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納戸の奥に眠っている箱を久しぶりに出してみると…
買い集めていた45年前の週刊ベースボールを読み返しています

# 354 今だから話せる ④

2014年12月24日 | 1983 年 



確かに「ライオンズ」は今も存在している。5月10日からの阪急対西武の3連戦、阪急球団主催ではあったが久しぶりのライオンズの里帰りで3日間で8万6千人を集めた。昨年は日本一になり今年も快調に首位を走る西武ライオンズ。しかし、やはり何かが違う。ライオンズは博多にあってこそ「ライオンズ」なのだ。今風のお洒落な西武ライオンズを見る度に私は「あの時、何とかならなかったのか…」との感慨に包まれる。

クラウンライター・ライオンズが西武に身売りされた昭和53年10月12日から4年以上が経過した今でも「もしあの時、中村長芳オーナーが球団経営についてスポンサーであった廣済堂会長・桜井義晃氏と腹を割って話し合っていたら球団を手放さずに済んだのでは…」「博多にライオンズを残す事が出来たのではないか」という思いに囚われる。福岡野球株式会社(中村オーナー)から国土計画(堤義明社長)への球団譲渡が成立する10月12日まで井口球団社長も、球団専務だった私も一切の経緯を知らされずにいた。ただ「どうも不穏な動きがある」という予感めいたものはあった。例えば仕事で渡米する私に中村オーナーがサンフランシスコにあるキャンドルスティックパークの球場設計図を持ち帰るよう命じたり、当時の飛鳥田横浜市長と中村オーナーが横浜スタジアムの拡張計画を検討したり、ドラフト会議で指名した江川投手の獲得資金1億円を西武から借り入れていた件など…

どれも後になって繋ぎ合わせれば、という事が多々あった。球団譲渡の発表まで我々には一言の相談もなかった(坂井球団代表は発表の2~3日前に開催されたプロ野球実行委員会で初めて聞かされた)。実は球団譲渡前に最大のスポンサーだった桜井氏は中村オーナーから資金調達の相談を受けていた。具体的に12億円という額を求められた桜井氏は即答せず「善処する」と言うに留まった事が2人の思いが離れる分岐点だった。桜井氏が資金調達に奔走していた時、中村オーナーは西武との交渉を同時並行で行なっていた。後日分かった事だが桜井氏に依頼した頃には既に自民党・安倍晋太郎代議士(現外務大臣)を通じて堤義明氏に打診を済ませていた。

打診された堤氏は当初、プロ野球球団経営に乗り気ではなかった。五輪関連の活動に精力的だった事もありプリンスホテル野球部などアマチュア野球に力を注いでいた。しかし度重なる要請を受けて幾つかの条件を出してそれらがクリアされれば検討すると回答した。条件の1つに福岡野球株式会社の取締役全員の白紙退陣があった。球団譲渡当日に私は井口球団社長に呼ばれて「今朝、オーナーから各取締役の辞表を纏めろと指示があった。私も身売りは初耳だが既に決定事項なので白紙で辞表を提出して欲しい」と告げられた。しかし私はその場での辞表提出を拒否した。「急に言われても身売りの経緯が全く分からず『ハイ、そうですか』とはいかない。それに私ら身内にはそれで通用しても社外取締役の九州電力や西日本新聞社は納得しないでしょう。少なくともオーナー直々に説明に伺うのが筋だ」と一言申し上げた。

「実は先般、同じ事を西日本新聞の社長に言われた。だからこそ身内の君に率先して辞表を提出して貰いたい」と泣きつかんばかりに懇願された。私が言った青臭い正論を井口球団社長も先刻承知だったのである。それを聞いて私も辞表を出す事に承知しようとした矢先、続いて井口社長が口にした言葉で思い留まった。「全員退陣した後で私と君は西武入りする事になっている」…いやちょっと待ってくれ、「それでは今まで世話になった博多の人達に申し訳ないではないか。私はこのまま西武へ横滑りするつもりはない。兎に角、オーナー自らファンに説明するのが先決だ」と言うと、それを「辞表提出拒否」と判断した井口社長は 「それでは私の立場がない。退職金を含め充分な考慮をするから辞表をこの場で提出して欲しい」 と迫ってきた。私は折れた…余談だが私は現在に至るまで退職金を一銭たりとも受け取ってはいない。

中村オーナーから取締役総退陣の連絡を受けた堤氏にすればもう固辞する理由がなくなり横浜スタジアムの持ち株47%を売却し即座に12億円を用意したと聞いている。実はその3日前に資金調達を済ませた桜井氏が中村オーナーに「準備出来た」と報告していたのだが既に西武への球団売却の仮契約が済んでいた。予てよりライオンズは平和台球場にいてこそ、と主張していた桜井氏の願いは潰えた。何故、中村オーナーはこうも簡単に球団を手放したのか?魅力的なチームを作れず観客動員も振るわず赤字経営が最大の理由だろうが、もう1つの側面として地元福岡の有力者の支援を受けられなかった事もあるだろう。中村オーナー自身の活動の場が主に東京であった事で地元との関係が希薄だったのも反省材料。元々は西鉄を母体としていたライオンズ。西鉄は地元最大の私鉄で愛着も強く市民との繋がりをもっと強化していれば…と悔やまれてならない。

財政的には世間で言われるほど切迫したものではなかった。昭和52年のドラフト会議で1位指名した立花選手とその年の暮れに招聘した根本監督の契約金に6千5百万円を提示したくらいだから。要は中村オーナー自身が博多の街に情熱を失ったとしか考えようがない。それにしても中村オーナーが独走せずもっと早い段階で桜井氏と本音で話し合い、知恵を出し合っていたら博多のライオンズは消滅する事なく生き続けていたのではないか。博多のファンに申し訳ない気持ちは終生拭えないであろう。

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