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まほろば自然博物館

つれづれに、瀬戸のまほろばから自然の様子や民俗・歴史や見聞きしたおはなしをしたいと思います。

霜柱 残しておきたい 命かな

2011年01月23日 | 歴史

 今日はまた、底冷えのする肌寒い一日になった。風が強くないので楽ではあったが、足下からじわじわと「冷え」が上がってくるような感じだった・・。

 で、町内にあるさぬき市歴史民俗資料館に資料画像になるものを探しに出かけたら、今日は・・・旧恵利(えり)家住宅 が開放されていたので寄ってみた・・。

   

 この旧恵利家住宅というのは、19世紀初めに現在のさぬき市大川町新名(しんみょう)に住み着いて、以降、農耕に励み、安政年間(1854~59)の頃、かつて集落の「長:おさ」百姓を務めていた旧家の建物を譲り受けて住居にしたもの。

 この恵利家に住居を譲った旧家がいつ、この地に入植したかは定かではないが、初代が没した記録が元禄12年(1699)で、この建物の構造や手法などがその時期に該当することから、建築年代も17世紀末に建築された香川県内最古の農家住宅とされ、その後、国の重要文化財に指定されている。

 

  恵利家住宅はもともと大川ダムの東方、津田川支流域に所在する「新名」という谷あいの集落に建っていたが、昭和40年代になって老朽化が進むのと、周辺の農家も近代的な住宅に建て替えられていく中で、恵利家でも主家の建て替えを計画した。それを聞いた地元では貴重なこの建物の保存運動が起こり、当時の大川町が寄贈を受けて解体保存し、同町砕石(われいし)地区、大川ダム東側に移築されていた。しかし、当時は管理人もいないため風を通すこともなく雨漏れやシロアリなどが発生し、建物の大幅修理が考えられた。そこで、その機会にと、平成13年に現在の場所、みろく自然公園内に再移築された。

 

 屋根は装飾性の少ない簡素な茅葺きの寄棟造で、屋根周囲を瓦葺の庇とせずに軒先まで茅で葺き降ろした「つくだれ」というこの地方には珍しい屋根をしている。天井は大和天井という、半丸竹を敷き、つづらで編み、その上に藁を敷き詰め、土を塗り付けたものになっている。柱は主に栗が使用され、木材、竹、つた、赤土などそのあたりにあるものをうまく使って建てられている。

 

 主屋は寄棟造り・茅葺で外観が大壁で閉鎖的であり、土間が大きく、土間上手の床上部が手前が一部屋だが、ミナミザ(南座)には囲炉裏が切られており、竹を並べた竹座にムシロが敷かれていて応接間兼リビングであった。キタザ(北座)が台所兼食堂であった。そこに北座から火を焚くようにかまど「おくどさんが」つながっていたが、今はその姿はない。

 『土間』は、三方を土壁で囲まれ開口部は二箇所出入り口で窓はない。広々とした土間では、収穫した農作物の仕分け作業や保存をしていた。

 間口は広く障子が入ってなく広々としているが、本来はここに障子戸があった。ここで日常の生活を営んでいた。 下は足踏みカラウス(唐臼)で、左手上の踏み板に子供が乗って、シーソーのように米や麦をこなした。

 

  旧恵利家は、日本を代表する三間取り形式の住まいで、奥には、座敷と納戸があり、「座敷」には畳が敷かれ床の間があり、南側には、障子戸その外側には、縁側が付いていて、この家では、一番立派な部屋で、客間として使われたり、仏間があり、法事や葬式もここで行われたが、ここは普段には使うことはなかった。

 

 「納戸」は、座敷の北側にあり板式で櫃・箪笥などが置かれていた。昔はここも竹座にムシロ敷きだった。現状の「ツノヤ」部分は、当初からあったものではなく、後に納戸を拡張したもの。ここが夫婦の寝室で、子供らや親たちは・・・ミニナミザで寝た・・。

  四方寄せ棟の茅葺住宅を讃岐では「ツクダレ」又は「ツクダリ」というが、正面から見て棟中央にちょこんと乗る煙出しが大変柔らかなイメージを醸しだしており、民芸的な美しさがある。棟の押さえに「ガップリ」(瓦)が渡してある。住宅の左側に設けられた「座敷」前に、造り付けの「縁側」が付くのも江戸期の農家住宅では珍しい。座敷奥の増築された「納戸」は単純な家周りに変化を与えている。

 

  屋内に入り、「土間」に立って天井を見上げると、木の曲がりや太さの大小をそのまま生かした梁の美しさに、昔の人たちの巧みな技に感動してしまう。

所在地 香川県さぬき市大川町富田中3277-1(みろく自然公園内)
TEL 0879-43-0622
開館時間

9:00~16:30

休館日


12月29日~1月3日 水曜日が休日:水曜日が祭日は翌日

入館料 無料
Web さぬき市文化財保護協会大川支部 


 記事は、『旧恵利家住宅』パンフレットより転載。

 

 で、今日のお昼は・・手近な・・・ところでここになった。

 

 今日はのれんが上がっていないが・・・開店中。さぬき市大川町富田中にある「手打ちうどん・すぎもと」に行った。久々のお店だった・・・。

 

 で、注文したのは・・しっぽくうどん・・。前回は・・・野菜がよく煮込まれていなくておいしくないイメージがあって、しばらくここはスルーしていたのだけれど。こう、寒いと・・・遠くへも行けないもので、「安い」「近所」「短距離」みたいなことで、ここに落ち着いたが、それなりにおいしいと思った・・・。ただ・・、麺が・・・硬いかなぁとは思った・・・。単なる体験者の感想だけれど・・・。

 

じゃぁ、また、明日、会えるといいね。


水仙の 花の白さや 峠道

2011年01月17日 | 歴史

 今朝も冷たい朝になったが、島だからか・・・霜も雪もない普通の寒い朝になった。少しばかり西風がよわくなったかなぁと思った・・・。

 今日は、あの阪神淡路大震災から16年目、仏教的に言えば十七回忌。あの日もこんなに冷たかったのだろうか・・・。

 我が家・・・山の家では・・・朝食なんぞほとんど食べないのだけれど、この・・・海の家に来れば何故か三食をきちんと食べる・・。それも作ったものを完食する・・・。好き嫌いのないものを作るからだし、生ゴミを捨てるのが面倒なこともあって・・・。だからか・・・ここに来れば・・・肥えるような気がする。

 

 で、朝から・・・部屋中に掃除機をかけて、和室部分は開け放って空気の入れ換えというか冷気乾燥というか・・・。締め切ったまんまでは・・・家中がかび臭くなるように思えて・・・。真冬なのだから・・かび臭くはならないのだろうけれど・・・。

 で、丸亀港発・・・9時25分だかのフェリーでお客さんが来られるというので港までお出迎え・・・。十時過ぎにフェリーがやってきた・・・。お葬式のために丸亀に出ていた自治会長さんや、塩飽史談会の事務局の方二名が、三月の「広島歴史探訪」の事前打ち合わせにやってきた・・・。

 

 で、港近くにある・・・丸亀市役所広島支所の会議室をお借りして・・・打ち合わせ。広い・・・さぬき広島のどこを見て回るのか・・・、どういう資料を用意するのか、誰がガイド役を務めるのか・・・みたいな打ち合わせだった・・・。

 どこから・・・見て回って・・・、どこで昼食にするのか・・・、その後・・・どこどこを見て回るのか・・・という事前検討なんぞをお昼までやって・・・。

 

 これは・・・・開校前(建設中)の・・広島小学校の写真らしい・・・。

 その後・・・さぬき広島唯一の食堂・・・ふる里食堂「おかの」でのおうどん・・・。

 

 塩飽史談会の加藤先生と中西さんと、自治会長さんと私の四人・・。皆さんは肉うどんで、私は・・・「きつねうどん小」を注文した・・・。ここは・・平日のみで、金曜日は午前中のみの営業。土日は・・・お客さんがほとんどいないためにお休み・・・。

 

 麺は・・・冷凍うどんなのは島だから仕方が無いが、少しばかり・・・出汁が辛かったかなぁと思う・・・。これで、300円だったと思う・・。自治会長さんのおごりになったもので、それぞれの単価までは覚えていない・・・。

 

 味は保証できないけれど、島で働く石屋さんや工事関係者のお昼をサポートする岡野さんの心意気に拍手。

 

 その後、四人は軽自動車で島を一周して・・・事前の雰囲気調査と順路確認、バスの進入コースやら停車位置、転回場所などの確認などを行った・・・。

 

 この広島現地研修会は三月の中旬の土日あたりを予定しているらしい・・・。なお、広島は広くて・・集落が分散しているために、琴参観光の27人用バスをチャーターして移動する計画らしい・・・。だから・・・最小公倍数の27人を計算して・・・9mのバスをチャーターするのだという。それでも、いくらかは歩いてもらわないといけないところもできる・・・。

 

 歴史通の集まっている「塩飽史談会」の例会だけに・・・普段には見られないもの、普段にはわからないものなどを選りすぐってお見せしたいなぁということで・・・あれこれと・・。

 

 私と・・・自治会長さんの合作で・・・どんな資料ができて、どんな現地研修会になるのか・・・。これからの私たちの大きな宿題になりそうだ・・。

 

じゃぁ、また、明日、会えるといいね。

 


新春特別付録>無線電信と「沈黙時間」

2011年01月15日 | 歴史

 この・・島の家のリビングにこんな時計がある・・・。

 

 少し前の船舶通信の世界には沈黙時間:SP(Silent Period)というのがあった。だから・・・アマチュア無線でも「電波法」という法律は必須条件だった・・。アマチュア無線でも二級アマチュアになると、この無線電信の実技試験があって、キーを叩いてモールス信号を送受信する試験が課された・・・。

 そのほかに特殊無線技士とか電話級無線通信士などの免許も持っていたもので、電波法は全くの憲法みたいなものだった・・・。

 

 この・・「沈黙時間」というのは、毎時15分から三分間と45分から3分間には、 全ての船舶と海岸局は500kHz付近の電波の発射が禁止されており、この間500kcを聴く(Watchする)ことが国際的に義務付けられていた。この時に電波が発射される場合は遭難信号(S・O・S)のみで、それを聞きやすくするために船舶が沈黙する「無言時間」であった。

 

 500kHz(キロ・ヘルツ)は平常時には呼出、応答に使用するが遭難通信(SOS)や緊急通信などに使用される周波数である。船舶や海岸局の時計の文字盤にはこの3分間が赤く塗られていた。

 

 当然、時計はGMT(世界標準時)にセットされていた。この毎時の15分から三分間、45分からの三分間を「沈黙時間」とか「第一沈黙時間」といった・・・。

 

 

 旧電波法の定めでは、

 第六十四条  海岸局及び船舶局は、中央標準時による毎時の十五分過ぎから十八分過ぎまで 及び四十五分過ぎから四十八分過ぎまで(「第一沈黙時間」という。以下同じ。)は、四百八十五キロサイクルから五百十五キロサイクルまでの周波数の電波を発射してはならない。
 但し、遭難通信若しくは緊急通信を行う場合 又は第一沈黙時間の最後の二十秒間に安全信号を送信する場合は、この限りでない。

 

 2 海岸局及び船舶局は、毎時六分をこえない範囲内で電波監理委員会規則で定める時間(「第二沈黙時間」という。以下同じ。)は、前項の周波数以外の電波であつて電波監理委員会規則で定めるものを発射してはならない。 と定められていた。

 

 この電波法は・・昭和25年、旧無線電信法に代わり制定された最初の電波法の条文であった。昭和50年に我が家を新築したが、そのときに「通信室」を作り、アマチュア無線局を新しく整備した。

 

 こういう・・本物の船舶通信室を真似して・・・それらしく風な通信席を作ったのだが、この「沈黙時間」の入った時計なんぞ一般のお店には売っていなかった・・・。そこで会社近くにあった時計屋さんで丸い時計を選んで買って帰り、赤い「第一沈黙時間」と緑の「第二沈黙時間」を自分で書き込んで作ったものだった・・・。

 その後、パソコンの世界にのめりこんで・・・アマチュア無線から撤退して、パソコン通信の世界に入り、いくつものパソコン通信センターを立ち上げたが、やがて、WWWが構築され、WEBの世界が広まると・・・通信室もパソコンが並ぶ部屋になった・・・。

 現在、その電波法の第64条は削除されたし、各地の無線電報局が相次いで廃止されて、船舶通信室から無線電信も廃止された・・・。

  

 この時計も・・・自分で改造した時計で、この家ができた時に、ニフティーサーブのオフ会の会場になった時のものだ・・・。

じゃぁ、また、あとで・・・。


冬ざれて 身動きもできぬ 達磨かな

2011年01月12日 | 歴史

 今朝も冷たい風の流れる・・・底冷えのするような空気だった・・・。八時半からのゴンの散歩について行くだけで鼻が痛くなるし・・・悲しくもないのに涙が流れて仕方が無い・・・。マスクをかけるとメガネが曇る・・・。メガネを外せば・・空気の冷たさが目玉を直撃するような・・・。

 

 風邪をひいたりすると肺炎になりやすいタチだから・・・早々に散歩をやめて書斎に入った・・・。こういう室内ばかりにいるから・・寒さに弱くなるのだなぁと思いつつ・・・、それでも・・・寒さにはどうにも太刀打ちできない・・・。

 そこで・・・年末調整用の医療費の資料作成をやってみることに・・。

 

 私の医療費・薬代、奥方や母の医療費や薬代をそれぞれに整理して・・・それを・・集計していく。三人の医療費は総額で・・・42万円あまり・・・。私のものが・・36万円を占めている。五月と11月の入院費がすごかった・・。

 

 仕事も一段落したし、空も明るくなったものでお出かけをすることにした・・・。灯油もなくなってきたし、愛車の燃料も少なくなったし・・・ということで。

 で、途中、三木町上高岡の山手・・、三木町総合運動公園のその奧にある・・隠れ家のようなおうどん屋さんが、このうどん・そば 「鴻ノ池:こうのいけ」だ。

 

 この・・のぼりがなければ普通の民家だし、こんなところにおうどん屋さんがあるとは誰も気づかない・・・。で、ここには「しっぽくうどん」があると過去の記録を確認して出かけてみた・・・。

 

 で、これが・・しっぽくうどんで、大根もとろけるような味だった・・・。お出汁もまろやかでおいしかった・・・。これで350円・・・。ここは・・・県道から相当に入ってきたところだから、私もここに来るのはずいぶんと久しぶりなような気がした・・・・。以前には・・・11時からの開店だったようで、池の近くで時間待ちをした記憶がある。今は・・・平日は・・10時半からになっているようだった。ここもセルフ店だが・・・ハーフ・セルフみたいで、料金先払いの容器自主返却・・・みたいなお店。まぁ、多くがそういう形式で・・・本当のセルフというお店は少なくなった・・・。

 さて、昨日に・・・84番の屋島寺まで行ったついでに、風も弱くなったので、83番の一宮寺に寄ってみた。ここもお正月を過ぎてしまえば・・・お遍路さんもほとんどお参りがない・・・。寒い時期だからか、平日だからか・・・人影は全くない・・・。

 私も風邪をひかないうちに早々に境内を後にした・・・。

 

 人が100人いれば100人の心がある訳で、それぞれに・・100人の信仰があるわけで・・。私のように見学気分でお寺を回るのとは違って、真剣な意味で、命をかけて・・これらの霊場を回っている人たちがいる訳で。それはそれですごいことだなぁと思う・・・。

 

 形としては・・・立派だなぁとは思うのだけれど、時間はあるがお金がない・・。お金ができた頃には歩けなくなっているのかも知れない・・・。かというて、お接待ばかりをアテにしての・・・無銭旅行には踏み切れない・・・。そういう・・・切羽詰まった状況にもないのだなぁと思う・・・。

 ここには・・・牛鬼伝説が残っている・・・。

 

 あ、82番札所の「根香寺:ねごろじ」を過ぎた・・・。

 

 82番の根香寺とこの81番札所の白峯寺は・・五色台という山の上にある・・。82番は高松市、81番は坂出市側になっている・・・。ここにも全く・・・人影がない・・・。

 ここは崇徳上皇のお墓、崇徳天皇陵がすぐ近くにある・・・。

 

 この山を坂出方面に下りれば・・・坂出市。そこから・・・少しばかり高松方面に戻って・・・高松市国分寺町に入ると・・、この・・讃岐国分寺・・、四国霊場80番札所に着く・・・。

 

 空気が冷たくなってきたものだから・・、今日はここまで・・。

 近くのスーパーに寄ったならば、早くもお正月を過ぎたら・・・節分の豆や鬼のお面が売られていた・・・。

 

 気分は・・・早くも・・節分かいな・・。せわしないなぁ・・。

じゃぁ、また、明日、会えるといいね。

 


新春特別付録>「でんしんばしら」 って覚えていますか ご存じですか

2011年01月10日 | 歴史

 聞くとはなしに聞いていると・・・NHKなんかでも・・「瀬戸内海に浮かぶ讃岐ひろしまは・・・」とか・・「塩飽諸島は瀬戸内海に浮かぶ二十八の島々から・・・」なんていうが、塩飽の島々は・・・決して浮かんでなんかいないのだ。ちゃんとした日本というプレートの上にのっかっているのだ・・。 

 最近はほとんど使われなくなったが、たまにラジオ放送なんかで「でんしんばしら:電信柱」という言葉を聞くことがある。このあたりでもお年寄りが・・「あの電信柱の向こうから車が出てきて・・・」などと使っているが、そのほとんどが「電力柱」だ。つまりは・・「電柱」のこと・・・。「でんしんばしら」なんて言葉はもう・・「死語」になって久しい・・・。

 

 今日では電力線や電話線を支える支持用としての印象が強いが、初期には電報用信号線や鉄道用電気信号線などの電気通信用の電線の支持用として日本全国に普及したことから・・・「電信柱」と呼ばれることが多い。電線1本につき一つの信号しか送れないから、十の信号を送るためには10本の線が必要だった。帰りは大地(アース)を使った・・。

 

  商用電力も電波も発見されていない当時、低圧の電池を使っての信号伝送は1秒間に数回オン、オフする信号を電線で送るのが「電信」だった。電信が一般の人にも開放されたものが電報である。長距離の電話が一般的でない時代(日本では1960年代頃まで)は一般家庭で急ぎの連絡を遠方にする手段は電報が主となっていた・・。

 

 私が入社した頃にはもう電話が一般化しつつあったころだったが、それでも・・「はえたたき」という電柱を建てることを教え込まれた・・。電話の場合は二本で一家庭用。10軒分に電話を引くためには・・20本の線が必要だった・・・。だから・・・一段に4軒分8本を5段・6段と組み合わせた・・。この形が・・昔のハエタタキに似ているから・・・こう呼ばれた・・・。

 

 というても・・、最近の人は「ハエタタキ:蝿叩き」もご存じないかも知れない・・・。ハエは知ってるだろうけれど、殺虫剤とかで退治するかバドミントンのラケットみたいなもので電気で処分するのか・・。

 

 その後、ケーブルというものが導入されたのだけれど、長い線路を使用して電気信号を伝えることが始まったのは19世紀の中頃のこと。電源は電池で電磁石が鉄片をひきつけるという当時発見された現象をいち早く取り入れて、銅線路を使って離れたところにある電磁石を動かして情報を伝えるものだった。

 

 地上の電信は裸の銅線を電柱で空中に支えて送っており、結果的に絶縁材としては非常に性能がよい空気が使われたことで線路のロスも少なく遠くまで波形ひずみも少なく送ることができたから、こんな効率のいいものはなかった。

 線を支える部分はセラミックの碍子。回線ごとに線が引かれたため大量の線が電柱で配線されるようになり、電信は1回線で1本を使い、"リターン"は地面を共通使用した。日本では鉄道より先に全国に電信線が敷設されたが鉄道線路にそって電信柱も立てられるようになり、1960年ころでも地方によって国鉄(当時)の線路わきに数十本の電線が配線された電柱が続く景色が残っているところがあった。

 

  このハエタタキだが、梅雨時には樹木の枝が雨の重みで触れて・・・アースに落ちたり、混線したりと・・自然の力には弱かった・・・。竹竿をかついで・・・山の中を歩いて・・・雨で倒れかかっている笹やら木の枝を払い落しながら・・・通信を確保していく作業・・・。雨と梅雨とで・・・ずぶぬれになりながら・・。

 ましてや・・冬場の雪には無力だった・・。

 

 電線着雪とか・・「スリーブ」とかいうのだけれど、電線の上に積もった雪が重みで下に周り、その上に雪が積もりして・・・雪の筒状になって・・その重みで電話線や信号線が切れてしまう・・・。

 

 これを・・・竹竿とかでたたき落とすのだけれど、叩きすぎると・・電話線を切ってしまうし・・・。雪の中で・・・・、一人きりで・・・泣き出してしまったことがあった・・・。あまりにもばかばかしい・・・・自分の仕事の有様に・・・。

 今となっては・・・笑い話なんだけれども・・・。

 なんとなく・・・、雪の季節に思い出したお話まで・・・。

じゃぁ、また、明日、会えるといいね・・・。


静けさが 塔にしみいる 初参り

2011年01月06日 | 歴史

 最近・・・、私がなまくらになったものか、本当に寒いのだろうか・・・、身体がついて行かないように思う・・・。今日も九時過ぎまでは外に出るのがめんどうで・・・あ、今日は・・「小寒」なのか・・。

 今日は・・・初参りの日だったのだが、私の健康を気遣ってか・・案内がなかったのは・・内心・・ほっとした寒さだった・・・。

 

 で、今日はここへ「初参り」ということで行って来た・・・。ここは高松市内仏生山町にある浄土宗の別格本山である「法然寺」・・・。本当は・・ここの境内にある「竜雲うどん」を目当てに行ったのだけれど、お正月だからか「臨時休業」の張り紙があった・・・。

 

 ここには近年になって、この五重塔が建てられた・・・。このお寺は・・高松松平家の菩提寺でもあり、高松城の詰めの城でもあって、寺の背後には「般若台」と呼ばれる松平家の墓所がある。

 この五重塔は初代高松藩主の松平頼重公が夢見たもので、300年の時を経て、五重塔建立委員会理事長である松平頼武様(高松松平家第十四代当主)が参列して地鎮祭が行われたらしい・・。

 

 これが本堂だけれど、扉は閉められていて・・・参拝の人影も僧侶の姿も見えない・・・。元日の修正会が終われば・・・お参りの人や初詣の人は来ないのだろうか・・・。

 

 これが本堂の内部・・・。本尊は阿弥陀如来立像(伝法然上人作)。正面左手に親鸞聖人像も安置されている。この左手に納骨堂があり、私の祖母や祖父らの遺骨が納められている。とはいうても、その遺骨が安置されている訳ではない・・・。

 そのさらに左手に・・三佛堂がある・・。

 

 正面の阿弥陀三尊像の前に横たわっているのは・・お釈迦様の涅槃像である。手前には・・・お釈迦様の入滅を嘆き悲しむ羅漢やさまざまな動物が配置されている・・・。ここや宝物を見るためには拝観料が必要になる。

 

 ご存じのように・・・親鸞聖人の師匠が法然上人である関係で・・・、私の家では、ここが納骨の場所として、いや、多くの方々がここにお墓を作り、古くからお参りを続けてきた・・・。難しいことは知らないのだけれど・・。

 

 真宗の家ではお墓を作らなかったし、作れなかったこともあるのだと思う・・。「石の下には居らぬぞ」という妙好人がいたように、亡くなった人は石の下には居らぬ・・・ということから、京都の霊山別院とか本山に納骨する風習があったが、京都までも行けない人たちはここに納骨したのかも知れない・・・。

 そういうことで、お目当ての「竜雲うどん」がお休みだったもので、どこに行こうか・・・と考えて走っていると・・。

 

 高松空港に向かう途中に、こんなお店ができていた。昨年の10月ごろに開店したらしいのだが、ここは元は酒屋さんだったと思う・・。セルフのお店で「空海房:くうかいぼう」というお店らしい・・・。

 

 お店の中はこういう感じ・・・。かけうどん小は170円だけれど、私のマイブームのしっぽくうどんは470円。それだし、ここでは、小は1玉、中は1.5玉、大が2玉・・・という計算になるらしい・・・。

 

 この・・ネギと大根おろしは・・自由なトッピングで自分で乗せたもの・・。これで・・470円は少し高いなぁと思った・・・。それだし・・お肉が鶏肉だとは思うのだけれど、この前のシャモみたいに硬いなぁと感じた・・・。少しばかり違和感を覚えた・・・。

じゃぁ、また、明日、会えるといいね。 


野いちごを なめてみてみる 身の軽さ

2010年12月14日 | 歴史

 今日は12月14日・・・。忠臣蔵で有名な赤穂浪士の討ち入りの日らしい・・・。でも、最近は・・敵討ちとか暴力の否定とかで・・・あまり時代劇の剣劇みたいなものは流行らないのか・・・滅多に眼にすることがなくなった・・。

 

 少し前までは・・・ベートベンの「第九」と忠臣蔵がないと年が暮れないように思ったものだったのだけれど。そもそも・・「忠臣」だの「忠義」だのと言う言葉が無くなったんじゃなかろうか。会社のために命を賭けて働くなんていうのは・・・時代遅れというか・・・世の中の流れには似合わなくなったような気もするのだけれど・・。

 ま、それはそれとして、今日は頼まれていた屋島での講演会の日だった・・。NHKテレビの「てっぱん」を見ながら着替えをして、八時半には我が家を出た・・・。

 

 この屋島競技場の少し先に・・・屋島コミュニティーセンターという施設があって、まぁ、昔の・・公民館やね。そこに着いたのが九時過ぎだった・・・。

 

 開演時間は10時だからずいぶんと早くに着いてしまったのだけれど、プロジェクターだのノートPCだのをセットしていると・・、早くも九時半を過ぎてしまって・・・。

 

 ま、十時少し前には準備完了・・・。講演会の聴衆は・・・数十人というところ。三人掛けのテーブルが左右に五列か六列か・・・。ま、多くて四十人ってところだろうかね。主催者発表は聞いていないのだけれど・・・。だから、マイクも音響設備もいらない・・みたいなところだった・・・。

 

 ま、小難しい話ではなくて、気楽に楽しめる歴史講座・・・みたいな雰囲気かな・・・。咸臨丸はなぜ作られたのか? 咸臨丸は何をしにアメリカにいったのか? 誰が咸臨丸を動かして行ったのか・・・みたいな話が主流。

 そんなんで・・・予定の十一時半までお話をして、あと、質問とかを受け付けてお話をして・・・みたいなことだった。

 その後・・・関係者の方とご一緒にお昼を食べたので、今日のおうどんレポートはおやすみ・・・。

 

 この本は・・・「草創の会」という団体が発行している本で、この本の巻末に・・・私の「咸臨丸と塩飽諸島」という特別寄稿が掲載されている。近く・・書店でも販売されると思うので、興味のある方は本屋さんでお求めくださいな。

 発行は 草創の会 製作は(有)エー・ワイ・エー ISBN978-9904218-2-3 C0021  1600YEN 書店で相談してくださいまし。あるいは、「草創の会」にご連絡ください。あるいは私宛に連絡くだされば、私の方から草創の会に連絡いたしますけれど・・。

 

 でも、無事に講演会が終わってようやくにほっとですわ・・。これで今年の予定はおしまい・・・。あとは、年賀状とさぬき広島の「百々手神事」の準備くらいなものかな・・・。年賀状も印刷は終わっているもので、ワン・コメ・・・、コメントを一言ずつ書けばおしまい・・みたいなものだ。

 

 で、明日から・・・」さぬき広島に行って、弓の稽古でもしようかと思ったのだけれど、しばらくは寒くて冬型の天気が強いらしいので・・・しばらくは・・・我が家で「ガンダム5号型」のプラモデルでも作ってみようかなぁと思ったりしている。希望というかが・・軟弱になってしまったね。でも、病院通いもあると・・どうしても慎重になってしまうしね。

 

 ま、年末までには広島にもいかないとあかんのだけれど、当分はお天気観測をやっておきたい0かなぁと・・・。

じゃぁ、また、明日、会えるといいね。

 

 


コスモスを 揺らせて通る 古い駅

2010年12月01日 | 歴史

 あんまし・・テレビに興味があるわけではないし、連続ドラマは見るのに疲れてしまう。話の前後がうまくかみ合ってくれないし・・・。

 ところがこうして・・病室にいると暇で仕方がないし、ちょうど・・朝ご飯の時間に朝ドラが流れるようになっている・・。で・・、見るとはなしに見ていると・・・。

 

 このいけずそうなおばちゃん・・。にこりともせずに苦虫をかみつぶしたようで無愛想だ。でも・・、どこかで見たことがあるんだけれどもなぁ・・と思いつつ・・、思いつつ・・。

 

 でも・・「とみつかさ・・じゅんこ・・・」って、知らないしなぁ・・と思いつつ・・考えつつ・・。ところが・・不思議なもので・・暇つぶしに・・HDDの中を散歩しながら、いろんな画像を開いて眺めていると・・・。

 

 こんなものが・・・。「緋牡丹博徒」の「竜子さん」だ。東映映画の大スターだった菅原文さんや高倉健さんらと任侠映画で活躍していた人・・・。この<<>>が・・・思い出されて・・・。

 

 

 でも・・違うと言えば違うしなぁ・・と考えていたのだけれど。この女優さんの名前がまた・・思い出せない・・。「お竜さん」なんだけれど、名前はそうじゃない・・。ああだこうだと思っていたならば・・。「あ・・じゅんこさん・・。純子さんか・・」ということで・・ようやくに思い出したのが・・「藤純子」って名前だった・・。若い頃に見た映画だからね・・・。それも・・・合間かなにかでちらっと見た程度の映画だったし・・。

 

 このお姉さんが・・・あのおばちゃんとはしばらくの間は結びつかなくて・・・。

 この人ならば・・いまの大家さんの田中さんに結びつくのだけれども・・。で、ようやくに・・謎が解けた・・。「富司」は「とみつか」と読むのではなくて、「ふじ」と読めばいいのだって・・。だとすれば・・「ふじ・じゅんこ」で、あの・・お竜さんに結びついた・・。

 あ・・、ふじじゅんこさんか・・。って、ことでようやくに喉のつっかえがとれたような思いだった。折しも担当ナースさんが、「シャワー浴びますか?」って言ってくれたもので、なおさら・・安堵したものだった。でも、この後が大問題で・・・、喉の奥に・・胃カメラみたいなものを突っ込むっていうのだからね・・。

じゃぁ、また、あとで。


紅葉する街路樹山より派手にして

2010年11月20日 | 歴史

 ようやくに外出許可をもらって自宅に戻った。で、頭を電動バリカンで刈ってもらってお風呂に入ってあたまの先から足の指先まで洗った・・・。

 

 昼食後から坂出の沙弥島での咸臨丸子孫の会に出かけてきた。本当は・・自分で車を運転して走ったりしてはダメなんやろうね。でも、場所が場所だから車で行かなくては・・・。

 

 坂出市の端っこ・・・。番の州工業地帯のその先にある「沙弥島」にある「万葉会館」という建物でのイベント・・・。この会の「実行委員」になっているもので、顔出しだけはしておかねば・・・と思って。私の探し出した子孫の方にお会いもしてお礼も言わねば・・・と思ったりして・・・。

 

 で、関係者の方々にお会いして・・お詫びして・・・時間が制限されたものだから忙しく病院に戻った。でも会える人には会えたし。話したい人にも話せたし。

 


 さて、明日には多度津に行こうか、半日、ゆっくりとしようか。でも、点滴が半分になったのもうれしいし。

じゃぁ、また、明日、会えるといいね。


気合い入れて うどん屋のれんを くぐりたり

2010年08月19日 | 歴史
 うだるような暑さだなぁとは思うのだけれども、この暑さでもみんな働いて、この日本を動かしているんだなぁと思うと・・・、こんな暑さでうだっていてはいけないなぁとは思うのだけれど・・・。

 さてだ・・・。来週に迫ってきたサンフランシスコ訪問・・・。その・・サンフランシスコが寒いというメールが入ってきた・・・。コートーの襟を立てて、中にはマフラーを首に巻いて歩いている人も見かけるし、一日中、寒さのために閉じ込められている人も居るとか・・・。

 急遽、孫たちに・・・防寒対策を指示するけいこばぁ・・・。この・・・気温差のギャップが信じられない・・・。

 

 こんな暑さでは・・・身動きできないと・・本島での講演会用のパワーポイントの資料を作っていたらば、私の弟の「よっくん」がやってきた・・。先日のクラス会の会報を印刷・製本して欲しいという・・。

 

 印刷指定は・・・B5版の両面印刷・・・。簡単なような指定なんだけれど、これがなかなかにうまくいかない・・・。私は・・・A4版社会で動いてきたし、それが世の中のスタンダードだと思ってきたから・・。トリセツを開いても、オンラインマニュアルを読んでも・・・B5版なんて動きそうだけれど、いざとなると不平ばかりで動かない・・・。

 その一方で・・・、私のお仕事の・・・「咸臨丸の水主たち」という資料作りも並行作業・・・。

 

 これも・・映画を作るようなもんだな・・。頭で・・・ストリーを描いておいて、それを脚色して・・・画面を構成していく・・・。本当は・・・コンテなんかを作るといいんだろうな・・・。

 鐵五郎さん・・・、サンデー毎日ならば・・少しはお手伝いしてくれませんか・・。宿泊費無料・食費無料・飲み代無料の・・・ボランティア・・・。アメリカから戻ってきてからだけれどもね・・。

 で・・、宿題の・・「香川県知事選」の「期日前・不在者投票」に行ってきた・・・。

 

 これも・・、少し前のような面倒なことは不要・・・。なんで不在者投票するのか・・・みたいな理由書を書いて、入場券を渡して・・・用紙を受け取って、記入して・・・投票して・・・。普通の投票と同じ・・・。ハンコも証明書もいらない・・・。そういえば、最近の役所も銀行も・・・ハンコは必要ないんやねぇ・・。警察も・・・。

 

 そうそう・・・昨日の・・・佐柳島沖での海保のヘリ墜落事故・・・。四人が死亡、一人が行方不明だとか・・。正義のための死亡か・・・。不注意による事故死か・・・。職務に忠実に生きることと、安全を確保することの天秤秤・・・・。そういう・・経験って確かにあるかなぁと思った・・・。

 一戸の農家の通信を守るために・・・豪雪の中をハシゴを引きずって・・・進んだものの・・行き倒れて遭難しそうになったこともあったし、台風の濁流に流されたこともあったし・・。台風のさなかに孤立して戻れなくなったり・・・。どろんこの泥道で車が動かなくなって歩いて帰ったことも何度もあるし・・・。

 ゲゲゲのしげるさんみたいに・・・幾たびもの試練を生き抜いてきたなぁとは思ったりする・・・。

 さて、今日のお昼は・・・東かがわ市白鳥の・・ほそかわうどん

 

 ここのぶっかけは最高!。それも・・ちくわ磯辺揚げ天ぶっかけ(450円)。これしかないっていうか・・・。ま、好き好きなんだけれども・・・。

 

 ま、ここに来たならば、これを食べまい・・・っていう感じ・・・。いや、好きなものを食べてもいいんだけれども・・。

  

じゃぁ、また、明日、会えるといいね。

ヒロシマの ことしも八月は 暑い夏

2010年08月06日 | 歴史

 広島市内の「平和公園」内にある「原爆の子の像」をご存じだろうか・・・。今年も暑いヒロシマにあの夏の日がやってきた。 


 佐々木 禎子(ささき さだこ、昭和18(1943)年1月7日 - 昭和30(1955)年10月25日)さんは、昭和20(1945)年8月6日、2歳のときに広島市に投下された原子爆弾によって、爆心地から1.7kmの自宅で黒い雨により被爆した。

 同時に被爆した母親は体の不調を訴えたが、禎子は不調を訴えることなく元気に成長した。1954年8月の検査では異常なかった。しかし、11月頃より首のまわりにシコリができはじめ、1955年1月にシコリがおたふく風邪のように顔が腫れ上がり始める。病院で調べるが原因が分からず、2月に大きい病院で調べたところ、白血病であることが判明、長くても1年の命と言われ入院した。

 私が小学校の二年生の時だったかに、このサダコさんのために折り鶴を折って送った記憶が残る・・・。折り鶴を折ることも大流行した・・・。 

佐々木禎子-広島2008


 佐々木 禎子(ささき さだこ、1943年1月7日 - 1955年10月25日)さんは、日本の広島市に住んでいた原爆の被爆者で、広島平和記念公園にある原爆の子の像のモデルともなっている。また、シアトルの平和公園にも銅像がある。2004年7月25日、国立広島原爆死没者追悼平和祈念館に遺影が登録された。

 


 佐々木禎子が在籍していた広島市立幟町中学校に、1955年8月に名古屋の高校生からお見舞いとして折り鶴が送られ、折り始める。禎子だけではなく多くの入院患者が折り始めた。病院では折り紙で千羽鶴を折れば元気になると信じてツルを折りつづけた。8月の下旬に折った鶴は1000羽を超える。

 その時、同じ部屋に入院していた人は「もう1000羽折るわ」と聞いている。その後、折り鶴は小さい物になり、針を使って折るようになる。当時、折り紙は高価で、折り鶴は薬の包み紙のセロファンなどで折られた。死後、禎子が折った鶴は葬儀の時に2、3羽ずつ参列者に配られ、擱に入れて欲しいと呼びかけられ、そして遺品として配られた。

 禎子が生前、折った折り鶴の数は1300羽以上(広島平和記念資料館発表)とも、1500羽以上(「Hiroshima Starship」発表)とも言われる。実際の数については遺族も数えておらず、不明である。また、三角に折られた折りかけの鶴が12羽有った。その後創られた、多くの創話により1000羽未満の話が広められ、折った数に関して多くの説が出ている。

 

 原爆の子の像(げんばくのこのぞう)は、広島県広島市の広島平和記念公園内にある、佐々木禎子(像のモデル、原爆による白血病で死去)の同級生等による募金運動により作られた像。1958年5月5日完成。 

 昭和30(1955)年11月8日に禎子の同級生に対し「禎子さんを始め原爆で死んだ子の霊を慰める石碑を創ろう」と新聞で禎子の死を知った青年により提案され、設置のための活動を始めた。12日に全日本中学校長会場で、禎子の同級生8人によるビラ配りが行われ、全国の中学校より寄付金が寄せられた。12月に入り反響の大きさにより広島市内の小・中・高校に運動への参加を呼びかけ、「広島平和をきずく児童・生徒の会」が組織された。1956年は街中での募金活動が繰り返し行われ、年末までに540万円の寄付金を集めた。募金活動には全国の3000校以上の学校が協力し、募金は海外からも寄せられた。

 私たちもこの運動に賛同し、少ないお小遣いの中からお金を集めて協力した。それが、この、「原爆の子の像」である。

 像の真下にある石碑には、「これはぼくらの叫びです これは私たちの祈りです 世界に平和をきずくための」と刻まれている。 



  内部には鐘があり、風鈴のように、かぜがふくと中にぶら下がっている金の折り鶴がゆれ、鳴る仕掛けになっている。鐘に刻まれた文字は、湯川秀樹が揮毫した。 また原爆を体験した子ども達の証言『原爆の子〜広島の少年少女のうったえ』(文庫版で全2分冊)は、広島大学の教育学の教授、長田新により編纂され、1951年に岩波書店から刊行された。 



 やがてには映画も作られて、みんなで大声をあげて泣きながら・・・映画を見たのも胸に残る・・・。

 

 社会人になってから・・・42年間に18回、ヒロシマの暑い夏を迎え、原爆の子の像に足を運び、「サダコ」のことを思い出してきた・・。

 そんな暑い・・ヒロシマのことを・・・書き残しておきたいと思った夏である・・。

じゃぁ、また。

もやとなり 山肌をゆく 梅雨のあと

2010年07月03日 | 歴史
 今日も一日、雨になって、さすが・・・梅雨だなぁと思える昨今である。例年だと、香川県は雨不足、水不足に悩まされるのだけれど、今年のこの梅雨というか雨だと心配はないと思える・・・。まだまだ・・先は遠いんだけれど。

 

 だで・・・、私のHPにも、「早明浦ダム貯水量情報」をリンクさせた。お暇ならば見てちょうだいませませ・・m(_ _)m。

 さて、今日は奥方のけいこばぁの運転手でお買い物についていった。ま、ふれあい市場だとか、ホームセンターだとか、生協さんだとか・・魚屋さんだとか・・。そのご褒美みたいなもんだろうか・・、今日のお昼は・・珍しく・・・おうどん屋さんではなくて。

 

 読めるかなぁ・・。「うさぎ・三日月・と」と書いてある。どう読むんだろうかと思案をしたのだけれど、「「茶寮・三日月とうさぎ」と書いてあるらしい・・。

 ここで、日替わりランチなるものを食べた・・。800円強で、コーヒーとかを追加すれば100円ほどが加算されたみたい・・。

 

 ま、落ち着いた、おとなの隠れ家・・・みたいなところ。探してもなかなかにたどりつけないし、おそらく・・、その前を素通りしてしまうみたいなところにある。で、建物自体も目立たないし、わからない・・。

 室内は・・茶寮三日月とうさぎ・・・は、こんな感じ・・・。

 

 ゆったりとして、落ち着いておとなの会話が楽しめそうな場所。一方、「日本料理・菊水」というのは・・・これまた・・・似たような宴会場というか、集会場というか・・。ご法事のあととか、慰労会とかいはいいかも・・。

 

 そんなんで、ごちそうになってしまったですよ・・。

 さて、今日は「通天閣の日」なんだそうだ。大阪区大阪市浪速区の盛り場「新世界」にある大阪の象徴とも言える鉄塔の「通天閣」だ。この通天閣は1912年.7月3日に建てられたそうだ。

 

  現在、大阪のシンボルとして建っている通天閣は2代目で、初代の通天閣は1912(明治45)年7月3日、4万坪を超える第5回内国勧業博覧会の跡地に出来た大型娯楽遊園地「ルナパーク」のシンボルタワーとして建設された。当初は高さ64mで、大阪市初のエレベーターも設置され、隣接している遊園地「ルナパーク」には、豊臣秀吉の動く人形などがあった不思議館などもあったそうだ。その後、高さ75mになり、新世界の名所となった。

 

 そんな通天閣も1943(昭和18)年に火災にあってしまい、ちょうど戦中だったこともあり鉄材提供という名目で完全に解体されて姿を消してしまった。後に東京に出来た東京タワーが朝鮮戦争で使用された戦車の廃材を利用して造られたのと対照的な出来事だった。その跡地は現在駐車場になっているそうだ。

 

 戦後4年ほど経ち、人々の生活が安定しはじめた頃「やっぱ大阪のシンボル通天閣が無いのは寂しい」と地元住民の声が盛り上がり、2代目通天閣が誕生した。1954(昭和29)年.9月4日に通天閣観光株式会社が出来、2代目建設計画が始まり、1956(昭和31)年.10月28日に2代目通天閣が完成した。再建にあたり通天閣もパワーアップを図り、高さは倍近い103mになった。そして91mの所に展望台があり、さらに通天閣のてっぺんにあるネオンは天気予報を知らせている。

 

 今夜は・・我が家の・・おじいさんの祥月命日らしいので、これから、おつとめをしてきますね・・。

 
じゃぁ、また、明日、会えるといいね。 

青梅の 落ちて転がる 不動坂

2010年06月28日 | 歴史
 今朝はよく晴れて気持ちのいい朝になったものの・・、すぐにまた湿度が上がってきて・・蒸し蒸しするような一日になった・・。

 

 さて、幾分か古くなった話だけれど、先日の土曜日・・26日に、坂出市櫃石島で、咸臨丸乗り組み水夫の顕彰碑の除幕式があった。ご案内はいただいていたのだけれども、雨が降っていたし、天候がよくないみたいなのでパスさせてもらった・・。行けば良かったのになぁと思ったけれど、あかつき丸を出す勇気はなかったもので・・。

 

 江戸幕府の軍艦・咸臨丸(かんりんまる)に乗り組んだ塩飽(しわく)出身の水夫35人の功績をたたえる顕彰碑が、坂出市の櫃石島に建立され、関係者ら約100人が集まって、除幕式が行われた。咸臨丸の渡米から今年で150年になるのに合わせ、県内の歴史愛好家のグループ・「讃岐龍馬会塩飽社中」が、全国的にはあまり知られていない塩飽諸島出身の水夫たちの活躍に光をあてようと企画したもの。 碑は花こう岩で高さ2メートル、幅2・5メートル。咸臨丸難航図の姿とともに、35人の名と「郷土の誇りとして その名を永く 後世に伝えん」との文字が刻まれている。

 
 
 式典には、坂出市長や、市議会議長、自治会の方々が揃い、その間だけ奇跡的に雨が上がってくれ、35名の塩飽の水主たちの名前が刻まれた石碑に住職さんによって開眼供養が行われ、これにより、塩飽に帰れなかった水主たちが、故郷に戻れたような嬉しい気持ちになったそうだ。

 

 除幕後、全員で35人の冥福を祈ったが、大阪市から駆け付けた子孫の1人、藤本増夫さんは「水夫の半数は、墓の場所も分かっておらず、碑に彼らの名が記されたことは意義深い。過酷な航海を支えた塩飽の男たちのことを多くの人に知ってほしい」と話していたらしい。

 

 そういう情報が・・今朝一番のニュースだった。

 で、朝一番に・・郵便局(今は・・JPっていうんだろうが、なんだか馴染めない・・)に行って、郵便物の発送が六件・・。画像データだとか、アメリカ行きの保険の申し込みとか、なんだかんだのと・・。

 それからだ・・。さぬき市からの「特定健診」。今までの会社でやっていた定期健康診断みたいなものかな・・。これを受けていないと・・保険税が上がる・・とかと書いてあったもので、しぶしぶ出かけた。ま、一年に一度は受けておいてもいいかなぁと思って。

 

 さぬき市内の医院や病院ならばどこでもいいみたいだったもので、空いていそうなところに寄ってみた。ま、県立病院で治療中だから・・特に問題はない・・。

 で、その後、本屋さんで俳句の本を買ったり、ホームセンターで、メダカのえさを買ったりして昼食になった・・。

 

 さぬき市志度のホームセンター近くの「亀城庵・志度店」に寄った。ここはセルフのお店。 席数100の店内は、とにかく広い。半セルフ方式で、メニューを注文し、うどんが手渡されるとずらりと並んだ天ぷら類を取りながら進み、最後に会計。何ともアットホームな雰囲気ではある。

 

 今日は・・暑いもので、さわやかな「ぶっかけうどん小」を注文した。それだけだと・・300円。最近は小食だから・・それでも十分すぎるくらい・・。大根おろしがさっぱりとしておいしかった・・。当然・・おうどん自体も十二分においしいのだけれど・・。

 

 時期的には・・冷やしうどんとか、ザルうどん大・・・とかの注文が多かったように聞こえた・・。ま、好き好きなんだけれども・・。ここも・・100席ほどの広いお店なんだけれど、お昼を過ぎると・・近くの会社とか事務所から・・大勢のお客さんでいっぱいになる。だから・・早々に・・お店を出て・・ホームセンターに向かった・・。

 

じゃぁ、また、明日、会えるといいね。


あじさいも 花にかしわ手 諏訪の宮

2010年06月20日 | 歴史
 日曜の朝は七時半まで寝ていた・・。さすがに歩き疲れたものだろうか・・。で、八時前にはホテルを出た・・。

 

 ヤマダホテルかと思っていたらば、「ラマダ・ホテル」らしい。ホテルの中にはやたらと外国人が多い・・。だからか、テレビを見ようとしてもやたらと外国の放送みたいなものが多くて、見慣れているNHKの普通の放送なんぞはわからない・・。どうすれば「総合放送」を見られるわからないのだ。これではどうしようもないので、ホテルを出た。

 

 ホテルのまえにはこうしたバスが幾らも並んでいる。あの外国人たちが乗って観光するんだろうな。そこから地下鉄に乗ってJRの大阪駅に行く。それから・・JRの三宮駅に降り、そこでお迎えの車に乗り込んで・・・「神戸海軍操錬所跡」に行く。NTTの大きなビルの前にこの記念碑がある。

 

 勝海舟が神戸村に開いた海軍の操錬所の跡らしい・・。

 

 日曜の夜に・・坂本龍馬がどうたらこうたらとやってる学校やね・・。この学校も廃校になり、勝さんは江戸に呼び戻されてしまう・・。その後・・なんたらという小学校の校舎として移築されてしまうみたい・・。

 その後・・・諏訪山という山肌にある「諏訪大明神」したにある・・・「海軍営の碑」を見学に行く・・。

 

 そうそう・・ここからは神戸港が見えて、そこには練習船「日本丸」と「銀河丸」が停泊している。

 

 この「海軍営の碑」というのはほかにもあるらしい。どちらが本物で、どちらが複製なのかは知らないがよく似た石碑があるらしい・・・。

 

 これは諏訪大明神下にあるもの。最近に碑面が書き換えられたようで新しい・・・。

 その後・・・町におりて・・私の誕生日の昼食会になった。

 

 しばらく休憩して・・・我が家にもどったのでありました・・。

じゃぁ、また、明日、会えるといいね。

葛原を 抜けてお寺の 裏に出る

2010年06月14日 | 歴史

 午後からは・・佐柳島へお邪魔して・・。坂出の「朝日丸」という特船を一日・・チャーターしての海の旅・・。普通ならば・・地方(じかた)=丸亀や多度津から・・島に渡る定期船を利用しないと島には上がれない・・。

 

 一行は・・島の集会場に上げていただいて、そこでお茶をいただき、島田さんのご挨拶を受ける・・・。ここでは・・「鐵五郎」さんのほうがお馴染みかも・・。

 

 塩飽諸島には・・二十八の島々があるが、櫃石や岩黒島、与島などは坂出市に、塩飽本島や牛島、広島・手島などは丸亀市に、この・・高見島・佐柳島は・・・多度津町に属している・・・。昔は・・・海上に横につながっていたものが、戦後は・・地図的に・・・縦に結びついたようで、便利なのか、不便になったものか・・。

 

 これが・・塩飽史談会の会長さんの入江先生・・・。九十歳を越えてなおかつお元気そのもの・・。昔のことを見てきたようにお話される・・・。

 佐柳島でも・・八幡神社を見学したり、干満の井戸という不思議な井戸を見学したりして、佐柳の旧庄屋さん「長太夫」宅を訪問・見学させていただいた。

 

 今でも・・広い間取りで豪壮な建物・・・。欄間でも一枚板の立派な彫り物があったり、今でも槍や船突き槍などの武具が残されていたりする。この屏風も由緒あるものらしい・・・。

 で・・歴史というと・・やはり、お寺や神社やお墓に注目せざるを得ない・・。

 今度は・・「乗蓮寺」に向かう・・。ここには・・あの「咸臨丸」の乗り込んだ・・「富蔵」と「前田高次」のお墓があるし、お寺の壁には・・瀬野昇平という人が・・「咸臨丸に野って米国の桑港に行った」という履歴書を張ってある・・・。咸臨丸に乗り組んだ水夫は50人。その内の35人が塩飽の水夫。その中に・・「昇平」という名前はどこにもない・・。この昇平という人物はいかなる人物なのか・・・。

 

 一行は・・・本浦という地区の見学を終え・・再び朝日丸に乗り込んで・・、今度は島の北端にある・・「長崎地区」に向かう・・。

 ここの・・お墓は想像を絶するところ・・。あの・・青森下北の「恐れ山」を彷彿とさせるような光景が・・・。

 

 こういう・・自然石を盛り上げた埋め墓が・・数百と言わず・・・並んでいる・・・。中に・・細長い盛り石があるものが「寝棺」を埋葬した土葬のお墓。小さな丸い盛り石は・・病院とかで亡くなって・・遺骨となって島に帰り埋葬されたお墓・・。最近はこういうお墓が多くなったとか・・。

 

 ここでも・・小さな石碑に・・故人の俗名が刻まれていて、誰を埋葬したのかがわかるようになっている。少し前までは桐の木を刻んだ「地蔵」という人形をさして居たが、今ではそういう風習もすたれたようだし、草履や杖を添えるお墓もすっかりと見なくなった・・。

 一つの盛り塚に、二つ以上の石碑があるものは、親子とか夫婦の遺骨を並べて埋葬したものだとか・・・。

 で・・少し離れた場所には・・立派な戒名を刻み込んだ「参り墓」の並んだ墓地がある・・。

 

 16時過ぎには・・佐柳島にお別れ・・西山先生や島田先生とお別れし、一行は・・さぬき広島・・丸亀港・・塩飽本島・・与島・櫃石島・・坂出へと寄港しながら流れ解散になった・・。

 私は・・広島には戻らず・・丸亀港で下船・・、久しぶりにさぬき市に戻ってきた・・。

じゃぁ、また。
 
 


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