Haa - tschi  本家 『週べ』 同様 毎週水曜日 更新

納戸の奥に眠っている箱を久しぶりに出してみると…
買い集めていた45年前の週刊ベースボールを読み返しています

#291 監督業は辛いよ

2013年10月09日 | 1982 年 



6月23日の広島市内上空は雲に覆われてはいたものの試合には支障ない空模様で、広島と対戦相手の大洋の両チームは試合前の練習を終えていた。確かに天気予報は雨を予想していて雲行きも怪しく観客の入りも低調だったが先発メンバーの発表も済み、後はプレーボールを待つだけだった。ところが試合開始直前に突然「中止」のアナウンスが球場内に響き渡った。「雨雲が近づいて来ており試合成立の可能性は低いと判断した」と竹内球団営業部長は中止の理由を報道陣に告げたが摩訶不思議な試合中止だった。調子を落としているチームが気分転換を兼ねて立て直しを計る為に少々の雨で中止にするケースはままあるが、その時のカープは絶好調で6月18日からの巨人3連戦に3連勝、2位に3.5ゲーム差の首位に立ち「独走」の文字がスポーツ紙上で踊っていたほどだ。そもそも雨は降っておらず苦しい言い訳だった。

長いシーズンを回顧すると「あの試合が…」とターニングポイントとなる試合が必ず有る。今シーズンのカープを振り返る時にこの試合中止を抜きには語れない。この日を境に星勘定がガラリと変わった。32勝20敗5分と順調だったのがこの日以降は27勝38敗8分と負けが込み5年ぶりのBクラスへと転落した。不思議な中止の裏には何があったのか?当日の古葉監督は「今は首位にいるけど投手陣は揃っていない。今日の先発は中3日の津田だったけど、初めての中3日でどんな投球をするのか楽しみにしていたから今日はやりたかった」とコメントしたが、それを聞いていた報道陣は首を傾げた。その時点では福士も池谷もまだローテーションに入っていて先発投手の頭数は揃っており、津田の登板は予想外だったからだ。現に各スポーツ紙の先発投手予想も中5日の池谷が有力視されていた。

結論から言えば古葉監督はこの時すでに福士や池谷を見限っていたのだ。だが新人に中3日登板は冒険過ぎる。池谷を外して負ければ古葉采配が批判されチームの雰囲気も悪くなるかもしれない。出来ればもう1日空けて中4日で津田を投げさせたい、ちょうど空模様も怪しくなってきたのを幸いに中止に踏み切ったのではなかろうか。しばらく後になって営業担当の球団職員から「いつもは営業に協力的な古葉監督が初めて無理を言ってきた」と裏話が伝わった。期待の雨は遂に降ることはなく雲は切れて星空が広がった。この「敵前逃亡」の代償は大きかった。続く阪神戦での1安打完封負けに始まり懸念の投手陣ばかりか打撃陣もリズムを崩し始め、7月に入ったとたんに7連敗を喫して首位から陥落し二度と浮上しなかった。一瞬の躊躇が長いペナントレースを決めてしまうから勝負事は怖い。

チームが低迷すると「内紛が起きたか?」と勘ぐるのは世の常で今季の阪急も例外ではなかった。新聞紙上に選手と上田監督との間で抜き差しならない状況にあると幾度となく報じられた。天王山と言われた6月23日の西武戦に敗れた後の阪急は戦う集団を放棄したかのような無気力試合を展開していた。業を煮やした上田監督はマスコミに対して「これがベテラン選手が多いチームの悪癖。先を読んでしまいもう西武には追いつかないと諦めてしまっている。こうした姿勢は若い選手達にとって悪影響である」と切って捨てた。これに対し一部のベテラン選手らがマスコミを通じて首脳陣批判をしてチームは空中分解寸前の状態となった。

上田監督は西宮第二球場の室内練習場にマスコミを締め出して選手を集め、正確な内容は伝えられていないが漏れ伝わる所によると上田監督は内紛を報じる新聞記事を手にして自らの発言の真意を述べて選手達の意見に耳を傾けた。話し合い終了後に選手会長の山口と役員の蓑田と中沢がわざわざ報道陣に歩み寄り「マスコミの皆さんにお願いが有ります」と集合をかけた。「阪急の話題を書いてもらえるのは有りがたい事ですが節度を持って記事を書いて欲しい。事実を隠してくれとは言いませんが親しくなった記者さんには愚痴の一つもこぼします。それを全て書かれては今後は付き合い方を考え直さなければなりません。配慮をお願いします」とマスコミに対しては寛容だった阪急では考えられない要望をした。選手達の気持ちは分かる。だが、こうした要望を出さざるを得ない状況こそが今季の阪急の「内紛」や「崩壊」の記事の真実味を示しているのではないか。チームとしての結束が崩れていく時、そこにタガの緩みが生じ放置すればチームは崩壊する。事実、ペナントレースが終わるのを待たずに阪急は再建の為のチーム改革に着手し始めた。

チーム改革を始めたのは南海も同様だ。12球団で唯一監督の交代劇が起きたのは10月12日、この日に全日程を終了したブレイザー監督は大阪難波の南海電鉄本社に川勝オーナーを訪ねてシーズン終了の報告をする予定だった。3年契約の2年目でもあり球団は来季の続投を明言していたが実は2日前の在阪スポーツ紙に「辞任」と書かれ、記事にはブレイザー監督本人の手記まで載せられていただけに信憑性は高かったが球団は否定していた。続投ならブレイザー監督の来季に向けたコメントを球団広報が発表すれば済む筈だが、この日は事前に本社4階に会見場を設けていた。報告を受けた川勝オーナーは会見に臨み「球団からの続投要請に対してブレイザー監督からは辞任の申し出があり慰留を試みましたが本人の意志が固いと判断し『辞任』を了承しました。繰り返しますが辞任であり決して解任ではありません」と不自然なくらい「辞任」を強調した。

ブレイザー監督が今季限りで監督の座から退く事はある程度予想できた。昨年の納会の席で当時の岡田公意球団社長が「もし来季の前期で5割を切るようなら辞めてもらいます」と発言して物議を醸し、その時から既にブレイザー監督と球団フロント陣との関係は冷え切っていた。両者の防波堤となっていたのが川勝オーナーで昭和53年に自ら出馬して監督就任を要請し、就任後もBクラスに低迷し結果を出せないブレイザー監督の後ろ盾となるほど監督手腕に惚れ込んでいた。しかし球団レベルを超える南海グループ周辺からはその手腕に疑問を呈する声が出始め「解任やむなし」の流れは川勝オーナーにも止められなくなった。

ブレイザー監督は常々「来季も任せてもらえるなら結果を出す自信はある。契約社会で育った自分は職場放棄をするような無責任な事はしない。ただしオーナーが辞めろと言うのなら従わざるを得ない」と明言していたが10月8日午後に川勝オーナーと会談、翌9日には南海の大物OBと会い自らの進退について話し合いの場をもち「健康上の理由で辞任する」との結論に達した。確かにブレイザー監督には心臓病と痛風の持病があったが監督業に支障は無いとの医師からのお墨付きもあり健康上の理由は単なる名目である事は明白だった。

それが何故に急転「辞意」を伝え受理されたのか?川勝オーナーは「3年契約の2年目でクビを切るような事をしたら南海グループは『契約』を軽んじる組織だと思われてしまう」と公言していて南海のイメージダウンに繋がる事は極力避けてきた。しかし監督自らが「辞任」を申し出るなら話は変わってくる。「要するに辞任という形ならオーナーや球団に傷は付かない。ブレイザー監督にしても事実上の『解任』を受け入れれば表向きは辞任と扱われて3年目の年俸は全額手に出来る。これ以上の三方円満策は無かった」と南海担当記者は解説した。球団は既に穴吹新監督で動き出している。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« #290 風雲録 ④…幻のトレード | トップ | #292 1982年・ドラフト会議 ① »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

1982 年 」カテゴリの最新記事