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# 700 序幕のヒーロー ④

2021年08月11日 | 1977 年 



異色の新人が現れた。無名の25歳さして注目もされなかったのに、いきなり先発で初勝利。このカネやんを大喜びさせたロッテの仁科時成投手の得意球が男にとってなりよりの " 度胸ボール " とは楽しいではないか。

新人一番乗り
開幕して僅か4試合目、ロッテのルーキー仁科はクラウン相手にプロ入り初登板・初先発した。のしかかるプレッシャーを跳ねのけて新人離れしたマウンド捌きで9回に村田投手の救援を仰いだものの、8回 1/3 を5安打・2失点の好投で初勝利をあげた。セ・パ両リーグで開幕から一軍入りした5人の新人投手の中で最初に勝ち星を手にした。新人がチャンスを掴むのは難しい。なにしろ登板する機会自体が少ない。あれほど騒がれたサッシーでさえ初登板の機会は容易に巡って来ない。キャンプ当時は「球そのものだけなら二線級」と妙な折り紙を付けられていた男が、何故これほど早い時期に登板のチャンスに恵まれたのだろうか?

確かに三井投手、成田投手の主力2人が故障で先発ローテーションを組むのがままならないというお家の事情はあったが、仁科自身にも登板のチャンスをモノにするだけの切り札みたいなものを持っていた。それは人並み外れた度胸の持ち主だという。仁科は25歳というプロ野球の世界では " 老けた新人 " でアマチュア球界では無名の投手だった。アンダースローの技巧派で打者を圧倒する球威もなく、年齢を考慮すればプロ入りに不安があって当然だが自ら踏ん切りつけたのは仁科独自の度胸と言ってもいい。「俺は2~3年先が楽しみな立場ではない。プロ入りするなら今しかない(仁科)」とロッテに入団した。

ちょうど10年前、仁科が岡山・山陽高に入学し野球部に入部してみると幸か不幸か自分以外に投手を希望する同級生がいなかった。一念発起した1年坊主は自宅の庭に簡易なブルペンをあつらえた。家の中から電気を引いて裸電球をぶら下げ、捕手の所にムシロを置いてストライクゾーンを描き毎日のように投げ込みをした。「俺以外に投げるヤツがいなかったから必然的にエースになっただけ(仁科)」と謙遜するが、高校卒業後に四国の大倉工業に入社後も同様にエースの座に就いた。全国大会出場をかけた試合の目前に肺浸潤を患い入院を余儀なくされても入院先から試合にかけつけて登板したが延長戦の末に敗れ涙を飲んだ。


どこか違う新人
高校時代の努力に加え、ノンプロ時代のそんな経験が持って生まれた度胸の良さを更に大きくした。だからこそ新人として初めての登板でも冷静でいられたのだろう。「さすがの仁科もかなり緊張していた。でもどこか他の選手と違うんだなアイツは」というのが首脳陣の一致した見方だ。「自分の投球が出来たのがあれだけ投げられた要因」と仁科は自己分析する。自分の投球とは打者のヒザ元にシンカーを投じること。粘り強く丁寧に打たせて取る投球に徹した。手も足も出ない直球や変化球は投げられないが投手として特徴がないのが特徴と言われるだけに大きな短所がないのも幸いした。

ドラフト3位入団の投手が飾った快挙で久々の涼風だがプロの世界は底知れぬほど厳しいのも事実。今後克服しなければならない課題は残されている。走者を出した際の投球がそれだ。仁科特有の「タメ」が薄れて打ちごろの球になりやすい。クイックモーションで投げても本来の球のキレが失われる。牽制球などのマウンド捌きもまだまだ一流投手の足元にも及ばないが「大丈夫。そんなに時間はかからない。器用じゃないけど着実に伸びるタイプのピッチャー」と八木沢投手コーチは心配していない。取り立てて体力やセンスがあるわけではないが、仁科はピッチングの術で乗り切っていこうとしている。異色の新人王が誕生するかもしれない。

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