Haa - tschi  本家 『週べ』 同様 毎週水曜日 更新

納戸の奥に眠っている箱を久しぶりに出してみると…
買い集めていた45年前の週刊ベースボールを読み返しています

#273 無名の名選手 ③

2013年06月05日 | 1982 年 



神田武夫【京都商-南海】…京都商業時代の昭和14・15年と2年連続で夏の甲子園大会に出場し「中等球界 No,1 投手」の称号を得てプロ、ノンプロの10球団が勧誘に足繁く京都を訪れたが卒業間近に肋膜を患い各球団は潮が引くように去って行った。ただ南海だけは「負担の少ない野手ならば」と獲得した。神田はこの時に南海の為ならば…と心に決めたという。1年目は84試合中54試合に登板して25勝をあげ翌年も61試合登板で24勝した。当時の同僚だった別所毅彦が後に「高目は俺の方が速かったけど低目の伸びは敵わなかった」と語っている。

しかしベンチでは常にマスクをしなければならないほど病状は日々悪化していった。戦時下で食料事情は悪く栄養状態は最悪、しかも選手数も軍隊に召集されて減る一方で充分な休養も与えられず各球団の投手の多くが胸をやられた。神田は決して「ノー」と言わない男だった。三谷八郎監督の打倒巨人の号令の下、顔面蒼白で咳き込みながらもマウンドへ上がった。

昭和17年4月18日から25日までの8日間の5試合すべてに神田は登板し5連勝する獅子奮迅ぶりを発揮した。しかしこの活躍が病状をさらに悪化させ後半戦は9勝12敗と振るわなかった。翌18年は一度もマウンドに上がる事なく7月27日に京都の自宅で息を引き取った。2年間で718回を投げ抜いた天才投手は21歳で夭逝した。

【 通算成績 49勝35敗 防御率 1.36 】


清水秀雄【明治大-南海-近畿日本-グレートリング-中日-大洋】…昔の特に戦前のプロ野球の試合は観客が入らなかった。六大学をはじめとする学生野球や社会人野球が人気でプロ野球は「職業野球」と卑下されていたからだ。昭和15年の1試合平均観客数は僅か1,870人であった。その昭和15年の6月4日、甲子園で行なわれた南海-巨人戦は満員札止めになる程の観客が押しかけた。沢村栄治が復員しての復帰第一戦である事以上に南海の先発投手が清水である事が超満員の理由であった。それだけ清水の人気は凄かったのである。

先にも言った通り当時は学生野球人気が図抜けていて清水はその人気の中心にあった東京六大学リーグで活躍した花形選手だった。昭和12年春から13年秋にかけての明大四連覇の立役者で南海が大枚5千円の支度金で入団に漕ぎ着けた。ちなみに「支度金の上限は3千円」の申し合わせを南海は「申し合わせであり強制力は無い」と無視した。今で言うゴールデンルーキーがあの沢村と投げ合うとなって観客が詰め掛けたのだった。

涼しげな目元で手足が長く均整の取れた容姿は女性に大人気であった。また内面はストイックな部分を持ち合わせていた。学生時代から底なしの酒豪でプロ入り後も酒にまつわる逸話も残したが、登板の2日前からは一滴も口にしなかった。「学生の頃は二日酔いでも勝てたがプロは甘くない。まぁ登板後に倍の量を呑めば同じだし」と笑った。また試合当日のブルペンでの投球練習の内容が悪いと登板を回避した。周りからすれば単なる我がままだが本人曰く「こんな球じゃ観客からお金を取るのは失礼」との事。ちなみに沢村との投げ合いは味方のエラーもあって5回で降板、沢村が復帰戦を1失点の完投勝利で飾った。

【 通算成績 103勝100敗 防御率 2.69 】


寺内一隆【立教大-イーグルス-黒鷲-大和】…素晴らしい足腰のバネであたかもカモシカが岩場を難なく飛び跳ねるかのような華麗な外野守備を誇り、どんな打球でも難なく処理していたのが寺内だ。そんなカモシカが一度だけ岩場から滑り落ちた事があった。昭和12年7月13日東京の洲崎球場での金鯱-イーグルス戦、走者一塁で四番黒沢が放った打球は左中間へ。ここで落下地点で寺内と中根之外野手が激突して両者は失神してしまい、打者走者の黒沢まで生還しランニングホームランとなってしまった。

中根はしばらくして立ち上がったが寺内はそのまま担架で病院送りとなってしまった。「打球を追っていた事までは憶えているけど衝突した記憶は無いんだ。気が付いたらグラウンドに大の字で寝ていて、その横で寺内が泡を吹いていた」と中根は語り「とにかくスマートな選手で華麗な守備はプロが見ても素晴らしかった。同じ外野手として負けてたまるかという気持ちが無理なプレーをさせたのかも。でもあの打球は俺の守備範囲だったと思うよ」と懐述する。

戦前の立教大は「立教」よりも「セントポール」と呼ぶ方がピッタリのハイソでお洒落の代名詞だった。野球のプレーも私生活も垢抜けした選手達が多かったが寺内はその代表格だった。今も横浜で御健在の奥様とは結婚2年目に入営、初めは3ヶ月の教育召集だったが訓練が終了し奥様が丸亀の連隊へ新調した洋服を持って迎えに行くと、なんとその日に再召集され寺内は連隊へ逆戻り。その後二人が会う事は無くこれが最後の別れとなってしまった。

【 通算成績 283安打 13本塁打 打率.197 】 

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