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8/19、午後三時頃までは天気は大丈夫らしいとの予報を得たので
御巣鷹の尾根への恒例の慰霊登山に向かう。慰霊登山を始めたのは
この事故を題材にした横山秀夫のクライマーズハイが別冊文春に発表された
2003年からで以来十二年間に今年で十回目。
この作品の中で「どうせ(もらい事故)なんだからそんなに張り切らなくても」
との地元新聞記者の会話があった。これに爺イはカチンと来た。
小説の中の一節に読者が頭に来る事はおかしいが爺イはこれを
「群馬県人として恥ずべき事」と捉え県人の一人として犠牲者とは
縁も所縁も無いが慰霊登山をするようになってもう十回、段々僅かの
登山が出来なくなっているので多分今年が最後。
今までの集大成として全部の墓標を記録して鎮魂のBGMを付けて
デジブックを作ることを計画した。だが、墓標を並べ立てる事は
遺族会の了承を得る必要もあるので遺族会の8.12連絡会に
問い合わせ中のため完成しているデジブックをブログには
未だ載せられなく今は通常の訪問記。
通勤時間帯を避けてやや早めの出発。R-18・r-10・R-254・r-54と
乗り継いで下仁田経由で南牧村を南進、約一時間半で湯ノ沢トンネル。
周囲の厳しい山容の緑が盛り上がって盛夏の景観。
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トンネルは2003年完成の3.3kだがほぼ直線で通過車両が少ないので
トンネル嫌いの爺イでも何の苦も無く通過して上野村。
郵便局角を右折してダム道路、ここから約15kの間に長短のトンネルが
八本。
小手調べの様に短い直線の「三岐」、短い左カーブの「浜平」
その先に「諏訪山浜平登山口」の道標。この山は神流の諏訪山と違って
ロープ・梯子・鎖付きの難易度星三つなので爺イのテリトリーからは
はみ出している日本三百名山。
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左カーブが続く「太神楽一号」、直線・右カーブ・左カーブで
スネーク状の「太神楽二号」、長い「虎王」、右・左・直の「手水」
短い直の「琴音」と過ぎると発電所入り口で村道に移る。今年も
豪雨で崩落したのでその痕跡を随所に見ながら進行。
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やがて下の旧駐車場、2006年から閉鎖されていた旧登山道が解禁に
なっているとの噂を確かめに行ったが相変わらず立ち入りを禁ずる
ような柵は其の侭存在。
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だが、去年と違うのは立ち入り禁止の表示が巻き上がっていた。
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去年まではこの形。
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柵をすり抜けて先に進むともう一つの柵、その先も歩行出来る様だが
右斜面からの土砂が大分流れ込んでいるので敬遠して車に戻る。
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延長村道を進んで上の駐車場、12日のセレモニーの後の為か
駐車車両は僅かに二台、おまけに頼りにしていた管理人 (本人は山守と)
の黒澤さんの車も無くて残念がりながら登山口へ。ここからの
距離800m、標高差180m。招魂の碑が標高1539mだから入り口の
標高は1359m。かって300山の「高天ヶ原山」の項では1560mになっていたが。
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入り口のカウンター、数値は2270を指している。一昨年の同じ時期には
1750だったから30回目の夏(満29年)と言うことで登山者が多いのかな。
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登山道は整備完璧、だが沢筋を進む日陰の道なのでひんやりはするけれど
何となくべっとりとする空気で湿気が極めて高い。

少し登ると下の駐車場から来る旧登山道との合流点、確かにここも
開放されている。
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昨年までの形はこんなもので完全に閉鎖されていた。
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山守地蔵前を通過する。これは最近の物の筈なので「山守」を自称する
黒澤さんと関係がある?
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複数個所に設置されている熊避け鐘。実はこの鐘の音が正に鎮魂の
雰囲気にぴったり。
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足元の木枠段には左右どちらかの端に中型の石が埋め込まれている。
木枠の崩れ止めなのだろうが爺イのような年寄りには歩幅や段差の
合わない分をこの石を踏むことで帳尻が合うのですこぶる便利。

途中で登山道が一部崩落していたが梯子を使った応急手当が済んでいて
迂回できる。
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漸く左手に管理棟が見えてきた。かってはここを日航小屋と言っていたな。
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分岐の所に遺族有志による想いの言葉の書かれた表示板。
これを読むと関係者でなくとも遺族の悲痛な心根が感ぜられる。
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脇に墓標配置の案内図、よく見て如何に重複せず効率的に回るか
作戦を立てる。何しろ今日は数百人の墓標を記録に撮る積もりだから。
だが、複雑な迷路のようで難しそう。取り敢えず「すげの沢」へ向かう。
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僅かの距離で沢筋の「慰霊小屋」、遺族の持ってきた物で一杯。
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同家族複数での犠牲者が多いのに暗然とする。若し、わが身に降り懸ったら
受け止められるか全く自信はない。多分、狂乱するだろう。
実は資料を調べると家族2人が18組、3人が24組、4人が13組も居られる。
折からの夏休みと言うことでディズニーランドや筑波万博帰りの
方も多いし家族以外にも友人同士の組も数組。何とも言いようの無い
残酷さだ。
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兎に角、記録しながら進む。アシスタントパーサーの対馬優美子さんの碑。
奇跡的に残っていた彼女の緊急事態のアナウンス原稿、32分間のパニック
の中で書かれたと思われるが、不時着を想定して書いた緊急アナウンス用、
遂にそれを伝える余裕を与えられなかった。
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今年は気のせいか?文字の消えかかった墓標に白のプラ板・黒字の
ものが付け足されているのが目立つ。帰宅後に上野村役場に問い
合わせしたらそれらは日本航空の遺族支援組織が設置しているとの事。
そう言えば爺イも慰霊登山中に30名位の日航若手社員の清掃隊と
一緒になったこともある。
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すげの沢周辺を回って11時半頃になったので一旦切り上げて
招魂の碑広場に入る。先客は数名でひっそり。
この碑は事故の翌年に多野郡有志によって建立されたもの。
当初は焼けの原の様な場所だったらしい。
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一昨年に新規に寄贈された風車が綺麗に回って出迎える。
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ここが「おすたかの尾根」と呼ばれるようになったのは当時の黒澤村長
さんの命名からだが、現場一帯は高天ヶ原山の尾根。
よって、厳密には御巣鷹山の尾根では無い。
高天ヶ原山はここから南へ直線距離1.1kの県境にある1978.57mの山で
二等三角点「蟻ヶ峠」のある山。御巣鷹山はここから直線で北北西1.8k
にある1639.38mの山で三等三角点「帝釈山」のある山。
この通称は墜落現場の詳細特定(および陸路に依る到達経路設定)
が難航する中、上空からの報道映像を見た黒沢村長さんが記憶に残る
尾根形状から呼称を始めたものであるとのこと。但し、現実は
事故現場の尾根は、黒沢村長のみならず村民にも御巣鷹山であると
認知されていたらしい。何しろ昔から一般立ち入り禁止の御狩場
だったのだ。
事件発生当時の報道写真を見ても幾重にも重なりあった尾根の
状態が良くわかる。
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何時も眺めるU字溝。この尾根の所では機体は大きく右に傾き
右翼が真下で左翼が真上という状況で尾根を削ったのは右翼。
ここでバウンドして裏返しの形で山腹に激突して四散したという。
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軽食と休憩の後、再び記録撮りを再開。今度は尾根上の墓標が目的。
遺留品埋設場所。
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受難の碑。
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直ぐ上に「御巣鷹茜観音」。
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慰霊小屋。
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犠牲者全員の名簿。
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個別の写真撮りでぐるぐる回る。話題の多い「警視庁の建てた慰霊碑」。
この碑は救援に参画した警視庁が慰霊の念を表したものだと思っているが
事故直後からこれを「警視庁の墓名碑」と称する情報が多く流れ
それから警視庁のヘリが自衛隊に撃墜されたという情報に摩り替わった
曰くつきのもの。
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最上部に悪条件の中で渾身の奮闘をした三人のクルーの碑。
一時は悪者扱いされたのが誠にお気の毒。爺イは来るたびに線香を
供え丁重に手を合わせる。
右から航空機関士・福田博さん、真ん中が機長・高浜雅巳さん、
左が副操縦士・佐々木裕さん。
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尾根筋を終わって少し斜面へ。坂本九さんの碑。
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最後はたった一人の飛行機旅行で奇禍にあってしまった少年の碑。
一杯の供え物や後ろの木に付けられたクリスマスツリーの飾りが
ほっとさせるが、何とも年少者の犠牲の多いことか。
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未だ13時前なのに県境の山々が霧に隠れ風がスッと冷たくなった。
上空にはいつの間にか黒雲、山の雨足は速いので未だ270名ぐらいしか
撮っていないが本日は早々に下山開始。
駐車場に着いても未だ降雨には余裕がありそうなので下って慰霊の園へ。
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250トンの石彫"合掌"にこめられた520人の"霊"への祈りを込めて
半田富久氏がデザインした慰霊塔と奥に納骨堂。
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納骨堂。身元識別不可能として、この地で荼毘に付された犠牲者の
ご遺 骨が123の壷に納められているとの事。その手前に犠牲者の名前が
刻まれている。
だか、此処に名前が刻まれている人は、480人(うち外国人22)という。
様々な理由でその名を刻まれることを拒否した遺族が40名分居られる事は
余り知られては居ない。
尚、犠牲者の世帯数は401、そのうち事故により一家の大黒柱を失って母子だけが
残された家庭が全体の半数に近い189世帯。一家そろって事故機に乗り、
全員死亡した最も悲惨な家族は22世帯。
また、事故のあとで、遺族の妻から生まれ父親の手に抱かれることの無かった
赤ちゃんは7人、頑張って成人されていることを願うばかり。
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「明日に生きる」と題した吉田光正作の立像があるが、事故当時に
身元確認に活躍した群馬県歯科医師会の寄贈。多くの人が事故と向き合って
奮闘したのだ。

本日、予定は全うできなかったが後日の機会もあるかも知れないので
以上で帰宅。デジブックは遺族会の連絡待ち。
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御巣鷹の尾根への恒例の慰霊登山に向かう。慰霊登山を始めたのは
この事故を題材にした横山秀夫のクライマーズハイが別冊文春に発表された
2003年からで以来十二年間に今年で十回目。
この作品の中で「どうせ(もらい事故)なんだからそんなに張り切らなくても」
との地元新聞記者の会話があった。これに爺イはカチンと来た。
小説の中の一節に読者が頭に来る事はおかしいが爺イはこれを
「群馬県人として恥ずべき事」と捉え県人の一人として犠牲者とは
縁も所縁も無いが慰霊登山をするようになってもう十回、段々僅かの
登山が出来なくなっているので多分今年が最後。
今までの集大成として全部の墓標を記録して鎮魂のBGMを付けて
デジブックを作ることを計画した。だが、墓標を並べ立てる事は
遺族会の了承を得る必要もあるので遺族会の8.12連絡会に
問い合わせ中のため完成しているデジブックをブログには
未だ載せられなく今は通常の訪問記。
通勤時間帯を避けてやや早めの出発。R-18・r-10・R-254・r-54と
乗り継いで下仁田経由で南牧村を南進、約一時間半で湯ノ沢トンネル。
周囲の厳しい山容の緑が盛り上がって盛夏の景観。
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トンネルは2003年完成の3.3kだがほぼ直線で通過車両が少ないので
トンネル嫌いの爺イでも何の苦も無く通過して上野村。
郵便局角を右折してダム道路、ここから約15kの間に長短のトンネルが
八本。
小手調べの様に短い直線の「三岐」、短い左カーブの「浜平」
その先に「諏訪山浜平登山口」の道標。この山は神流の諏訪山と違って
ロープ・梯子・鎖付きの難易度星三つなので爺イのテリトリーからは
はみ出している日本三百名山。
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左カーブが続く「太神楽一号」、直線・右カーブ・左カーブで
スネーク状の「太神楽二号」、長い「虎王」、右・左・直の「手水」
短い直の「琴音」と過ぎると発電所入り口で村道に移る。今年も
豪雨で崩落したのでその痕跡を随所に見ながら進行。
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やがて下の旧駐車場、2006年から閉鎖されていた旧登山道が解禁に
なっているとの噂を確かめに行ったが相変わらず立ち入りを禁ずる
ような柵は其の侭存在。
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だが、去年と違うのは立ち入り禁止の表示が巻き上がっていた。
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去年まではこの形。
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柵をすり抜けて先に進むともう一つの柵、その先も歩行出来る様だが
右斜面からの土砂が大分流れ込んでいるので敬遠して車に戻る。
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延長村道を進んで上の駐車場、12日のセレモニーの後の為か
駐車車両は僅かに二台、おまけに頼りにしていた管理人 (本人は山守と)
の黒澤さんの車も無くて残念がりながら登山口へ。ここからの
距離800m、標高差180m。招魂の碑が標高1539mだから入り口の
標高は1359m。かって300山の「高天ヶ原山」の項では1560mになっていたが。
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入り口のカウンター、数値は2270を指している。一昨年の同じ時期には
1750だったから30回目の夏(満29年)と言うことで登山者が多いのかな。
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登山道は整備完璧、だが沢筋を進む日陰の道なのでひんやりはするけれど
何となくべっとりとする空気で湿気が極めて高い。
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少し登ると下の駐車場から来る旧登山道との合流点、確かにここも
開放されている。
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昨年までの形はこんなもので完全に閉鎖されていた。
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山守地蔵前を通過する。これは最近の物の筈なので「山守」を自称する
黒澤さんと関係がある?
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複数個所に設置されている熊避け鐘。実はこの鐘の音が正に鎮魂の
雰囲気にぴったり。
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足元の木枠段には左右どちらかの端に中型の石が埋め込まれている。
木枠の崩れ止めなのだろうが爺イのような年寄りには歩幅や段差の
合わない分をこの石を踏むことで帳尻が合うのですこぶる便利。
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途中で登山道が一部崩落していたが梯子を使った応急手当が済んでいて
迂回できる。
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漸く左手に管理棟が見えてきた。かってはここを日航小屋と言っていたな。
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分岐の所に遺族有志による想いの言葉の書かれた表示板。
これを読むと関係者でなくとも遺族の悲痛な心根が感ぜられる。
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脇に墓標配置の案内図、よく見て如何に重複せず効率的に回るか
作戦を立てる。何しろ今日は数百人の墓標を記録に撮る積もりだから。
だが、複雑な迷路のようで難しそう。取り敢えず「すげの沢」へ向かう。
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僅かの距離で沢筋の「慰霊小屋」、遺族の持ってきた物で一杯。
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同家族複数での犠牲者が多いのに暗然とする。若し、わが身に降り懸ったら
受け止められるか全く自信はない。多分、狂乱するだろう。
実は資料を調べると家族2人が18組、3人が24組、4人が13組も居られる。
折からの夏休みと言うことでディズニーランドや筑波万博帰りの
方も多いし家族以外にも友人同士の組も数組。何とも言いようの無い
残酷さだ。
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兎に角、記録しながら進む。アシスタントパーサーの対馬優美子さんの碑。
奇跡的に残っていた彼女の緊急事態のアナウンス原稿、32分間のパニック
の中で書かれたと思われるが、不時着を想定して書いた緊急アナウンス用、
遂にそれを伝える余裕を与えられなかった。
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今年は気のせいか?文字の消えかかった墓標に白のプラ板・黒字の
ものが付け足されているのが目立つ。帰宅後に上野村役場に問い
合わせしたらそれらは日本航空の遺族支援組織が設置しているとの事。
そう言えば爺イも慰霊登山中に30名位の日航若手社員の清掃隊と
一緒になったこともある。
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すげの沢周辺を回って11時半頃になったので一旦切り上げて
招魂の碑広場に入る。先客は数名でひっそり。
この碑は事故の翌年に多野郡有志によって建立されたもの。
当初は焼けの原の様な場所だったらしい。
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一昨年に新規に寄贈された風車が綺麗に回って出迎える。
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ここが「おすたかの尾根」と呼ばれるようになったのは当時の黒澤村長
さんの命名からだが、現場一帯は高天ヶ原山の尾根。
よって、厳密には御巣鷹山の尾根では無い。
高天ヶ原山はここから南へ直線距離1.1kの県境にある1978.57mの山で
二等三角点「蟻ヶ峠」のある山。御巣鷹山はここから直線で北北西1.8k
にある1639.38mの山で三等三角点「帝釈山」のある山。
この通称は墜落現場の詳細特定(および陸路に依る到達経路設定)
が難航する中、上空からの報道映像を見た黒沢村長さんが記憶に残る
尾根形状から呼称を始めたものであるとのこと。但し、現実は
事故現場の尾根は、黒沢村長のみならず村民にも御巣鷹山であると
認知されていたらしい。何しろ昔から一般立ち入り禁止の御狩場
だったのだ。
事件発生当時の報道写真を見ても幾重にも重なりあった尾根の
状態が良くわかる。
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何時も眺めるU字溝。この尾根の所では機体は大きく右に傾き
右翼が真下で左翼が真上という状況で尾根を削ったのは右翼。
ここでバウンドして裏返しの形で山腹に激突して四散したという。
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軽食と休憩の後、再び記録撮りを再開。今度は尾根上の墓標が目的。
遺留品埋設場所。
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受難の碑。
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直ぐ上に「御巣鷹茜観音」。
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慰霊小屋。
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犠牲者全員の名簿。
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個別の写真撮りでぐるぐる回る。話題の多い「警視庁の建てた慰霊碑」。
この碑は救援に参画した警視庁が慰霊の念を表したものだと思っているが
事故直後からこれを「警視庁の墓名碑」と称する情報が多く流れ
それから警視庁のヘリが自衛隊に撃墜されたという情報に摩り替わった
曰くつきのもの。
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最上部に悪条件の中で渾身の奮闘をした三人のクルーの碑。
一時は悪者扱いされたのが誠にお気の毒。爺イは来るたびに線香を
供え丁重に手を合わせる。
右から航空機関士・福田博さん、真ん中が機長・高浜雅巳さん、
左が副操縦士・佐々木裕さん。
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尾根筋を終わって少し斜面へ。坂本九さんの碑。
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最後はたった一人の飛行機旅行で奇禍にあってしまった少年の碑。
一杯の供え物や後ろの木に付けられたクリスマスツリーの飾りが
ほっとさせるが、何とも年少者の犠牲の多いことか。
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未だ13時前なのに県境の山々が霧に隠れ風がスッと冷たくなった。
上空にはいつの間にか黒雲、山の雨足は速いので未だ270名ぐらいしか
撮っていないが本日は早々に下山開始。
駐車場に着いても未だ降雨には余裕がありそうなので下って慰霊の園へ。
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250トンの石彫"合掌"にこめられた520人の"霊"への祈りを込めて
半田富久氏がデザインした慰霊塔と奥に納骨堂。
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納骨堂。身元識別不可能として、この地で荼毘に付された犠牲者の
ご遺 骨が123の壷に納められているとの事。その手前に犠牲者の名前が
刻まれている。
だか、此処に名前が刻まれている人は、480人(うち外国人22)という。
様々な理由でその名を刻まれることを拒否した遺族が40名分居られる事は
余り知られては居ない。
尚、犠牲者の世帯数は401、そのうち事故により一家の大黒柱を失って母子だけが
残された家庭が全体の半数に近い189世帯。一家そろって事故機に乗り、
全員死亡した最も悲惨な家族は22世帯。
また、事故のあとで、遺族の妻から生まれ父親の手に抱かれることの無かった
赤ちゃんは7人、頑張って成人されていることを願うばかり。
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「明日に生きる」と題した吉田光正作の立像があるが、事故当時に
身元確認に活躍した群馬県歯科医師会の寄贈。多くの人が事故と向き合って
奮闘したのだ。
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本日、予定は全うできなかったが後日の機会もあるかも知れないので
以上で帰宅。デジブックは遺族会の連絡待ち。
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多くの人が、あの時何をしていたのか思い出す日です。 私は転職した慣れない職場で四苦八苦していました。 44歳の時です。 それでも命があってあきらめずにやっていれば、報われる日がくるのだな、と感じています。
20年前に慰霊登山をしました。 夕暮れが迫る現場の異様な雰囲気を今でもはっきりと覚えています。 犠牲者の皆様に合掌。
あの年は忘れられない年です。小生52歳、
一番やり甲斐のある時代でしたが春先には阪神のバース・掛布・岡田に屈辱の三連発を食らったり事件後の9月には竹下蔵相の隠密渡米で寝耳に水のプラザ合意で急転の円高になり丁度海外担当を兼ねていた小生は地獄を見ました。
その時に発症した突発性難聴炎の後遺症で
今も片耳が聞こえません。あれから29年、年を取るのも当たり前ですね。
後に聞いた話では竹下さんは成田空港近くでゴルフをして番記者たちの目を逸らし隙を見て飛行機に飛び乗ったそうです。何しろ230円ベースがあっという間に130円ベースになったのですから茫然自失でした。
明日行ける勇気が出たら生きたいと思います。娘がいま、おかげさまでこの空を飛んでいます。