クタビレ爺イの山日記

諸先達の記録などを後追いして高崎近辺の低山中心に歩いています。

甘楽町小幡 雑感 ・ 明和事件  H-20-9-21

2008-09-21 20:01:17 | 伝説・史跡探訪
山行きや史跡探訪の折に時々、小幡の街中を通過する。途中で目立つのは
旧宗福寺にある「織田家七代の墓」であるが何故七代 ? に付いては既に
忘れ去られようとしているのではないか?
上の写真は織田家七代の墓、五代から七代の三基は1758年と1871年の
宗福寺の火災によって損傷している。

簡単に言えば1767年の「明和事件」に連座して織田家八代目の信邦が出羽・
高畠藩に左遷されたからである。この明和事件、我家と同じ系列の
山縣大弐が関連しているので史跡探訪の一ページに加えることにした。

(1)事件の主役達

山縣大弐・死罪43歳、 藤井右門・獄門 48歳、 竹内式部・遠島 
56歳(三宅島で病死) 吉田玄番・蟄居 36歳(後に自決) 織田信邦 21歳 
隠居・転封(出羽・高畠、後に天童)

(2)それは1758年の宝歴事件が伏線だった。

桃園天皇(116代)の時代、既に尊皇精神を強く押出した国体思想で著名な
「竹内式部」の門弟には近習役の若手少壮の公家達が師事し式部の学説を
度々天皇に進講した。
だが、古来から全国の神社神職を統括してきた吉田神学指南家は
天皇一派の神道が隆盛し幕府から指弾されることを恐れ関白と計って
五名の公家を永蟄居とし、竹内式部は京都追放となった。
つまり、これらの思想が天皇中心に日本開国を計画するものと
されたのである。
この時、式部を取り調べた京都所司代は奇しくも高崎城主・松平右京輝高で
老中への栄転の直前だった。この事件では既に京都皇学所教授であつた
藤井右門も連座して職を追われて江戸に出奔している。

(3)明和事件への流れ

話は先ず、大弐の事から始めなくてはならない。山縣三郎兵衛昌景を
遠祖にもつこの学者は甲斐国巨摩郡篠原村生まれで幼少時から国学・
漢学を修め長じてはあらゆる諸学に通じ甲府政庁の与力を勤めた。
だが、誤って罪人となつた弟・武門を匿った事が発覚して解職されて浪人、
江戸に出で塾を開いて儒書と兵書を講ずるが、多種多彩の学才を駆使して
尊王論を説いた「大義名分論」を発表する。
簡単に言うと頼朝以来、政権が武士に移ったために国体の尊厳が
損なわれているから天皇に帰一すべきと言う反幕思想であり幕府が
最も忌み嫌う風潮に火をつけるものだった。
この大弐の所に宝暦事件で京都を追われた藤井右門が合流し共に時局を
慨嘆し幕府の専横を罵っていたが同じ門人の穏健派に反感を持たれ、
後に密告されようとは気付かなかった。
宝歴事件で尊王思想の中心人物とされ国事犯のレッテルを貼られていた
竹内式部も交流があつたが結果的に首謀者の中では一番軽い遠島処分
だったので他の者達より大弐との活動がやや薄かったのかも知れない。
そして運命的には大弐の門弟には有力大名の家臣が入っていた事が挙げられる。
小幡藩家老・吉田玄番もその一人。玄番は大弐の英知に感嘆し主君に大弐を藩の
顧問に迎えようとしたりしたので大弐と小幡藩との交流が濃くなる。
が、ここにとんでもない落とし穴があった。玄番の紹介で大弐の講義を聴いた
崇福寺の隠居和尚がその激論に驚いて小幡藩の用人に耳打ちする。
運悪くその用人・松原軍太夫は若い玄番の抜擢に嫉妬していたので、
大弐の学説は幕府への謀反を企てるものとして藩主の実父に密告したので
玄番は監禁される。
軍太夫に同調したのが同じ不満組の小幡藩の長老達。
さて、江戸では藤井右門に反感を持つ大弐門下の穏健派は、若し発覚して
一斉検挙になると自分らも同罪は免れぬと盲信して大弐達の持論には反逆の
疑いありとして幕府に自訴したのである。
こうして小幡・江戸と同じに起こされた密告は幕府の探索するところとなり
1766年(明和3年)12月に一斉検挙となった。首謀とされた大弐・右門のほかに
たまたま寄寓していた竹内式部、それに門人30余名が捉えられ1767年に上記の
採決となった。

織田家も厳しい処遇に見舞われる。それまでの官職・従四位侍従は従五位下諸太夫に
格下げされて出羽高畠に左遷、家臣達が高畠に移るとき、路銀の調達も出来ずに
名主に高額の無心をしたとか、諸道具を村の富裕者に売り払ったとか、道中鉄砲は
僅か五丁に制限されたと伝わる。当時21歳で正室のいない藩主は侍妾と嫡子の
同行も許されなかった。こうして小幡の織田時代は152年間で終った。
ただ、小幡藩での密告者の僧は軽追放と言う事で吉井の寺に隠れ住み、江戸で
密告した門人は二名が死罪、二名が遠島処分。

山縣大弐の出身地・篠原村には顕彰のための「山縣神社」が建立されている。
1919年(大正八年)に当時の山梨県知事を総裁とする「山縣会」が設立したもので
当時の皇国史観高揚という風潮に乗ったもの。現在は竜王町を経て甲斐市。
但し、墓地は茨城県石岡市根小屋の泰寧寺にある。門弟の一人、根小屋出身の
莔部文之進が遺骸を持ちかえり一旦は自宅に埋葬したが後に泰寧寺に葬った。



尚、獄門とされる右門は獄中で死亡したので鈴ヶ森に晒されたのは遺骸だった。
墓地は世田谷区・北烏山の妙高寺にある。この地域は関東大震災の後、被災した
寺院が集まっている地域だが、この妙高寺は山形藩・水野家の菩提寺なので
どうして右門墓がここにあるのか? 判らないが推定では小幡藩は織田の入る前は
水野家領だったのでその関わりかもしれない。



遠島の竹内式部は裁決書では交友なしとされてはいるが、前回の宝歴事件の
首魁だし京都追放中にも住まなければ良いだろうと堂々と出入りし、
大弐・右門が京都で遊学の期間、式部を同志としていたのは事実なので遠島、
但し八丈への途中で三宅島で病没。
墓は新潟市の四ッ屋町の共同墓地にあるがこれは三宅島から分骨されたもの。



小幡藩家老・吉田玄番は由緒正しき吉田家の九代目、出羽左遷と決まった時、
責任をとつて自決したと伝えられるが、妻子共々越後に逃れたとの伝承もある。
墓は無く甘楽町・金井宝勝寺の過去帖に法名「光新院豊山宗秀居士」とあるが
世間をはばかってか、没年が明和より前の宝歴になっているとのこと。
その子孫達は天童に移ってからも十三代・守隆(通称大八)が藩の為に苦渋の
選択を強いられた。明治元年、勤皇側であった天童小幡は官軍の奥州鎮撫使の
先導役を担って庄内藩討伐を命ぜられる。が、庄内軍の反撃で敗北、藩主を
仙台に脱出させる。薩長連合への反感から官軍を受け入れない奥州20数藩の
奥州同盟との調整に苦心惨憺、遂に天童藩も同盟入りとなると自らの自刃によって
止めようとするが天童藩は新政府と交戦、やがて奥州列藩は降伏謝罪して
平和を齎した。墓は天童・仏向寺。



その死を悼んだ地元民によつて木像が天童招魂社に祭られているそうである。
この招魂社は守隆の号から「素道軒神社」の別名がある。

織田家墓地の初代とされる信長次男の信雄は駿河100万石だったのに
小田原攻めの後、家康旧領への転封を拒否して改易・流罪の憂目に遭うが
後に家康の斡旋で秀吉に出仕する。
関ヶ原の時その曖昧な態度から西軍寄りと見なされて家康によって再度の
改易をされて今度は大阪冬の陣まで豊臣に出仕するが、夏の陣後に
大和・宇陀三万石と小幡二万石を拝領する。
当初は小幡で過ごして後は京都に実質隠居。1628年京都で歿。
墓搭は信長の菩提寺・京都大徳寺、滋賀県安土・総見寺奈良県宇陀・徳原寺等
にある。
福島の陣屋からこの小幡の陣屋に移ったのが三代目・信昌の時代、大和を
叔父の高長に譲って小幡のニ万石のみになる。
とは言うものの「任地に赴かず」と記録されてもいるのでこの甘楽町に
居付いたとは思えない。従って町興しの史跡再構築で何でも
かんでも「信雄によってーー」と表記するのは如何なものかな?

この件、小幡側から言えば大弐などの明和事件に連座、大弐側から見ると
小幡藩の内紛に巻き込まれた事になるが、さて本当はどっち?

(参考・新屋村誌編纂委員会編・「新屋村―その史話と名物」
    関係市町村観光案内、関係寺院HP)

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