クタビレ爺イの山日記

諸先達の記録などを後追いして高崎近辺の低山中心に歩いています。

高崎まつり見物 H-23-8-7

2011-08-08 11:54:04 | 伝説・史跡探訪
天候不順を言い訳にしてもう長いこと、山に御無沙汰。
毎日クーラーの中で高校野球ばかりでは体がおかしくなりそう。
少々、暑さに馴れるために高崎祭りに行くことに。

 高崎の名前の起源は、箕輪城主・井伊直政が「赤坂の庄」、「和田宿」を合わせて
「高崎」と名付けた1598年。勿論、和田城としては1428年、和田義信の築城だが。
そして、それから119年後の1717年、高崎藩主大河内松平家を祀った頼政神社の
まつりが始まったと云う。この祭りが「高崎まつり」、「高崎山車まつり」の起源。
頼政神社の祭典から294年間に亘り、道祖神祭り、高崎祇園商業祭、高崎奉納祭、
高崎ふるさとまつり(1975年)など、名称や主催者が異なる幾多のまつりを経て、
「高崎まつり(1985年)」と2003年に独立した「高崎山車まつり」に定着したと
説明にある。

発祥年の1717年とは松平輝貞(1665-1747)が吉宗の配慮によって転封されていた
越後から呼び戻された年。大河内氏出身の右京輝貞は1695年から高崎藩主
だったがその祖とされる源頼政(1104-1180)を祀る頼政神社を1698年に
勧請している。この右京殿、榛名山麓の「右京の無駄掘り」を訪ねて以来、
爺イの大の御贔屓。

市内中心部には38台の山車があると云う。小型ながら江戸型の三層人形山車。
囃子は神田囃子をベースに独自に変化した「高崎山車ばやし」である。
毎年高崎山車まつりに、これらの山車が約半数ずつ隔年交代で参加すし去年は
東地区と南地区だったので今年は北と中央が担当。

山車の数が日本一だとの宣伝だが、浜松などには、100台を超える屋台が
あるようなので、人形の出る江戸型山車の数では日本一だという意味らしい。
「小型ながら」とは頼政神社の祭典が衰退した後しばらくの間、大型の
山車が作られたが、大通り(現在の田町通り)に路面電車
(東武鉄道軌道線=1910~1953年)用の架線が張られたために引き回すことが
できなくなり、これら大型の山車は、他所への売却されたという。

再び山車(小型)が作られるようになったのは、明治末期から昭和初期に
かけてで、製作年が特定できない1台と、平成元年に製作された1台を除く
36台がこの間に製作されていると解説されている。

今年はこの山車祭りに狙いを付けて見物に出かけた。引き回しが始まって
しまうと追いかけての写真は撮り難いので集結した時を狙った。集結は
大体13時半ごろ、スタートは14時半の予定なので其の間に二箇所を一回り
しなくてはならない。

センターの「もてなし広場」に着くと丁度、神輿のスタートが終わろうとしていた。
猛暑の中での猛烈な運動量のため大勢の交代要員が後に続いている。







最後尾の市役所の神輿を見送ってから山車の集結場所へ。広場を含めて途中の
路上は大勢の見物客でごった返している。成るべく顔出しを避けるために
横から一枚。
沿道にはずらっと屋台が並んで居るので余計に混雑感。



第一の場所は「北地区」の山車でスズラン横のお堀側の道路で既に集結済み。



先頭は「並榎町」、人形は黒川市五郎作「鏡獅子」 大正13年制作。





「住吉町」、人形は「蘭陵王」 大正13年制作。
蘭陵王(らんりょうおう)は雅楽の曲目の一つだろう。だとすれば北斉の
蘭陵王高長恭の逸話にちなんだ曲目で、眉目秀麗な名将であった蘭陵王が
優しげな美貌を獰猛な仮面に隠して戦に挑み見事大勝したため、兵たちが
喜んでその勇士を歌に歌ったのが曲の由来とされている。 武人の舞らしい
勇壮さの中に、絶世の美貌で知られた蘭陵王を偲ばせる優雅さを併せ持つ。

今や、市街地北部の大動脈となったこの地もかっては旧赤坂村の
出先の耕地に過ぎなかった。500年以上も前に今の赤坂・長松寺が
建立されたと云う頃に、その境内に住吉明神があったとされるので
住吉の名も古い。明治三年の高崎編入のとき、住吉・真砂・竹川等の
候補から抽選で決まったとか。「住んで」「吉し」のこの町名は前橋と
伊勢崎にもある。





「相生町」、人形は山本鉄之作「源為朝」 。
剛勇で名高い鎮西八郎為朝(1139-1170)、源為義の八男。兄に義朝・義賢、
弟に行家。
保元の乱で破れて大島に流刑になるが各地に伝承を残す人気者。





「請地町」、人形は黒川明玉作「羽衣の天女」 昭和8年制作で爺イと同い年。





「成田町」、人形は米富久作「素盞鳴尊」 昭和11年制作。天照大神の弟。





「末広町」、人形は松崎富司作「静御前」 。生没年不明の義経の愛妾、推定で
1160年頃-1190年頃。





「本町一丁目」、人形は庄田七郎兵衛作「猩々」 大正2年制作。
その名の通り和田宿の時代から高崎城下の町割の「根本」、点在する
二つの宿場を移して本町(モトマチ)を開いたとの事。





「本町二丁目」、人形は晴雲斎秋月作「弁財天」 大正7年制作。





「本町三丁目」、人形は松崎福松作「石橋の舞」。





ここでどうやら北地区は全てらしい。一寸、一息入れてから中央地区の集結場所へ。
人ごみを掻き分け様にも両側にびっしりの屋台と、余りに人出が多くて流れに従う
以外にはない。交差点毎の太鼓連を見ながらアーケードの中央通りの途中から
「ドデスケ連」の踊りの列と一緒に歩く。





「赤坂町」人形は黒川市五郎作「猿田彦」 昭和57年制作。





「常盤町」人形は亀屋甲齊清秀作「牛若丸」 大正13年制作。





「歌川町」人形は山本鉄之作「藤原定家」 。「歌」繋がりのご縁かな?





「柳川町」、人形は松崎福松作「日本武尊」 。
地内を流れる用水の岸に柳の大木があったことから明治六年に命名。
自由民権運動の宮部譲、キリスト教の内村鑑三、日銀・深井英吾は
この町の出身。





「新紺屋町」、人形は「三番叟」 大正3年制作。





「寄合町」、人形は浪花屋作「弁慶勧進帳」 大正12年制作





「田町」、人形は松崎福松作「神功皇后」。
「直政」の高崎移転で連雀町・鞘町・紺屋町等と一緒に箕輪から移った町。
箕輪時代は「田宿」、移転後も暫らくは「田坊」。中山道の道筋で問屋町と
して隆盛。「お江戸見たけりャ高崎田町 紺の暖簾がひらひらと」と
言われたのは直政から七代目の松平重長時代の1621年以降。





隣の九蔵町は東地区。田町も四丁目が東地区で今年は不参加。既に先頭は
スタートして居る。もう15時近いのでビルの日陰で一休み。巡回の田町通りで
もう一度待ち受けようとしたら予報どおりの雷雲が発生。夕刻の集結は
パスして早々に退散。



果たして16時にはテレビで大雨警報、周囲が夕暮れのように暗くなり間もなく雷雨。
あの大群衆は雨の中、どうしただろう?
動画も撮ったが相変わらず変換してアツプのする方法がわからない。
そちらはミクシイにだけ載せた。

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