「山はこれから」さんから船尾寺院跡発見とのコメントが入ったので早速、
其れを訪ねることにした。かって千葉常将伝説を追いかけた時、自害の
場所特定と共に発見できなかったのがこの船尾の堂宇跡。
この遺構が千葉常将と船尾堂宇との抗争がらみだというのは
勿論、現実に存在するものと伝説との結びつけだが。
相馬山の別名が「黒髪山」である事は相馬表口の石碑にもあるし、黒髪神社が
山頂にある事でも良く知られているが同時に、相馬に登るとき、鳥居の幾つかの
掲額が「相満山」とあるのに気づいている方も多いはず。
「相満」とは勿論、千葉常将の息子。伝説では常将は11世紀の初頭、天狗に
攫われた息子を船尾山大寺院の仕業と誤解して宗徒と争い船尾堂宇の全てを
焼き払った。後に此れを悔恨して常将は自害、その夫人が追福のために
堂ヶ入りに寺を建て、後に山子田に移ったというのが今の柳沢寺。
遂に見つからなかった息子・相満が相馬山に祀られて居る事から相馬山を
「相満山」ともいう。
千葉(平)常将は確かに実在の人物だし長和年間(1012-
1016)に船尾山堂宇が焼き討ちにあったのも史実であるが、
ここから無数の伝説がばら撒かれた。
常将は「平忠常の乱(1028-31)」で名高い忠常の息子、
初めて千葉を名乗ったとされ、高望王から数えて五代目の正統派である。
忠常の乱の後、父親は梟首されたが常将は許された。
この辺には千年前の騒乱がらみの地名がある。常将が軍を整えたのが吉岡町の
「陣場」、第一回攻撃が失敗して一時後退したのが旧群馬町「引間」、そして
大軍勢を通過したという「五万騎」なる橋もある。
そして極め付けが榛東・柳沢寺の隣にある「常将神社」。
伝説では船尾山等覚院柳沢寺観世音は九世紀から船尾山にあったとされ、
常将夫婦もここに祈願して相満を授かったと言う。勿論、
戦乱で焼き払われたのはこの船尾山の柳沢寺であるが、その跡地は不明と
するのが通説。
但し堂ノ入沢の上流部に地元の人の間で古くはお寺があったと伝承があり
その遺跡の発掘の結果は「榛東村誌」に詳細に記載されている。それが
今日訪ねる堂ノ入遺跡だが「それがいかなる人により何の目的で造成され
たかは不明」と結論付けているのは夢が無い。
この遺跡は常将に焼き討ちされた船尾大寺院の跡と思ったほうが
古代ロマンに相応しい。
昨日までの寒風も収まったので、榛東村に向かう。
途中で箕郷図書館に寄って「榛東村誌」から詳細な遺跡発掘記録を
コピー。
R-153(水沢・足門線)を北上して左にハルナグラス、右に地球屋の
林道を左折。
直ぐに石の鳥居と「十二社」の表示。
直ぐ後ろには石宮と何やら説明看板。それに依ると第二十五代の
武烈天皇東征の時の御座所という事らしい。この天皇は日本書紀や
古事記の時代の天皇で残虐行為の代名詞になるほど悪名は高いが
在位8年18歳で没の説とかを含めてその実在すら疑問視されている。
その周辺には榛東村文化財に指定されている巨木が四本。
「イヌシデ」 樹齢200年 高さ14M 胸高周囲2.4M
「杉」 樹齢250年 高さ20M 胸高周囲2.6M
「ケヤキ」 樹齢300年 高さ24M 胸高周囲3.8M
「コナラ」 樹齢300年 高さ12M 胸高周囲2.1M
その先に榛東村北部貯水池。
数百㍍先でゴルフ場が左に良く見え
その反対側にゲートで封鎖された林道入り口。この林道は船尾滝
駐車場まで続いている。
落ち葉は多いが舗装されたこんな林道を歩き始める。
左山手を注意しながら進み、見当を付けて置いたこの細道へ左折。
道は山手に続いていたが注意して観察した積りだが遺跡は不明。
一旦諦めて林道に戻って北上。
1Kほどでもうひとつの目標、小野関三太夫氏の線刻彫りの
道標発見。今まで随分三太夫氏の線刻彫りを追いかけたが
又一つコレクションに加わった。
足場の悪い林間を一寸下ると大石の彫り物。
如何にも線が浅いのでこの写真が限度。
再び戻って遺跡の再探索、さっきの細道の途中から平坦部を
探ると石積みを発見。資料に書かれた様に「山石の割れ石を
ランダムに積み上げた感じで年代を特定できる特徴が無い」。
角度を選んだこの一枚は偶然にも調査資料に掲載された写真と
同アングルなので問題の遺構はここに間違いないが堆積物が多くて
礎石の類は確認できなかった。
周囲も開拓されたような平地。ここは高度630M位なので
三段の造りのトップが700Mというから一番の下段らしい。
N-36-27-43 E-138-56-41-5なので興味のある方は是非どうぞ。
ご来訪のついでに下のバナーをポチッと。
其れを訪ねることにした。かって千葉常将伝説を追いかけた時、自害の
場所特定と共に発見できなかったのがこの船尾の堂宇跡。
この遺構が千葉常将と船尾堂宇との抗争がらみだというのは
勿論、現実に存在するものと伝説との結びつけだが。
相馬山の別名が「黒髪山」である事は相馬表口の石碑にもあるし、黒髪神社が
山頂にある事でも良く知られているが同時に、相馬に登るとき、鳥居の幾つかの
掲額が「相満山」とあるのに気づいている方も多いはず。
「相満」とは勿論、千葉常将の息子。伝説では常将は11世紀の初頭、天狗に
攫われた息子を船尾山大寺院の仕業と誤解して宗徒と争い船尾堂宇の全てを
焼き払った。後に此れを悔恨して常将は自害、その夫人が追福のために
堂ヶ入りに寺を建て、後に山子田に移ったというのが今の柳沢寺。
遂に見つからなかった息子・相満が相馬山に祀られて居る事から相馬山を
「相満山」ともいう。
千葉(平)常将は確かに実在の人物だし長和年間(1012-
1016)に船尾山堂宇が焼き討ちにあったのも史実であるが、
ここから無数の伝説がばら撒かれた。
常将は「平忠常の乱(1028-31)」で名高い忠常の息子、
初めて千葉を名乗ったとされ、高望王から数えて五代目の正統派である。
忠常の乱の後、父親は梟首されたが常将は許された。
この辺には千年前の騒乱がらみの地名がある。常将が軍を整えたのが吉岡町の
「陣場」、第一回攻撃が失敗して一時後退したのが旧群馬町「引間」、そして
大軍勢を通過したという「五万騎」なる橋もある。
そして極め付けが榛東・柳沢寺の隣にある「常将神社」。
伝説では船尾山等覚院柳沢寺観世音は九世紀から船尾山にあったとされ、
常将夫婦もここに祈願して相満を授かったと言う。勿論、
戦乱で焼き払われたのはこの船尾山の柳沢寺であるが、その跡地は不明と
するのが通説。
但し堂ノ入沢の上流部に地元の人の間で古くはお寺があったと伝承があり
その遺跡の発掘の結果は「榛東村誌」に詳細に記載されている。それが
今日訪ねる堂ノ入遺跡だが「それがいかなる人により何の目的で造成され
たかは不明」と結論付けているのは夢が無い。
この遺跡は常将に焼き討ちされた船尾大寺院の跡と思ったほうが
古代ロマンに相応しい。
昨日までの寒風も収まったので、榛東村に向かう。
途中で箕郷図書館に寄って「榛東村誌」から詳細な遺跡発掘記録を
コピー。
R-153(水沢・足門線)を北上して左にハルナグラス、右に地球屋の
林道を左折。
直ぐに石の鳥居と「十二社」の表示。
直ぐ後ろには石宮と何やら説明看板。それに依ると第二十五代の
武烈天皇東征の時の御座所という事らしい。この天皇は日本書紀や
古事記の時代の天皇で残虐行為の代名詞になるほど悪名は高いが
在位8年18歳で没の説とかを含めてその実在すら疑問視されている。
その周辺には榛東村文化財に指定されている巨木が四本。
「イヌシデ」 樹齢200年 高さ14M 胸高周囲2.4M
「杉」 樹齢250年 高さ20M 胸高周囲2.6M
「ケヤキ」 樹齢300年 高さ24M 胸高周囲3.8M
「コナラ」 樹齢300年 高さ12M 胸高周囲2.1M
その先に榛東村北部貯水池。
数百㍍先でゴルフ場が左に良く見え
その反対側にゲートで封鎖された林道入り口。この林道は船尾滝
駐車場まで続いている。
落ち葉は多いが舗装されたこんな林道を歩き始める。
左山手を注意しながら進み、見当を付けて置いたこの細道へ左折。
道は山手に続いていたが注意して観察した積りだが遺跡は不明。
一旦諦めて林道に戻って北上。
1Kほどでもうひとつの目標、小野関三太夫氏の線刻彫りの
道標発見。今まで随分三太夫氏の線刻彫りを追いかけたが
又一つコレクションに加わった。
足場の悪い林間を一寸下ると大石の彫り物。
如何にも線が浅いのでこの写真が限度。
再び戻って遺跡の再探索、さっきの細道の途中から平坦部を
探ると石積みを発見。資料に書かれた様に「山石の割れ石を
ランダムに積み上げた感じで年代を特定できる特徴が無い」。
角度を選んだこの一枚は偶然にも調査資料に掲載された写真と
同アングルなので問題の遺構はここに間違いないが堆積物が多くて
礎石の類は確認できなかった。
周囲も開拓されたような平地。ここは高度630M位なので
三段の造りのトップが700Mというから一番の下段らしい。
N-36-27-43 E-138-56-41-5なので興味のある方は是非どうぞ。
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フットワークの良さにほとほと感心しています。見習いたいものです。
堂の入遺跡は、決定的なものが見つかっていないためか、その後はほとんど注目もされず、埋もれゆく途を辿っているようです。
メインの林道と脇の小道(堰堤工事のために造られたらしい)も、遺跡の範囲を削ったり埋めたりしているようです。
さらに、肝心の石垣の右側の屈曲した部分は、おそらく間伐作業のための車が入る道を造ったようで、
(実は私はそこから石垣部分に到達したのですが、貴兄も上記からすると同じようですね。)
よりによって、石垣部分を崩し、打ち捨てられた間伐材で覆われていますね。
なんだか、とても残念な気持ちになりました。
せめて案内標識でもあれば、随分違ってくるでしょうに。村がその気になれば、どうにでもなるでしょうにね。(この場所が村有林か組合林か民有林かはわかりませんが・・・)
私は最近、明治期の治水工事の「デレーケの堰堤」を見て廻っています。自害沢にも立派なものが残っているようなので、見に行きたいのですが、どの辺りなのか・・・。そのうち沢歩きをして探してみようと思っています。
何故に榛東村の指定史跡か文化財にならないのか良く分かりません。
想像するに地域が吉岡との境で全域を考えると
両行政区にまたがって取り扱いが曖昧になってしまったか?
或いは発掘の時に成り立ちや謂れを証明する
遺物が全く得られなくて判断が出来ずに
誰が何時何の目的で?の答えが出せないからか?
せめて証拠不十分だがとことわって案内看板ぐらいは出してもらいたい気分です。
「爺さん」に刺激を受け、無名な小さな史跡探訪をと思っていた矢先、昨年の地震で、山へ入るのをためらって1年を過ごしてしまいました。
今年の雪も大分融けてきたので、そろそろ榛名山麓の山歩きを再開しようと思っています。
さて「くたびれ爺さん」がご執心の「小野関三太夫」について、榛東村広場場に、地元では「三太夫公園」と呼ばれる所があるのですが、すでに「くたびれ爺さん」はご存知でしょうか?
全くの初耳です。三太夫氏は相馬村出身と
されて居ますが、相馬村自体が柏木村と
広馬場村の合体で今は榛東の一部ですから
氏の出身地に公園と相成ったわけですかね。
だが、公式記録には載っていないので
御教示願います。
ワタシも、そのものの存在自体は知っていましたが、三太夫氏のゆかりの場所だとは、つい最近知ったので、お知らせしてみた次第です。
「公園」と呼ぶのが適切かどうかわかりませんが、堀を廻らしてあり、たくさんの石碑が建てられています。(堀は裏手から渡れます。)
「ここは一体何?」と、チョット驚く造作です。
その場所(N36 25 43 E138 58 10)
は、榛東村広場場の「八ノ海道」信号を北西へ折れ、約500M位上って、横断歩道の標識のある小さな四つ角を右折すると、車線のないその道が100M位で左に自然にカーブします。そのあたりから右手の田圃の中に木が植えられ石碑が建立された「小さな塚」のように見えるところです。
三太夫氏の筆の碑から、戦後の福田赳夫氏の筆による平和祈念碑など、後から追加された石碑もあります。
観音像等はないかもしれません。三太夫氏の筆による碑「維新中興」の漢文は、読み解く素養はありませんが、日露戦争関連のようです。その他、三太夫氏のお孫さんが、別の場所にあった石碑の三太夫氏の和歌を記した碑など、いろいろありますので、よくご覧になってください。
ちなみに、その「公園」の裏側から、田圃をはさんで見える屋敷森を構えた養蚕農家つくりの家に三太夫氏のお孫さん(もう90歳に近いかと思われます)が住んでいます。(つまり三太夫氏の家です。)
また、すぐ近くの「大福院」という小さな寺院では、数十年前まで山伏姿で火渡りの行を行って見せていたと聞きました。
貴重な情報感謝します。
明日は甘楽方面に行くので雨上がりの
来週にでも訪問します。