クタビレ爺イの山日記

諸先達の記録などを後追いして高崎近辺の低山中心に歩いています。

保渡田古墳群見直し H-24-6-25

2012-06-26 15:30:13 | 伝説・史跡探訪
かって六年ほど前、「高崎広報」に若狭徹氏の「高崎千年物語」が53回に亘って
連載された事があるがそれらは纏められて一年前に単行本として刊行されている。
其れを読むと過去数回のここのブログ記事に不足が目立つので補足。

昨晩NHKから放映された五千年前から三千年も続いた「古代エジプト文明」を
見てしまった眼では如何にも落差を感ずるが、それが我々の置かれた現実なの
だから仕方が無い。
但し、五千年の歴史を誇る中国はその相当部分が発展途上と評価される国家であるし
エジプトにしてもムバラク政権の崩壊・軍部による暫定統治を経て先日のムスリム
同胞団に擁されたモルシ氏が新大統領に選出されたばかりで決して先進国とは
云えない状況だから、たった二千年前に未だ文字を持たない未開の採集・狩猟民族
だった我々も現代の文明度において恥ずる事も無い。
まあ、昨日今日の政権を握る民主党の未熟度を見せられると自信も無くなるが。

三世紀の頃、高度な農業技術を持った大集団が東海地方から海路で東京湾に上陸、
利根川を遡上して高崎周辺の低湿地帯に至り、その灌漑技術によって現地の
弥生人たちが為し得なかった湿地の水田化を実現した。不毛の地が「毛野」に
変貌した瞬間である。彼らの頭領たる王はその死後、高崎・元島名町の
「将軍塚古墳(県内最古)」に葬られた。それが四世紀の事。
「群馬は海に無縁」と慨嘆する事はない。この様に1700年も前から群馬の物流・
情報は遥か大海に繋がっていたのである。
そして五世紀の後半、榛名山東南麓を開発する豪族が活躍。彼らは周到な計画を以って
渡来人を多数招聘して先進技術を導入、農業・馬生産・手工業を興す。その大王たちは
井出から保渡田に至る古墳群に眠っている。従ってこの地域では先進文明国の技術集団の
末裔達が多く棲むと言う。
だがこの地域はその絶頂期の五世紀末に火砕流を伴う第一回の榛名山大爆発に
見舞われる。
火砕流は広範囲の森林・耕地・村々を焼き払い、せき止められた自然ダムが
決壊して土石流が山麓を埋め尽くした。六世紀中期には第二回の爆発で大量の
軽石が数メートルも降り積もる。
そして、高崎に文明を開いたこれら豪族達は古墳を残して忽然と消息を絶つ。

「高崎の王」とでも云える豪族達の足跡は「保渡田古墳群」の三大前方後円墳に
見られる。
今はコスモスの名所になっている井出二子山古墳は最初に作られた墳丘長108M、
整備が完了し埴輪群の展示があるのが二番目の八幡塚古墳で96M、薬師堂がのった
薬師塚古墳は105Mで三番目、この建設の後、ここの王の足跡は消える。

古墳祭りへの数回の見物、埴輪群見学などを数回経験してある程度は判った
積りだったが専門家の著書を紐解くと気が付かなかった細かい見落としに気付いた。
で、早速補足のために井出に向かう。自宅から僅か数キロのところなので運動のために
ウォーキングと行きたいが生憎の梅雨空なので浜川運動公園に駐車して染谷川にそつて
北上する。

以下、再確認を数点。

(1)大形円筒埴輪の事。

現在の八幡塚古墳の周辺には膨大な数の円筒埴輪が並んでいる。
これはここで発掘された約6000ヶの埴輪に因んで地域のボランティアが
「プロジェクト6000」を結成し
約10年掛けて膨大な数の埴輪を作成して古墳の周辺を飾ってきた。
それが2009年の6月で完了し、その最後の埴輪が記念にリボンが付けられて
いると聞いたが今はリボンはわからない。



今までこれ等が八幡塚から出たものと思っていたが、それは間違いで二子山古墳の
北側から出土したものとの事。
この二子山古墳は徹底的に盗掘されていて2003年の発掘調査の時は目立った
副葬品は殆ど何もなかったらしいが、関係者の執念で棺周辺の土の中から
微細な遺物片を多数発見、
朝鮮半島で作られた最高級の工芸品と認定された。それと共に藤岡の埴輪窯から
大量に送られたと思われる大形円筒埴輪が出てきた。埴輪の高さは80センチ、
これはヤマト政権のワカタケル大王(雄略天皇)の墳墓からのものと同等。つまり、
二子山の王はヤマトの王から東国の雄として遇され大形埴輪の使用を許され、
それを後ろ盾にこの地域に繁栄を齎したのではないか?
そう云えば埴輪祭りでの重要な役割に「ヤマトからの使者」が鏡を下賜する場面が
あったっけな。



(2)古代人の椅子

日本人の座り方は正座か、胡坐で椅子は戦国の極く限られた西欧好き、主には
幕末の開港からとばかり思っていたが、ここの埴輪が椅子に座っているので
爺ィの常識もグラリ。
爺ィの好きな戦国時代の映画やドラマでは板敷きの広間に集まった武将たちも、
対座の場合でも胡坐だ。俳優達は如何に手を付かないで座ったり立ったり
するのか苦労しているらしい。下って江戸時代、これも爺イ御贔屓の村上弘明や
片岡鶴太郎が活躍する八丁堀の七人では同心たちは正座して忙しく筆を動かす。

埴輪の椅子座りはこの五人の像。
巫女に対座する王、介添えする王族と琴を弾く男の五人だが、全て椅子で左に
大きな水瓶。
確かに祭祀の場面だから普段の生活ではないので普段は竪穴風の住居で胡坐?



細かく見ると聖水の杯を捧げる巫女。



高い椅子に足掛かりがあるのも面白い。



その杯を受け取ろうと右手を出している大王。何故に両手ではないのか?と良く
見たら左手はしっかりと刀を掴んでいた。うーん、刀を差す時代ではないんだな。
刀を持ったまま巫女の伝える神託を聞いているのだ。



祭りの大王の雄姿。






左、琴を弾いて神を降ろす埴輪、右は巫女が発する神意を聞き判定する王族。





左、大王と右に介添えの王族。



(3)狩人の背中と猪の傷

背中から見て左腰に小さな猪の形代があるのは判っていたが、背中の真ん中の何かの
痕は矢を入れる道具らしい。



これが古墳祭りではこんなに大きく表現する。



猪・犬・狩人の猪狩りのセットで猪の尻に射られた傷があるというので確認したし



たてがみの強調も確かめた。



(4)力士の姿

相撲の最古の記録となると爺イの様に戦時中に小学校を卒業した年代では
「野見宿禰と當麻蹴速」の対決と思っていたが、これは日本書紀の相撲伝承で
八世紀の話。
ところが五世紀末から六世紀のものと云われる埴輪がこの古墳から
出ているので認識を改めなくてはならない。
其の元を探れば朝鮮半島の高句麗の四世紀から五世紀初めの王墓の壁画に
相撲が既に登場しているらしい。日本の豪族は其の流れを汲んで相撲儀礼を
始めたらしい。
やがて日本の相撲は奈良・平安時代に宮廷行事になり、中世以降は武家や
富豪のお抱え力士が生まれ権力者と結びついた最初のプロスポーツとなった。
その一方では村相撲の形で庶民に愛されてきたのである。一時期、朝青竜の
ヤンチャ振りに眉を顰めた横綱審議会のお年寄り達がやたらと「神事」を
連発していたがあれはやや的外れで神事一点張りでは無かろうに。
お年寄りたちが外人力士の強さに脅威を感じて嫌いだっただけだろう。
その力士の埴輪。かつてはあぁソウかと簡単に見ていたが、今回は力士の
足に注目。



膝に鈴つきの紐を巻いていた。この頃の豪族主催の儀式としての相撲は動きに
あわせて鈴が鳴るという「鳴り物入り」だったのだ。



祭りでの相撲の様子。



(5)鵜飼の烏

鵜飼といえば長良川と答えるのが相場というのが爺ィのレベルではあるが、
戦前は全国の多くの河川で行われていたとの事。七世紀の中国の記録に既に
倭人が鵜飼をしているとの記述にあるように古代からの一般的な漁法だったのだ。
日本では八世紀の日本書紀にある殺人事件の舞台として登場しているそうだが
ここではその数百年前に行われていたのだ。但し、井野川か烏川か又は自分の
屋敷の堀かは不明だが。



首に巻かれたリボンは飼われている烏の証拠だし、咥えている魚の断片を
探し出すのに関係者が懸命の努力をしたらしい。発掘した鳥の嘴が開いて
いたので何かを咥えていた筈との発想が生まれて大捜索となったとの事。




(6)魔除けの群像

今まで全く気にしていなかったのがガードマン達だ。八幡塚古墳の一番外側の
大形円形埴輪の間に古墳の守護者として多数同じ様なものが並んでいたので
盲点だった。

博物館内の「盾持人」はこんなものだが、実際には七種類と言われる。
表情は総じて異相、四角張った顔、大きい空洞の眼、日本人とは思えない
彫りの深さ、古墳に近寄る邪霊を打ち払うので怖い面相は当然だろう。



古墳周りの盾持人













古墳祭りでの取り扱い。



発掘された実際の盾



以上で見直し終了。

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