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納戸の奥に眠っている箱を久しぶりに出してみると…
買い集めていた45年前の週刊ベースボールを読み返しています

# 701 景浦 將

2021年08月18日 | 1977 年 



起死回生の本塁打に賭けられる懸賞金。今ではありふれたことだ。しかし昭和11年時点で、あの沢村投手から100円(現在に換算すると20万円)の大金付きの本塁打をモノにした景浦将(松山商➡立大➡阪神)という男がいた。昭和20年、太平洋戦争の犠牲となった景浦を生き証人・石本秀一の話を基に今ここに呼び戻してみる。

三段落ちドロップとらえた36インチ
昭和11年12月9・10・11日の3日間、東京府城東区の洲崎球場で巨人軍と大阪タイガースによる優勝決定戦が行われた。第1戦の先発投手は沢村栄治と景浦将。序盤3回を終えて巨人が4対0とリード。沢村相手にタイガースの敗色は濃厚と思われた。意気消沈のベンチを活気づける為にタイガース・石本監督は4回表のチャンスに懸賞金という大芝居を打った。三番・小川が四球で出塁すると続く四番・小島が右翼線二塁打を放ち無死二・三塁。迎えるは五番・景浦。ウェーティングサークルにいた景浦に石本監督が「ここで一発出たら懸賞金を出すぞ。球団が払うんじゃない、俺の財布から出すんだから嘘はつかん」と言うと景浦はニヤリと笑い打席に向かった。

長さ36.5㌅(92cm)・重さ1200g のバットを手に打席に入った。参考までに王選手のバットは34.5㌅・920g である。景浦は片手でリンゴを握り潰せるほどの握力の持ち主なので長くて重いバットも苦も無く使いこなせた。ボールカウント1ー2からの4球目、沢村が投じた三段ドロップを捉えると打球は左翼席上段に飛び込み、跳ね返って場外へ。当時の外野スタンドは木製の柵だけで仕切られていて目の前は海岸線で打球は海に消えた。景浦のスリーランで一挙に点差は1点に縮まり、勝敗の行方は一転して分からなくなった。この一発で景浦は懸賞金を手にしたわけだが、実は懸賞金の額については色々な説があったのだ。

当時、東京帝国大卒の初任給は45円、早大・慶大など私立大卒だと40円ほど。月給が100円あればお手伝いさんを雇えたという。そういう時代だから景浦が手にした懸賞金の額は10円と言われていた。大卒初任給の1/4 ならば現在に換算すると2万円で妥当な額だ。その点を当事者の石本氏に質すと「いや違う。私が渡したのは100円だ」と反論した。続けて石本氏に聞いてみた。

「100円だと当時の帝大卒の倍以上ですよ?」
「そうですよ」
「現在だと20万円に相当する。10円の間違いでは?」
「そう思うのはあなたが景浦という男を知らないから。10円じゃ景浦は本気にならんですよ」と100円説を譲らない。

景浦の月給は120円で大卒初任給の3倍だ。当時の野球選手の月給はサラリーマンの3倍相当と言われていたので景浦の月給は特に多かったわけではない。ちなみに石本監督の月給は300円と高額だったが、月給の1/3 に相当する100円を懸賞金に出すのは考えにくいと思ったので再度10円の記憶違いではないかと聞いたが石本氏は頑として譲らない。何しろ「自分で出した懸賞金だから金額は自分が一番よく知っている」と主張されると、こちらとしてもそれ以上は返す言葉は無かった。


吉田監督の下で生き返る懸賞金成金
現在の各球団はどこでも罰金と賞金の制度を取り入れている。もしも今の阪神に景浦が蘇ったらさぞや大金を手にするのではないかと思われがちだが、そう簡単にはいかない。景浦には別の顔があった。石本氏が言う「あなたは景浦という男を知らないから」の発言がそれだ。実は相当な我がままだったという。石本氏は監督時代に『球団日誌』なるものを書いていた。その中に「景浦、走らず、捕球せず。理由不明」という文章が残っている。要するに景浦は右翼を守っている時に打球が飛んで来ても走らない。走らなければ捕球できない。仕方なく中堅手の山口政信選手が打球を処理したという。チームプレーを完全無視だ。これでは今の阪神でプレーするのは不可能だ。

理由不明と記されているが真相は何だったのか?当時タイガースに朝鮮半島の平壌高普から入団した林賢明という投手がいた。実力は三流だが今でいう助っ人扱いだったので月給の方は一流で、景浦より30円も高い150円だった。景浦にしてみればエースで中心打者、しかも登板しない日は野手として出場している自分より林のほうが月給が高いとは納得がいかなかったのである。高まる不満が爆発し、あのような行為になったようだ。そういう男だから石本氏の言う通り10円の懸賞金では動かなかったであろうと推察できる。吉田監督をもってしても景浦を使いこなすのは難しいであろう。賞金額が高い巨人戦では活躍するもそれ以外の試合は手抜きするのが目に見えている。


5月20日をめぐる誕生日と命日の差
昭和20年5月20日、景浦はフィリピンのカラングラン島にいた。数名の同僚と一緒に景浦伍長は洞窟生活を送っていた。とにかく食べるものがない。80kg あった体重は50kg 台に落ちていた。「洞窟を出て食糧を探してくる」と景浦伍長は2~3人の仲間と山を下りた。それから数時間後、景浦伍長は冷たくなって洞窟に戻って来た。山を下りて麓を探索中に米兵に見つかり狙撃されたのだ。仲間に背負われて洞窟に戻って来た時は既にこと切れていた。一説には餓死したという話も伝わっているが、親族は射殺の連絡を受けたという。

弾丸が数㎝ ズレて致命傷にならなかったら…戦後のプロ野球の歴史も変わっていたかもしれない。戦後32年が過ぎた現在でもそうした思いにかられる。毎年5月20日になるとマスコミは巨人・王選手の誕生日のニュースを流す。巨人ファンならずともお祝いムードになる。だが景浦を知る人間にはこの日が憂鬱でならない。同じ球界を代表するホームラン打者でも王は誕生日、景浦にとっては命日なのである。平和で自由に野球をすることが出来なかった時代があったことを今の選手たちに知ってもらいたい。

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