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今日は天下分け目の対中日戦、序盤の大量失点にもめげずに奇跡のような
逆転勝。此れで残り2試合勝てば中日は7戦全勝、一勝一敗なら
六勝一敗が必要だから我が巨人の優勝は決まったような物。テレビ観戦で
ブログアップはそっちのけ。
9/25の再検診で完全治癒のお墨付きが出ると思ったら期待は外れて延長戦。
再び、1ヶ月分の薬を渡されてスゴスゴ。尤も当初の肝・腎ではなく
「序でにやっておきましょう」の類の老人男性の宿命とされる00線肥大傾向を
薬で治そうというもの。だか、生憎の事に爺イは病気とは思っていない。
昨日は長野堰の歴史を辿りながら主幹部分8kの往復で16kのウォーキング。
いやいや、16k等とはトンでもない。帰りは路線バスの助けを借りる予定。
「水土里ネット長野堰」サイトのコ―スマップでスタートは本郷取水口の
「長野堰頭首工」。終点は城東小南の「円筒分水堰」まで。
伝説によると長野堰の発祥は長野氏が浜川にいた一千年前と言われるが
長野氏の活動が歴史の資料に現われるのは1440年の結城合戦あたりからなので
本当のところは良く判らない。が、浜川辺にいた豪族・長野氏が小規模な
用水路を作ったのは確からしい。用水の整備・拡張・延長が進んだのは
箕輪城に移ってからの長野氏時代、井伊直政時代で、ほぼ今の形になったのは
江戸時代・高崎藩に入ってからとされている。中でも尽力したのは爺イの
ご贔屓松平右京殿、計画したスルス岩下から榛名湖の水を榛名白川に引く
大計画は水利権の問題で挫折したが、その200年後の1904年、湖水を天神下から
榛名川に落して烏川に加水、長野堰に取水する工事が完成して現在に至っている。
先ず、車で本郷方面へ。手始めは町屋橋を南に渡って町屋橋西信号を右折して
烏川右岸から「長野堰頭首工」の所在を確める。右岸からは直ぐ見えたので
畑の細道を辿って土手に上がってみた。成る程、烏川にコンな所があったのかと
感心するくらいの堂々たる景観。大きな工場の西側に位置する(12.14)。
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写真を撮ってから直ぐに戻って「本郷」信号を左折して葬儀社辺で駐車場所を
探す。広場(葬儀社のものらしい)の日陰に駐車して「大利根漬」の工場を探す。
工場の西側を回りこんで田圃の畦道を辿って烏川へ。コンクリートで固められた
土手に立派な堰。ここが取水場の「長野堰頭首工」だ。
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付近には説明看板。
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取水された水は水路によってとうとうとした流れとなっている(12.34)。
馬鹿に幅広だな、と思ったら左側は養鯉場だった。
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「新井下長住」の水門を過ぎた「小堀川」の手前で水路は暗渠に潜り込む。
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小堀川には流れこんでないので間違いない。暗渠によって「榛名白川」の下を
抜けているとされるので、一寸歩いて「我峰」信号の北あたりで引き出し口を
探さなくてはならない。「長野堰橋」で室田街道に出て、「本郷」信号を経て
我峰信号へ。
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ここは榛名山系の末端が烏川によって削り取られた台地。
昔は森林に被われ「我が森」、それが転じて「吾が峰」、江戸時代に「我嶺」
明治以降「我峰」とは「長野村誌」の記述。直ぐ細道を北に向うと僅か
100㍍で長野堰にぶつかり左の目の前に引き出し口(12.55)発見。
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少し先に赤鳥居、小さな「棗原稲荷神社」。
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暫くで最初の「ポケットパーク」、終点までに11:ヶ所も設置されているとの事。
爺イは早くも一休み。この体たらくでは前途多難(13.08)。
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重い腰を上げて進むと、「NOSAI高崎広域」を過ぎて左手に長野中学(第七中)が
見えてきた(13.14)。道はこんなに整備されている。長野中学は1978年の開校。
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右には環状線が平行して走っている。やがて環状線の下を北部小方面に向う
トンネルがあるが、流れに沿って其のまま前進、環状線を横断。水路の出口。
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ここからは下小塙の管轄に替わったのか?俄然、整備が悪くフェンス周辺は
草茫々で水路も見えない。
更に進んで真木病院からの道を横断して上並榎に入ると、整備は完璧で
小公園風。左岸に桜、右岸に欅の巨木。花時期に若者が夜遅くまで騒いで
近所迷惑の問題を起こしているのもこの近辺だろう。
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ニ連の藤棚付きポケットパークも見事。又、一服の休憩(13.40)。
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何とか、経大前の道に到達する手前に大きな石碑。
「長野堰改修紀工碑」(13.53)。
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水量増加と改修のため尽力した松平右京始め関係者の事蹟を顕彰したもの。
ここからは左岸の桜のみの並木に変貌。やがて右岸に「高小田堰水門」を
見ると其の先に現在は閉ざされている「佐賀川余水吐水門」。秋口には
ここから直接烏川に流す「川干し」があるので此の先は水無しで少々
臭い川底が露出する。
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さて、跨線橋で信越線を渡る。水路は線路すれすれで通過(14.04)。
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先日の「道陸神」に一寸挨拶して先に進む。
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高前バイパスの下を潜ると、もうここは並榎町、住宅街の中を流れていく。
西公民館や西小の南を通過する。ここの橋が「鳥羽橋」。この付近の旧名は
鳥羽かな。
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少し先のコンビニ十字路が「並榎橋」、但し、今は橋の痕跡はない。
村上鬼城揮毫で有名な石柱は工事(s-51)の時、隅に追いやられ、植木鉢の
台石に転落。教育委員会の気配り不足の象徴。
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さて、大橋に近付くと問題の「新井堰石門」。
かってはここからの分岐の流れが城下をを潤した重要ポイント(14.22)。
五万石騒動の時も、過激な農民がここの閉鎖を企てたし、水戸・天狗党が
高崎を通過するとの噂の時は、高崎藩士が厳重な防御を敷いたとか。
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ここから城下への水が絶たれた時、火災が起きたら城下は火の海になるとの
恐れから。
直ぐ先の「住吉の庚申搭」を過ぎると大橋町で北駅に通ずる道を横断。
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この辺では長野堰のことを「大川」、それに掛る橋だから「大橋」、本当?
突然、水路は暗渠に変わるが
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「請地」の巨大な「長野堰功徳碑」で水路は再び地上に現われる。
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お堂を過ぎると(14.37)
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末広町の四つ角、北側を横断すると凄い荒れ道だが、直ぐにJRにぶつかる。
水路は其のまま直進だが、歩道はないので回り道、踏み切りを渡って水路に
復帰。東に進むとやがて「東三条通り」、丁度「寿司屋・五万石」のところ。
ここからが長い道程、江木町内の変哲もない水路沿いを延々と。
漸く、整備は完全の歩道。
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伊勢崎線を横断すると間も無く「無縁堂」前。写真を撮りながら休憩。
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突然、彼方に学校らしい建屋、待望の「城東小」らしい。
「東四条通り」を越えて正門前の「佐野堰」や「高根堰」
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その先が幹線終点の「円筒分水堰」、
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四方向へ均一に水量を分けているのだそうだ(15.10)。
近くに碑文。分岐水路の一つに「地獄堰」があるからか?
「恐ろしや 地獄の堰と思いしか 悟ればここぞ 極楽の堰」
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ここでウォーキングは終了だが、バス停の田町まで1㌔以上もあったのには
完全に参った。平地9Kで疲れる様ではリハビリも前途多難。
バスは本郷回り室田行き。一時間に一本の運行で15時台はないので
要注意。16.00高崎駅発に乗って駐車場近く迄420円也。
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逆転勝。此れで残り2試合勝てば中日は7戦全勝、一勝一敗なら
六勝一敗が必要だから我が巨人の優勝は決まったような物。テレビ観戦で
ブログアップはそっちのけ。
9/25の再検診で完全治癒のお墨付きが出ると思ったら期待は外れて延長戦。
再び、1ヶ月分の薬を渡されてスゴスゴ。尤も当初の肝・腎ではなく
「序でにやっておきましょう」の類の老人男性の宿命とされる00線肥大傾向を
薬で治そうというもの。だか、生憎の事に爺イは病気とは思っていない。
昨日は長野堰の歴史を辿りながら主幹部分8kの往復で16kのウォーキング。
いやいや、16k等とはトンでもない。帰りは路線バスの助けを借りる予定。
「水土里ネット長野堰」サイトのコ―スマップでスタートは本郷取水口の
「長野堰頭首工」。終点は城東小南の「円筒分水堰」まで。
伝説によると長野堰の発祥は長野氏が浜川にいた一千年前と言われるが
長野氏の活動が歴史の資料に現われるのは1440年の結城合戦あたりからなので
本当のところは良く判らない。が、浜川辺にいた豪族・長野氏が小規模な
用水路を作ったのは確からしい。用水の整備・拡張・延長が進んだのは
箕輪城に移ってからの長野氏時代、井伊直政時代で、ほぼ今の形になったのは
江戸時代・高崎藩に入ってからとされている。中でも尽力したのは爺イの
ご贔屓松平右京殿、計画したスルス岩下から榛名湖の水を榛名白川に引く
大計画は水利権の問題で挫折したが、その200年後の1904年、湖水を天神下から
榛名川に落して烏川に加水、長野堰に取水する工事が完成して現在に至っている。
先ず、車で本郷方面へ。手始めは町屋橋を南に渡って町屋橋西信号を右折して
烏川右岸から「長野堰頭首工」の所在を確める。右岸からは直ぐ見えたので
畑の細道を辿って土手に上がってみた。成る程、烏川にコンな所があったのかと
感心するくらいの堂々たる景観。大きな工場の西側に位置する(12.14)。
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写真を撮ってから直ぐに戻って「本郷」信号を左折して葬儀社辺で駐車場所を
探す。広場(葬儀社のものらしい)の日陰に駐車して「大利根漬」の工場を探す。
工場の西側を回りこんで田圃の畦道を辿って烏川へ。コンクリートで固められた
土手に立派な堰。ここが取水場の「長野堰頭首工」だ。
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付近には説明看板。
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取水された水は水路によってとうとうとした流れとなっている(12.34)。
馬鹿に幅広だな、と思ったら左側は養鯉場だった。
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「新井下長住」の水門を過ぎた「小堀川」の手前で水路は暗渠に潜り込む。
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小堀川には流れこんでないので間違いない。暗渠によって「榛名白川」の下を
抜けているとされるので、一寸歩いて「我峰」信号の北あたりで引き出し口を
探さなくてはならない。「長野堰橋」で室田街道に出て、「本郷」信号を経て
我峰信号へ。
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ここは榛名山系の末端が烏川によって削り取られた台地。
昔は森林に被われ「我が森」、それが転じて「吾が峰」、江戸時代に「我嶺」
明治以降「我峰」とは「長野村誌」の記述。直ぐ細道を北に向うと僅か
100㍍で長野堰にぶつかり左の目の前に引き出し口(12.55)発見。
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少し先に赤鳥居、小さな「棗原稲荷神社」。
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暫くで最初の「ポケットパーク」、終点までに11:ヶ所も設置されているとの事。
爺イは早くも一休み。この体たらくでは前途多難(13.08)。
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重い腰を上げて進むと、「NOSAI高崎広域」を過ぎて左手に長野中学(第七中)が
見えてきた(13.14)。道はこんなに整備されている。長野中学は1978年の開校。
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右には環状線が平行して走っている。やがて環状線の下を北部小方面に向う
トンネルがあるが、流れに沿って其のまま前進、環状線を横断。水路の出口。
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ここからは下小塙の管轄に替わったのか?俄然、整備が悪くフェンス周辺は
草茫々で水路も見えない。
更に進んで真木病院からの道を横断して上並榎に入ると、整備は完璧で
小公園風。左岸に桜、右岸に欅の巨木。花時期に若者が夜遅くまで騒いで
近所迷惑の問題を起こしているのもこの近辺だろう。
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何とか、経大前の道に到達する手前に大きな石碑。
「長野堰改修紀工碑」(13.53)。
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水量増加と改修のため尽力した松平右京始め関係者の事蹟を顕彰したもの。
ここからは左岸の桜のみの並木に変貌。やがて右岸に「高小田堰水門」を
見ると其の先に現在は閉ざされている「佐賀川余水吐水門」。秋口には
ここから直接烏川に流す「川干し」があるので此の先は水無しで少々
臭い川底が露出する。
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さて、跨線橋で信越線を渡る。水路は線路すれすれで通過(14.04)。
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高前バイパスの下を潜ると、もうここは並榎町、住宅街の中を流れていく。
西公民館や西小の南を通過する。ここの橋が「鳥羽橋」。この付近の旧名は
鳥羽かな。
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少し先のコンビニ十字路が「並榎橋」、但し、今は橋の痕跡はない。
村上鬼城揮毫で有名な石柱は工事(s-51)の時、隅に追いやられ、植木鉢の
台石に転落。教育委員会の気配り不足の象徴。
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さて、大橋に近付くと問題の「新井堰石門」。
かってはここからの分岐の流れが城下をを潤した重要ポイント(14.22)。
五万石騒動の時も、過激な農民がここの閉鎖を企てたし、水戸・天狗党が
高崎を通過するとの噂の時は、高崎藩士が厳重な防御を敷いたとか。
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ここから城下への水が絶たれた時、火災が起きたら城下は火の海になるとの
恐れから。
直ぐ先の「住吉の庚申搭」を過ぎると大橋町で北駅に通ずる道を横断。
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この辺では長野堰のことを「大川」、それに掛る橋だから「大橋」、本当?
突然、水路は暗渠に変わるが
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「請地」の巨大な「長野堰功徳碑」で水路は再び地上に現われる。
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お堂を過ぎると(14.37)
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末広町の四つ角、北側を横断すると凄い荒れ道だが、直ぐにJRにぶつかる。
水路は其のまま直進だが、歩道はないので回り道、踏み切りを渡って水路に
復帰。東に進むとやがて「東三条通り」、丁度「寿司屋・五万石」のところ。
ここからが長い道程、江木町内の変哲もない水路沿いを延々と。
漸く、整備は完全の歩道。
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伊勢崎線を横断すると間も無く「無縁堂」前。写真を撮りながら休憩。
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突然、彼方に学校らしい建屋、待望の「城東小」らしい。
「東四条通り」を越えて正門前の「佐野堰」や「高根堰」
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その先が幹線終点の「円筒分水堰」、
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四方向へ均一に水量を分けているのだそうだ(15.10)。
近くに碑文。分岐水路の一つに「地獄堰」があるからか?
「恐ろしや 地獄の堰と思いしか 悟ればここぞ 極楽の堰」
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ここでウォーキングは終了だが、バス停の田町まで1㌔以上もあったのには
完全に参った。平地9Kで疲れる様ではリハビリも前途多難。
バスは本郷回り室田行き。一時間に一本の運行で15時台はないので
要注意。16.00高崎駅発に乗って駐車場近く迄420円也。
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