Haa - tschi  本家 『週べ』 同様 毎週水曜日 更新

納戸の奥に眠っている箱を久しぶりに出してみると…
買い集めていた45年前の週刊ベースボールを読み返しています

# 526 阪神ネタ ①

2018年04月11日 | 1985 年 



1985年は阪神が21年ぶりに優勝した年で週べも毎週買っていた筈ですが、何故か手元に残っていません。後年にドラフト関連や選手名鑑などカテゴリー毎に纏めていた記憶があるので、阪神の優勝関連の号も纏めて何処かに保管してしまった可能性があります。優勝した年なのに阪神ネタが少ないので小ネタを幾つか紹介します。


虎キチおじさん・花井悠の「トラトラ時評」
阪神の両主砲・掛布と岡田が写真週刊誌のターゲットにされた。掛布は " 本番女優 " とシッポりと酒を飲んでいる所をパチリ。岡田はゲイバーの可愛い子ちゃんのマンションへいそいそと通っていた事が暴露された。世間には「不謹慎」とか「教育上よろしくない」とか正論を説かれるお偉いさんが必ずいるが、そんなもんは気にする事はない!人というのは自分の事は棚に上げて他人の行動に御立派な建て前を言うのが常なのだ。掛布も岡田も他人に迷惑をかけている訳ではないのだから世間に対して謝る必要はないのだ。勿論、野球選手は青少年の憧れで目標でもあるから自重するに越したことはないのだが、選手だって普通の人間で聖人君子ではない。一般のサラリーマンと同じく息抜きだって必要なのだ。

時代が違うと言われればそれまでだが、昔の西鉄ライオンズの選手らに比べたら掛布や岡田なんぞ可愛いもんや。西鉄のサムライはそれこそ中西や豊田ら一番から九番まで、投手陣も稲尾らも含めて彼らの武勇伝は枚挙に暇がない。今の時代ならカメラマンが何人いても足りないくらいや。それに掛布や岡田はロクな仕事もせず遊び回っている訳ではない。岡田はオカマちゃんと逢瀬を過ごした翌日の試合で本塁打を放つなどキッチリ結果を出している。遊びにうつつをぬかして仕事に支障をきたしていたらファンは大いに怒ってよい。だからこそ掛布や岡田も手は抜けない筈や。打てなくなれば「それ見たことか」と批判される事は火を見るよりも明らか。今回の醜聞は阪神にとってはむしろプラス材料や!



阪神史上最も人気のあった外人・ラインバック
今や甲子園の風物詩となったバースコール。かつて、このバースコールに勝るとも劣らない声援を受けていたのがM・ラインバック選手。人気があった理由はいたって明快、とにかく明るい性格で常にハッスルプレーに徹していたから。こう書くと彼がネアカで陽の当たる道を歩んで来たと思われるだろうが来日するまでに二度ほどの挫折を経験している。実は高校時代はアメフトの花形選手のクォーターバックを務めていた。高校卒業後はアメフトで奨学金を得て名門・カリフォルニア大学へ進学した。しかし1年生の秋に左肩と左膝を故障しアメフトを断念し野球への転向を余儀なくされたが野球の世界でも開花しなかった。メジャー歴は1974年の僅か12試合。己の限界を悟った彼は海を渡り極東の島国に辿り着いた。

これらの挫折は異国の地の彼を逞しく成長させた。来日1年目にして打率3割をマーク。5年間で三度の3割越えは助っ人として特上の部類に入る。ちなみに来日初年度に打率3割をマークした外人はセ・リーグでは彼が初めてであった。しかし好成績を残したものの年俸は750万円とも600万円(推定)と言われていて思ったほどアップしなかった。アメリカではマイナー生活が長かった彼の私生活は慎ましやかであったがそれは日本でも変わらなかった。甲子園球場での昼食はスーザン夫人お手製の弁当。球団から食事を支給される時はデザートの果物をお土産に持ち帰るほどだった。つくずく彼が活躍した時代の外人は不遇だった。それにつけても最近の助っ人さんの年俸の高い事には呆れるばかりだ。



パワフルなトップバッター
中村勝広は早大では谷沢(中日)の2年後輩。入学当初は遊撃手だったが二塁手にコンバートされると頭角を現し1年生で早くも六大学デビューを果たした。ただし守備は決して上手とは言えなかった。昭和46年春のリーグ戦で早大が犯した失策は「2」と堅守を誇ったが、その2個はいずれも中村が記録したものだった。対して打撃の方は早慶戦で2本塁打を放つなど大物の片鱗を見せた。やがて主将を務めるなど攻守に渡り中心選手に成長し卒業後はプロに進んだ。プロ入り後は課題だった守備も上達し、シーズン最高守備率の記録を作った。昭和53年に出場数は90試合と少なかったが2失策で守備率.995 はお見事。

大学時代から打撃は定評があり、細身の身体ながら意外にパワーも兼ね備えていた。昭和50年には初回先頭打者本塁打を6本記録している。この年の本塁打数は16本で一番打者として特出していた。また四死球も96個、打率.280 と一番打者としての仕事もキッチリとこなしていた。昭和51年9月19日の広島戦で阪神は1イニング4連発本塁打を達成したが1発目は中村だった。ちなみに2発目以降は掛布・ラインバック・田淵が続いた。それにしても引退するのが早過ぎたと感じるのはワシだけだろうか?確かに中村は指導者としての能力も高いが、早大の先輩でもある谷沢はまだ現役で頑張っているだけに惜しい気がするのだが。いずれは阪神の監督として現場に戻って来る事を期待している。

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