汽水空間 ~言葉と次元の力学系へ~

身体で体感する言葉の世界をお届けします(*´∀`)♪

エッセイ この世界に存在している理由

2018年11月03日 | 哲学




最近、生きる事がなんだかうるさい。
生きる事を賞賛するのはまだ良いとしてね。
近年になっていよいよ生きる事が過剰になって来た、と感じる。

生きる事に、そもそも意味なんて無い。
お父ちゃんとお母ちゃんがたまたま出逢い、
たまたま盛りがついて、
そして結果、みやすけがここに居る。

なんて事はない、この世界に居るのは、
そういうたまたまが重なっただけのことである。
そんな世界に一体なんの意味があるのか、、

実は意味もなく、ただ茫漠と広がっている
それが世界である。
そこに様々な意味を付けるのが、人間の大脳である。
大脳によりすっかりと整理整頓された世界を
理性のコンパスと感受性の舵を切って進んで行く。

なぜその先を行くのか?
それはみやすけが存在しているからである。
みやすけがみやすけの存在を知ったとき
ぐーーんとその世界は広がった。

宇宙がビッグバンを起こした。
そして神が光あれと言った。

これらは、みやすけがみやすけを知った瞬間のお話である。

宇宙は、宇宙自らを知った時、ビッグバンを起こした。
神さまがみやすけにみやすけの存在を知らせるために
光をあらんとした。

あらゆる存在は、自分が居る事を知ったがゆえに
存在しているのだ。

存在しているすべてには、意識が流れている。
非生命か生命かの瀬戸際には、
自分が存在している事を、自ずと知っているという領域がある。
この自覚の瞬間に、生命は生まれるのだ。

このような気づきの瞬間を
生きる為の目的で潰してはならない。
生きる事とは、それ自身、目的ではない。
目的というニンジンをぶら下げられて
ひたすらさっさと疾走するのではない。

命は燃え尽きるために在るのではなく、
ただ知ってしまったからこそ、
記憶の限り、永遠に続くのだ。

命が続くのは、そこに感動があるからだ。
人との繋がり、世界との調和、
喜怒哀楽、四苦八苦、
そのような感受性が輝く限り、
みやすけはみやすけを忘れないだろう。

この世界にずっと想い出が残る限り、命は生き続ける。
そう、この世界に、生きているという実感がある限り。
みやすけは、みやすけを決して忘れないだろう。

生きる事とは、それ自身目的ではない。
それは生きる事そのものが、みやすけという存在を、
記憶し続けているという事だから。
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エッセイ 生きる意味に疲れたら

2018年11月03日 | 哲学



この世界とは、仮象である。
といえばなんとなくカッコつけた感じもする。

がしかし、生まれた意味とか考えてみても、
結局は答えも出ずな毎日である。

ややもすれば、お父ちゃんとお母ちゃんが
一時的な盛り上がりの末に、勝手に生まれ落とされた
とかいう感じにも思わなくはない。

そう、我々はお父ちゃんとお母ちゃんの
一夜のアバンチュールによって、
作為的にこの世界に引っ張り込まれたのだ。

じつは、そんな生きている状態というのは、
とてつもない無駄の上に成り立っている。

でも他人は、"良く生きよ"とか
"そんなんじゃダメ人間だ"、とか
"理知的に""道義的"やれ、だの
挙句果てには、人生をまるっと否定されたりする。

ああ、生きるのって難しい...
でも、ただ生きるのは本来、食い物と屋根さえあれば
誰でも難なく出来るものだ。

しかし、人間というものは厄介なもので
他所様の視線に敏感に生きる事を
余儀無くされている始末なのである。
特に人は集団で生きるから、とやかく言われるのである。

しかもこの群れには、ナゾの規則があって
ナゾのTPOがあって、さらに困った事に
礼儀を尽くさねばならないというナゾの地獄っぷり。

というのも、これぜーんぶ群れの維持ためのコストである。

このように、人間というのは、
"ただ食う"、"ただ寝る"といった事をする為に
わざわざ"意義"を付け加えようとするのだ。

やれ良い人間、やれ実りのある人生
道義的、律義やら、まったくやれやれである。


しかしなぜなんだろう?
困った人が居れば、
持ってるもので助ければ良いではないか。
持ってなければ、あげれば良いじゃないか。
もし何もなければ、一緒に探せば良いじゃないか。

と、色んな疑問が起こるけど、
人間というのは、いちいちそこにクレジットを結び
相手を縛ろうとするのだ。

そうそう霊長類学では、こんな面白い話がある。
とある群れが安定的に維持可能となる数は150人である。
これ、ダンバー数といって、この数の範囲なら
なんにもクレジットで縛る必要も、
群れ内でも諍いがあまり起こらない理想的な数らしい。

つまり、今の日本は群れの構成としては、
まったくのダメダメなのである。
このように人数が多すぎるから、
ヘンに働く意義を強調するし、
妙に真面目に生きる事を押し付けられるのである。

そうすべては、群れの維持のためである。
人間は、群れの維持のために病んで行くし、
最悪、自殺していく。
いくら命の尊さを説こうが、一向に減らないのは、
そもそも命の"尊さ"というものが、
ダメダメなのである。
そんなアップテンポな
ポジティブさなんて要らないのだ。

勤労の尊さ、聖人君子のような清やかさ、
我慢の精神 etc
のような"尊さ"を面前に、絶望して来たのに、
さらにその予想斜めを行く、"ネオ・尊さ"の概念で
死ぬのを抑え込むのは、もはや本末絶倒なのだ。

人間とは、群れの前に1人の人である。
1人の人の前には、
お父ちゃんとお母ちゃんのアバンチュールがあった。
生きるために必死なのは、また毎日辛いのは、
それは"食うため"、"寝るため"ではない。

それは、多すぎる群れを維持するためである。
だから、みやすけはもっと小さく群れろ、と言う。
どんどん小さくなって、勤労の意義とか、
社交辞令とか、真面目な人生から、
どんどん逃げろ。
そして、小さな仲間で助け合いながら生きろ。
一夜のアバンチュールでできた子供なら、
その子どもが仲間の元へ巣立てるまで、面倒を見ろ。
生きる意味なんか、考えるな。
そんなもん本質的に無いのだから。

生きる意味を考える事、
それこそクレジットで自分を縛る行為だ。
クレジットというムダなもので、
生きる事に臆病になるな。
むしろ、生きること自体、
全部まるっとムダなんだから。
そうだ、こんなムダなんかのために
病む必要なんて、ないのだ。

人間よ、今こそ
胸に秘めたる大志を今すぐに全部棄てよ!
そんな君は今日から自由だ。Fuu〜(^-^)

おわり、、
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