最近の巨人は投打に山口や坂本など生え抜きの若手選手が台頭してきて、ひと頃の他球団から
主力選手を掻き集めるといったチーム作りを改めたようですが「欲しい病」は昔からでした。古くは
別所投手から始まり、南海入り直前に横取りした長嶋、ルール上は合法とはいえ強引だった金田
枚挙に暇は有りません。ドラフトが出来て日本人選手の獲得が思うようにならなくなると、他球団の
外国人選手に目をつけ始めました。
九連覇した頃は「純血」を掲げていましたが長嶋引退後は背に腹は代えられず次々と外国人選手を
獲得しましたが、その多くがハズレ助っ人でした。当時の外国人選手は統一契約書とは別に個別で
付帯条項が盛り込まれた契約も結んでいました。そこには選手からも契約を解除できる項目もあり、
より良い条件を出す球団に移籍する事も可能でしたが、当時 来日する外国人選手の多くが高齢で
全盛期を過ぎていて他球団が欲しがる事は稀でした。'70年代後半になると大洋・シピンやヤクルト・
マニエルなど移籍する選手が出始めるようになります(マニエルは交換トレードでしたが)。
そんな中、巨人が目を付けたのが '79年の首位打者 大洋・ミヤーン選手でした。 巨人は以前にも
大洋からシピン選手を獲得しましたが、衰えは隠せず今度はミヤーン獲得を考えました。大洋・中部
オーナーに巨人正力オーナーがゴルフ場でプレー中に譲渡を申し込みました。すると意外にも中部
オーナーは 「トレードならOK」との返事。大洋が要求した交換要員は、まだ頭角を現していなかった
篠塚でした。当時の巨人の若手野手には中畑や松本らがいましたが篠塚は非力ですぐには戦力に
ならないと判断されたのか松本を二塁にコンバートする案があったそうです。大洋が角投手も加えた
1対2のトレードを要求してきた為に、長嶋監督ら現場の首脳陣が反対し御破算になったそうです。
長嶋監督が角の放出に反対した為で、もし角ではなく浅野クラスであったなら篠塚は大洋入りして
いたかもしれません。
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