![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/29/ae/a948e018f71b6784825d50a87557ad2a.jpg)
直ぐに向かい側の山道に入る。さっきは標高差が280mほどあつたが、
今回は100m一寸。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/47/25/22ced45bc1b68c0fa0714300cfac32a5.jpg)
登りつつ振り返って戸神山を見たらアレアレ三角の姿ではない。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/30/26/ad51b84fcfe2711e40c462ca7cda1716.jpg)
ところが更に登って見直すとちゃんと三角だった。さっきは三角部分が
稜線に隠れていたのだ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7c/26/0adfd445094221ef73b0be2281866d22.jpg)
道はきっちりとした木段で整備されているが傾斜は少々きつい。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/03/d7/5874e5cdba69ab74df32aa599bb26556.jpg)
やがて右に折れる角に道標、右に大きく迂回して西北・東南尾根に乗る。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1f/72/d6c2991824e999b2eeeab913fdf3e91a.jpg)
極く僅かで頂上が見えた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2c/88/dec5e4c32e19473b23acbfcbf557f522.jpg)
広場の様に切り開かれた場所は「GTV沼田発地中継局」と「NHK沼田発地
中継放送所」の設備が占領している。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/29/ae/a948e018f71b6784825d50a87557ad2a.jpg)
片隅に三角点、三等 點名・高尾 765.94m (11.52)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/40/c8/d113edb8a0f0cf63ece685409f5b4b80.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/42/2d/cd4131e50d0a31e84fe345c63e1ad598.jpg)
ここで思い出した。さっきの戸神では余りの展望の見事さに舞い上がって
しまつて金属四等三角点・宮ノ入 771.7mの写真を撮り忘れてしまったのだ。
ここの展望は南が開いているだけで戸神山とは大違い。子持山らしい。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/69/8e/e023337f08ddcc43dc6254fc09577eea.jpg)
北側には城址の説明板。戦国時代、発地氏の築城とされ、1581年に
沼田景義が本陣を構え沼田城の奪還を図ったと書いてあるが、此れだけ
ではさっぱり事情は掴めない。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3a/aa/3372195428d5e0ac6d5d816628f7beef.jpg)
休憩・昼食。僅かの花を巡って活動する蝶を追いかけたりした後、
下山にかかる。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/05/3c/405051224933f8ac4c97e69699e491b5.jpg)
林道に降り立つと下から車が一台、単独氏がこれから登山らしく支度中。
帰途にはさっきの稜線のぼり返しではなく、左の脇道に入って周回開始(12.29)。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/71/e9/35a16c36d148f9f457bf4f6a0bb11a62.jpg)
間もなくスポーツ広場への分岐、ここは直進しないと観音寺へは遠くなる。
道は相変わらず整備された遊歩道風で平坦か、やや下り気味。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0f/d0/39969ac83667358490f6ba9da04b284d.jpg)
間もなく丁字路、右に曲がって往路で見た第一の分岐を目指す。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/43/29/4786d4b25f84ce94af6ee5723724720f.jpg)
三叉分岐到着、このルートの道標は似ているので紛らわしいが、目標までの
距離が併記してあるので錯覚が避けられる。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/78/6c/5d7c1b0a9c1a065fe02a5ae23535ac54.jpg)
ここからは少しの間、往路を重複して歩くと、往路で記憶にある近道道標。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/55/33/9abde6286664f1281f0fdf63ce480879.jpg)
更に100mで再び分岐、直進は戸神山なので左折して下りに入る。
再び同タイプの道標、今度は観音寺近道と。確かに林間に薄い踏み跡が
確認できるがこっちは折角の遊歩道をお楽しみ中なので無視。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/31/b6/aeff10ab5617aabf109e62e4d72d39c6.jpg)
やがて前方に茶色の観音寺の屋根、遊歩道を離れて寺を訪問。(13.06)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1f/26/13bd00e9ae77e44e80a6636fccd02a49.jpg)
敷地は広く墓地も山手まで広がっている。正面に石像物が番人のように頑張っている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2d/85/e5441272bd0f97383ea9c23651e50630.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/26/1c/b182a0829ef32831c7532f38d7c03071.jpg)
古い「みちしるべ」、「左迦葉」はハッキリしているが「右地00道」で不明。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7e/e7/4f8cf38cc2fbe244984d041f34560216.jpg)
何かの台石だったのか?ぐるりと仏像が彫られている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/56/9c/4538c3e2f09be6975427c07a939699d6.jpg)
更に下には「朝日子供会」の労作らしい「石尊山案内図」の看板。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/07/2b/7589ac77fdde9ce69c3c625b3f023025.jpg)
道路からの分岐には案内道標があるが、この辺は細道が入り混んでいるから
往路に使ったら彼方此方と迷ってしまうかも。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/28/ea/2b4b1d2ee0dcd768e70fa572b785e291.jpg)
そして266線に戻ると丁度下発地バス停前。迦葉山行きの路線バス。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/71/b1/5bdcaae5498367b1d1985ee86f95ed5e.jpg)
駐車場所帰着は13.23。居合わせた地主さんに丁重に挨拶して帰路に付く。
序のことに、沼田城址というか、沼田公園に寄って行くつもり。
戸神山の三角点を見逃した埋め合わせに岡谷橋近くの四等・赤谷三角点を
探しに行ったが造成地に変わっていて空振り。
材木町の信号で右折して公園へ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/61/a3/2f3ce9f639306b1ea01f99b49508b6fb.jpg)
城址説明板を読んでから三角点探し。城址と言うからには戦国を匂わせる
何かを期待しても無理。この城は1681年に城主が改易され、名将・昌幸から100年余、
知将・信之が城主になって90年で消えている。その顛末は末尾の蛇足で。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/33/b9/072ff1c36f94edc712da2c109e4744b6.jpg)
目標物はテニスコートと野球場の間。大きな「寿楽園碑」や東屋のある築山に
あった。三等 點名・沼田 417.3m。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/11/7a/a0c41f6785725068ac8cb78c5f8ab578.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/60/f6/5f21445f2e9465467a28c2eb5c4119a8.jpg)
予定の行程を無事に終了、何やら聞きなれない脇道をぐるぐる回ってR-17に
復帰して往路と同じ路線で帰宅。往復走行距離約100K。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5f/06/91e9cc46d15654068f764dde55487920.jpg)
蛇足・其の一 高王山に纏わる沼田景義の事。
沼田城は1532年に「万鬼斎」と号した沼田顕泰によって築かれたが、この万鬼斎殿、
追川村の娘を側室とし「湯のみ」と名付ける。白根温泉で拾った女だからこんな名か?
その側室の子が「景義」さん、そして側室の兄も士分に取立てられて「金子泰清」。
そこでお定まりの家督争い勃発、側室と泰清が四男の景義を沼田城主にと画策。
其の頃、長男・二男が相次いで亡くなり三男の朝憲が家督継承、顕泰は景義を連れて
川場村に隠棲。城に残った金子泰清は朝憲奥と重臣が密通していると顕泰に密告、
顕泰と謀つて1569年に城主・朝憲を謀殺して景義を城主にしようとする。
所が親戚筋が北条の助けを借りて反撃、顕泰・湯のみ・景義は同族の芦名を頼つて
会津に逃れるが、この地で顕泰・湯のみ没。再び関東に戻って今度は大田・金山城に
身を寄せ由良氏の重臣の娘を娶り、由良氏や系列の諸豪族の応援で1581年に沼田城
奪還の旗を揚げた。その拠点が高王山なのだ。
その後の話を付け加えれば、この騒動は直ちに松代の真田昌幸に伝わり、昌幸は
得意の諜略を駆使する。つまり、金子泰清に対して景義を謀殺すれば川西領を与えるという
偽の書状を渡す。愚かにも此れを信じた泰清は沼田城内に景義をおびき寄せて殺害。
ここに鎌倉以来の名門・沼田氏が滅亡した。尤もこの謀略と運でのし上がった金子氏も
後に昌幸に謀られて減封され失意のうちに病死している。
蛇足其の弐 沼田城廃城の事
一方、松代藩の分地となっていた沼田藩は1658年に松代藩のお家騒動に巻き込まれる。
つまり、信政没後の跡目を沼田三万石の信直と信政六男の信房の争い。結局、松代の
跡目は信房に、信直は分地を脱して沼田城主で一旦落ち着いたが、信直が幕府に訴訟して
再燃。結果は1681年、将軍は綱吉で大老は堀田正俊の時代に両国橋普請の不正で
言いがかりを付けられ、糾問10ヶ条を突きつけられて領地没収の上、改易となる。
10ヶ条を見ると農地・農民関係の不手際が多い。丁度この頃、有名な沼田の
「義民・磔茂左衛門」直訴事件の起きた年であるから其の関連かも。
以上は諸資料からの完全なパクリ情報。
ご来訪のついでに下のバナーをポチッと。
今回は100m一寸。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/47/25/22ced45bc1b68c0fa0714300cfac32a5.jpg)
登りつつ振り返って戸神山を見たらアレアレ三角の姿ではない。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/30/26/ad51b84fcfe2711e40c462ca7cda1716.jpg)
ところが更に登って見直すとちゃんと三角だった。さっきは三角部分が
稜線に隠れていたのだ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7c/26/0adfd445094221ef73b0be2281866d22.jpg)
道はきっちりとした木段で整備されているが傾斜は少々きつい。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/03/d7/5874e5cdba69ab74df32aa599bb26556.jpg)
やがて右に折れる角に道標、右に大きく迂回して西北・東南尾根に乗る。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1f/72/d6c2991824e999b2eeeab913fdf3e91a.jpg)
極く僅かで頂上が見えた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2c/88/dec5e4c32e19473b23acbfcbf557f522.jpg)
広場の様に切り開かれた場所は「GTV沼田発地中継局」と「NHK沼田発地
中継放送所」の設備が占領している。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/29/ae/a948e018f71b6784825d50a87557ad2a.jpg)
片隅に三角点、三等 點名・高尾 765.94m (11.52)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/40/c8/d113edb8a0f0cf63ece685409f5b4b80.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/42/2d/cd4131e50d0a31e84fe345c63e1ad598.jpg)
ここで思い出した。さっきの戸神では余りの展望の見事さに舞い上がって
しまつて金属四等三角点・宮ノ入 771.7mの写真を撮り忘れてしまったのだ。
ここの展望は南が開いているだけで戸神山とは大違い。子持山らしい。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/69/8e/e023337f08ddcc43dc6254fc09577eea.jpg)
北側には城址の説明板。戦国時代、発地氏の築城とされ、1581年に
沼田景義が本陣を構え沼田城の奪還を図ったと書いてあるが、此れだけ
ではさっぱり事情は掴めない。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3a/aa/3372195428d5e0ac6d5d816628f7beef.jpg)
休憩・昼食。僅かの花を巡って活動する蝶を追いかけたりした後、
下山にかかる。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/05/3c/405051224933f8ac4c97e69699e491b5.jpg)
林道に降り立つと下から車が一台、単独氏がこれから登山らしく支度中。
帰途にはさっきの稜線のぼり返しではなく、左の脇道に入って周回開始(12.29)。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/71/e9/35a16c36d148f9f457bf4f6a0bb11a62.jpg)
間もなくスポーツ広場への分岐、ここは直進しないと観音寺へは遠くなる。
道は相変わらず整備された遊歩道風で平坦か、やや下り気味。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0f/d0/39969ac83667358490f6ba9da04b284d.jpg)
間もなく丁字路、右に曲がって往路で見た第一の分岐を目指す。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/43/29/4786d4b25f84ce94af6ee5723724720f.jpg)
三叉分岐到着、このルートの道標は似ているので紛らわしいが、目標までの
距離が併記してあるので錯覚が避けられる。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/78/6c/5d7c1b0a9c1a065fe02a5ae23535ac54.jpg)
ここからは少しの間、往路を重複して歩くと、往路で記憶にある近道道標。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/55/33/9abde6286664f1281f0fdf63ce480879.jpg)
更に100mで再び分岐、直進は戸神山なので左折して下りに入る。
再び同タイプの道標、今度は観音寺近道と。確かに林間に薄い踏み跡が
確認できるがこっちは折角の遊歩道をお楽しみ中なので無視。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/31/b6/aeff10ab5617aabf109e62e4d72d39c6.jpg)
やがて前方に茶色の観音寺の屋根、遊歩道を離れて寺を訪問。(13.06)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1f/26/13bd00e9ae77e44e80a6636fccd02a49.jpg)
敷地は広く墓地も山手まで広がっている。正面に石像物が番人のように頑張っている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2d/85/e5441272bd0f97383ea9c23651e50630.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/26/1c/b182a0829ef32831c7532f38d7c03071.jpg)
古い「みちしるべ」、「左迦葉」はハッキリしているが「右地00道」で不明。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7e/e7/4f8cf38cc2fbe244984d041f34560216.jpg)
何かの台石だったのか?ぐるりと仏像が彫られている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/56/9c/4538c3e2f09be6975427c07a939699d6.jpg)
更に下には「朝日子供会」の労作らしい「石尊山案内図」の看板。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/07/2b/7589ac77fdde9ce69c3c625b3f023025.jpg)
道路からの分岐には案内道標があるが、この辺は細道が入り混んでいるから
往路に使ったら彼方此方と迷ってしまうかも。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/28/ea/2b4b1d2ee0dcd768e70fa572b785e291.jpg)
そして266線に戻ると丁度下発地バス停前。迦葉山行きの路線バス。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/71/b1/5bdcaae5498367b1d1985ee86f95ed5e.jpg)
駐車場所帰着は13.23。居合わせた地主さんに丁重に挨拶して帰路に付く。
序のことに、沼田城址というか、沼田公園に寄って行くつもり。
戸神山の三角点を見逃した埋め合わせに岡谷橋近くの四等・赤谷三角点を
探しに行ったが造成地に変わっていて空振り。
材木町の信号で右折して公園へ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/61/a3/2f3ce9f639306b1ea01f99b49508b6fb.jpg)
城址説明板を読んでから三角点探し。城址と言うからには戦国を匂わせる
何かを期待しても無理。この城は1681年に城主が改易され、名将・昌幸から100年余、
知将・信之が城主になって90年で消えている。その顛末は末尾の蛇足で。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/33/b9/072ff1c36f94edc712da2c109e4744b6.jpg)
目標物はテニスコートと野球場の間。大きな「寿楽園碑」や東屋のある築山に
あった。三等 點名・沼田 417.3m。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/11/7a/a0c41f6785725068ac8cb78c5f8ab578.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/60/f6/5f21445f2e9465467a28c2eb5c4119a8.jpg)
予定の行程を無事に終了、何やら聞きなれない脇道をぐるぐる回ってR-17に
復帰して往路と同じ路線で帰宅。往復走行距離約100K。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5f/06/91e9cc46d15654068f764dde55487920.jpg)
蛇足・其の一 高王山に纏わる沼田景義の事。
沼田城は1532年に「万鬼斎」と号した沼田顕泰によって築かれたが、この万鬼斎殿、
追川村の娘を側室とし「湯のみ」と名付ける。白根温泉で拾った女だからこんな名か?
その側室の子が「景義」さん、そして側室の兄も士分に取立てられて「金子泰清」。
そこでお定まりの家督争い勃発、側室と泰清が四男の景義を沼田城主にと画策。
其の頃、長男・二男が相次いで亡くなり三男の朝憲が家督継承、顕泰は景義を連れて
川場村に隠棲。城に残った金子泰清は朝憲奥と重臣が密通していると顕泰に密告、
顕泰と謀つて1569年に城主・朝憲を謀殺して景義を城主にしようとする。
所が親戚筋が北条の助けを借りて反撃、顕泰・湯のみ・景義は同族の芦名を頼つて
会津に逃れるが、この地で顕泰・湯のみ没。再び関東に戻って今度は大田・金山城に
身を寄せ由良氏の重臣の娘を娶り、由良氏や系列の諸豪族の応援で1581年に沼田城
奪還の旗を揚げた。その拠点が高王山なのだ。
その後の話を付け加えれば、この騒動は直ちに松代の真田昌幸に伝わり、昌幸は
得意の諜略を駆使する。つまり、金子泰清に対して景義を謀殺すれば川西領を与えるという
偽の書状を渡す。愚かにも此れを信じた泰清は沼田城内に景義をおびき寄せて殺害。
ここに鎌倉以来の名門・沼田氏が滅亡した。尤もこの謀略と運でのし上がった金子氏も
後に昌幸に謀られて減封され失意のうちに病死している。
蛇足其の弐 沼田城廃城の事
一方、松代藩の分地となっていた沼田藩は1658年に松代藩のお家騒動に巻き込まれる。
つまり、信政没後の跡目を沼田三万石の信直と信政六男の信房の争い。結局、松代の
跡目は信房に、信直は分地を脱して沼田城主で一旦落ち着いたが、信直が幕府に訴訟して
再燃。結果は1681年、将軍は綱吉で大老は堀田正俊の時代に両国橋普請の不正で
言いがかりを付けられ、糾問10ヶ条を突きつけられて領地没収の上、改易となる。
10ヶ条を見ると農地・農民関係の不手際が多い。丁度この頃、有名な沼田の
「義民・磔茂左衛門」直訴事件の起きた年であるから其の関連かも。
以上は諸資料からの完全なパクリ情報。
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