![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/22/ae/50329228ff58052bbb5709b8f81086de.jpg)
昨日、赤城大沼南岸を走行中に「青木旅館」の看板を見つけたので
一寸寄って見た。赤城と猪谷氏一家との関わり合いの中で聞いた
ことのある旅館名だったから。
以下は90%書籍からの受け売りと引用。
現在、IOCで活躍中の猪谷千春氏の父君・六合雄氏が赤城出身と言う事は
知られているが、この一家が赤城神社の社家の出とは爺イにとっては初耳。
かって、戦国時代の赤城神社の別当は「三原田村・天竜寺」であったらしい。
この天竜寺、現在で言えば旧赤城村の南西の端、353号線沿線にある寺と
思われる。
その後、関が原のあと、平沼親吉が前橋に入ってから別当は「柿の宮・寿延寺」
に移る。(今井善一郎著・赤城の神)つまり寺院による神社支配は幕末まで続く。
「柿の宮」とは前橋城南曲輪辺りの村落と言うから「紅雲」あたりと思うが、
六供に同名の寺があったので住職に聞いたら「確かに別当であったと聞いて
いるが、何処の赤城神社だったのか良く分からない」と気になる一言。
確かに赤城神社は群馬県内に118社、全国で334社もあるからか。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/60/ec/61ccbd823563df658f34a6ccb56c79f0.jpg)
そして明治元年の「神仏分離令」。この時、赤城に登って神主になったのが
「猪谷米雄」氏。この人が六合雄氏の祖父・千春氏の曽祖父。米雄氏は一生
神主を貫くが、長男の「春雄」氏の時代は大沼の採氷を業としたり旅館を
経営したらしい。六合雄氏は当時大沼南岸にあった赤城神社の神主の子と
して1890年にここで生まれ、後に自伝「雪に生きた八十年」「赤城の四季」
などで「古い神社の森の影に、たった1軒の私の家」と書いている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/75/a8/21690406fb1f9b9f9f856a14d3ceda07.jpg)
この旅館は当時の文化人に人気があり大正期を通じて「志賀直哉」「里見」
などに愛されたようである。
その頃の記録に大沼には「沼尻の青木」「大洞の猪谷」の2軒の宿屋があった
と書かれていたので爺イが「青木旅館」の看板に引っ掛かった理由はここに
ある。回りくどかったがそんな事。
神主の職は、多分春雄氏の時代に「塩原」氏に譲られ現在に至っているとか。
戦後、六合雄氏が建設したと言うスキー場は今の「赤城スキー場」の元なのかな?
尚、小鳥ヶ島への神社移転はS-45年の事と聞くが、当時は移転反対運動が
あったらしい。
理由の一つにこの地域が湖面低下による地続きになるまで、離島であった為に
本来の自然林が保存され、赤城の自然の圧縮図と言われていたからで、今で
言う環境保全運動であった。
六合雄氏が千春氏の為にスキー場を求めて各地を転々とするのはこの後の
ことである。
以上、何とはなしに赤城の雑談。
ご来訪のついでに下のバナーをポチッと。
一寸寄って見た。赤城と猪谷氏一家との関わり合いの中で聞いた
ことのある旅館名だったから。
以下は90%書籍からの受け売りと引用。
現在、IOCで活躍中の猪谷千春氏の父君・六合雄氏が赤城出身と言う事は
知られているが、この一家が赤城神社の社家の出とは爺イにとっては初耳。
かって、戦国時代の赤城神社の別当は「三原田村・天竜寺」であったらしい。
この天竜寺、現在で言えば旧赤城村の南西の端、353号線沿線にある寺と
思われる。
その後、関が原のあと、平沼親吉が前橋に入ってから別当は「柿の宮・寿延寺」
に移る。(今井善一郎著・赤城の神)つまり寺院による神社支配は幕末まで続く。
「柿の宮」とは前橋城南曲輪辺りの村落と言うから「紅雲」あたりと思うが、
六供に同名の寺があったので住職に聞いたら「確かに別当であったと聞いて
いるが、何処の赤城神社だったのか良く分からない」と気になる一言。
確かに赤城神社は群馬県内に118社、全国で334社もあるからか。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/60/ec/61ccbd823563df658f34a6ccb56c79f0.jpg)
そして明治元年の「神仏分離令」。この時、赤城に登って神主になったのが
「猪谷米雄」氏。この人が六合雄氏の祖父・千春氏の曽祖父。米雄氏は一生
神主を貫くが、長男の「春雄」氏の時代は大沼の採氷を業としたり旅館を
経営したらしい。六合雄氏は当時大沼南岸にあった赤城神社の神主の子と
して1890年にここで生まれ、後に自伝「雪に生きた八十年」「赤城の四季」
などで「古い神社の森の影に、たった1軒の私の家」と書いている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/75/a8/21690406fb1f9b9f9f856a14d3ceda07.jpg)
この旅館は当時の文化人に人気があり大正期を通じて「志賀直哉」「里見」
などに愛されたようである。
その頃の記録に大沼には「沼尻の青木」「大洞の猪谷」の2軒の宿屋があった
と書かれていたので爺イが「青木旅館」の看板に引っ掛かった理由はここに
ある。回りくどかったがそんな事。
神主の職は、多分春雄氏の時代に「塩原」氏に譲られ現在に至っているとか。
戦後、六合雄氏が建設したと言うスキー場は今の「赤城スキー場」の元なのかな?
尚、小鳥ヶ島への神社移転はS-45年の事と聞くが、当時は移転反対運動が
あったらしい。
理由の一つにこの地域が湖面低下による地続きになるまで、離島であった為に
本来の自然林が保存され、赤城の自然の圧縮図と言われていたからで、今で
言う環境保全運動であった。
六合雄氏が千春氏の為にスキー場を求めて各地を転々とするのはこの後の
ことである。
以上、何とはなしに赤城の雑談。
ご来訪のついでに下のバナーをポチッと。
![](http://image.with2.net/img/banner/banner_21.gif)
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます