クタビレ爺イの山日記

諸先達の記録などを後追いして高崎近辺の低山中心に歩いています。

赤城神社と猪谷氏と H-18-9-3

2006-09-03 12:18:52 | 赤城山周辺
昨日、赤城大沼南岸を走行中に「青木旅館」の看板を見つけたので
一寸寄って見た。赤城と猪谷氏一家との関わり合いの中で聞いた
ことのある旅館名だったから。
以下は90%書籍からの受け売りと引用。
現在、IOCで活躍中の猪谷千春氏の父君・六合雄氏が赤城出身と言う事は
知られているが、この一家が赤城神社の社家の出とは爺イにとっては初耳。
かって、戦国時代の赤城神社の別当は「三原田村・天竜寺」であったらしい。
この天竜寺、現在で言えば旧赤城村の南西の端、353号線沿線にある寺と
思われる。
その後、関が原のあと、平沼親吉が前橋に入ってから別当は「柿の宮・寿延寺」
に移る。(今井善一郎著・赤城の神)つまり寺院による神社支配は幕末まで続く。
「柿の宮」とは前橋城南曲輪辺りの村落と言うから「紅雲」あたりと思うが、
六供に同名の寺があったので住職に聞いたら「確かに別当であったと聞いて
いるが、何処の赤城神社だったのか良く分からない」と気になる一言。
確かに赤城神社は群馬県内に118社、全国で334社もあるからか。

そして明治元年の「神仏分離令」。この時、赤城に登って神主になったのが
「猪谷米雄」氏。この人が六合雄氏の祖父・千春氏の曽祖父。米雄氏は一生
神主を貫くが、長男の「春雄」氏の時代は大沼の採氷を業としたり旅館を
経営したらしい。六合雄氏は当時大沼南岸にあった赤城神社の神主の子と
して1890年にここで生まれ、後に自伝「雪に生きた八十年」「赤城の四季」
などで「古い神社の森の影に、たった1軒の私の家」と書いている。

この旅館は当時の文化人に人気があり大正期を通じて「志賀直哉」「里見」
などに愛されたようである。
その頃の記録に大沼には「沼尻の青木」「大洞の猪谷」の2軒の宿屋があった
と書かれていたので爺イが「青木旅館」の看板に引っ掛かった理由はここに
ある。回りくどかったがそんな事。
神主の職は、多分春雄氏の時代に「塩原」氏に譲られ現在に至っているとか。
戦後、六合雄氏が建設したと言うスキー場は今の「赤城スキー場」の元なのかな?
尚、小鳥ヶ島への神社移転はS-45年の事と聞くが、当時は移転反対運動が
あったらしい。
理由の一つにこの地域が湖面低下による地続きになるまで、離島であった為に
本来の自然林が保存され、赤城の自然の圧縮図と言われていたからで、今で
言う環境保全運動であった。
六合雄氏が千春氏の為にスキー場を求めて各地を転々とするのはこの後の
ことである。
以上、何とはなしに赤城の雑談。

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