'90年代には優勝争いの常連だったヤクルトスワローズ。ヤクルトを強くしたのは野村監督と
言われてますが、万年Bクラスの負け犬集団を叩き直したのが広岡達郎監督です。 前任者の
荒川監督がシーズン途中で解任され広岡コーチが昇格したわけですが、 ここで一悶着が
ありました。広岡コーチは監督就任に際し契約金を要求したのです。こう書くと何か広岡氏が
守銭奴の様に思えますがそうではありませんでした。当時のヤクルトは今以上に良く言えば
ファミリー的で結束力がある、悪く言えばナァナァ&ぬるま湯的でオーナーの鶴の一声で
全てが決まる球団でした。決定権の無い球団フロントは慌ててオーナーにお伺いをたてますが
オーナーの返事は「No」何度かの交渉の末 「500万円なら」となりますが、 これは広岡氏の
オーナー&フロントに対するショック療法だったようで実際は契約金ナシで監督に就任しました。
チーム作りでも広岡監督は大ナタを振るいます。エース松岡が起用法に不満を持ち 御丁寧に
医師の診断書を付けて6月に1週間の"夏休み"を要求したところ、あっさり2軍行き。投手陣の
中心である松岡の処遇を目の当たりにした調子の上がらない安田投手は調整の為に打撃投手を
自ら申し出るなどチーム内の空気は一変しました。
チーム内での様々な禁止事項、飲酒・麻雀・門限 ・・・に選手は勿論 コーチまでが反対しました。
「大人なんだから」「巨人とは違うんです」そんな声に広岡監督は選手達の自由にさせましたが
結果はボロボロ・・選手達から反対の声は消えました。前季途中で就任して体質改善に着手し
この年は2位の成績を収めたものの「まだまだ子供のチーム」「来年は優勝争いに絡んで2年後の
優勝が目標」 と控え目でしたが、翌 '78年には初優勝・日本一の栄冠を手にしました。
言われてますが、万年Bクラスの負け犬集団を叩き直したのが広岡達郎監督です。 前任者の
荒川監督がシーズン途中で解任され広岡コーチが昇格したわけですが、 ここで一悶着が
ありました。広岡コーチは監督就任に際し契約金を要求したのです。こう書くと何か広岡氏が
守銭奴の様に思えますがそうではありませんでした。当時のヤクルトは今以上に良く言えば
ファミリー的で結束力がある、悪く言えばナァナァ&ぬるま湯的でオーナーの鶴の一声で
全てが決まる球団でした。決定権の無い球団フロントは慌ててオーナーにお伺いをたてますが
オーナーの返事は「No」何度かの交渉の末 「500万円なら」となりますが、 これは広岡氏の
オーナー&フロントに対するショック療法だったようで実際は契約金ナシで監督に就任しました。
チーム作りでも広岡監督は大ナタを振るいます。エース松岡が起用法に不満を持ち 御丁寧に
医師の診断書を付けて6月に1週間の"夏休み"を要求したところ、あっさり2軍行き。投手陣の
中心である松岡の処遇を目の当たりにした調子の上がらない安田投手は調整の為に打撃投手を
自ら申し出るなどチーム内の空気は一変しました。
チーム内での様々な禁止事項、飲酒・麻雀・門限 ・・・に選手は勿論 コーチまでが反対しました。
「大人なんだから」「巨人とは違うんです」そんな声に広岡監督は選手達の自由にさせましたが
結果はボロボロ・・選手達から反対の声は消えました。前季途中で就任して体質改善に着手し
この年は2位の成績を収めたものの「まだまだ子供のチーム」「来年は優勝争いに絡んで2年後の
優勝が目標」 と控え目でしたが、翌 '78年には初優勝・日本一の栄冠を手にしました。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます