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納戸の奥に眠っている箱を久しぶりに出してみると…
買い集めていた45年前の週刊ベースボールを読み返しています

# 668 栄枯盛衰 ①

2020年12月30日 | 1977 年 



あのライオンズの再現を願うファンは九州だけでなく、全国にまで及んでいる。パ・リーグを、日本のプロ野球を更に熱狂させる西国の雄の復活はいつの日だろうか。

ライオンズに染み付いた憂鬱の日
パ・リーグが危機と言われてかなりの時が経つ。その間、あれやこれやと人気回復策が講じられたがその効果はサッパリ。一番手っ取り早く確実と言われた " 勝てば人気が出る " はここ2年連続で日本一、特に昨年は巨人を倒して連覇を達成した阪急を見ても、さほどの効果があるようには見えない。過去の例を見てみるとパ・リーグが大賑わいを見せたのはライオンズ全盛の頃だろう。博多の荒武者たちがキラ星の如く居並び常勝と言われた巨人を子ども扱いにした豪放磊落さ。魅力溢れた選手は野球の面白さ、痛快さをふんだんにファンに味合わせてくれた。その効果はパ・リーグの他球団にも波及し、近いうちに「人気のセ」を凌駕するだろうと言われていたものだ。

それがいつしか萎んでしまった。ライオンズの低迷がパ・リーグそのものの低迷を象徴している。ライオンズが九州のチームらしい豪放な魅力で帰って来ることはないのだろうか。低迷のきっかけは昭和44年から翌年にかけてプロ野球界を大揺れに揺さぶった "黒い霧事件 " だ。昭和45年5月25日、コミッショナー裁定で永久追放処分となったのはエースだった池永をはじめ与田、益田の3投手。この3人の前年の勝ち星は合わせて33勝。チーム全体の51勝の6割を超える勝ち星が消えるわけだからチームに与える衝撃の大きさは計り知れない。この事件は同時に球団経営にひたむきな情熱を傾けてきた楠根宗生オーナーの退陣という非常事態まで派生させた。

もともと楽ではなかった私鉄経営の中から利益の地元還元を唱えてやりくりをつけていた球団運営であったが、一連の不祥事で親会社の西日本鉄道が経営難を理由に急速に球団維持への情熱を失っていったのも当然といえば当然であった。そうして昭和47年10月、西鉄球団は中村長芳氏に球団経営権を委譲し、ライオンズはレジャー産業のニューフェイスだった太平洋クラブを球団名として名乗ることになり新たなスタートを切ったのである。初年度の太平洋クラブライオンズは新しい期待を持たせる華やかさがあった。地元ファンの支持が強い稲尾和久氏を監督に迎え、ビュフォード選手、レポーズ選手ら大リーグ経験のある助っ人を揃えるなどファンの期待は高まった。

現在ではカープの赤色や南海のグリーンなどカラフルな色を採用する球団もあるが、当時としては珍しかった太平洋クラブの赤色のユニフォームは異彩を放った。またカネやん率いるロッテと遺恨試合を演出?してパ・リーグを盛り上げた。太平洋クラブ1年目は87万人を動員し、単年度収支がライオンズ史上初となる黒字を計上した。この快挙はプロ野球は儲からないものと決めつけていた西鉄関係者を驚かせた。2年目も前期の優勝争いとロッテとの遺恨試合の余波で78万人を動員して、2年連続でパ・リーグ1位の観客動員数を維持した。

昭和50年前期は江藤新監督の下で2位と躍進したが僅か1年でファンの支持が高かった江藤監督を解雇し、翌年は大リーグで名監督と誉れ高いレオ・ドローチャーを招請しようとしたが失敗。するとチームの士気は低下し昭和51年は前後期ともに最下位に沈んだ。この失態にファンもソッポを向き、観客動員数は前年比43%減の43万人に落ち込み太平洋クラブは球団経営から撤退し、クラウンライターが引き継いだ。昭和31年から3年連続日本一に輝いた往年のライオンズの威光は消え失せてしまった。その原因はもちろん黒い霧事件のダメージもあるだろうが、チーム作りのちぐはぐさもあるのではないだろうか。

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