クタビレ爺イの山日記

諸先達の記録などを後追いして高崎近辺の低山中心に歩いています。

「南総里見八犬伝と群馬」展示会 H-30-12- 9

2018-12-10 05:58:58 | 伝説・史跡探訪
高崎市保渡田町の「上毛野はにわの里公園」にある土屋文明記念文学館で
「ジュサブロー人形展」が開催されていて明日が最終日と聞いたので一寸覗き見。
題材は「南総里見八犬伝」だと云う。辻村寿三郎氏は爺イと同年の1933年生まれ
全464話に及ぶNHK総合テレビ人形劇『新八犬伝』(1973-1975)を担当して
一躍、第一線に躍り出た作家。例によって文化的な香りのしない爺イは
その作品の実物を見たことがないからそろそろ冥途の土産の準備。

何故に今頃群馬で南総伝?と訝ったが一つ思い当たることがある。それは
二か月ぐらい前にこの物語のご当地・千葉県にある
「里見氏大河ドラマ化実行委員会」が南房総市・館山市・鳥取倉吉市などの
関連市町村と一緒にNHKに大河ドラマへの採用依頼をしたと報じられた
記憶がある。ところがその同席メンバーに里見氏発祥の高崎関係者は
居なかった。確かに主題が江戸時代後期に曲亭馬琴によって著わされた
大長編読本・南総里見八犬伝(1814-1842 全98巻、106冊 )であり、
里見を捨てた第十一代義実から始まっているのだからオミットも仕方ないが
今回は全国的に喧伝して採用運動の一助にしようとするのだろう。

里見氏の発祥の源は爺イ御贔屓の新田義重に始まる。爺イはこのへそ曲がり
爺イの義重が大好きでかってこのブログにこんな戯れ記事を書いたことも有る。

さて、初めに源氏系図から新田氏の主だったところを抽出すると下記。
河内源氏の棟梁の源義家の三男源義国は下野国足利荘を本拠として
いたが、足利荘は義国の次子である足利義康が継いで足利氏を名乗り、
長子の新田義重は河内源氏重代の拠点である摂関家領上野国八幡荘を
継承、新田氏を称し、新田荘と八幡荘を中心に息子たちを配して
支配体制を確立する。
1180年源頼朝・源義仲らの挙兵に際しては上野国八幡荘寺尾城に入り
兵を集めながら事態を静観。平家との合戦や奥州合戦にも参陣したとの
記録がなく、1221年の承久の乱においても代官として庶家の世良田氏が
参陣している。勿論、一族の甥・足利義兼や子・山名義範、孫・里見義成
など、鎌倉を本拠とした頼朝のもとへ参じて挙兵に加わるもの
もあったが、義重自身は参陣の要請を無視静観だった。
これらの経緯により、鎌倉に東国政権として成立した鎌倉幕府において、
新田氏本宗家の地位は低いものとなった。新田氏本宗家は頼朝から御門葉と
認められず、公式の場での源姓を称することが許されず、官位も比較的低く
、受領官に推挙されることもなかった。但し早期に頼朝の下に参陣した
山名氏と里見氏はそれぞれ独立した御家人とされ、新田氏本宗家の支配から
独立して行動するようになる。
そのため、新田氏本宗家は、足利氏惣領の庇護下に入ることになり
足利氏惣領の通字であった「氏」を名前に入れている。これは新田氏本宗家は
足利氏惣領を烏帽子親として元服し、「氏」の偏諱を与えられたことであり
足利氏惣領で「氏」を用いなかった足利高義の時代に元服したとみられる
8代新田義貞の名に「氏」ではなく「義」の字が入っている。

新田氏歴代棟梁
清和天皇
 :(6代隔)
源義国
 ┣━━━━┳━━━┓
新田義重 足利義康 義房(季邦)
 ┣━━━┳━━━━┳━━━━━━┳━━
 義兼 里見義俊 山名義範 世良田義季 
 ┣━
 義房          
 ┣━
 政義   
 ┣━
 政氏 
 ┣━
 基氏 
 ┣━
 朝氏 
 ┣━━━┓
 義貞 脇屋義助
義俊・義範は異母兄のため、三男・義兼が二代目惣領。

前置きが長くなるが昔語りになると爺イは止まらなくなるので乞う・暫しの我慢。
肝心の里見氏の系図の抜粋は下記。
里見氏は新田義重の庶長子・新田義俊(里見太郎)を初代とする。
里見の名は新田義俊が上野国碓氷郡里見郷(高崎市里見)に移り、
その地の名を苗字としたことに発する。
里見義俊の居館であったと伝えられる里見城跡は下里見町字古城に建てられた
並郭式の山城跡だが第11代城主義実が1441年に房州へ移り廃城になるまで
の260年余りの間里見氏の居城。
上野国碓氷郡里見郷を拠点に長い間活動していた里見一族は
全国各地に広がり、里見義実が安房国に登場したことで
房総里見氏が始まる。
その後房総の覇権をめぐって戦国乱世をくぐり抜け関東では最大の
外様大名に成長していったが第十代忠義が大久保忠隣の孫娘を室に
迎えたのが仇で忠隣の失脚で、伯耆国(倉吉市)に配流されてしまい、
八年後に死去、継嗣なきため里見氏の歴史は終わる。

 新田義重(源義家の孫)
  ┃
里見義俊(義重の庶長子・里見氏の祖)1137-1170
  ┣━
  義成(頼朝挙兵の際に京都から馳せ参じ、重用される)1157-1234
  ┣
  義基 
  ┣
  義秀 
  ┣
  忠義(義貞は忠義の子で里見小五郎、新田宗家へ養子の説あり) 
  ┃
  義胤(新田義貞の鎌倉攻めに従軍)
  ┃
  義連
  ┣
  基義 
  ┣
  家兼(鎌倉公方足利満兼輩下常陸小原城主、永享の乱で自害) 
  ┣
  家基(足利持氏輩下、結城合戦に参陣して討ち死) 
  ┃
  義実(結城敗戦から安房に逃れ安房里見氏の祖、
  (美濃里見氏の出身の説あり)1417-1488

2014年には南総里見八犬伝出版から200年、里見氏倉吉での終焉から
400年と云う事で関係地域で八犬伝が盛り上がっている。但し、発祥の
高崎では「南総時代」とズレがあるので在るのは城址のみで寂しいが
大河採用には一役買う位の夢があって欲しい。


影の薄い高崎の里見氏に比べると「八犬伝」の本拠各地の入れ込み方は
「半端ない」のに驚くしNHK大河へのご執心も頷ける。

1.富山とみやま・「伏姫籠窟」(千葉県南房総市)。『八犬伝』の普及に
つれて、もともと山中にあった洞窟が「伏姫の洞窟」と結びつけられた。

2.伏姫公園(千葉県南房総市市部)富山最寄りの岩井駅前にあり、
「伏姫と八房」の銅像。

3.八房公園(千葉県南房総市犬掛)八房の生誕地、「八房と狸の像」

4.滝田城(千葉県南房総市上滝田) 作中で里見義実の居城、伏姫と
八房のブロンズ像。

5.館山城(千葉県館山市) 史実の里見家(館山藩)が16世紀末に
築城した館山城の城跡。城山公園。模擬天守は
館山市立博物館分館で浮世絵などの八犬伝関連の資料を収集。

6.伏姫桜(千葉県市川市) 真間山弘法寺にある樹齢400年の枝垂桜、
『八犬伝』に因み「伏姫桜」。

7.大岳院(鳥取県倉吉市) 里見氏終焉の地。里見忠義と八賢士の墓所

8.南総里見まつり(千葉県館山市) 毎年10月に開催。

9.せきがね里見まつり(鳥取県倉吉市) 9月開催。里見忠義主従の鎮魂。

10.倉吉里見時代行列(鳥取県倉吉市) 9月開催。里見忠義と八賢士の法要、
仮装行列。

うっかり忘れそうだったが本日見たものはこれ。ガラス越しの写真で
失敗が多かったが生き残りを幾つか。

南総八犬伝


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