(5)西向き道祖神
再び車道に戻って更に北進、正面に愛宕山見えたところで右への小道。
リンゴ畑に突き当る三叉路に大きな道祖神。1848年の作。
(6)愛宕山の百庚申
愛宕山に向かうと分岐、県道脇のリンゴ畑隅に駐車させてもらって山へ。
鳥居前に来ると右手に豪快な文字庚申搭、18世紀中期の片品の書家・藤覧和の
筆によるとか。
鳥居の掲額は「諏訪 武尊」
山上へは48の石段、154段の木枠段を登る。上から見るとこんな感じ。
石宮二つの岩の上が愛宕山山頂
付近の岩肌には庚申の文字が多数彫られている。
南が開けていて子持方面と
赤城方面、見慣れない角度なのだが。
(7)湯原寺跡の石仏
更に北上して道なりに東進、川場湯原から大きい通りを南進。
中宿バス停近くの東側に湯原寺跡。道に向かって「青面金剛像」
幟の立った所に見上げるほど大きい延命地蔵。
堂宇の脇に六地蔵。
それに庚申搭、他にも多数の石像が並ぶ
(8)桂昌院の石仏
南下を続けてさっきの岩観音の道一本違いの所に道標で右(西)折。
既にここは再びの谷地地区。若しかするとこの道は64号線か?
畑の路傍に道祖神がひっそりとお出迎え。
この寺も吉祥寺に劣らない名刹。
左手に多くの歌碑に囲まれた築山。
その塚の真中に一際高い「層搭の庚申搭」。1655年の造立と伝わる。
築山の南端に「仏足石」、爺イの足裏治癒を願ってお参り。
本堂の裏手に廻ると細密彫技仕上の釈迦如来坐像。
左手奥には「江口家」の墓地。一番右が「薄幸の歌人・江口きち」の墓。
1938年歿 享年25歳。
墓石の右側面には「おおいなる この静けさや天地の ときあやまたず
夜はあけにけり」が彫り込まれている。
杉木立の中にある筈の奪衣婆像が見付らない。探し回って境内右手に
閻魔と共に発見。土台が新しいので移転させたものだろう。
(9)墓地を守る閻魔と奪衣婆
再び車道に戻って南下すると右に村役場が在る所で左へ。
岩田橋を渡ると直ぐに左に登る細道に入る。大通りに登り上げる所に
屋根の下に大わらじがぶら下がっている。「賽の神」として中野集落を
守っているそうである。
更に少し登ると左側に野墓地。其の入り口左右に閻魔と奪衣婆。
閻魔の背の銘文から1749年の作と伝わり「21夜供養搭」とされるので
月待供養搭の主尊。
(10)下中野石仏群
野墓地から数百㍍登ると田圃の中の三叉路左側に廿数基の石仏が
整然と並んでいる。
右が二十一夜、左が二十三夜の如意輪の台石には微かに女性名が読める。
(11)虚空蔵堂の十三仏
最後の予定地・虚空蔵堂を目指して南下。ここには465段の石段が
待っているので気合十分。道標によって西への道に入ると忽ち車の
腹を擦りそうな悪路で不安が増す。ガタガタ道はやがて丁字路で
細いながら舗装路に合流、右折して進むと車が多数駐車している。
虚空蔵山下の清岸院に着いたかな?と思ったら何と「川場デジタル中継所」の
工事車で道路は封鎖。已む無く諦めて舗装道路を下ると出口に
虚空蔵林道の道標、道は間違っていなかったようだ。
これで川場村を時計回りで一周したことになり、終了として帰路につく。
自宅から往復走行距離 112k。
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再び車道に戻って更に北進、正面に愛宕山見えたところで右への小道。
リンゴ畑に突き当る三叉路に大きな道祖神。1848年の作。
(6)愛宕山の百庚申
愛宕山に向かうと分岐、県道脇のリンゴ畑隅に駐車させてもらって山へ。
鳥居前に来ると右手に豪快な文字庚申搭、18世紀中期の片品の書家・藤覧和の
筆によるとか。
鳥居の掲額は「諏訪 武尊」
山上へは48の石段、154段の木枠段を登る。上から見るとこんな感じ。
石宮二つの岩の上が愛宕山山頂
付近の岩肌には庚申の文字が多数彫られている。
南が開けていて子持方面と
赤城方面、見慣れない角度なのだが。
(7)湯原寺跡の石仏
更に北上して道なりに東進、川場湯原から大きい通りを南進。
中宿バス停近くの東側に湯原寺跡。道に向かって「青面金剛像」
幟の立った所に見上げるほど大きい延命地蔵。
堂宇の脇に六地蔵。
それに庚申搭、他にも多数の石像が並ぶ
(8)桂昌院の石仏
南下を続けてさっきの岩観音の道一本違いの所に道標で右(西)折。
既にここは再びの谷地地区。若しかするとこの道は64号線か?
畑の路傍に道祖神がひっそりとお出迎え。
この寺も吉祥寺に劣らない名刹。
左手に多くの歌碑に囲まれた築山。
その塚の真中に一際高い「層搭の庚申搭」。1655年の造立と伝わる。
築山の南端に「仏足石」、爺イの足裏治癒を願ってお参り。
本堂の裏手に廻ると細密彫技仕上の釈迦如来坐像。
左手奥には「江口家」の墓地。一番右が「薄幸の歌人・江口きち」の墓。
1938年歿 享年25歳。
墓石の右側面には「おおいなる この静けさや天地の ときあやまたず
夜はあけにけり」が彫り込まれている。
杉木立の中にある筈の奪衣婆像が見付らない。探し回って境内右手に
閻魔と共に発見。土台が新しいので移転させたものだろう。
(9)墓地を守る閻魔と奪衣婆
再び車道に戻って南下すると右に村役場が在る所で左へ。
岩田橋を渡ると直ぐに左に登る細道に入る。大通りに登り上げる所に
屋根の下に大わらじがぶら下がっている。「賽の神」として中野集落を
守っているそうである。
更に少し登ると左側に野墓地。其の入り口左右に閻魔と奪衣婆。
閻魔の背の銘文から1749年の作と伝わり「21夜供養搭」とされるので
月待供養搭の主尊。
(10)下中野石仏群
野墓地から数百㍍登ると田圃の中の三叉路左側に廿数基の石仏が
整然と並んでいる。
右が二十一夜、左が二十三夜の如意輪の台石には微かに女性名が読める。
(11)虚空蔵堂の十三仏
最後の予定地・虚空蔵堂を目指して南下。ここには465段の石段が
待っているので気合十分。道標によって西への道に入ると忽ち車の
腹を擦りそうな悪路で不安が増す。ガタガタ道はやがて丁字路で
細いながら舗装路に合流、右折して進むと車が多数駐車している。
虚空蔵山下の清岸院に着いたかな?と思ったら何と「川場デジタル中継所」の
工事車で道路は封鎖。已む無く諦めて舗装道路を下ると出口に
虚空蔵林道の道標、道は間違っていなかったようだ。
これで川場村を時計回りで一周したことになり、終了として帰路につく。
自宅から往復走行距離 112k。
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気付かないということはもったいないことですね!
実家の隣町(村)なので行ってみるつもりです
そうそう江口きちが出ましたが 廿世紀裏話的には 井上日召 も川場村の出身です^^
日昭には常に大洗の「日蓮宗・護国堂」の冠が付きますし
血盟団の青年達も茨木の農村青年だったので。
尤も日昭の国粋主義的思想は満鉄社員の時の参謀本部諜報員であつた辺りに原点がある様な気がします。
日蓮宗を説く傍ら過激憂国軍人達と接触し結社を作ったのが帰国後の大正末期、そして事件は昭和七年、爺イの
生まれる前年、直ぐに五・一五事件も起きるので大変な転換の時代でしたね。
ところで面白昭和史的に思い出すと、日昭達に影響を与えたと疑われた陽明学の大家・安岡正篤氏、86歳で亡くなる寸前に銀座のバーのマダムに前代未聞の「結婚誓約書」を書かされ、彼の死後、マダムはそれによって婚姻届を提出して
受理させ莫大な遺産を手に入れたとか。そのマダムの名は「細木数子」、
かっての週刊誌記事からの受け売りでした。
「井上日昭」は誤りでharuna3さんの書いた通り
「井上 日 召」でした。
2月7日(日)に川場スキー場に行ってきました。
帰り道、車で沼田インターに向かっていると左側に小さな山があり、頂上には大きな岩がゴロンと乗っていました。
少し道を進み、ちがう方角から見ると頂上に鳥居か?小屋の様な物があり、それに向かって下からまっすぐに階段が伸びていました。
それはまるで『まんが日本昔ばなし』に出てくる様な景色で、とても感激してしまいました。
その時は、すごい雪道だったのとスキー場で滑って疲れていたので、車を止めて見に行こうという気力がなく、通り過ぎてしまったのですが、後になり気になって気になって仕方がなく、地図を見て多数のキーワードで検索して、こちらに行き着きました。
私が見たのはおそらく、クタビレ爺イさんのお話しにある『愛宕山』だと思うのですが、山の下から階段や山を撮ったスナップ写真は、無いでしょうか?
もしあれば、見てみたいです。
私が感激した、あの山なのか確認したいです。
コメント有難うございました。川場スキー場からの帰りで左なら確実に愛宕山でしょう。
小生はあの時、石造物の見物が目的だったので
写真はブログに載せたのが全てでご要望に
応えられずで面目ありません。
但し、画像を少し紹介します。
愛宕山の霧氷
http://www.vill.kawaba.gunma.jp/
階段のライトアップ
http://www.furusatokousha.co.jp/saikin/20081001.html
虚空蔵山の右に写った愛宕山
http://kawabakonnyaku.blog86.fc2.com/blog-date-200802.html
こんなお茶にごしで失礼。
やっぱり愛宕山なんですね!
お陰でスッキリしましたぁ~!
今度、そちらの方に出掛けた時には、愛宕山に寄ってみたいと思います。
今回、この様にコメントするのも初めての事で、新しく添付してくださったスナップ写真の見方がわかりませんが…、今度友達に聞いて見てみます。
私アナログ人間な者で、すみません…。
本当にありがとうございました。