まほろば自然博物館

つれづれに、瀬戸のまほろばから自然の様子や民俗・歴史や見聞きしたおはなしをしたいと思います。

豆まきが こんなに悲しい 遊びとは

2019年01月31日 | 観光ガイド的日常

 さぬき市地方は前線や湿った空気の影響で雨が降っている。気温は6.5度から8.0度、湿度は90%から76%、風は1mから3mの北西の風が少しばかり。明日の2月1日は、冬型の気圧配置となり、寒気の影響で概ね曇る見込みらしい。

 

 129/71-62 36.4c-97% 60.5Kg 1003hPa,12c.66% 体調に変化はない。昨年秋には2リットル入りのペットボトルが持てなかったのに、昨日は18リットル入りの灯油タンクを両手で二つ、合計36リットルを30m運ぶことができた。

 

 体重は、61Kgから60.0あたりをフラフラとしている。トイレへ行く回数で体重は増減している。1回のトイレで0.2Kgから0.3Kgが減る計算。10回行けば1Kgは減る。

 

 今日は雨だということで、道標探しはあきらめて資料整理やら本の原稿になる部分を書き加えていた。

 

 今日は高地蔵から中津庵までの前山中津地区のデータ整理だった。

 

 これで、今まで調べた分は整理が終わった。これからは、前山から花折峠を越えて、多和地区に入っていくことになる。

 

 明日も天気が悪そうだから、これまでにまとめた資料を印刷してみて校正作業にかかろうか。

 

 この時期になると、このお話。自由律俳人の「住宅(すみたく)顕信」の「未完成」という句集である。 住宅顕信は、本名・住宅春美(すみたく はるみ)。岡山県岡山市に生まれた。岡山市立石井中学校卒業。1976年4月、岡山市内の下田学園調理師学校に入学。同時に就職し、昼は勤務し夜は通学という生活に入る。4歳年上の女性と知り合い、同棲を始める。この頃より詩、宗教書、哲学書に親しんだ。

 

 1978年3月、下田学園卒業。1980年、父親の勤務先である岡山市役所に臨時職員で採用され、清掃の仕事に従事。仏教にに傾倒し、1982年9月より、中央仏教学院の通信教育を受講。翌1983年4月、教育課程修了。7月、西本願寺にて得度。浄土真宗本願寺派の僧侶となり、法名を釋顕信と名告る。10月、同棲相手と結婚。両親の援助により自宅の一部を改造して仏間をつくり、浄土真宗の根本経典「無量寿経」に因み、無量寿庵と名付けた。

 

 1984年2月、急性骨髄性白血病を発病し岡山市民病院に入院。6月、長男誕生。不治の病の夫に対して妻の実家の希望により離婚。長男は顕信が引き取り、病室にて育てる。10月、自由律俳句雑誌「層雲」の誌友となり、層雲社事務室の池田実吉に師事。この頃より自由律俳句に傾倒し、句作に励むようになる。特に尾崎放哉に心酔した。1985年に句集『試作帳』を自費出版。「層雲」の権威主義的な疑念を感じ、「層雲」の元編集者である藤本一幸が主宰する自由律俳句誌「海市」に参加する。翌1986年、「海市」編集同人となる。病状が悪化し、この年の12月からは代筆によらなければ投書できなくなる。1987年2月7日23時23分、還浄。享年25。俳人としての創作期間はわずか3年で、生涯に残した俳句は281句だった。(Wikipediaより)

 

 住宅顕信の人生も俳句もまた、「未完成」のままに終わってしまった。南無阿弥陀仏に出会った人生。彼の人生は「むなしくはなかった」のだろうか・・・。

 

 二月が来ると、なぜか、この夭折してしまった自由律俳人、「住宅顕信」のことが思い出されて仕方がない。

 

 今日の掲示板はこれ。「鬼とは私のことか 豆がまかれる」という住宅顕信の俳句から。いつもお世話になっている赤松先生のお寺の掲示板にあったもの。もうすぐ節分。冬と春の分かれ目ということで、暦の上では春になるころである。節分といえば豆まきであるが、豆まきを題材にした俳句を取り上げた時期らしいことばである。「鬼とは私のことか豆がまかれる」 ことばと言っても、これは自由律俳句。荻原井泉水、尾崎放哉、種田山頭火などの流れを汲むもので、「住宅顕信」さんは1987年に25歳の若さで急性骨髄性白血病で亡くなった俳人だ。この句にも、作者のそうした悲しい背景が忍び込んでいるように感じられるのだけれど。

 

じゃぁ、また、明日、会えたら、いいね。


如月は 人の数だけ 鬼がいる

2019年01月30日 | 観光ガイド的日常

 さぬき市地方は高気圧に覆われて概ね晴れていたが、夜は気圧の谷や湿った空気の影響で曇るらしい。気温は0度から10.3度、湿度は90%から63%、風は0mから1mの北西の風が少しばかり。明日の31日は、前線や湿った空気の影響で、朝から夜のはじめ頃にかけて雨となる見込みらしい。

 

 113/63-59 36.2c-97 61.4Kg 1024hPa,5c,50% 昨夜の夕食は奥方自作のにぎり寿司だったもので、少しばかり食べ過ぎたようで体重が少しばかり増えてしまった。相変わらず肩こりは楽にならない。

 

 ということで、今日も石仏、道標、供養塔の調査である。こういう地蔵堂や釈迦堂なんぞは先生たちや先輩たちも話してはくれない。とにかく時代が古いとか年号が古いものがお好きなようで、江戸時代後半や幕末から明治期のことなんぞは眼中にない。それじゃダメじゃん、春風亭昇太。私たちは観光ガイドであって、歴史研究会ではないのである。

 

 で、地図に位置を確定しながらマーキングしていく。ところが、このへんろ道は狭くて車を停める場所が少なくて遠い。

 

 これが釈迦堂で、ちゃんと扉を開けて確認する。しかしのかかし、「釈迦堂」と言うもの自体が珍しい。地蔵菩薩やお不動さんはあちらこちらで見かけるがお釈迦さん、しかも石に刻んだお釈迦さんというのは珍しい。

 

 これが、そのお釈迦さんの石仏である。お釈迦さんだと言われれば、へぇ、そうなんだ・・と思うくらい。安全のためにお線香やろうそくはお供えしない。

 

 で、ダムに沈んだ中津にあったへんろ墓を集めたという「中津庵」も探して行ってきた。

 

 この一群がそうらしい。ここは場所だけが確認できていたらいい。遍路墓は後半だ。まずは、道標や供養塔、丁石なんぞからやってみる。それだって大変なことなんだ。

 

 戻ると、地図を取り込んで、そこに矢印マークを張り込んで案内図を作っておく。

 

 そうして、ワードを使って文章やら説明やら刻まれている文字などを整理し、地図も張り込めば、観光ガイドのマニュアルができる。これは歩いてみなければわからない情報が詰まっている。

 

 こうしたお地蔵さんのよだれかけもめくって調べてみるが、お参りはしない。

 

 これは馬の墓だが、これは明治後期のものらしく、先生はこれには触れないし、先輩たちもノーマークである。徳島県には「犬の墓」というものがあるが、ここには観光バスを止めてでも拝観に行くのだけれど。ま、お大師さんがらみでないと話題にも上らない。

 

 ときどき、袖の刻まれた道標があったが、呉服屋さんが建てた道標であるらしい。着物屋さんのPR道しるべなのか。

 

 二月が近くなったら、鬼のお話ばかりになるが、今日の掲示板はこれ。「ぬけぬけと「鬼は外」とは笑止なり」という、いつもの赤松先生のお寺の掲示板から。調べてみれば、この句は、ある同人誌に投稿された俳句であるらしい。節分の行事は、お寺でも神社でも行われているが、神社では「追儺(ついな)」という行事からの変化らしいが、お寺の節分はそれなりの独自の意義と作法のある法要になる。そんな難しい節分の意義を、一言で表す法語がこれだが、別のお寺では、「ぬけぬけと 「鬼は外」とは その口で」という句を見かけた。上五・中七は同じだが、「その口で」というのが鮮やかなぁと思ったことだった。節分という季節の変わり目を機会に、この口を、このこころをリセット・再起動せよというているのかも知れない。

 

じゃぁ、また、明日、会えたら、いいね。


道標を 探す目先の 黄蝋梅

2019年01月29日 | 観光ガイド的日常

 さぬき市地方は高気圧に覆われて晴れていた。気温は3.5度から10.0度、湿度は60%から56%、風は4mから1mの西北西の風が少しばかり。明日の30日は、高気圧に覆われて晴れるけれど、夕方からは気圧の谷や湿った空気の影響で曇る見込みらしい。

 

 128/60-61 36.4c-90% 60.2Kg 1024hPa,6c,58% 体調に変化はないが、肩こりがひどい。昨夜も奥方に湿布薬を張ってもらったが、あんまり効果はないみたい。

 

 今日は奥方がお休みの日。久々に食材を買い出しに行くので一緒に行ってほしいというので、家にいればPCばかりやるようになるので・・ということで運転手でついて行くことになった。まずは銀行でお金を引き出して・・・。

 

 ここでは新鮮なお魚屋野菜をどっさりと買った。あんまりお魚やお肉は好きではないのだが、驚くほどに魚を買った。まさに「ギョギョギョ~」だった。

 

 お野菜も、ほとんどをお猿に食べられてしまったので、これまたどっさりと買った。買い物かごには山盛りになってトマトや玉ねぎが転がり落ちそう。

 

 ダイエット中の私には目の毒になるようなものばかり。でも、こういうお店にでもお念珠やおろうそくなんぞが置いてあるのが「レレレのレだな」と思った。

 

 奥方御用達のうどん屋さんは火曜日が定休日。そこで、セルフうどんの「元気」というお店に入った。ここは駐車場が広いので電気工事や電話工事、水道工事などの工事関係者が多いし、一般の若者からお年寄りまで幅広いお客さんが集まってくる。ま、そんだけ早くて安くて旨いのだと思った。

 

 私は冬季限定の「しっぽくうどん」小をお願いした。400円だった。するとおねぎの中に変なものが入っている。

 

 ねぎを切り忘れたのかと思ったのだが、どうにもこれはネギではないらしい。アロエの葉っぱのようだが、なんでねぎの中にアロエが入るのか・・・。

 

 食後、奥方が、「あ、ビールも納豆も豆腐も・・・」と言い出したので、いつものスーパーへ寄ってみた。私もトイレ休憩で入ってみた。その後、あのお店、このお店と買い物の運転手。そのたんびにトイレ休憩。

 

 午後からは、昨日までに調べた道標の記録と整理をやっていた。今のように、スマホや携帯電話、ナビゲーションや地図さえない時代、聞き伝えや仲間同士の助け合いでへんろ道を歩いたのだろう。そういう人が迷わぬように、あちらこちらに道標を残している。

 

 ところが、そうした道標は今のへんろ道沿いにあるとは限らない。細い路地の傍らやあぜ道沿いにもあったりするし、道路工事や家屋の工事なんぞで、引き抜かれ、捨てられていたり、違った場所に置かれたりする。だから、簡単に道標探しができるわけではない。

 

 こういうものだって、昔からここにあったという保証はどこにもない。道路拡幅や家の新築などで、邪魔になって墓地の片隅に置かれたのかもしれない。昔のことはだんだんとわからなくなってしまうのだ。それをきちんとした形で残しておけば、後世への遺言にもなろうというものだ。

 

 今日の掲示板はこれ。「いいか 今日がこれまでの人生の最後の日だ いいか 今日はこれからの人生の最初の日だ」というもの。荒了寛さんは、1928年福島県生まれで10歳で仏門に入った。大正大学大学院博士課程(天台学専攻)修了。仙台市仙岳院、清浄光院(仙台)、大福寺(福島)などを歴任したのち、現天台宗ハワイ開教総長としてハワイ在住。ハワイおよびアメリカ本土で布教活動に従事している。その傍ら、ハワイ美術院、ハワイ学院日本語学校などを設立、日本文化の紹介や普及に努めている。独自の画法による仏画も描き、サンフランシスコ、ボストン、ニューヨークなどで個展を開催し、日本各地でも毎年個展を続けている。主な著書には、「慈しみと悲しみ」「人生の要領の悪い人へ」 「画文集・慈しみと悲しみの仏たち」「アメリカ仏教の夢」 「ハワイ日系米兵、私たちは何と戦ったのか」 「娑婆を読む」「生きるとはなぁ」「生きよまず生きよ」他がある。

 

じゃぁ、また、明日、会えたら、いいね。


しら梅の 咲いて遍路の 見えぬ寺

2019年01月28日 | 観光ガイド的日常

 さぬき市地方は、気圧の谷や湿った空気の影響で曇り、昼過ぎにかけて雨が降る所があった。気温は1.5度から10.8度、湿度は80%から61%、風は2mから8mの西の風が一時は強かった。明日の29日は、寒気の影響で午前中は曇るが、その後は高気圧に覆われて晴れる見込みらしい。

 

  128/65-65 36.3c-90% 60.6Kg 1018hPa,6c,52% 体調に変化はない。肩こりと右手首や指が痛いのはパソコンの叩き過ぎ。今日も「道標」という「宝探しゲーム」のために長尾寺にやってきた。ここに7つの道標があるというのだが、見つけたのは3基だけ。あと4つだ。

 

 最初に見つけたのはこれ。確かに指のようなものが刻まれている。こんな看板に隠れていては見つけられないではないか。

 

 そして本坊の玄関先も袖付きの指が刻まれている。これはどこかにあったものを移設したのだろうか。この中に入って撮影するのは気が引ける。お遍路さんならば「納経」ということでお邪魔できるのだけれど。

 

 この左から二番目のものは指が刻まれているからわかったのだけれど、左端の大きなものは、「馬方連中」が寄進したもの。詳しい旅程が刻まれている。真ん中のものは平成に入っての建立だから注目はしない。

 

 これは、東門を入ったところ、薬師堂前の道標である。こんなものになぜ、気が付かなかったんだろう。これもへんろ道沿いにあったものを境内に移設したんだろう。これで長尾寺の七件はクリアーした。

 

 長尾寺を出て、大窪寺へのへんろ道をしばらく走ると、香川県道10号線と交差する。その交差点右手(西側北詰め)に、この案内板がある。長尾寺の北にも、この清水九兵衛の道標があった。

 

 こういう「三界万霊塔」である。「三界」とは仏教のことばで欲界、色界、無色界の三つをさし、この世の生きとし生けるものすべての霊をこの塔に宿らせているという意味を持つ。台座正面に「三界萬霊」、右面に「出羽國秋田/清水九兵衛」、左面に「明和九壬辰年/三月七日造建」と刻字があり、出羽國秋田の清水九兵衛が施主となり、明和9年(1772)に造立したものであることが解る。

 

 いくら探してもわからなかったのがこれ。この黒ずんだ四角い石柱である。先の交差点を南に進むと上辛立の遍路道沿いに中務茂兵衛百三十九度の道標がある。正面に「右指し指印/大窪寺道/是より・四里」、右面に「右へ長尾寺伽藍」、左面に「東白鳥四里/西琴平十里」とあり、ちょうどここが南北の遍路道と白鳥・琴平を結ぶ東西道の交差点であることが解る。しかし、明治34年の地図と照合すると、この茂兵衛道標がある地点より北側の交差点が東西道との交差点と考えられ、移設されている可能性が考えられる道標である。

 

 これだってそうだ。宝(寶)政寺を出て、塚原橋の手前右側に、正面上部に弘法大師坐像を刻み、下部に「大くぼ□□/百七十一□」とある道標がちょこんとある。おそらく「百七十一丁」と考えられ、一丁を109mとすると18・639kmで、大窪寺までのおおよその距離に相当する。

 

 帰ると、その結果を記録しておく。とにかく、覚えても覚えてもすぐに記憶から消えてしまうお年頃なのである。

 

 そうこうしていたらば日が暮れる。なんと一日の速いことだろうか。

 

 そうそう、一昨日、センターのPCの動作が遅くなったので、右のPCと入れ替えてみた。すると、ネットワーク回線がタイムアウトする現象が起こり、どうにもならなかったので元に戻した。回線接続は元に戻ったのだが、今度は画面が横になったり、上下が入れ替わったりと使用不能の状態に。ま、今朝がた、元には戻せたのだけれど、余計に肩こりがひどくなったことだった。

 

 節分には少し早いのだけれど、今日の掲示板はこれ。町内の善楽寺さんのお寺にあったもので、「福願う 心の裏に 鬼の顔」というもの。親鸞聖人は、このようにうたわれている。「悪性(あくしょう)さらにやめがたし、こころは蛇蝎(じゃかつ)のごとくなり」聖人は、自己の内にみんながいやがる蛇蝎を発見されたのである。私こそ蛇でございます、蝎(さそり)でございますと、蛇や蝎のような心、鬼のような心と言ってもよいだろうか、そのような心を見出されたのである。

 

じゃぁ、また、明日、会えたら、いいね。


風となり 枯れ野飛び去る 鴨数羽

2019年01月27日 | 観光ガイド的日常

 さぬき市地方は、冬型の気圧配置ではじめ曇っていたが、次第に冬型の気圧配置が緩んできて晴れてきた。気温は3.5度から9.7度、湿度は72%から56%、風は2mから5mの西北西の風が少しばかり。明日の28日は、気圧の谷や湿った空気の影響で概ね曇り、昼前から夕方にかけて雨の降る所がある見込みらしい。

 

 117/60-65 36.4c-97% 60.5Kg 1022hPa,8c,66% 体調の変化はない。ただ、右の肩こりがひどいのと、右手首がひどく痛むようになった。耳のつまりはなくなった。右目が少しかすむのか。パソコンのやりすぎだというのは実感している。

 

 午前中はパソコンに触らないように掃除や散歩をしていたが、どうにも落ち着かないので、お昼から隣町の図書館に行ってきた。

 

 で、道標調べの参考書を借りて、そのまま、長尾寺に向かった。天気もよくなってきたので、長尾寺からへんろ道を通って、前山のおへんろ交流サロンまで下調べをしようと考えた。

 

 へんろ道をのろのろと走りながら、あ、あった、これもそうだ・・と道標を調べながら、ついでに車を止める場所も考えながら。ここは広い場所があったのでゆっくりと写真を撮りながら調べてみた。

 

 これは、石垣に使われている道標である。

 

 ここにはたくさんの石像物がある「一心庵」である。ここでもたくさんの写真を撮った。

 

 ここにも「武田徳右衛門」の道標があった。

 

 へんろ道を進んでいくと前山ダムの堰堤にぶつかる。その手前に、こんな水車があった。ダムができる少し前まで、この「中津」という集落には数件の「水車小屋」があった。そのモニュメントとして作られたものだが、管理する人がいないためか草にまみれ、水は枯れ、誰にも相手にされないままになっている。

 

 以前には、このような水車が回っていたらしい。

 

 その上、今の県道脇に移設されている道標がこれである。あの水車あたりにあったものらしい。中務(なかつかさ)茂兵衛の道標である。

 

 今日の下調べはここまで。今日もネットワークの調子が悪く、書いては消え、書いては消えしながらのブログになった。

 

 今日の掲示板はこれ。「鬼というおそろしきものはどこにある 邪見の人の胸に住むなり」という一休禅師のことばから。鬼は地獄に住むものと子供の頃から教えられてきたが、その地獄なり鬼なりはどこにあるかといえば、みんなこの身や、この心の中にあるというのである。「邪見」はまちがった人生観や世界観である。身びいきや身勝手なエゴイスティックな人生観や世界観が地獄の世界であり、鬼の住むところなのであるというのである。(松原泰道『一休さんの幸福論』より)

 

じゃぁ、また、明日、あえたら、いいね。


冬しぐれ 帰りを急ぐ 犬がいる

2019年01月26日 | 観光ガイド的日常

 さぬき市地方は、冬型の気圧配置が強まり、山地を中心に雪や雨が降っていた。また、夕方にかけて雷を伴う所がある見込みらしい。気温は4.0度から5.8度、湿度は82%から63%、風は3mから6mの北西の風が一時は強かった。明日の27日は、冬型の気圧配置が続くため曇り、昼過ぎから高気圧に覆われてくるため晴れる見込みらしい。

 

 129/71-62 36.4c-97% 60.5Kg 1015hPa,8c,48% 体調に変わりはない。昨夜から大雪だ、大雪だと天気予報は賑やかだったが、朝方は雪の気配もないままに奥方は出勤していった。

 

 時折り粉雪が舞ってはいたが、積もるほどでもなく、あっという間に消えてしまった。しかしのかかし、今日が今年の初雪にはなった。

 

 あとは晴れたり吹雪いたり曇ったりの連続になった。

 

 全国的にインフルエンザが大流行しているというので、こんな日はお出かけはない。50歳後半にはよく風邪を引いたり、肺炎で二週間も三週間も入院したことがあるが、退職後は風邪らしい風邪にもかからず、肺炎にも掛かっていないし、インフルエンザにもなってはいない。

 

 で、昨日の続きで、長尾寺までの調べた道標についてまとめる作業をやっていた。

 

 こういうデータなんぞも取り込んでみた。

 

 とりあえずの記録である。このままをマニュアルにするわけではない。読めなかった文字や、データにない道標の再調査なんぞもやらねばならない。

 

 それだし、ネットワーク接続がおかしいのか、データ転送も速度が異常に遅い。

 

 そうこうするうちに、連日のPC作業で肩こりがひどくなってきたので、今日の作業は中止になった。

 

 今日の掲示板はこれ。「頼まれたらすぐやる、誠実にやる。それをコツコツ積み重ねることが一番大事」という伊牟田均さんの言葉から。経営不振にあえいでいた九州の名門ホテル「城山観光ホテル」の運営会社、城山観光(鹿児島市)を私的整理後、最高益に導いた伊牟田均社長(65)。野村証券で企業の育成・再生の腕を磨き、再建請負人として38年ぶりに鹿児島に呼び戻され5年半。「お客様も社員も幸せを重ねられる場所がこのホテル」とふるさとへ優しいまなざしを注いでいる。

 

じゃぁ、また、明日、会えたら、いいね。


冬うらら 番茶の渋さと 指のしわ

2019年01月25日 | 観光ガイド的日常

 さぬき市地方は高気圧に覆われて概ね晴れていたが。気温は2度から11.7度、湿度は82%から54%、風は1mから5mの西南西の風が一時は強かった。明日の26日は、冬型の気圧配置が強まるため曇り、明け方から朝にかけて雪や雨となるらしい。強風や高波、26日明け方から大雪のおそれがあり、明け方から夕方にかけては雷を伴う所がある見込みなのだとか。

 

 122/74-64 36.5c-98% 60.2Kg 1018hPa,4c,68% 体調はすこぶるいい。今日は奥方がお休みだというので7時まで寝てしまっていた。

 

 奥方がお休みだというのでは出かけられない。そこで、先日に調べた道標の整理をやっておいた。早めに記録としてまとめておかないと、記憶が飛んでしまって忘れてしまうのである。

 

 で、合間に休憩を入れながらの作業になった。

 

 ところが、どういう形式でまとめたらいいのかがわからなくなってしまって、あれこれと、文書を探し出して書いたり消したり、別の論文形式に書き直したり。そうこうするうちにワードが使えなくなったり、画像がうまく回転できなくなったりとトラブル続き。

 

 地図をどうしようかと考えたり、

 

 このデーターは正しいのだろうかと考え込んだりと、少しも前には進まない。やる気スイッチが入っていないのか、接触不良なのか。

 

 この手のひらは止まれなのか、「さあ、どうぞ」と言う意味なのかとか。どこかで聞いたような記憶があるのだが思い出さない。

 

 秋田からやってきた九兵衛さんは、何を思って、お遍路が盛んになる前に、ここに道標を建てたのだろうか。その頃はまだお遍路さんは多くなかったはず。

 

 こんな小さな道しるべだって、お金がないと建てられない。何かの意味がなければ建てられない石材なのである。そこに思いが至らない。

 

 中務茂兵衛は、本名:中司(なかつかさ)亀吉。弘化2年(1845)4月30日に、周防(すおう)国大島郡椋野(むくの)村 (現山口県久賀町椋野)の庄屋中司家の三男として生まれた。22歳の時に家を出て、四国八十八箇所巡拝を始めたと言われている。以来二度と故郷には戻らず、生涯巡拝の旅を続け、そして最後となる78歳の巡礼で、6か月余りかかってたどり着いた結願の大窪寺を目前にして病に倒れた。実に280度目の巡礼だった。最後は、彼のよき支援者であり信奉者でもあった久保ちか子宅(現:香川県高松市通り町)で56年にわたる遍路生涯の幕を下ろし大往生を遂げた。時に大正11年(1922年)3月20日午前1時であったと言われている。

 

 彼の残した道標のひとつに刻まれた、『生まれきて 残れるものとて 石ばかり 我が身は消えし 昔なりけり』という句は、自らその生涯を詠み上げているかのように思えるのである。彼の道標建立は、厄年の42歳のとき、巡拝が88回目になったのを記念して始め、以後多数の道標を建立し続け、100度目からは『義教』の法名を刻むようにもなった。その道標の特徴は、ほとんどが大型(道標高の平均約124cm)であり、刻字に彼の出身地である『周防国大島郡椋野村』と、建立の年月、巡拝度数、茂兵衛義教の氏名・法名を刻んでいることである。また、道標には珍しく句歌を刻み、『迷う身を教へて通す法の道』という句を好んで選んでいる。

 

 今日の掲示板はこれ。「上手くいくためには成長するしかない 成長するためには失敗するしかない 失敗するためにはやってみるしかない。」というもの。どこの誰の言葉かはわからない。今日の観光ガイドマニュアル作りもそうだった。何度やってもダメだった画像回転ができたり、画像の加工がうまくいかなったのができたりと、とにかくやってみなければ失敗か成功かはわからない。成功したら成長する。成長していけばうまくいく・・ということは実感できた。

 

じゃぁ、また、明日、会えたら、いいね。


水仙は 頷くことを 知っている

2019年01月24日 | 今日もまた、病院に行って・・・。

 さぬき市地方は、冬型の気圧配置となっているため、概ね晴れていた。気温は6.5度から9.6度、湿度は76%から56%、風は1mから3mの北北西の風が少しばかり。明日の25日は、引き続き冬型の気圧配置となるため、概ね曇る見込みらしい。

 

 110/62-61 36.4c-97% 60.5Kg 1016hPa,5c,62% 体調に変化はない。今日は月に一度の定期検診日。予約時間が11時だからと10時前に病院に入った。

 

 まずは、恒例の胸部X線検査、肺にいくらほどの水が溜まっているのかを調べるもの。今日は患者さんも少なく10分ほどで終わった。

 

 次いで検体検査。採血と採尿である。これも見ていたかのように処置室に呼ばれて数分で済んだ。採尿もすぐに終わった。だから、10時20分には検査が済んだ。

 

 ふと受付表を見ると、11:30~12:00となっている。これでは、まだまだ1時間もあるじゃないかと時計を見た。

 

 受付時に、身長と体重を計ることになっている。自分で体重計に乗れば、自動で体重と身長を計るもの。家を出るときに何度も計測し、軽めで薄めの服を調節してきたので、体重は予定通り。この記録が出れば、来月までは安心してお茶やジュースが飲める。

 

 それまで我慢をしていたお茶やかき氷なんぞを自動販売機で買って飲んで喉の渇きを抑えておく。トイレにも10分おきに行く。1時間は永いのだ。

 

 胸水は、若干少なくなって肺の面積が多くなっている。飲む水分を少なくしているせいなのか、呼吸法が変わったのか。でも、まだまだ左肺とは大きく違う。でも、このせいで呼吸が苦しいとか息苦しいとかはない。

 

 いつものように、血圧、脈拍、体重、体温、酸素などの記録を提出し、

 

 日々記録表を提出して「OK」を頂いた。「入院時よりも体重が落ちていますね。あと2Kg、頑張れますか?」と言われた。自信はないが、やるしかないなぁと思った。

 

 で、町内の薬局で、処方された薬を受けとって帰宅。

 

 今回は35日分だから、どっさりとあった。漢方薬の「防風通聖散」がどっしりとあった。この薬だけは食間に飲むのだが、食事前30分程度というのだから、ついつい、飲み忘れてしまう。特に昼食前なんぞはほとんど飲めていない。

 

 病院の15,260円には、酸素圧縮機のリース料13,000円が入っているから高い。そろそろやめたいのだが、ドクターはOKと言わない。薬代の18,000円は35日分だから仕方がない。

 

 今日の掲示板はこれ。「何時か逝く 道とはかねて聞きしかど 昨日今日とは思わざりしを」というもの。この和歌は在原業平が病気で死にそうになった時に呼んだ歌と言われている、「ついに行く 道とはかねて聞きしかど 昨日今日とは思わざりしを」というもの。それを、このお寺さんが最初の句を変えたものらしい。「いや~、人間必ず死ぬってことは知ってたつもりだったんだけどさ、まさか昨日今日で、自分が死ぬとは思ってなかったよ~」というような、とっても人間的な歌である。和歌にしても物語にしても、解釈というのは実ははどうとでもできる部分があって、この歌も「もう死ぬんだなぁ~、あはは。さぁ~来世にいこうぜ♪」という諦めの気持ちで詠んだものか、「もう死ぬんだなぁぁ、残念だなぁ、悔しいなぁぁ・・」という執着の気持ちで詠んだのかは、本人のみぞ知るである。どちらにしても、人は死ぬというのは当たり前の話で昔からよく知られた事実だったはず。ただ、それでも「自分が当事者」になった時はびっくりするものらしい。

 

じゃぁ、また、明日、会えたら、いいね。


霜の朝 妻の居ぬ間に 芋を焼く

2019年01月23日 | 観光ガイド的日常

 さぬき市地方は高気圧に覆われて概ね晴れていた。気温は4.0度から12.7度、湿度は80%から54%、風は2mから7mの西の風が一時は強かった。明日の24日は、冬型の気圧配置となるため、概ね曇る見込みらしい。

 

 134/74-66 36.2c-96% 60.4Kg 1015hPa,5c,62% 体調に変化はない。ドクターから58Kgまで体重を落とせと言われていたが、60.4Kgまでしか落ちなかった。先月の予約診察では、62.3Kgだったから、四週間で2Kgしか減量できなかったわけだ。

 

 今日も天気がいいので運動を兼ねて、石造物調査に行ってきた。先日の87番奥の院、玉泉寺からの再スタートになった。これも、中務(なかつかさ)茂兵衛さんの建てた道標である。建てたと言っても言い出しっぺで、お金は別の商人が出して石工さんが建てたもの。ここには二基の中務さんの道標がある。

 

 今日は上のD2から下のHまでの散歩である。散歩と言っても、途中の空き地に車を停めて、そこから歩いて石造物を探して、また、車に戻り、先に進んで車を停めて・・・という車併用散歩である。今日の距離は約4Kmほど。

 

 これもわからず、いつも素通りしていたもの。

 

 ネット検索で見つけたものの、「八幡神社参道」というのが見つからずにウロウロしていたもの。やはり、往復歩いてみなければわからないもの。歴史の先生は、明治期の道標は眼中にないらしく古いへんろ墓ばかりの説明が多かったせいもある。

 

 こういう江戸時代の道標は詳しく説明があったので覚えている。

 

 これも明治期の中務茂兵衛の道標である。こういう交差点に道標が建てられている。案内板には川田家の道標となっているが、実際には違う名前の人のおうちになっている。

 

 こういう案内板があれば、すぐにわかるのだが、なかなかに見つからない道標もある。

 

 で、ようやく目的地の長尾寺に着いた。

 

 これは本堂前にある中務茂兵衛の道標だが、明治のものだから説明はなかった。

 

 で、先生が熱心に説明したのは、お地蔵さんの台座である。ここには「宝暦」という年号が入っており、これも道標だったということだった。これだと気づかないはずだ。

 

 手水舎脇には道標がいくつも並んでいるが、江戸期のものは、中央の低くて古いもの。もう、文字はほとんど読み取れない。今日の調査はここまで。今日は12基を確認した。

 

 今日の掲示板はこれ。「現在が続いて将来となる 現在を離れて将来はない」という清澤満之先生のお言葉から。清澤先生は文久3年、尾張藩に生まれた。東京帝国大学卒業後、明治21年、京都府尋常中学校の校長に赴任するが、辞任して禁欲自戒の生活に入った。明治25年、『宗教哲学骸骨』を刊行。宗門改革のために雑誌「教界時言」を発刊し一時僧籍を剥奪されるが、僧籍を回復し真宗大学初代学長に就任。明治 34年、雑誌「精神界」を発行。明治36年、愛知県で死去。享年41歳であった。

 

じゃぁ、また、明日、会えたら、いいね。


春めいて 雲に笑顔が 似合う空

2019年01月22日 | 観光ガイド的日常

 さぬき市地方は高気圧に覆われて概ね晴れていた。気温は7.0度から11.1度、湿度は72%から53%、風は1mから5mの西の風が一時は冷たかった。明日の23日は、引き続き高気圧に覆われて概ね晴れる見込みらしい。

 

 132/68-63 36.3c-97% 60.8Kg 1018Hpa,12c,64% 今日も体調に変化はない。だんだんと歩けるようになってきたので、今日も香川県立図書館にやってきた。

 

 先週だかに借りた五冊の本を返却にきた。道標は道標ばかり、お寺はお寺のことばかり。そればかりではつまらんではないか。みんなが楽しんで読めるような本はないものかと探しているが、探している間には見つからない。

 

 ないならば、私が作ればいいではないか。ないならば私が書けばいいではないか・・・ということで作業中。毎日、引きこもりみたいに作業をやっていたらば肩が凝る。目が霞む、耳が聞こえなくなる。気分転換に図書館にやってきた。

 

 で、また、むつかしい報告書を借りてきた。またまた、腱鞘炎になりそうな本だ。

 

 気分転換用に借りてきた本だが、これならばすぐにでも作れそうな本だ。

 

 家に戻ると、さぬき市図書館で借りていた本を読み込んでしまっておく。「丁石」や「へんろ墓」の位置図をスキャニングしておいたり、参考資料を読み込んでおく。

 

 だいたいの場所は分かっているのだが、山中や竹藪の中にあるものはわからない。今の時期は日光の光が弱いのできれいな画像にはならないし、かと言って夏になればやぶ蚊や蛇も出る。今の時期は草が刈れて歩きやすいのだが、時間の調整がむつかしい。

 

 画像や文書も読み込めた。

 

 大変お世話になったこの本を返却することになった。

 

 で、さぬき市立図書館寒川分館へ返却して、新たな本を借りようとしたが、ここには参考になりそうな本は一冊もなかった。だから、今回は返却のみ。ここには私の本は一冊もない。でも、印刷製本する手間がもったいないし、費用もかかるので考慮中。

 

 帰りに郵便局に寄って、切手シートをもらってきた。

 

 今年も4枚だけだった。

 

 今日の掲示板はこれ。「恥を知るものは恥かかず 口を閉じて目を開け」というもの。何が恥かわからないことが本当の恥。厚顔無恥と言うか、厚かましいというか。本当の恥を知っているものは恥をかかないということ。だから、自分の考えや感情を抑えて、周囲の状況や相手の意見を聞いて判断することが大切であるということ。

 

じゃぁ、また、明日、会えたら、いいね。


冬の川 淡い光を 運ぶ鳥

2019年01月21日 | 時にはぼぉっ~とする時

 さぬき市地方は、冬型の気圧配置で概ね晴れていた。気温は5.0度から10.5度、湿度は66%から59%、風は4mから6mの西の風が少しばかり。明日の22日は、高気圧に覆われて概ね晴れる見込みらしい。

 

 110/72-68 36.3c-96% 60.6Kg 1015hPa,14c,52% 今日も体調に変化はない。ということで、9時に我が家発で10時半に丸亀港着。快晴で暖かい朝になった。

 

 11時10分発の高速艇「ニュービサン」で、丸亀市沖の「しわく広島」に向かう。今日の乗客は10名程度。

 

 多少、波があって揺れたけれど、船長さんは平気の平左。乗客も慣れたものだ。

 

 いつもは軽トラで家に向かうのだが、今日は散歩とリハビリと減量を兼ねて歩いてみた。徒歩で15分ほど。数百メートルの距離だ。12月に切った木の枝がそのままだった。

 

 目指したのは、年賀はがきと一枚の通知書。この年賀はがきは切手シートからも外れていた。今年はとうとう年賀ハガキも一枚になった。

 

 お目当てはこれ。確定申告用の源泉徴収票一枚。この通知書のために、わざわざ往復6時間をかけてやってきたというわけ。江の浦港着が11時半。我が家に着いたのが11時45分。

 

 で、持ってきた「梅がゆ」とところてんを食べて、12時半には家を出る。せわしないことだ。

 

 で、12時50分発のフェリーボート「しわく丸」に乗って丸亀港に向かう。今日は大型トラックが4台と乗客が10名ほど。

 

 毎年、くだらんことだなぁとは思いつつ、この源泉徴収票1枚だけが、島の家に届くんだろうかと思案はするのだが、確定申告が終われば忘れてしまうのだ。住所変更届をすればいいのか悪いのかわからんままに毎年が過ぎていく。

 

 帰りに、ついでだからと、丸亀市綾歌町にある「福成寺」に寄ってみた。

 

 一応、本堂に向かって合掌礼拝(がっしょう・らいはい)。まんまんちゃん、あい。

 

 まだ、ここの寒桜はこの程度。一分咲き、二分咲き。それでも大きなカメラを構えたご婦人がいた。

 

 こんなもんだ。

 

 今日の掲示板はこれ。「人生に回り道はあっても 近道はない」というもの。いつもお世話になっている赤松先生のお寺の掲示板にあったもの。京都の永観堂さんのことばかも。人生の目的地がどこか・・という疑問もあるけれど、遠回りして気づくならば、それも悪くないし、遠回りするからこそ、気づくことだってあるように思う。「歳をとりすぎた!」「チャンスを逃した!」「今からでは遅い!」「もう手遅れだ!」と言うのは簡単だが、まずは一歩踏み出せば、見える世界が変わるもの。遠回りは、幸せへの近道なのかも知れない。

 

じゃぁ、また、明日、会えたら、いいね。


大寒は 話す相手も いないまま

2019年01月20日 | 観光ガイド的日常

 さぬき市地方は、気圧の谷や湿った空気の影響で雨が降っていた。気温は7.5度から10.7度、湿度は84%から58%、風は1mから6mの西の風が一時は強かった。明日の21日は、冬型の気圧配置となるため、概ね曇るらしい。

 

 132/55-68 36.4c-97% 61.6Kg 1020hPa,16c,74% 昨日はよく歩いたもので、肉うどんを完食したし、夜はお好み焼きをぺろりと食べたからか、今日は少しばかり身体が重い。

 

 朝からずっと雨ばかりの一日になった。本来ならば雪になりそうな時期なのだが、今年は雪が降らずに雨が降る。

 

 昨年の今頃の画像である。それが今年は雨になった。暖冬なのか、今季はまだ雪を見ていない。

 

 いつもだと、この時期には島の家に行って、溜まっている郵便物を持って帰ることになっている。というのも、年賀状はともかくとして、

 

 年金の源泉徴収票が島の家に送られてくるのである。これがないと確定申告の手続きができないのだ。だから、今日は行きたかったのだけれど、雨では仕方がない。

 

 今日は暦の上では、「大寒」である。大寒(だいかん)は、二十四節気の第24。 現在広まっている定気法では太陽黄経が300度のときで1月20日ごろからで、次の「立春」までの期間を差すこともある。暦の上では、1月20日からが一年で最も寒い時期ということになるのだが、実際には一週間ほど後の1月26日から2月4日までに最低気温を更新することが多く、若干のズレがある。

 

 で、相変わらずの石造物調査の資料整理やら・・・。

 

 昨日の調査をまとめてみたり・・・、

 

 今度行く、道標などの下調べ・・・。

 

 ここには、徳右衛門の道標は三基と書いてあるが、実際にはもっともっと多い。

 

 そういうデーターも整理していた。そういうことをしていると肩がこるし、目が霞んで来る。ドライアイだろうか、疲れ目だろうか。だから、休み休みの作業になった。

 

 今日の掲示板はこれ。「受け止める 大地のありて 椿落つ」という、竹内洞達先生の句からである。花の終わり方はそれぞれ違う。桜は散る。梅はこぼれる。菊は舞う。牡丹は崩れる。そして今が旬の椿は「落ちる」のだ。椿は花びらを散らさず、花全体が落ちるのだ。それも単に落ちて散るのではない。受け止める大地に着地するのである。そして、その椿とは私のことである。そして、これを受け止めてくれる世界があるから安心して落ちてゆくのである。

 

じゃぁ、また、明日、会えたら、いいね。


春めいて うどん屋脇を 過ぎる風

2019年01月19日 | 観光ガイド的日常

 さぬき市地方は高気圧に覆われて晴れていた。気温は3度から13度、湿度は90%から57%、風は2mから3mの西の風が少しばかり。明日の20日は、気圧の谷や湿った空気の影響で曇り、昼前には雨が降る見込みらしい。

 

 128/65-60 36.4c-97% 60.5Kg 1020hPa,6c,62% 体調に変化はない。

 

 今日も昨日の続きで、志度寺からさぬき市造田宮西の広瀬橋までを歩きながら道標を探してきた。車で途中まで行き、そこから歩いて調べて戻ってくる。まるで尺取虫みたいなものだ。ま、往復調べられるから便利だと思ったのだが、案外としんどい作業になった。

 

 志度寺さんから歩いて国道まで歩き、そこから、また戻って、車で正面(しょうめん)地区の交差点まで走り、そこから歩いて・・・みたいな調べ方。

 

 こういうものを調べて歩いていくわけだ。本当は、偉い先生方がとっくに調べて資料にしてくれているのだが、それを、この目で確認しないと納得できないってことだ。ところが先生は具体的な場所を書いていないので、それを探して歩くことになる。

 

 これは、「幸田(こうでん)墓地」である。上段に三基、中段に二基、県道沿いに八基のへんろ墓があると書いてあるが、それを、この中から探し出すのは容易なことではない。この、左下の雑草の生えているお墓が怪しいのだが、もう、文字はほとんど読み取れない。

 

 この中央右が、「京都室町」の地が読めるので、これはへんろ墓だとわかるが、そのほかはさっぱり。

 

 案外と読めないものだ。何度か通っていると光線や影で読めたりするものだから。

 

 ここでもお墓を探したけれどわからないし、すぐ北に「供養塔」があるらしいのだが、それも見つからない。

 

 ここはさぬき市造田の長行(ながいく)墓地。この中から六基のお墓を探すというのも無理と言うもの。

 

 これは、先生の資料にはないのだが、武田徳右エ門の道標を、あとで中務茂兵衛が改刻したものらしい。

 

 これも中務茂兵衛の道標である。「当山伽藍 241度目為供養 / 願主 中務茂兵衛義教」と刻んである。明治四十四年十一月吉辰とも刻んである。私たちの先生たちは古いものがお好きなようで、明治以降のものは眼中にない・・というような感じがした。

 

 で、午前11時。パワーダウンでここでお昼にした。さぬき市造田宮西にある「溜うどん」である。

 

 写真は悪いが、「肉ぶっかけ小の温いん」で400円。

 

 今日の掲示板はこれ。「同じことでも「なんだこれしかできない」と不満に思う人「これだけはできた」と喜ぶ人 喜ぶ人が幸せへ」というもの。「3歩しか歩けない」と嘆くのか、「3歩も歩けた」と喜ぶかの違い。それが人生には大きなことで、1,000Kmしか歩けないのか、1,000Kmも歩けたと喜ぶのかみたいな差になって来る。人生は、そんな少しの差が大きな喜びに実って来るものだ。昨年の秋には50mが歩けなかったのに、今日は往復で8Kmは歩いたことになる。今回の調査で、しみじみとかみしめたことだった。

 

じゃぁ、また、明日、会えたら、いいね。


補陀落の 初観音や 庭静か

2019年01月18日 | 観光ガイド的日常

 さぬき市地方は冬型の気圧配置は次第に緩むため、概ね晴れていた。気温は6.0度から10.8度、湿度は74%から58%、風は2mから5mの西の風が少しばかり。明日の19日は、高気圧に覆われて晴れる見込みらしい。

 

 128/65-67 36.5c-97% 60.4Kg 1021hPa,8c,48% おなか回りが軽くなったせいか、呼吸が楽になってきた。だから歩いても呼吸できなくなることはなくなってきた。

 

 それに天気もいいことだし、毎日引きこもってパソコンばかりでは身体に良くないぞ・・と、今日は志度寺さんにやってきた。この境内にはたくさんの石造物があるということだった。

 

 これが、四国遍路の父と呼ばれた「真念」さんの道標で、香川県下には11基があるが、さぬき市内にはここだけしかない。

 

 これは、養成講座でも勉強しなかったが、「日本回国六十六部供養塔」である。六十六部というのは、法華経を66回書写して、一部ずつを全国66か所の霊場に納めて歩いた巡礼者。室町時代に始まるという。また、江戸時代に、仏像を入れた厨子(ずし)を背負って鉦(かね)や鈴を鳴らして米銭を請い歩いた者。略して「六部(ろくぶ)」とも言った。その成就した記念碑である。

 

 ここには、「宝永六年六月」と刻まれ、1711年のものである。地元の商人が寄付をして建てたものらしい。

 

 これは井豫の住人「武田徳右エ門」が願主となって建てた道標で、「是より長尾寺へ一里半」と刻まれている。当初は志度寺山門前参道にあったが、事故で倒れ、永らく境内に横積みされていたが、いつの頃からか、納経所手前に建てられている。

 

 で、境内をくまなく探し回ったが、「台座」という道標が見当たらない。地蔵か観音さまかの台座になっているらしいのだが。

 

 ついでに、「無染庭」ものぞいてきた。今日はお遍路さんもいなくて静かな志度寺だった。

 

 境内には、このような記念碑や石仏、石橋、寄進石などが雑多に積み上げられているが、肝心の台座は見つからない。

 

 これは高松藩主の「生駒親正」公のお墓である。ま、こういう有名無名の石碑や墓標なんぞが立ち並んでいる。

 

 で、帰るとすぐに、見てきたことをまとめておく。明日になれば忘れてしまうからである。

 

 宥辨 真念(ゆうべん しんねん、出生年は不明、没年は1692年〈元禄5年〉、または1691年〈元禄4年〉の説もある)は、江戸時代初期の高野聖。 その生涯の長らくにわたり四国八十八箇所の巡拝を行うとともに、それにまつわる様々な活動を行って四国遍路を広く人々に知らしめたことから「遍路の父」「四国遍路中興の祖」と云われる。「四國邊路道指南(みちしるべ)」「四國偏礼功徳記」など庶民に遍路を紹介する書物を記した。高松市牟礼町の洲崎寺に墓がある。

 

 で、明日以降の調査のための準備もやっておいた。

 

 今日の掲示板はこれ。「カタツムリ どこで死んでも 我が家かな」という小林一茶の俳句から。かたつむりは、どこで命終わろうとも、そこがわが家であるから何の心配もいらない。私たちは、いつ、どこで、どのような命の終わり方をしようとも、常に阿弥陀さまの救いの中である。一茶は、阿弥陀さまと共に人生を歩む人のことをかたつむりに託して詠んだのだろう。最近は、我が家で死を迎える人は少なくなったけれど、「なむあみだ どこで死んでも 我が家かな」そういう気持ちで生きてゆきたいものである。

 

じゃぁ、また、明日、会えたら、いいね。


へんろ道 歴史踏み分け 寒土用

2019年01月17日 | 観光ガイド的日常

 さぬき市地方は冬型の気圧配置や湿った空気の影響で概ね曇りとなっていたが、午後からは晴れてきた。気温は3.5度から9.0度、湿度は70%から60%、風は4mから6mの西の風が少しばかり。明日の18日は、引き続き冬型の気圧配置となるため、概ね曇る見込みらしい。

 

 114/62-59 36.3c-97% 60.4Kg 1015hPa,12c,58% 体調に変化はない。順調な毎日が続いている。

 

 さぬき市立図書館寒川分館で借りていた「長尾町史」を返却に行ったら、10:00開館だと書いてあった。少しばかり時間があったもので・・・。

 

 すぐ近くにある、「21世紀館さんがわ」という文化施設があるので入ってみた。誰もいなくてがらーんとした美術展だった。

 

 十河安則先生は小学校の時の美術だか図画工作だかの先生だったような気がするし、永山虎男先生は中学校の美術の先生だった。本山さんは農家をしながら独学で絵を勉強した人らしい。植村さんは全く知らない人だった。

 

 これが十河先生の絵である。なぜだか、この先生は土器とか埴輪、地蔵さんやお遍路さんが絵の中に入っている。

 

 惜しいかな、だあれも入ってこない。入場無料なのに。

 

 で、町史を返却して帰ろうとすると、こんな本が目についた。おお、これだ、これだ・・と、この本を借りることにした。

 

 それに・・・、

 

 こういう本とか。この本なんぞは誰も開いてみたことがないらしい。ま、こういう本を読もうという人はまずいない。

 

 で、参考になるところはスキャナーで読み込んでおく。で、「OneDrive」に格納しておくと、8台のパソコンやiPadで自由に読み書きができる。ま、自分専用のクラウドみたいなものだ。

 

 温かくなるまでに、体調を万全にしておかないと・・・だな。ま、写真を写すくらいならば今でも十分には可能なんだけれど。

 

 今日の掲示板はこれ。「まどえる身にも信あらば 生死のままに涅槃あり」というもの。どこのお寺にあったものかは覚えていない。そして、この言葉は、「正信偈」の「惑染凡夫信心発 証知生死即涅槃」〔惑染の凡夫、信心発すれば、生死すなはち涅槃なりと証知せしむ。〕(『註釈版聖典』206頁)のおこころを詠われたものである。これは、煩悩に染まり惑う凡夫であっても、ひとたび他力の信心をおこしたならば、迷いの身であるままで、やがて浄土に往生して「生死すなはち涅槃なり」という、仏のさとりを開くことができる、ということである。私たちは浄土に生まれ、どう変えられていくのか、言い換えれば浄土往生の相状として、私たちの側から他力のはたらきをどのように受け止められていくのかということが、ここに示されているのである。

 

じゃぁ、また、明日、会えたら、いいね。


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