから原作を離れる脚本でもどうって
事は無いのだが。原作を手元に広げながらドラマを見る爺イの方がどうか
しているのかも。
然し、作家・永井路子の次の言葉はモヤモヤを吹き飛ばしてくれる。
「小説と歴史は違うものだ。小説は虚構を逆手にとって新しい花を咲かせ
ていく。一つ一つは虚構でも、その積み重ねの中に、息づいている人間像
が作られていく。大胆に虚構を踏まえて話を進めていくところに作品の
面白さが出る」 確かに納得。
今日は何だか分からない愚痴を「雨と傘」からの連想で一くさり。
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