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# 353 今だから話せる ③

2014年12月17日 | 1983 年 



昨年の暮れから年明けにかけて球団と揉めた有藤(ロッテ)が開幕するとそんな騒ぎが無かった事のように活躍している姿を見るのは喜ばしい事だ。昭和27年からスカウト生活を始めて昭和53年にクラウンを退団するまで数々のアマチュア選手と関わった私だが、その中でも最も短い交渉期間で契約に至ったのが有藤道世君だった。

ドラフト制度が採用されてから4年目は「黄金の43年」と呼ばれたように、かつてない程好選手が続出した年だった。田淵・山本浩・富田の「法政三羽ガラス」、星野、山田、福本、東尾、大田…と枚挙に暇がない程揃っていた。当時は東京オリオンズに在籍していた私は濃人監督ら現場首脳陣から三遊間強化の為の補強を要請されていた。地元東京という事で法大の3人を調査したが田丸スカウトの報告では田淵は本人・両親共々巨人入りを望んでおり、山本は地元の広島が西野球団代表(当時)を中心に既に他球団が入り込む隙がない程に囲い込み済み、残る富田には今一つピンと来るものが無かった。そこで関大出身の私は関西での人脈を頼りに独自に近畿大の有藤と藤原の周辺調査を行なっていた。

春季リーグ戦終了後に近大・松田監督に直接会い「どうしても有藤と藤原が欲しい。ウチの不動の三遊間にしたいので是非とも協力してほしい」と真正面から挑んだ。松田監督が「青ちゃん、どれくらい本気なんだ?」と聞いてきたので「何番目でも1位は有藤だ」と答えると相手もさる者「じゃ法政勢はどうするんだ」と切り返してきた。「ウチは近大オンリー」と言うと「ホンマかいな、調子ええ事言うて」となかなか本気にしてくれない。そこで私は言った「松田さん、長い付き合いで私の性格は御存じでしょ?もしも永田オーナーが法政で行く、と言い出したら私はクビを賭けると約束します」と。その一言で松田監督もやっと " その気 " になってくれた。

「そこまで言うのなら有藤には話をしよう。でも藤原は入学に際して武智修君(松山商→近鉄)の世話になっているので僕の口から返事は出来ないが、仮に2人を獲るなら条件は両者同じにしてほしい」と松田監督に念を押された。参考までにその場でのやりとりを再現すると


     「分かりました。2人とも契約金1千万円を約束しましょう (私)」
     「税金分も考えてやってくれないか (松田監督)」
     「はい、約束します。ドラフト終了後に契約書を持って来ましょう (私)」
     「了承した。有藤は母親から私に一任されているので大丈夫だ (松田監督)」
     「ところで他球団の動きは? (私)」
     「まだ来てない。在阪球団も君ほど評価していないようだ (松田監督)」  ・・・ といった具合だ


有藤がオリオンズ入団後にマスコミの間では「南海・鶴岡監督(当時)が永田オーナーに有藤獲得を進言した」と言われていたがそれは違う。鶴岡監督が新人の有藤を見て自軍のスカウト連中に「地元にあんなに良い選手がいたのに何をしていたんだ」と叱責したのが真相。阪急・西本監督にも「オリオンズは向こう10年は三塁手に苦労しないな」と褒められ私は鼻高々だった。実はもう一人、目を付けていた選手がいた。東京農大の広瀬宰(現西武コーチ)である。ヤクルトの宇高勲スカウトも密かに注目していた内野手でドラフト当日、予定通り1位で有藤を指名出来たが指名順が後のヤクルトが広瀬を2位で指名するという情報を得て藤原2位指名予定を急遽変えて広瀬を指名した。チーム構成上これ以上の野手指名は難しく藤原を指名する事は出来なかった。ドラフト会議終了後、私はその日のうちに契約書を携え大阪に向かいサインして貰った。実に交渉時間ゼロのスピード契約だった。

有藤は春季キャンプを無事に乗り越えオープン戦を迎えたがここで問題が生じた。無類の鉄砲肩が災いして、一塁送球の際に高投する失策が目立つようになった。悪い事に守備の不安が自慢の打撃にも影響を及ぼすようになった。5試合連続無安打となり「明日の阪神戦でも安打が出なければ明後日から三塁は前田でいく」と濃人監督が言い出した。阪神の先発投手はエース・村山実、実力的に有藤に勝ち目はない。そこで私は試合前の村山に「村山君、有藤は大器なんだ。だが今はすっかり自信を無くしている。オープン戦だし自信を付けさせてやってくれないか。君から安打を放てば自信を取り戻すと思うんだ」と頼み込んだ。

「青さん、彼の得意なコースはどこなの?」と村山君は聞いてきたので「真ん中から外寄り」と私は答えた。でもまだ安心出来ない。得意のコースに来ても打てる保証は無いのだ。それは7回二死の場面に訪れた。そこまで良い所の無かった有藤に最後の打席が回って来た。祈るような気持ちで見ていると村山投手は有藤のバットが一番出やすいコースの外角に投げた。バットが一閃すると打球は左翼線に勢いよく飛び、翌日以降も試合に出続ける事が出来た。試合後の有藤は村山投手から安打した事で大喜びし、自信も回復して以後の活躍ぶりは語る必要もないだろう。有藤本人にこの事実を話したのは15年後のつい最近の事だ。

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1 コメント

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Unknown (エプス教授)
2014-12-20 13:32:38
それにしても巨人選手の表紙が多いですね。つくづく当時が「巨人とその他大勢」の構図だったのかが分かります
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