今では当たり前のスピード表示ですがテレビに出始めの頃は、さして注目されていませんでした。
"135km・140km" などと表示されても、それがどれ位の速さなのか比較対象が無かった為でした。
今では高校野球中継でも表示するNHKは他の民放局がスピード表示を始めても「数字に客観性が
無い」として頑なに採用しませんでした。NHKの言い分も尤もで '79年のオールスター戦では2つの
新聞社が同じスピードガンを使用して球速を測定しました。
初速 終速
A社 146km 141km 140km 135km
江夏(左腕) 山内(右腕)
B社 145km 141km 136km 131km
A社 132km 127km 144km 139km
梶間(左腕) 江本(右腕)
B社 131km 126km 141km 136km
機械の設置場所や右投げ・左投げの違いでも測定したスピードは異なりました。A・B両新聞社共
左腕投手の測定値の差は僅かでしたが右腕投手は差が出ました。また当時の快速球投手 中日
鈴木孝政投手と全盛期を過ぎた江夏投手のスピード表示が大差ない事に少々落胆するファンも
いて、スピードガン自体に懐疑的になりかけていた時に、彗星の如く現れたのが中日・小松辰雄
投手でした。小松はそれまでは未知の領域だった時速150km の扉を抉じ開けました。
「投手の生命線はコントロール」「投球に緩急をつけるのが大事」「球のキレこそ第一」 それぞれ
もっともでしたが、小松の時速150kmの快速球はそれらを一蹴しました。 「少々速くてもコースが
甘ければプロの打者は打ち返す」との定番な意見は小松には当てはまりませんでした。 小松の
速球は "少々" ではなかったのです。野球ファンは贔屓チームに関係なく小松のスピードに熱狂
しました。小松によって速球投手=150km が定着しましたが小松の出現が無ければ、ひっそりと
消えていったストロボアクション同様、スピード表示も廃れていったかもしれません。
江夏がこの頃146㎞出していたということは奪三振記録を作った頃は150㎞以上出ていたと十分考えられます。それをもとに同時代に活躍した投手がだいたいどのくらい出していたのか推定することもできますね。
そう言えばスピードガン登場初期は初速と終速の両方が表示されていました。その差が少ないと球が打者の手元で伸びるように見えると言われていました。