さぬき市地方は気圧の谷の影響で薄雲が広がっていた。夜遅くには雨が降る見込みらしい。気温は10度から18度、湿度は94%から78%、風は1mから3mの東北東の風が少しばかり。明日の4月1日は四国の南海上を東に進む低気圧の影響で夕方まで雨が降る見込みらしい。
すっかりと春めいてきた朝になった。ウインドブレーカーも帽子も手袋もいらなくなった。
で、木曜日になったので、さぬき市富田中にある「さぬき市歴史民俗資料館」にやってきた。ここの休館日が水曜日だったからだ。
ここで企画展の「古文書からたどる近代教育のあけぼの・明義堂・鴨居家展」が開かれている。鴨居ミチさん・・・というのは、高校の時の書道の先生だったが、あとの方はわからない。同じ町内に住んでいながら、明義堂が何であったのかも覚えてはいない。
寒川郡冨田西村に生まれた鴨居忠次郎は、明治2年に高松藩の許可を得て西村2520番地に郷校の創立計画をする。明治3年に許可され明治4年に竣工して、近郷近在から100名にも及ぶ生徒が集まり「明義堂」と称した。鴨居家の土地に、鴨居氏の資金や資材で建設して高松藩に寄付する形だったという。
その時の門がこれであるという。これは写真である。
これが、郷校設立の嘆願書である。教授陣は高松藩の講道館から派遣されてきた。この忠次郎も漢学準少助教を務めていた。
ところが、明治5年になると学制が公布され、明義堂は「大道小学校」となり、忠次郎は雑事係をしながら教育の任にあたったという。明治28年までの24年間、この校舎は使用されたが、校舎の傷みが激しく、遂に取り壊されてしまったという。
これが、その跡地近くに建てられている記念碑で、ここが富田小学校の起源であると記されている。その富田小学校も昨年に閉校となってしまった。
これが、その展示室の様子であり、白髪あたまの方が、私どもの会長であり、ここの文化財保護協会のお仕事もされているらしい。
この方が、忠次郎さんの二男の武さん。東大合格香川県人第一号、博士号香川県人第一号、東大名誉教授となった方。私は全く、知らない人だった。この先生の著書や研究器具なども展示されていた。
この額は、工学博士鴨居武先生が大正14年に描かれたもので、富田小学校の講堂に掲げられていたものらしい。
この方は、武さんの次女の「鴨居ミチ」さんという方で、日展で19回連続入選するなどした書道家である。私の高校でも書道の先生をしていたが、教えていただいたことはない。ただの普通のおばさまだったような記憶がある。
その先生の書の入った屏風である。これまた、立派なものだった。
これは、鴨居道先生筆の「かな手本・四国霊場八十八ケ所御詠歌」である。地元に、こんな人が居たのか・・・と、驚くと共に、こんな資料や、こんな書簡や、こんな貴重な本が眠っていたのか・・・と驚かされることばかりであった。
今日の掲示板はこれ。「今日も一日無事に過ごせた これに勝る幸せはない」というもの。「日々是好日」という言葉あるが、晴れた日も、風の日も雨の日もある。主体的に懸命に今日一日を生きるなら、それはかけがえのない一日となり、毎日が佳き日となる。「今日も一日無事に過ごせた。これに勝る幸せはない。」そう、感謝して、今日を終えたいものである。
じゃぁ、また、明日、会えたらいいね。