「嵩」の字は「タケ」と読ませるものの「タケ」「カ」では漢字変換が出来なく、「カサ」でなくては駄目と言う不思議な文字である。
嵩山は、縄文時代の遺跡があるように昔から信仰の山であつた。古代では祖霊の山、中世では「和利明神」として崇められて来た。しかし、何と言っても決定的なのは「嵩山合戦」の悲劇を伝える場所となり、元禄年間に(1702年)全山に観音像が建設され、さらなる信仰の地となったとのことである。
この山城は戦国時代には岩櫃城の出城であつた。岩櫃城は当時、斎藤一族の居城であり上州最大の城郭であり、後に甲斐の岩殿城、駿河の久能城と共に武田三大名城と言われたくらいである。1560年代、真田幸隆と斎藤氏は激しい攻防を続け、1563年に斎藤憲広・憲宗親子が岩櫃城を追われ、越後に逃れたあと、憲広末子の「城虎丸」が家臣に擁され、この嵩山に立て篭もる。
1565年、憲広は再度反撃に出て岩櫃城を攻めるが、策謀に長けた幸隆は憲広と和睦し、重臣を調略して軍勢を引き上げさせ、その後に嵩山を総攻撃した。上杉の支援も得られず城虎丸は嵩山大天狗の岩から投身自決し、将兵全てが自決した。その後、信玄は幸隆を吾妻郡守護とするが、1574年に幸隆が病死した後は嫡子・信綱が、長篠で信綱と次男・昌輝が戦死すると三男・昌幸が吾妻を治める。
昌幸は嫡子・信幸を後継として吾妻を治めさせ、次男・幸村も少年時代を岩櫃で過ごしている。勝頼の末期、昌幸は岩櫃城に武田を迎えようとするが失敗、勝頼は天目山で虐殺される。昌幸は真田の保持に奔走し織田・北条・徳川・上杉・豊臣と主君を渡り歩くことになる。1590年、北条の滅亡で信幸は沼田城主となり徳川に仕え、幸村は秀吉の大阪に出仕する。岩櫃は沼田の支城となるが、1600年の関が原では昌幸は幸村と共に上田城で秀忠の大軍を食いとめ遅参せしめるが西軍の敗戦で流罪となり、昌幸は現地で死亡、幸村は1615年の大阪城の攻防で戦死している。信幸は家名を保つが、1615年に家康の発した一国一城令によって岩櫃城は嵩山共々その城の歴史を閉じた。
嵩山の手前にある「親都(チカト)神社」には、県内第二位の巨木と言われる「大ケヤキ」があるが、その他にも多くの巨木があって森を形成している。その昔、この地には「和利明神」があった。この地にいたとされる「加若次郎和利(カワカジロウカズトシ)」を奉っていたらしい。因みに和利夫人の子持御前は、子持神社に奉られている。その後、社殿の火災焼失を機に和利宮は、現在の中之条・伊勢町に移され、吾妻神社として里宮となっている。和利宮の移転で氏神を失った五反田地区の住民が改めて親都神社を迎えて氏神としたと言われる。亡くなった人の魂が山頂にあると信じられてきた嵩山は霊峰として今も人々を引き付けている。親都(チカト)とは、嘗て嵩山城の城下町として「チカト千軒」と言われるほど賑わったことに由来する。
吾妻関連の山へ行くには吾妻川を何処で渡るかが気になるところである。例えば高山側から子持山とか小野子山・中岳・十二ヶ岳に行こうとするときは、広域農道で明保野信号を直進し、国立西群馬病院の金井三叉路で右折し、北群馬橋を渡って渋川・新治線に入り中山峠を越えなくてはならない。
吾妻側からの小野子・中岳・十二ヶ岳とか岩井洞は少なくとも小野上駅より渋川寄りで国道353号にいたいので小野上対岸の「中央橋」を渡ることになる。瀧峨山・岩櫃山の場合は、日陰道でそのまま東橋を渡って群馬原町の大ケヤキ信号に出れば丁度良い。しかし、この嵩山は中之条の北であるから、早目に353線に出るために中央橋でも良し、次ぎの船渡大橋で「市城」の手前から入っても良い。
中之条の町に入る手前で沼田から来る県道145号が合流し、駅を通過すると右の四万・草津方面が353号、左長野原方面が145号と分かれるので353号で市街地に入る。暫くで中之条町役場・美野原C.Cへの看板に従って右折し直進すると、左に親都神社、その向かいにふるさと公園駐車場がある。
東西に登山口があるが、西の表登山口から入る。鳥居を潜って整備万全のジグザク登山道を行くと、直ぐに休み石がある。さらに登ると平らな天狗の広場につき、道標を見て先ず左の小天狗・不動岩にいく。小天狗は展望も良く丁度良い岩場もあって良い写真が撮れる。不動岩は鎖に注意。広場に戻って反対の中天狗から石仏の並ぶ御所の平を経て、経塚に至る。ここから左に行くと吾郎岩や烏帽子岩があるが、右手に行って10㍍の鎖につかまって岩尾根を登ると大天狗に出て、もう一つ3㍍の鎖で大岩の頂上になる。ここが斎藤氏滅亡の断崖であるため、登山者が集中する。手前の10㍍鎖では休日などは順番待ちの行列で鎖で下ってくる人に対して俄かコーチの注意や野次が飛ぶ。
帰りは経塚から東コースに向かう。骨穴・弥ろく穴・一升水・休み石を経て二股三叉路を通って登山口につく。園内に蕎麦屋があった。
大天狗に登る
中天狗標識前で
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嵩山は、縄文時代の遺跡があるように昔から信仰の山であつた。古代では祖霊の山、中世では「和利明神」として崇められて来た。しかし、何と言っても決定的なのは「嵩山合戦」の悲劇を伝える場所となり、元禄年間に(1702年)全山に観音像が建設され、さらなる信仰の地となったとのことである。
この山城は戦国時代には岩櫃城の出城であつた。岩櫃城は当時、斎藤一族の居城であり上州最大の城郭であり、後に甲斐の岩殿城、駿河の久能城と共に武田三大名城と言われたくらいである。1560年代、真田幸隆と斎藤氏は激しい攻防を続け、1563年に斎藤憲広・憲宗親子が岩櫃城を追われ、越後に逃れたあと、憲広末子の「城虎丸」が家臣に擁され、この嵩山に立て篭もる。
1565年、憲広は再度反撃に出て岩櫃城を攻めるが、策謀に長けた幸隆は憲広と和睦し、重臣を調略して軍勢を引き上げさせ、その後に嵩山を総攻撃した。上杉の支援も得られず城虎丸は嵩山大天狗の岩から投身自決し、将兵全てが自決した。その後、信玄は幸隆を吾妻郡守護とするが、1574年に幸隆が病死した後は嫡子・信綱が、長篠で信綱と次男・昌輝が戦死すると三男・昌幸が吾妻を治める。
昌幸は嫡子・信幸を後継として吾妻を治めさせ、次男・幸村も少年時代を岩櫃で過ごしている。勝頼の末期、昌幸は岩櫃城に武田を迎えようとするが失敗、勝頼は天目山で虐殺される。昌幸は真田の保持に奔走し織田・北条・徳川・上杉・豊臣と主君を渡り歩くことになる。1590年、北条の滅亡で信幸は沼田城主となり徳川に仕え、幸村は秀吉の大阪に出仕する。岩櫃は沼田の支城となるが、1600年の関が原では昌幸は幸村と共に上田城で秀忠の大軍を食いとめ遅参せしめるが西軍の敗戦で流罪となり、昌幸は現地で死亡、幸村は1615年の大阪城の攻防で戦死している。信幸は家名を保つが、1615年に家康の発した一国一城令によって岩櫃城は嵩山共々その城の歴史を閉じた。
嵩山の手前にある「親都(チカト)神社」には、県内第二位の巨木と言われる「大ケヤキ」があるが、その他にも多くの巨木があって森を形成している。その昔、この地には「和利明神」があった。この地にいたとされる「加若次郎和利(カワカジロウカズトシ)」を奉っていたらしい。因みに和利夫人の子持御前は、子持神社に奉られている。その後、社殿の火災焼失を機に和利宮は、現在の中之条・伊勢町に移され、吾妻神社として里宮となっている。和利宮の移転で氏神を失った五反田地区の住民が改めて親都神社を迎えて氏神としたと言われる。亡くなった人の魂が山頂にあると信じられてきた嵩山は霊峰として今も人々を引き付けている。親都(チカト)とは、嘗て嵩山城の城下町として「チカト千軒」と言われるほど賑わったことに由来する。
吾妻関連の山へ行くには吾妻川を何処で渡るかが気になるところである。例えば高山側から子持山とか小野子山・中岳・十二ヶ岳に行こうとするときは、広域農道で明保野信号を直進し、国立西群馬病院の金井三叉路で右折し、北群馬橋を渡って渋川・新治線に入り中山峠を越えなくてはならない。
吾妻側からの小野子・中岳・十二ヶ岳とか岩井洞は少なくとも小野上駅より渋川寄りで国道353号にいたいので小野上対岸の「中央橋」を渡ることになる。瀧峨山・岩櫃山の場合は、日陰道でそのまま東橋を渡って群馬原町の大ケヤキ信号に出れば丁度良い。しかし、この嵩山は中之条の北であるから、早目に353線に出るために中央橋でも良し、次ぎの船渡大橋で「市城」の手前から入っても良い。
中之条の町に入る手前で沼田から来る県道145号が合流し、駅を通過すると右の四万・草津方面が353号、左長野原方面が145号と分かれるので353号で市街地に入る。暫くで中之条町役場・美野原C.Cへの看板に従って右折し直進すると、左に親都神社、その向かいにふるさと公園駐車場がある。
東西に登山口があるが、西の表登山口から入る。鳥居を潜って整備万全のジグザク登山道を行くと、直ぐに休み石がある。さらに登ると平らな天狗の広場につき、道標を見て先ず左の小天狗・不動岩にいく。小天狗は展望も良く丁度良い岩場もあって良い写真が撮れる。不動岩は鎖に注意。広場に戻って反対の中天狗から石仏の並ぶ御所の平を経て、経塚に至る。ここから左に行くと吾郎岩や烏帽子岩があるが、右手に行って10㍍の鎖につかまって岩尾根を登ると大天狗に出て、もう一つ3㍍の鎖で大岩の頂上になる。ここが斎藤氏滅亡の断崖であるため、登山者が集中する。手前の10㍍鎖では休日などは順番待ちの行列で鎖で下ってくる人に対して俄かコーチの注意や野次が飛ぶ。
帰りは経塚から東コースに向かう。骨穴・弥ろく穴・一升水・休み石を経て二股三叉路を通って登山口につく。園内に蕎麦屋があった。
大天狗に登る
中天狗標識前で
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