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納戸の奥に眠っている箱を久しぶりに出してみると…
買い集めていた45年前の週刊ベースボールを読み返しています

#175 不適格球場

2011年07月06日 | 1981 年 
   

讀賣のナベツネを知っていても現コミッショナーの名前を知らない野球ファンも少なくないと思います。
オーナー達の言いなりで役立たずの歴代コミッショナーの中で、改革を試みた数少ない人のひとりが
下田武三氏でした。
『本塁打が乱舞する極狭球場』 でも触れましたがプロ野球界はルールの根幹で
あるはずの野球規則を都合のいい様に解釈をしてきました。そこに楔を打ち込んだのが下田氏です。
各球場のフェンスまでの距離を実測した結果を受けて後楽園球場では両翼の90m表示がひっそりと
消されました。



野球規則【1.04】「プレイの妨げになる施設までの距離は250 ft(76.199 m)以上を必要とする」を根拠に日本プロ野球機構は
現在の各球場を適格としているが、附則の「両翼は320 ft(97.534m)以上・中堅は400 ft(121.918m)以上あることを理想と
する」には見て見ぬふりである。さらに【1.05】には次のような附則がある。 ⒜ 1958年6月1日以降、プロフェッショナル野球の
クラブが建造する競技場は本塁より左右両翼の最短距離は325 ft(99.058m)、中堅は400 ft(121.918m)以上を必要とする。
⒝ 1958年6月1日以降、現在の競技場を改造するにあたっては、本塁からの距離は前記の最短距離以下には出来ない。


これだけハッキリと明記されていても1962年に完成した東京スタジアムは両翼90㍍、1978年竣工の
横浜スタジアムの両翼は94㍍、翌年の西武球場は95㍍でした。また、改造にあたるラッキーゾーンの
拡張で西宮球場はさらに狭くなった。だが機構側によれば、いずれも野球規則には抵触していないと
言うのだ。何故なら各球場はプロフェッショナル野球クラブが「自らが建造」したものではないから、が
理由だ。また西宮球場の場合は、拡張されたのは左右中間で両翼までの距離は変えていないからと
苦しい言い訳。確かに各球場は球団とは別会社が経営・維持しているが、詭弁としか言いようがない。



日本のラッキーゾーン第1号は甲子園球場である。大正13年 竣工時の両翼は360 ft(109.7m)、中堅は390 ft(118.9m)、
左右中間は一番深く420 ft(128.0m)と広い球場だった為、本塁打はランニングホームランばかりだった。そこで昭和11年の
外野席拡張工事に伴い両翼を300 ft(91.4m)、左右中間を390 ft(118.9m)に狭めたが、それでも他球場よりも広かった為
本塁打が出にくい球場である事に変わりはなかった。当時両翼が256 ft(78.0m)しかなかった後楽園球場の82試合で84本に
対して甲子園球場は42試合で3本と少なかった。戦後復活したプロ野球は「青バットの大下・赤バットの川上」の出現によって
ホームラン打者待望論時代が到来したが、いかんせん甲子園球場では本塁打が出ず華やかさに欠けると言われ続けていた。
昭和22年のシーズンも5月23日までの36試合が経過しても本塁打はゼロ。遂に5月26日の阪急-巨人戦からラッキーゾーンが
登場し、効果は直ぐに現れた。同試合で第1号が飛び出し結局、設置後77試合で60本が放たれたのである。


ボールやバットが改良され飛距離が格段に伸びるようになっても西宮球場は1991年、甲子園球場は
1992年まで存続させた。飛ばないボールの採用や圧縮バットの禁止など敢然とプロ野球界に挑んだ
下田氏はオーナー達の受けは悪く煙たがられましたが、ファンからの支持もあり当時としては異例の
6年間のコミッショナー在任でした。下田氏以後で球界改革に意欲的なコミッショナーは残念なことに
現れていない。尚、現在でも【1.05】に抵触しているのが横浜スタジアムと意外にも甲子園球場である。

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