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上の写真は長野堰遊歩道の終点、「円筒分水堰」。
漸く天候が回復した。だが、山手の細道の道路事情が判らないし、一時保水された
山水が登山道や踏み跡を流れているだろうから数日の「山干し」を経ないと
踏ん張りの弱い年寄りは暫く様子見。で、足慣らしで長野堰を歩くことにした。
伝説によると長野堰の発祥は長野氏が浜川にいた一千年前と言われるが長野氏の
活動歴史の資料に現われるのは1440年の結城合戦あたりからなので本当の
ところは良く判らない。
が、浜川辺にいた豪族・長野氏が小規模な用水路を作ったのは確からしい。
用水の整備・拡張・延長が進んだのは箕輪城に移ってからの長野業政時代、
井伊直政時代で、ほぼ今の形になったのは江戸時代・高崎藩に入ってからと
されている。
明治21年には、高崎市の水道用水にも取水されたり、水車を使っての米つきや、
防火用水としても利用されていた。その後、素堀水路を石積にし漏水防止を図り、
やがて水路が老朽化、加えて食糧増産による用水不足を来たし、これらを
解消するため、県営かんがい排水事業にて三面コンクリート水路を施工
したとの事。
かんがい用水はもとより、現在は防火用水、環境用水として、幹線水路上は
ポケットパークに提供し市民の憩いの場となっている。
全長は平地とはいえ距離が長いので往復は無理、起点の本郷に車を置いて
後でバスで引き取りに来る予定。
R-29で室田方面に向かい、本郷バス停先の小道に左折。某葬儀社の裏に駐車(11.09)。
この看板よって河原に向かう。
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路傍には沢山の花がお出迎え。
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直ぐに小さな「稲荷森3号古墳」、本郷古墳群の一支群らしいが詳細は知らない。
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「大利根漬(株)前を通過して丁字路を左折すると突き当りが養鯉会社。
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脇に回ると取水を利用した養鯉池があるが鯉ヘルプス騒動以来、稼動は鈍いらしい。
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土手際に長野堰取水口の「長野堰頭首工」の説明看板。
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石碑もある。
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土手に登ってみると烏川の水流が本流と手前の取水用に二分されている。
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取水は管理塔手前で矢印のところから土手下を潜っている。
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土手を潜った水流は穏やかに曲がって東に向かう。
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養鯉場の脇をこんな具合に真っ直ぐに伸びている。
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やがて水流は暗渠に吸い込まれる。ここからは直ぐ右側の「小堀川」とその
ずっと先の「榛名白川」の下を潜って我峰で再び地表に出てくるのだ。
面白いことに堰の水は北に流れるが直ぐ脇の小堀川は烏川に向かって南進する。
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歩きのこっちはこの橋でR-29に合流。
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沖町信号は直進、
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狭い道を経て榛名白川右岸の土手に這い上がる。
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そして大きな橋で榛名白川を北側に渡る。
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やがて我峰信号、直進して人家の間を北に向かう。
昔は森林に被われ「我が森」、それが転じて「吾が峰」、江戸時代に「我嶺」
明治以降「我峰」とは「長野村誌」の記述。
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僅かの距離で突き当たるとそこに暗渠からの引き出し口(11.43)。ここから本格的な
東への遊歩道が始まる。
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前方はこんな具合の直進水路。右に見えるのは赤城山?
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左岸に「棗原(ナツメハラ)稲荷」、かってこの辺には棗が多かったのかな?
この近辺には確かに「棗原」という小字名があるが、それは長野地区とは大分
離れた環状線の南で地域的には上小塙に属するからどうなんだろう。
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西南の彼方を眺めると浅間山らしいのがちょこんと頭を出している。そうすると
その右の小さな突起は浅間隠山なんだろうか?
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北には地元の榛名山、豪雨の影響が心配。
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暫く行くと民家の間に小さな諏訪神社と道祖神。
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東屋で休もうとしたら何やらブリーフ一枚の偉丈夫がベンチを占拠。見事に
日焼けしているのを横目で見ながら通過、遠くから盗み撮り。
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いつの間にか稲穂が出ている。台風の被害が無くてよかったな。
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左に長野中が見える頃、遊歩道はこんな感じで水路は植え込みの左で見えない。
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遊歩道は右折して環状線の下のトンネルを潜るが水路はその少し先で道の下を通る。
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トンネルを出たところが北部小の前、再び左に迂回して遊歩道に戻るが水路の出口。
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ここからは上小塙地域、遊歩道の感じが変わる。
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路傍に花が多くなるが此れなどは巨大で見事。
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チョウセンアサガオの実が生っているのを始めてみた。
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外科病院への道を越えると上並榎地区、雰囲気がガラッと変り右岸に榎、左岸に桜。
水路の上に作った憩いの場は「ポケットパーク」と云うらしい。
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そこで休憩、本日の爺イは既にやや疲れた顔。
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漸く経大通りのR-29に到着してクロス。脇に巨大な顕彰碑。
「長野堰改修紀工碑」で水量増加と改修のため尽力した松平右京始め関係者の
事蹟を顕彰したもの。
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暫く行くと現在は閉ざされている「佐賀川余水吐水門」。秋口にはここから直接
烏川に流す「川干し」があるので此の先は水無しで少々臭い川底が露出する。
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信越線をこの跨線橋で跨ぐ。この辺は朝の散歩のときに時々通過している場所。
水路は線路すれすれに際どく通過し、東に向かって左旋回。
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跨線橋の降り口に「道陸神」。上並榎三体の一つ、明和八年(1771年)の銘。
道陸神は基本的には道祖神と同じ神。左下部に「左志らいわ はるな」と
刻まれているのが微かに見える。その脇に小さな欠けた石柱、「道」という
文字が残っているからこれも道標だった?
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此処からの遊歩道の雰囲気、大橋地区に向かって一直線だ。
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進路を塞ぐ怪しい奴、こっちを睨んで戦闘的な眼。だが、急ぐのでこんなのに
構ってはいられない。
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ポケットパークの支柱にこんな張り紙、確かにここは毎朝イヌの散歩の盛り場だ。
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「両水」への道を鳥羽橋で渡った先は並榎橋のコンクリート柱、橋は現在無く
なっているがこの字は「村上鬼城」の手に依るとは余り知られていない。
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大橋のR-25に出る少し手前に水門。これが「新井堰石門」。
かってはここからの分岐の流れが城下を潤した重要ポイント。堰を管理する代官の
居たところが現在の堰代町の由来。
五万石騒動の時も、過激な農民がここの閉鎖を企てたし、水戸・天狗党が
高崎を通過するとの噂の時は、高崎藩士が厳重な防御を敷いたとか。
ここから城下への水が絶たれた時、火災が起きたら城下は火の海になるとの
恐れから。
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更に進むと左手に「住吉の庚申」。本体は向かって右端のもの。
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これは1711年の造立で梵字の下に「奉造立庚申塔供養O」。「O」部分は
パソコンでは出てこない漢字。
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基部には青面(ジョウメン)金剛の神使・三猿が彫りこまれている。
庚申待ちの時は三猿のように謹慎的態度をということらしい。
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R-25のバス停で帰路のバス通過時間を確認、本郷までは一時間に一本、
毎時間30分過ぎ。大橋を過ぎると間もなく暗渠となり、文化会館への道で
再び地表に現れる。
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「請地堰」を通過。末広町交差点を目指す。
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左手に小さなお堂、何の表示もないがこれは末広町の川端薬師。
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お堂の中の石像は1760年頃の作で、別の場所にあったのが1784年にここに
移されたと伝わるそうである。この年は浅間噴火の翌年で疫病・飢餓が続いた頃で
あるので、苦しい時に村人・町人が神や仏を作る事で拠り所にしたのであろう。

此処までで既に13.35、交差点近くのデニーズで昼食。40分後に再出発、此処からは
進路が複雑なので歩道橋に登って水路を観察。東南に向かっているのを確認して
交差点を斜めに横切って「高京橋」で水路を捕捉。道の様子。
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やがて前方に上越線の線路と新幹線。水路は道に関係なく真っ直ぐに線路を潜る。
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こっちは右に大きく迂回して「大類里道踏み切り」を渡ってから新幹線の下を
潜って左に旋回して元の遊歩道。
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前途はこんな感じ。
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やがて高崎駅東口に繋がる産業道路を横切る。丁度、五万石すし屋の近所だ。
右に旋回気味で今度はR-354に到達、目の前は「江木橋」。既に14.29。
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「長野堰幹線水路」のプレートを見て進むと「義人堂」。
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五万石騒動首謀者達が処刑された東町と江木町の堺辺で法輪寺墓地に
隣接している。
正確には昔の無縁堂跡に昭和38年に五万石領下の農協が中心となって、
処刑場跡に建立されたのが今の「五万石義人慰霊堂」。
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無縁堂に付いては1789年の「高崎志」にこんな記述がある。
「無縁堂は四面反畝にして森の中にあり。高崎の荼毘(だび)所也――」つまり、
今で言えば火葬場だったらしい。ここで処刑されたのは首謀者といわれた「
大総代」の三人。
大森院に墓のある「小島文次郎」は、上小塙の住人、書画・数学・謡曲に通じ且つ
武芸の達人。
高崎藩45ヶ村の運命を背負って東奔西走、「佐藤三喜蔵・高井喜三郎」の両総代の
逮捕後、明治3年9月、無縁堂で斬首。享年46歳。
辞世は「人の為 草葉の露と 消ゆれども 名を後の世に 残すうれしさ」
佐藤三喜蔵」は下中居の住人、年貢減免運動を統率して奮闘。
明治2年11月に逮捕される。農民達は護送中の奪還を図るが失敗。
翌年の2月、同志の高井喜三郎と共に無縁堂で斬首。享年52歳。
辞世 「望みなき 身は今目限りに ちりぬるも 七度生まれて
かなへてやみん」
大総代最後の一人は「高井喜三郎」。墓は柴崎町・進雄神社の西方にある。
大類・柴崎村の出身、明治2年の減免運動に大総代として活動。明治2年11月に
逮捕され翌年の2月に佐藤三喜蔵と共に無縁堂で斬首。享年42歳。
辞世 「吾人のためなれと身をすてて いま生贄となりしうれしさ」
法輪寺墓地によって元総理・中曽根家の墓、その向かいの爺イの母の実家の墓に
お参りして再び南進開始。
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やがて「佐野堰」を通過、もうゴールは近い。
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左手に小学校を見るともう着いたも同然。
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目的の円形分水堰だ(14.43)。
農業用水を4堰へ公平に分けることができ、全国でも珍しい土地改良施設。
円筒中央に導かれてその外縁部から越流した水を外周の仕切り板の間隔で
分配し、その比率で外周水路につながる各堰に正確に分配する仕組みで、
水量順に倉賀野堰、矢中堰、地獄堰、上中居堰の4つに分水、配水されている。
北側から見たところ。
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南から見たところ。
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付近に歌碑。「恐ろしや 地獄の堰と思いしか 悟ればここぞ 極楽の堰」
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これで全ての予定を終了、江木橋からR-354をのんびりと西に向かい、
「江木アンダー」「江木町」-「弓町」-「北通町」を経て
「田町北バス停」に15.20着、
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約10分の待ち合わせで本郷まで420円なり。全行程18.100歩。
ご来訪のついでに下のバナーをポチッと。
漸く天候が回復した。だが、山手の細道の道路事情が判らないし、一時保水された
山水が登山道や踏み跡を流れているだろうから数日の「山干し」を経ないと
踏ん張りの弱い年寄りは暫く様子見。で、足慣らしで長野堰を歩くことにした。
伝説によると長野堰の発祥は長野氏が浜川にいた一千年前と言われるが長野氏の
活動歴史の資料に現われるのは1440年の結城合戦あたりからなので本当の
ところは良く判らない。
が、浜川辺にいた豪族・長野氏が小規模な用水路を作ったのは確からしい。
用水の整備・拡張・延長が進んだのは箕輪城に移ってからの長野業政時代、
井伊直政時代で、ほぼ今の形になったのは江戸時代・高崎藩に入ってからと
されている。
明治21年には、高崎市の水道用水にも取水されたり、水車を使っての米つきや、
防火用水としても利用されていた。その後、素堀水路を石積にし漏水防止を図り、
やがて水路が老朽化、加えて食糧増産による用水不足を来たし、これらを
解消するため、県営かんがい排水事業にて三面コンクリート水路を施工
したとの事。
かんがい用水はもとより、現在は防火用水、環境用水として、幹線水路上は
ポケットパークに提供し市民の憩いの場となっている。
全長は平地とはいえ距離が長いので往復は無理、起点の本郷に車を置いて
後でバスで引き取りに来る予定。
R-29で室田方面に向かい、本郷バス停先の小道に左折。某葬儀社の裏に駐車(11.09)。
この看板よって河原に向かう。
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路傍には沢山の花がお出迎え。
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直ぐに小さな「稲荷森3号古墳」、本郷古墳群の一支群らしいが詳細は知らない。
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「大利根漬(株)前を通過して丁字路を左折すると突き当りが養鯉会社。
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脇に回ると取水を利用した養鯉池があるが鯉ヘルプス騒動以来、稼動は鈍いらしい。
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土手際に長野堰取水口の「長野堰頭首工」の説明看板。
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石碑もある。
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土手に登ってみると烏川の水流が本流と手前の取水用に二分されている。
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取水は管理塔手前で矢印のところから土手下を潜っている。
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土手を潜った水流は穏やかに曲がって東に向かう。
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養鯉場の脇をこんな具合に真っ直ぐに伸びている。
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やがて水流は暗渠に吸い込まれる。ここからは直ぐ右側の「小堀川」とその
ずっと先の「榛名白川」の下を潜って我峰で再び地表に出てくるのだ。
面白いことに堰の水は北に流れるが直ぐ脇の小堀川は烏川に向かって南進する。
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歩きのこっちはこの橋でR-29に合流。
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沖町信号は直進、
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狭い道を経て榛名白川右岸の土手に這い上がる。
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そして大きな橋で榛名白川を北側に渡る。
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やがて我峰信号、直進して人家の間を北に向かう。
昔は森林に被われ「我が森」、それが転じて「吾が峰」、江戸時代に「我嶺」
明治以降「我峰」とは「長野村誌」の記述。
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僅かの距離で突き当たるとそこに暗渠からの引き出し口(11.43)。ここから本格的な
東への遊歩道が始まる。
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前方はこんな具合の直進水路。右に見えるのは赤城山?
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左岸に「棗原(ナツメハラ)稲荷」、かってこの辺には棗が多かったのかな?
この近辺には確かに「棗原」という小字名があるが、それは長野地区とは大分
離れた環状線の南で地域的には上小塙に属するからどうなんだろう。
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西南の彼方を眺めると浅間山らしいのがちょこんと頭を出している。そうすると
その右の小さな突起は浅間隠山なんだろうか?
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北には地元の榛名山、豪雨の影響が心配。
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暫く行くと民家の間に小さな諏訪神社と道祖神。

東屋で休もうとしたら何やらブリーフ一枚の偉丈夫がベンチを占拠。見事に
日焼けしているのを横目で見ながら通過、遠くから盗み撮り。
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いつの間にか稲穂が出ている。台風の被害が無くてよかったな。
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左に長野中が見える頃、遊歩道はこんな感じで水路は植え込みの左で見えない。
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遊歩道は右折して環状線の下のトンネルを潜るが水路はその少し先で道の下を通る。
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トンネルを出たところが北部小の前、再び左に迂回して遊歩道に戻るが水路の出口。
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ここからは上小塙地域、遊歩道の感じが変わる。
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路傍に花が多くなるが此れなどは巨大で見事。
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チョウセンアサガオの実が生っているのを始めてみた。
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外科病院への道を越えると上並榎地区、雰囲気がガラッと変り右岸に榎、左岸に桜。
水路の上に作った憩いの場は「ポケットパーク」と云うらしい。
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そこで休憩、本日の爺イは既にやや疲れた顔。
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漸く経大通りのR-29に到着してクロス。脇に巨大な顕彰碑。
「長野堰改修紀工碑」で水量増加と改修のため尽力した松平右京始め関係者の
事蹟を顕彰したもの。
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暫く行くと現在は閉ざされている「佐賀川余水吐水門」。秋口にはここから直接
烏川に流す「川干し」があるので此の先は水無しで少々臭い川底が露出する。
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信越線をこの跨線橋で跨ぐ。この辺は朝の散歩のときに時々通過している場所。
水路は線路すれすれに際どく通過し、東に向かって左旋回。
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跨線橋の降り口に「道陸神」。上並榎三体の一つ、明和八年(1771年)の銘。
道陸神は基本的には道祖神と同じ神。左下部に「左志らいわ はるな」と
刻まれているのが微かに見える。その脇に小さな欠けた石柱、「道」という
文字が残っているからこれも道標だった?
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此処からの遊歩道の雰囲気、大橋地区に向かって一直線だ。
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進路を塞ぐ怪しい奴、こっちを睨んで戦闘的な眼。だが、急ぐのでこんなのに
構ってはいられない。

ポケットパークの支柱にこんな張り紙、確かにここは毎朝イヌの散歩の盛り場だ。
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「両水」への道を鳥羽橋で渡った先は並榎橋のコンクリート柱、橋は現在無く
なっているがこの字は「村上鬼城」の手に依るとは余り知られていない。

大橋のR-25に出る少し手前に水門。これが「新井堰石門」。
かってはここからの分岐の流れが城下を潤した重要ポイント。堰を管理する代官の
居たところが現在の堰代町の由来。
五万石騒動の時も、過激な農民がここの閉鎖を企てたし、水戸・天狗党が
高崎を通過するとの噂の時は、高崎藩士が厳重な防御を敷いたとか。
ここから城下への水が絶たれた時、火災が起きたら城下は火の海になるとの
恐れから。
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更に進むと左手に「住吉の庚申」。本体は向かって右端のもの。
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これは1711年の造立で梵字の下に「奉造立庚申塔供養O」。「O」部分は
パソコンでは出てこない漢字。
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基部には青面(ジョウメン)金剛の神使・三猿が彫りこまれている。
庚申待ちの時は三猿のように謹慎的態度をということらしい。
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R-25のバス停で帰路のバス通過時間を確認、本郷までは一時間に一本、
毎時間30分過ぎ。大橋を過ぎると間もなく暗渠となり、文化会館への道で
再び地表に現れる。
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「請地堰」を通過。末広町交差点を目指す。
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左手に小さなお堂、何の表示もないがこれは末広町の川端薬師。
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お堂の中の石像は1760年頃の作で、別の場所にあったのが1784年にここに
移されたと伝わるそうである。この年は浅間噴火の翌年で疫病・飢餓が続いた頃で
あるので、苦しい時に村人・町人が神や仏を作る事で拠り所にしたのであろう。

此処までで既に13.35、交差点近くのデニーズで昼食。40分後に再出発、此処からは
進路が複雑なので歩道橋に登って水路を観察。東南に向かっているのを確認して
交差点を斜めに横切って「高京橋」で水路を捕捉。道の様子。
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やがて前方に上越線の線路と新幹線。水路は道に関係なく真っ直ぐに線路を潜る。
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こっちは右に大きく迂回して「大類里道踏み切り」を渡ってから新幹線の下を
潜って左に旋回して元の遊歩道。
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前途はこんな感じ。
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やがて高崎駅東口に繋がる産業道路を横切る。丁度、五万石すし屋の近所だ。
右に旋回気味で今度はR-354に到達、目の前は「江木橋」。既に14.29。

「長野堰幹線水路」のプレートを見て進むと「義人堂」。
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五万石騒動首謀者達が処刑された東町と江木町の堺辺で法輪寺墓地に
隣接している。
正確には昔の無縁堂跡に昭和38年に五万石領下の農協が中心となって、
処刑場跡に建立されたのが今の「五万石義人慰霊堂」。
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無縁堂に付いては1789年の「高崎志」にこんな記述がある。
「無縁堂は四面反畝にして森の中にあり。高崎の荼毘(だび)所也――」つまり、
今で言えば火葬場だったらしい。ここで処刑されたのは首謀者といわれた「
大総代」の三人。
大森院に墓のある「小島文次郎」は、上小塙の住人、書画・数学・謡曲に通じ且つ
武芸の達人。
高崎藩45ヶ村の運命を背負って東奔西走、「佐藤三喜蔵・高井喜三郎」の両総代の
逮捕後、明治3年9月、無縁堂で斬首。享年46歳。
辞世は「人の為 草葉の露と 消ゆれども 名を後の世に 残すうれしさ」
佐藤三喜蔵」は下中居の住人、年貢減免運動を統率して奮闘。
明治2年11月に逮捕される。農民達は護送中の奪還を図るが失敗。
翌年の2月、同志の高井喜三郎と共に無縁堂で斬首。享年52歳。
辞世 「望みなき 身は今目限りに ちりぬるも 七度生まれて
かなへてやみん」
大総代最後の一人は「高井喜三郎」。墓は柴崎町・進雄神社の西方にある。
大類・柴崎村の出身、明治2年の減免運動に大総代として活動。明治2年11月に
逮捕され翌年の2月に佐藤三喜蔵と共に無縁堂で斬首。享年42歳。
辞世 「吾人のためなれと身をすてて いま生贄となりしうれしさ」
法輪寺墓地によって元総理・中曽根家の墓、その向かいの爺イの母の実家の墓に
お参りして再び南進開始。

やがて「佐野堰」を通過、もうゴールは近い。
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左手に小学校を見るともう着いたも同然。
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目的の円形分水堰だ(14.43)。
農業用水を4堰へ公平に分けることができ、全国でも珍しい土地改良施設。
円筒中央に導かれてその外縁部から越流した水を外周の仕切り板の間隔で
分配し、その比率で外周水路につながる各堰に正確に分配する仕組みで、
水量順に倉賀野堰、矢中堰、地獄堰、上中居堰の4つに分水、配水されている。
北側から見たところ。
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南から見たところ。
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付近に歌碑。「恐ろしや 地獄の堰と思いしか 悟ればここぞ 極楽の堰」
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これで全ての予定を終了、江木橋からR-354をのんびりと西に向かい、
「江木アンダー」「江木町」-「弓町」-「北通町」を経て
「田町北バス停」に15.20着、
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約10分の待ち合わせで本郷まで420円なり。全行程18.100歩。
ご来訪のついでに下のバナーをポチッと。
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私は川端薬師の近所で生まれ、小学生時代はもっぱら長野堰(おおかわと呼んでいた。「か」にアクセントをつけて呼んでいた)で泳ぎを覚えた。長じて第一中学入学後は上並榎町まで泳ぎにいった。当時の堰は石垣でこの辺りまでくると、底は砂底で足に心地よかった。年に2回の点検で水が引くと待ってましたとうなぎやなまずを捕まえました。「かいぼり」といったと思う。
更に年を加えて今はレポートで五万石寿司の先で大きくカーブすると書かれたあたりに住んでいます。
爺様我が家の近くを歩いてきたんだ。 お会いしたかったです。お顔はブログで拝見しているので、お会いすれば間違うはずはありません。
先日私もブログとやらを立ち上げてみました。
まだまだ要領があかりませんが、なんとか続けたいと思っています。
いつまでもお元気で。
貴兄のコメントで色々と思い当たることがありました。
昔の呼び名の「おおかわ」は其れに掛かる橋と
云うことで「大橋町」の町名由来とか。
記録では石垣積み工事の開始が昭和6年、
三面コンクリート工事が昭和28年からとなっています。
そろそろ天候も安定しそうなので山に行く
予定を立てています。