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納戸の奥に眠っている箱を久しぶりに出してみると…
買い集めていた45年前の週刊ベースボールを読み返しています

#254 安打製造機 

2013年01月23日 | 1981 年 



「もう打席に入らなくていいと思うとホッとした気持ちの方が強い」と言い残し淡々と引退の言葉を口にした。漂泊の強打者~それが張本の全てなのだ。韓国人である事に誇りを持ち続けてきた張本にとって普通の日本人選手なら何気なく通り抜けられる道でも、時には風雨に叩かれ回り道をしなければならなかった。そんな苦難の道を彼は23年間も、いやプロ入り前も含めると30年以上の年月を独りぼっちで歩き続けた。昭和15年春、広島市大洲町に5人連れの韓国人家族が住みついた。韓国人であるというだけで異端視された時代に5人は麗らかな瀬戸内海に背を向けてひっそりと暮らしていた。やがて一家に新たな家族が加わった。張相禎・朴順分夫妻にとっては2人目となる男の子は「張勲」と名付けられた。

「おい、朝鮮人」蔑視と共に投げかけられた言葉に張本少年は戸惑った。朝鮮人である事の何が悪いのかと母に問うと「何も悪い事はない。そんな風に他人を馬鹿にする人間が一番恥ずかしいの」と教えたという。だが成長するうちに、この言葉の粘りつく重みの様なものを感じ始め「今に見返してやる」と子供ながら反逆の炎を燃え上がらせた。高校受験を前にして広島商には受験する事さえ断られ、広陵高は不合格。浪花商を受験する為に単身、大阪の地に降り立った時が張本勲の漂泊の第一歩だったのかもしれない。その日の食べ物にも事欠く日々から一家が抜け出す為には金を稼ぐしかない。「私が大金を稼ぐにはプロ野球選手になるしかなかった」と張本は後年に語っている。

昭和33年暮れ、遂に念願のプロ野球界へ第一歩を印した。東映で打撃コーチをしていた松木謙次郎と運命の出会いをする。この出会いは張本にとって生まれて初めての「幸運」だった。松木は張本のスイングを一目見て「こいつは将来球界を代表する打者になる」と直感したという。金を稼げる華やかな長距離砲に固執する張本に対してヒットを量産する広角打法を取り入れるよう説き伏せ一流打者に育て上げた。球を線で捉えるという松本の打撃理論を貪るように体に叩き込んだ。昭和34年からの17年間で7度首位打者に輝き、13度のベストナインに選出されるなど球界を代表する選手になった。だがこれ程の選手でありながら張本の周りにはマスコミも含めて白眼視する空気が漂っていた。「粗暴だ」というのが理由だった。子供の頃から売られた喧嘩は買ってきた。争い事は嫌いだが身に降りかかる火の粉は払う必要があり「やられる前にやれ」が少年時代に身に付けた自己防衛策だった。

ビーンボールまがいの投球に対してはバットを片手に肩をいからせて二歩、三歩とマウンドへ向かう。投手の顔に怯えの表情が見えれば充分で、内角に投げづらくなって外寄りの甘い球をすかさずヒットゾーンへ打ち返した。そうした行為がマスコミやファンの目にどう映っているか張本本人も分かっていた。「自分の身は自分で守らなければならない。君たちは一度でも私を救ってくれた事があるのか?」が張本の答えだった。水原監督は張本の心情を理解していた。守備交代を命じられ試合中にもかかわらず憤然とベンチを抜け出し合宿に帰ってしまった張本を水原は父親のように懇々と諭した。巨人を追われるように去ったばかりの水原には張本の屈折した怒りを何となく共感できたのかもしれない。以後、誰よりも水原を信頼して慕うようになる。恐らく張本にとって水原や松木はプロ野球選手になって初めて「見返してやる」必要性を感じなかった人達だろう。

昭和50年オフに高橋一、富田との2対1の交換トレードで巨人へ移籍した。巨人へ来てからの張本は人が変わったように粗暴さが消えた。プライドと世間体を気にする名門チームの中で安泰に生きる場所を求めるには決して肩をいからせてはならない事を張本は知っていた。それは身ひとつで山を越え、河を渡り異郷から異郷へと漂泊を続ける旅人の深い知恵に通じるものである。この頃から張本の心理に微妙な変化が起きる。周囲を威圧し「見下す」前に彼は「見上げられている」事を肌で感じ取っていた。巨人の選手を見るファンの目には憧れと畏敬の念が溢れていたのである。ひたすら金を稼ぐ事に固執していた張本に「名誉」という光が照らし始めたのだ。張本に求められていた役割は王の刺激剤という脇役であった。東映-日拓-日ハムと17年も打線の中心であった張本には役不足であった筈だが、その役割を甘んじて受け入れ巨人のリーグ優勝に貢献した。

昭和54年限りで巨人を退団しロッテへ移籍。ロッテに来てからの張本の打撃はパ・リーグ時代の荒々しさは影を潜め、巨人での4年間の生活が張本の目から獣のような光を奪っていた。長い漂泊の旅はようやく終わりを告げようとしていた。庄司や水上、そして落合といった若手の台頭で張本の居場所は徐々に狭くなっていった。かつての張本なら牙を剥き肩をいからせて若手を押しのけていただろうが晩年の張本にその力は残っていなかった。「よくやったと自分に言いたい」この言葉が全てを言い尽くしている。現役を退いた張本はこれから新たな旅に出ようとしている。その旅がこれまで通りの茨の道となるのか、違ったものになるのか今は未だ分からない。

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1 コメント

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うますぎる (th)
2013-03-21 21:30:30
こんな感動的な文章、今では書ける人いないでしょう。なんて味わいがあるのだろう?
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