クタビレ爺イの山日記

諸先達の記録などを後追いして高崎近辺の低山中心に歩いています。

諸説紛々長野氏伝承 H-18-7-25

2006-07-25 18:27:59 | 伝説・史跡探訪
昼近くなってから突然陽が射して来た。オィオィこんな予報は聞いてないよ、
と口ではブツブツ言いながら手の方はさっさと山行きの着替えに掛っている。
予定はすっかり癖になった伝説の確めだ。
切っ掛けは某氏のHPで「箕輪城陥落は永禄9年と云うのは間違いで永禄6年
が正しい」と断言しているのを読んだから。爺イの常識は永禄9年、理由は
司馬遼太郎がその様に書いているからと、いとも単純明快。事実、多くの
表示がそうなっているから疑ったことなどはない。
早速、図書館へ。先ず古いものからと明治・大正の群馬郡誌を見て吃驚、
何と永禄6年と書いてある上に藤鶴姫は「業政夫人」とあった。此れには
参ったと今度は昭和五十年の「倉渕村誌」を見ると「箕輪落城は永禄6年と
9年のニ説あり、藤鶴姫も業政夫人・業盛(業政次男)夫人のニ説あり」
との事で何となくほっとする。

(1)藤鶴姫の墓
406号線で倉渕に向う。湯殿山トンネルから4.7K西進して「高野谷戸」
地区に入る。この地名の読み方は「こうやがいと」という難しさ。大きく
右に湾曲して前方に新井建設の看板が見えるところに国道から佐藤家墓地へ
通ずる階段がある。墓地の一隅に目当ての史跡発見。説明無ければ分から
ない無銘の石だった。


ここの有志の立てた説明板は永禄6年説で業盛夫人のものとしている。箕輪城
陥落の前日、当時の城主・業盛の妻は佐藤某・土屋某と共に城を抜け出たが、
味方を追手と間違って、この地で自害、両名ここに葬り遺品は土屋家に伝承
されているとのこと。他説では業政夫人ともあるが、一説による晴信が捕ら
えて自分の妾にし様としたので自刃した、或いはそれを断ったので成敗され
た等、諸説紛紛。墓地の佐藤家もこのときの縁なのかな?

(2) 鷹留城址見物
箕輪城の支城であつた鷹留城は長野一族の一門が直轄した有力支城で、業政
の祖父・尚業により築城され、その子・憲業が箕輪城に移るまでは主城で
あった。武田に攻められた当時の城将は長野業通、武田勢の猛攻を受け奮戦
空しく箕輪城陥落の数日前に引き上げている。
406号線を室田信号に戻り、榛名町交番に駐車させてもらって城址に
向かう。(12.50)
交番脇の細道を北に向うがこの地区は例の木曾義高墓地の近くであり、周辺
全て清水さんの所。直ぐ近くと思ったがこれが結構な登山になってしまった。
林道は延々と伸びるが周囲は梅林なので作業道が多く分かれていて不安になる。
じっと堪えて大きな分岐を右に進む。(13.38)

更に進んで送電線を潜った先に漸く大手口の表示柱(13.44)。

ここからは本格山道になるが途中に句碑などがあり何となく雰囲気が出てくる。

やがて分岐を右に上がると城址着(13.50)

但し手入れがされていないので一面夏草が茫々、何本もの堀切、横堀、土塁を
探しまわって漸く主郭。簡単な説明板があるがここでは落城を永禄九年と
している。


ニ郭に大きな墓石が見えたが何と「清水一郎」氏のもの。ここは元県知事の
私有地かな?それに一郎氏の家系も木曾義高・清水冠者の末裔なのか?

城址はあれていたので早々に帰路に付き、交番着は(14.30)

(3)長年寺・長野氏歴代の墓
先日石像を見に来た長年寺を再び訪問(14.46)。本堂の左手に長野氏
歴代の墓がある。

長野氏初期の鷹留城を控えての菩提寺だそうな。
長野氏は信仰が厚かった様でこのような歴代の墓と称するものが数カ所ある。
ここも永禄九年説。
序での事に伝説の井戸も見てきたが謂れが書いてないので意味不明。
後日調査しよう。
追記・伝説によるとこの井戸は榛名湖に通じているものとか。中世以降の
神仏混合により榛名神社は「満行権現」と言われたし、長野氏が満行権現への
信仰が厚かったというので、その辺りが出所か。



(4)浜川・来迎寺訪問
帰り道でやはり長野氏歴代の墓のある来迎寺に寄ったが、夏草に覆われ手入れ
がされていなかった。

今度の機会があったら本拠の箕輪城址を一回りしてこよう。落城年月はやはり
九年説が有力と感じた。

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3 コメント

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長野業政は民衆政治だったとか・・・ (インレッド)
2006-07-27 22:12:49
民衆政治をモットーにしていた、業政は信玄のような野望は無かったようです。関東管領の上杉氏が領地を捨てて、さっさと越後に逃げていった後も、忠誠を尽くした長野氏は自分の勧める民衆政治でこのあたりを納めていて、領民にも信望があったようです。信玄が何度も攻めてきても堕ちなかった箕輪城は信玄のように野望のあった小幡氏が裏切らなかったら堕ちなかったと思います。このときに上杉謙信が助勢に来なかったのが私には不思議でなりません。僅か2000の兵で良く戦ったと思います。また家来の上泉伊勢守も立派な武士でした。
返信する
Unknown (爺イ)
2006-07-28 07:56:35
長野氏は十三世紀半ばに六代将軍・宗尊親王に付き添って鎌倉に移住した上杉氏に随行し、長野の地名から長野氏を称したとの話がありますが、本当でしょうか?

若しも、上杉憲政があれほどの愚者でなく、管領・謙信が上洛ばかり考えず、業政がもっと早く男子に恵まれていたら(後継・業盛は50才過ぎてからの子)永禄九年の歴史は変わっていたかも。

箕輪城守将の一人、後の剣聖・上泉伊勢守の「生きる為に闘え」の言葉通り落城時に多くの人材が生き残って武田の臣として活躍したと聞いているし、一族殲滅とは言われるものの、幕末の長野主膳はこの末裔と言う事でほっとする。今、長野氏善政の証の一つ、長野堰は我が家の近くを流れている。

返信する
インレッドさんへ (爺イ)
2007-05-15 17:36:12
鄙にも稀な優れ本

今日、図書館で珍しい本を発見。倉賀野在住の高橋明氏が
昭和48に上毛新聞から発行した「小説 箕輪城興亡史」。
松井田城主・望月兵左衛門三代の目を通して長野氏の
民衆政治の何たるかを語りながら1478年の山内憲定の
平井城増築に始り1566年の長野業盛滅亡まで、動乱の
西上州を克明に描いています。
山内上杉・扇ヶ谷上杉・越後上杉、安中忠親・忠清兄弟、
小幡憲重・信貞と景貞、北条早雲・氏綱・氏康、
武田信虎・信玄・勝頼、長野信業・業政・業盛など歴史の
人気者達が紙面を賑わす。当然の事ながら巷間に知られた
幸隆と長野氏の絡み、後北条の策略に乗せられた景貞と
信貞の確執、関東管領家の位置付け、お菊事件等の説話も
折り込まれ、特に藤鶴姫に関しては業政・業盛・信玄・信貞
との因縁が説話タッチで克明に綴られており、藤鶴姫の墓所を
尋ねた事もある小生としては非常に興味深く読み込みました。
                H-19-5-15
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