まほろば自然博物館

つれづれに、瀬戸のまほろばから自然の様子や民俗・歴史や見聞きしたおはなしをしたいと思います。

突き抜ける 五月の空は 今日限り

2014年05月31日 | お役目ごくろうさまであらっしゃいます。

 さぬき市地方は高気圧に覆われて晴れている。今日もまた、黄砂を観測しているらしい。気温は18度から32度、湿度は96%から52%。風は2mの東北東の風がときおり・・・。我が家では初めてエアコンを冷房モードで動かせた。一気に暑くなってきた。明日の6月1日は、引き続き高気圧に覆われて晴れる見込みとか。四国地方では、引き続き6月1日にかけて黄砂を観測する可能性があるとのこと。

 

 今日は我が校区、母校の小学校の運動会。名目は「春季大運動会」だがささやかな体育大会みたいなもの。児童数63名、職員数14名で、保育園・幼稚園児、保護者・地域の方なども混じって、午前中に13種目、午後から6種目の演技や競技があるらしい。

 

 小学校の運動会なんて何十年ぶりだろ。PTAの役員をしていた頃にたまに顔を出したくらいなもので、娘が小学校にいた頃だった。そのころはまだまだ児童数も保護者の数も多かったように思う。

 

 来春には、隣の「富田小学校」と統合されるので、今年の運動会が最後になるのだという。閉校まで300日を切っている。今日は閉校記念の人文字航空写真の撮影をするそうで、人が足りない・・・というので応援に駆けつけた・・と云うわけ。

 

 で、お弁当をいただいて、少しばかり競技を見せていただいたが、誰が誰やら、どこのどなたか、まるで浦島太郎症候群・・・。まるでよそさまの運動会だからちんぷんかんぷん。辛うじて、同じ自治会の役員さんを見つけて一安心。

 

 地区それぞれに役員さんがいるらしくて、ここに何名、こちらに何名・・・という割り付けで並ばされるが、これが、どんな模様で、どんな字の一部なのかはわからない・・・。

 

 私らのチームは何かの「字」の一部らしいがわからない。で、青い色画用紙を一枚ずつ持たされて顔の前に並べるのだと・・・。その様子をラジコン・ヘリを使って監視しながら、「東の二列目、人が一人空いています」とかの指示が出る。

 

 12時40分から準備をして、チェックして、13時丁度に飛行機がやってきて、三回ほど西から東に上空を旋回する。その後、大きく南に旋回する間に撮影画像を確認して、南から北に飛んできて、私らの上空で翼を上下にバンクさせて撮影終了。その間、10分。それでも、今日は暑かった・・・。

 

 これは、数年前の母校・大川第一中学校の閉校記念の人文字の航空写真。今度の小学校は、この校舎の跡に建てられるそうだ。

 

 これが、私らが通っていた頃の「松尾小学校」。だから、新しい鉄筋の校舎が閉校になると云われても、何の感慨もわいては来ないし、寂しさも悔しさもない。

 

 今日も校舎のあちらこちらを覗いてきたが、「ふーん」という程度で、まるでよその小学校。こういう校舎の思い出の片鱗すらなかった。

 

 私らのころは、「大川町立松尾小学校」だったから、なおさら、ここは「よそ(他所)の小学校」みたいだった。

 

 だから、今日の航空写真の予約も、「閉校記念誌」の予約もしなかった。棺桶に持って行くような思い出もないし・・・。

 

 午後からは、今年のテーマの「四国辺路の闇と陰」という、「職業遍路」「病気遍路」「棄民遍路」などの、「お四国さん」でない遍路・邊土・辺土の研究をまとめていた。飢饉や事業失敗や犯罪や・・・古里を追われ、故郷をなくした人々がたどった過酷な人生の旅・・・。

 

 今日の掲示板はこれ。「生きるとは何かに一所懸命打ち込んでいく、命を燃やしていくこと」という登山家・栗城史多さんのことばから。栗城さんは云う。「生きるとは、長く生きるかどうかではなく、何かに一所懸命打ち込んで、そこに向かって命を燃やしていくことだと思います。たとえ90歳まで生きたとしても、夢も目標もなく、何にもチャレンジしない人生はつまらない。大切なことは、登頂までの過程で、いかに自分の100%を超えた、110%、120%の未知なる領域に辿り着けるかということです」と。

 

じゃぁ、また、明日、会えるといいね。


花しょうぶ 今夜の客が 気にかかる

2014年05月30日 | ふるさと散歩

 さぬき市地方は高気圧に覆われて晴れている。また、今日も黄砂を観測している所があるらしい。今朝は瀬戸内海松港付近では濃霧が発生して停船勧告が出されていたが、午前10時前には解除された。気温は18度から30度、湿度は89%から62%。風は1mから2mの北北東の風が少し。明日の31日は、引き続き高気圧に覆われて晴れるが、午後は雲が広がりやすく、引き続き、31日にかけて黄砂を観測する可能性があるらしい。

 

 電子化の終わった本を返却するために、香川県立図書館に寄ってきた。あと、何冊か借りて来たが、あんまり参考にはなりそうもないので、早く返却して来なければ。さて、空海さんは、幼名「真魚:まお」のままで、18歳とか20歳まで過ごしたんだろうか。「空海」を名乗る前に、「無空」とか「教海」とか「如空」と名乗ったという記録もあるのだけれど・・・。

 

 今日は坂出市川津町まで走って、「かわつ花菖蒲園」をのぞいてきた。この日曜から開園すると云うものだから・・・。ここは使われなくなった四つの濾過池に72種16、500株66,000本の花菖蒲やあやめなどが植えられている。

 

 早生の品種がぽつぽつと咲いている程度、次の7~8日あたりがいいかも知れない。まだまだ花は少なかった。開園されるのは、6月1日から15日までの9時から16時まで。

 

 場所がわかりにくいし、住宅地の中にあるので、気をつけて花菖蒲を鑑賞して欲しい。

 

 それでは・・・とやってきたのが、さぬき市長尾東にある「亀鶴(きかく)公園花しょうぶ園」。ここも日曜の6月1日から「ショウブまつり」が始まるらしいが、花の方はちらほら・・・。

 

 ここには15万本の花ショウブなどが植えられていて、県下一の花ショウブ園だと云うことだ。

  

 こうして見るとたくさんの花が咲いているように見えるが、実は・・ここだけ咲いている。あとはほとんど咲いていない。

 

 これが花ショウブというもの。

 

 ショウブというのがこれ。葉っぱも花も全く違うもの。ショウブは五月にこんな花が咲き、この葉っぱをこどもの日にお風呂に浮かべて「しょうぶ湯」にしたりする。

 

 ところが、ここでは堂々と、「ショウブまつり」と銘打ってイベントを起こしている。ま、日本人は、こういうことには寛大な国民なのかも知れない。

 

 「約1万5千株のハナショウブが宮池の周辺に紫・白・黄・ピンクと色とりどりに咲き誇り来場者の目を楽しませてくれます。よさこいおどり「さぬき舞人」ライブ、サウンド三木ライブ、白鳥ふれあい動物園他、各種バザーやお茶席を予定しておりますのでお誘い合わせの上、御来場下さい!」と、さぬき市では呼びかけている。

 

 このイベントは、2014年6月1日(日曜日)9:00~15:00 と、2014年6月8日(日曜日)9:00~15:00の二日間行われる。しかし、花しょうぶを楽しむのはいつでも無料で見学・鑑賞できる。

 

 ここも6月8日あたりが見頃になるのかも知れない。

 

 帰りに山の旧宅近くの竹藪で「ハチク(淡竹)」を見つけたのでカマで刈り取ってきた。この竹は根っこが硬くて食べられない。だから、地上部分を鎌で刈り取って、荒縄でしばって帰るもの。今日はそのまま車に投げ込んで帰って来た。さっそくに大きな鍋でゆがいておいて、冷凍にするか天ぷらにして食べるという。

 

 今日の掲示板はこれ。「生まれを選ぶことはできないが 生き方は自分で選ぶものです」という荒了寛さんのことばから。私たちは、どこの国のどこの誰の所に生まれるかを選べない。親もまた、どんな顔の、どんなこころの、どんな身体を持つ子が生まれるかを選べない。大会社の社長の子に生まれる人もあれば、内乱の続くヨーロッパの貧しい夫婦の家に生まれる子もいる。私たちは自分の生まれを選ぶことはできないけれど、貧しいままで終わるのか、働いて働いて大会社をつくる生き方を選ぶのかは自分で選択できること。明るく楽しく生きるのか、辛く悲しい人生を生きるのか、それさえも自分で選ぶことができるもの。

 

じゃぁ、また、明日、会えるといいね。


雲のない 空いっぱいに ほととぎす

2014年05月29日 | 今日もしっかりとお勉強・・。

 さぬき市地方は高気圧に覆われて概ね晴れていた。また、昨日から黄砂を観測している所があったらしい。気温は17度から29度、湿度は86%から56%。風は2mから3mの南南東の風が少し。明日の30日は、高気圧に覆われて概ね晴れる見込み。引き続き、黄砂を観測する可能性があるらしい。

 

 我が家の前の山の工事も着々と進んでいるらしい。今日は切り倒した木材をクレーンで下に落とし、それをチェーンソーで切り分けているらしく、チェーンソーの音が響き渡っている。

 

 午前中は、この「巡礼の文化人類学的研究」ということで、「オヘンロサン」と「ヘンド」の相違点や違う点などを聞き書きや取材を通して調べたものの電子化作業。四国の中でも、曖昧な地区もあれば、はっきりと区分されている地区や、言葉にできない地域などさまざまであった。その赤裸々な言葉の数々が生々しい。この本を電子化するのに三日もかかってしまった。

 

 お昼前には、さぬき市前山地区にある「遍路資料展示室」をのぞいてきた。ここは一般的は「前山おへんろ交流サロン」というが、本来の目的は「前山地区活性化センター」と云うもの。

 

 ここにはさまざまなお遍路に関する資料などが展示してある。

 

 今日の目的物はこれ。「往来一札之事」と題する毛筆で書かれた文書で、一般的には「往来手形」とか「往来切符」とかいう。私らはこれを「捨て往来」と呼んでいる。これを昼食まで読んでみた。

 

 「越後の国の百姓五郎右衛門の弟、毎太(23歳)が神社仏閣拝礼の旅に出るので国々の関所を通して下さい。もし行き暮れた時には御慈悲をもって一夜の宿をお願いします。宗旨は代々禅宗にして円通寺の旦那に間違いありません。もし、いずこかの国で病死した時はその所の作法で葬って下さい。その節には国元への届けは不要ですので、念のため往来手形一札を入れておきます」という内容の文書である。

 

 一方、こちらも越後の国の女性、片桐屋三九郎の母が巡拝に出た時のもの。「代々浄土真宗拙寺旦那に紛れなく御座そうろう。祖師(親鸞)聖人御旧跡(二十四輩など)拝礼ニ罷り出そうろう」とあって、以下、「捨て往来」の記述がならぶ。東浄土真宗というのは大谷派の寺院であろうか。

 

 江戸時代には何人たりとも、国外へ出ることは許されなかった。そこで、神社仏閣拝礼とか四国霊場辺路とかの口実で旅に出たもの。伊勢参りや金比羅参りも同じような口実だった。

 

 これは四国遍路が札所に収めた「納め札」と云うもの。天保十一年のものである。隣は弘化四年のものである。その時代は飢饉や地震が相次いで、多くの人々が南国四国へ逃げ込んできた時代だった。

 

 これは安政三年というからオランダで咸臨丸が建造中の時期。いわゆる幕末期のことである。黒船来航などで世情が混沌としてきた頃で、人々は温暖な四国目指して、和歌山や堺あたりから小松島などに上陸してきたのである。

 

 午後からは奥方のお供で夏用の衣服や食材の買い出しに出たが、途中からエアコンを稼働させた。窓を開けても信号待ちで止まれば汗が噴き出してきた。あの頃は30度を超えていたんじゃないかなぁと思った。

 

 今日の掲示板はこれ。「私のものさしで問うのでなく 私のものさしを問うのです」というもの。これも正行寺さんの門前にあったものだろうか。仏教で説かれる智恵というのは、自分の物差しを問い正せる智恵であり、自らの愚かさに目覚められる智恵だとも指摘される。自分の物差しが絶対的なものではないということに気づけない状態こそが無智であるということである。 とかく、私たちは、自分の物差しだけで物事を見聞きし、考え、行動することが多いもの。そして、それが苦しみや迷いのもとになっている。 人間は、エゴ(自我、我欲)、つまり、その人の好みや癖、偏りに影響されながら、観たり、聴いたり、嗅いだり、味わったり、触れたりして、外界の世界を認識している。それ故に、なかなか真実の姿(実相)を認識することはできないもの。選り好みや思い込みにより、真実の姿を歪めて取り入れてしまうからである。「心こそ 心まどわす心なれ 心に心 心許すな」という古歌もよく紹介されるが、このような特質をもつ、心の危うさを詠ったものだと思うことである。

 

じゃぁ、また、明日、会えるといいね。


ほたる来て 今日のざれごと 捨ててくる

2014年05月28日 | たまには旅など・・。

 さぬき市地方は高気圧に覆われて晴れている。気温は14度から28度、湿度は79%から53%。風は2mから4mの東南東の風がやわらかく・・・。明日の29日は、引き続き高気圧に覆われて概ね晴れる見込みらしい。

 

 昨夜は弟と「退院祝賀会」をやっていたが、ふと、窓の外を見るとホタルが飛んでいた。それも数匹がユラーリ、ユラリー・・・と飛んでいた。もう、そんな時期になったのかと月日の早さに驚いたもの。やがてには、我が家の部屋にまで飛び込んでくる。

 

 さて、心臓の調子も良くなったことだし・・・と云うことで、久々に遠出をして徳島県の阿南市まで車を走らせてきた。ここは四国霊場22番札所の「平等寺」だが、お参りにやってきた訳ではない。

 

  山門をくぐると正面に本堂が見えてくる。右手にはお地蔵さん、左手には閻魔さんのいる十王堂や空海さんが掘ったと云う「加持水の井戸」がある。

 

 本堂の中は折り鶴などの奉納物がいっぱい・・・・。この反対側にあるのが、今回のお目当てのもの。

 

 これ、何だと思うかな・・・。犬小屋みたいだし、祠(ほこら)みたいだし・・・。お神輿のようだが、お神輿でもない。

 

 実はこれ、「箱車」というもの。ここに奉納されているものは車輪が外されている。足の不自由な人がこれに乗ってお遍路をしていたのだという。この前の扉が開くようになっている。屋根があるから雨が降っても大丈夫なように考えられたもの。

 

 昔のお遍路さんや邊土(へんど)は、こうして旅をしていたと云う。病気を治したい一心であったり、死に場所を求めての旅だったり、住む場所を無くしての放浪の旅であったりした。ご承知のように、昔の四国は山道や海岸沿いの道を歩いての旅だった。こうした旅がいかに大変な旅であったことか。

 

 88番札所の大窪寺の本堂上部には、こんな車も奉納されている。これらの車を、家族・親戚や友人たちが押したり引いたりしたり、難儀をしている箱車を隣のムラまで押していくのが慣わしであったところもあったと云う。これは車いすのように座って乗った箱車だった。

 

 これは愛知県の札所に奉納されている箱車。通称は、そこに書いてある「躄車」という。今は死語になったのかも知れないが「放送禁止用語」になっているらしい。だから、あえて、読み方は書かない。

 

 平等寺の場合は、大師加持水を患部に塗ると良くなったので奉納したと云われているが、多くは満願・結願を果たせずに亡くなった方がたも多くいたに違いない。

 

 今は福祉が行き届くようになって、また、マイカーなどで気軽にお遍路に出られるようになって、こうした箱車を見ることはなくなったが、私らが子供の頃にはあちらこちらで見掛けたもの。

 

 先日の室戸岬では、二人の初老の男性が、大きな荷車に家財道具を山積みにして引いて歩いていたが、国道の海岸線では楽かも知れないが、山道や坂道になるとどうするんだろうか・・と他人事ながらに思いやったことだった。

 

 今日の掲示板はこれ。「こだわりを捨てれば心は五月晴れ」と云うもの。 「邪念を捨て、こだわりを捨てよ」 これを、禅門では放下著(ほうげじゃく)と云う。中国の言葉だが、要するに”捨ててしまえ”ということ。人生の苦しみの多くは執着の心より起こるもの。執着の心とは、つまり、”こだわり”。仏教はこの”こだわり”を捨てよと説いている。こだわりがないといけないこともあるし、こだわりが良い結果を生むこともあるけれど、往々にして、人を出口のない欲望と迷いの渦中に巻き込んでいくこともまたあるもの。どうしたら、様々なこだわりから自由になれるのか?どうしたら、仏様のような柔和な心になれるのか。

 

じゃぁ、また、明日、会えるといいね。 


咲き出した ほたる草あり 古い墓

2014年05月27日 | 時にはぼぉっ~とする時

 さぬき市地方は、気圧の谷の接近で雲が広がっている。気温は16度から26度、湿度は90%から52%。風は2mから2mの東北東の風が少し。少しばかり蒸し暑い一日になった。明日の28日は、高気圧に覆われて概ね晴れる見込みらしい。

 

 病院の朝は静かだ。昨夜の19時半から横になったものだから、ほぼ1時間ごとにトイレに起きる。利尿剤のせいもあるし、となりのおじさんの咳やいびきがうるさいし・・・。で、朝の5時には目が覚めた。かと云ってすることもないので、またも寝ていた・・・。

 

 病院の中は感染症予防のために、こんなかっこう・・。ま、友人・知人なんぞいる筈もないし。

 

 朝食はこんなもの。一汁二菜に牛乳付き。病院だから間食はないし、アルコール類は全くない。それでも寝られるのならば、毎日を休肝日にすればいいのだが、自宅にいると、そうは問屋がおろさない。

 

 昨日の電気ショックを受けて、今日は心電図検査。「きれいな波形ですか?」と聞くと、やや、間があって、「昨日の波形を知りませんので・・・」と検査員。おいおい、治っていないんじゃないのかな。普通の人の波形をいつも見てるでしょうに。

 

 それが終われば退院準備。荷物をまとめてナース・ステーションへ。会計は来月の検診日に精算とのこと。10時過ぎには病院を出た。簡単なもんだ。でも、入院した時と、そんなに変わらないのに退院というのも変な気分だ。まるで、一日、寝るために来たようなもの。施術も治療も何も記憶にないし、気分が変わった訳でもないし、痛みが消えた訳でもないし・・・。

 

 そうそう、帰りに薬局に寄ってきたが、9種類もある薬のうちの、たった1錠だけが1個が半分になっただけ・・・。不整脈がなくなったら、どっと減ると思ったのに。来月の検診日には半分くらいに減るといいのだが、「やっぱり、元に戻っていますね」なんて云われないように・・・。

 

 自宅に戻って、祝杯をあげていたらば、下の弟がやってきて、昼から祝杯の予行演習をやった。お茶代わりに缶ビールを2本ずつ。そういえば、「退院療養計画書」なるものには、「アルコールは避けて(!)ください」「暑いお風呂や長風呂は避けましょう(これはOK)」「適度な運動を毎日続けて下さい(ぽちの散歩でOK)」「こまめな水分を取るように心がけましょう(これもOK)」「定期的に外来通院してください」ということで、「適度なアルコール」にしたいものだ。

 

 ということで、食後は、県営大川ダムまで二人で散歩してきた。

 

 このダムの急な階段もそんなに苦しまずに堰堤まで上れた。心臓は大丈夫だったが、足の太ももの筋肉が悲鳴をあげた。急に運動はよくないな。

 

 ということで、「心房細動:不整脈」の「電気的除細動」騒動はこれにて一件落着。明日からはまた、別な問題に取り組んでいくことにしたいもの。とりあえず、今夜は、けいこばぁがお泊まり勤務なもので、弟と二人でゆったりと「この世への生還祝賀会」をやりたいものである。

 

 今日の掲示板はこれ。「すぐに広がる不足の心 すぐに忘れる感謝の心 心のけいこは繰り返し」と云うもの。どこの誰さんの言葉かはわからない。とかく私たちの心には不足の心が広がるものだし、感謝の心は忘れ去ってしまうもの。いかりやそねみやねたみやうらみの心もまた、私の心の繰り返し。

 

じゃぁ、また、明日、会えるといいね。


新緑を 濡らして走る ふいの雨

2014年05月26日 | 今日もまた、病院に行って・・・。

 今日のさぬき市地方は低気圧の影響で雨が降っていた。気温は13度から19度、湿度は88%から94%。風は1mから3mの東北東の風が少し。明日の27日も低気圧の影響で雲が広がるが、午後からは晴れて来る見こみ。

 

 今日はかねてから予約されていた「電気ショック治療日」。不整脈を止める治療の日だというので、朝から落ち着かない。奥方のけいこばぁ同伴というので、8時過ぎに我が家を出て、東かがわ市にある県立病院に向かった。

 

 毎度おなじみになった県立病院。今日は診察券を通さずに、「入院受付」窓口で入院関係の書類を提出する。家族の同意書とか、身元引受人とか病院代を払わない場合の支払い人とかなんとかの書類一式・・・。

 

 で、手続きが終われば病室へ向かう。この「2病棟」というのが「心臓病センター」。ここに入院する全員が心臓病の患者かどうかは知らないが、それなりの人が入院しているのだろう。

 

 病室は4人用の部屋で、先客が一人いたが、あとの2ベッドはあいたまんまだった。

 

 治療は午後からだというので、午前中は検査だの注意だのがあって、やや、リラックスモード。今回はノートパソコンは持参せずに読書モード。でも、その合間に心電図計をつけたり、血圧や体温を測ったり、問診があったりと、落ち着いて読書ができるような状況ではない。

 

 で、朝昼の食事抜きの水分補給も禁止・・・と云う状態から、血液をサラサラにする点滴を注射。11時過ぎだった・・・。血液中の血栓も溶かす役目があるのだとか・・・。仕方がないからお昼寝タイムになった。昨日の高知の旅の疲れからか、ぐっすりと眠ってしまっていた。

 

 個人情報保護のため、部屋の表示は「在室」の表示だけ。入院患者の名前は公表されない。

 

 この先生が私のドクター。この先生にお任せして「カウンター・パンチ」を受ける。13時になると看護師さん数名が、病室からベッドごと治療室に運んでくれる。まさに「まないたの上の鯉」。女性のチーフがてきぱきと指示して心電図計や血圧測定器なんぞを装着する。看護師さん」数名の声がする。

 

 「回数は三回まで。一回でダメなら二回、二回目でもダメならば三回目。それでダメなら治療はやめます・・・」日浦ドクターの声が聞こえたのが最後・・・・。

 

 気がつけば元の病室で眠っていた。「目が覚めましたか?一回で正常な脈になりました」と云われてもなんのことやら・・・・。13時半過ぎのできごと。まだ、夢見心地の寝ぼけ眼・・・。奥方も安心して帰った様子・・・。

 

 この日、はじめての食事が18時からの夕食。心臓病食ということで塩分がほとんどない味のわからない食事。これが終われば・・・また、寝るしかない。

 

 何年か前に、カテーテルアブレーション手術を受けたが、それ以降、不整脈という自覚は全くない。だから、今回の「電気的除細動治療」と云われてもいたくもかゆくもないし、それで正常になったと云われても、何がなんだかわからない。ともかく、これで一つの峠を越えたのかな・・・という程度。

 

 今日の掲示板はこれ。「人生の旅路において二度と通れぬ「今日」というこの道」と云うもの。

 私は 人生の旅路において
 「今日」というこの道を再び通ることはない
 二度と通らぬ「今日」というこの道
 どうして ウカウカ通ってなろう
 どうして 無意義に通ってなろう
 二度と通れぬ「今日」という道

 という「言葉の散歩道から」 (寺川幽響著『日々の糧』参照) 

 

じゃぁ、また、明日、会えるといいね。


夏遍路 石段続く 寺ばかり

2014年05月25日 | たまには旅など・・。

 高知方面は晴れのち曇り。高気圧に覆われておおむね晴れていた。気温は15度から25度、湿度は84%から62%。風は1mから2mの東北東の風が少し・・・。

 

 今日は、「おへんろつかさの会」おへんろバスツアーの研修旅行。これまでに徳島を回ってきて、今回から高知に入る。朝の6時半出発の20時半過ぎに帰着という遠い旅になった。

 

 今日は高知県の室戸岬からの打ち始めになるという。近くには「御厨人窟:みくろど」と呼ばれる約1200年前の平安時代、青年時代の大師が悟りを開いたといわれる洞窟があり、内には五所神社と呼ばれる社がある。“空海”と名前をつけたのも、ここから見える空と海に感銘を受けたからと言われている。

  

 今回のバスツアー研修には37人が参加し、「おへんろつかさの会」専属の櫻谷権大先達が案内してくれる。

 

 ここは24番札所の「最御崎寺:ほつみさきじ」。この人たちは別のバス遍路の方々。大同2年、唐から帰朝した翌年に大師は、勅命をうけてふたたび室戸岬を訪ねている。虚空蔵求聞持法を成就したこの地に、本尊とする虚空蔵菩薩像を彫造して本堂を建立、創建した。嵯峨天皇をはじめ歴代天皇の尊信が厚く、また、足利幕府の時代には土佐の安国寺となり、戦国・江戸時代には武将、藩主などの寄進により、寺運は隆盛した。

 

 当時は、真言密教の道場とされ女人禁制の寺であった。往時、女性の遍路は遙か室戸岬の先端から拝んだといわれるが、明治5年に解禁されている。室戸岬では東西に対峙している26番・金剛頂寺が「西寺」と呼ばれ、最御崎寺は「東寺」とも呼ばれており、納経帳等の寺名には東寺と記されている。南国情緒を味わう室戸阿南国定公園の中心にあり、大師が悟りの起源の地でもある。

 

 室戸岬から海岸沿いを6Kmほどゆくと町中に小高い山があり、その山上に本堂がある。ここが25番札所の「宝珠山津照寺:しんしょうじ」で、参道右に大師堂と本坊。本堂へは125段の急な石段があり、ご本尊は大同二年、弘法大師が巡錫されたときに刻まれた延命地蔵菩薩。秘仏で拝観はできないが、海上の安全と火難除けの霊験あらたかという。

 

 慶長六年十月、国守の山内忠義は室戸岬を航行中、突然暴風におそわれた。そこへ大僧があらわれて船の楫をとり、全員無事、室戸港へ避難することができた。港につくと僧の姿が見えないので後を追うと、津寺の本堂の中へ消えた。ご本尊を拝したら、全身潮でびしょぬれで、それ以来楫取地蔵(かじとりじぞう)とよばれ、多くの船人から信仰されるようになった。また、寛保二年の大火の時も、ご本尊が僧の姿となって、人々を避難させたという。境内に立つと眼下に室津港がある。野中兼山の部下一木権兵衛が難工事の築港を命じられ人柱となっており、参道沿いに一木神社としてまつられている。

 

 次に向かったのが26番札所の「金剛頂寺:こんごうちょうじ」。津照寺をあとに、室戸から西北へたどると土佐湾に向って小さくつき出した岬がある。硯の産出で知られる硯ケ浦のある行当岬で、海抜200mの頂上に金剛頂寺がある。室戸岬の最御崎寺と相対しているので最御崎寺を東寺、金剛頂寺を西寺ともいう。山麓からの急勾配の参道を70mほど登ると山門になる。広い境内をおおう椎の大木。弘法大師は若かりしころ、この山で修行され、大同元年には勅命を帯びて鎮護国家の道場として寺を創建し、ご本尊の薬師如来を刻まれた。

 

 その後、七堂伽藍は整備され、寺領三千五百石を有し後に長曽我部元親や山田忠義からも保護されている。文明と明治の火災のため、堂塔を焼失するが、いずれも再興され、昭和58年に、本堂が新しく建立された。霊宝館には、大師が背負って歩いた旅壇具や真言八祖像など重要文化財六点のほか、古美術六十点が保管され、境内の鯨昌館には泉井守一氏関係のめずらしい捕鯨具類などが展示されている。

 

 ここまでは室戸市の札所だったが、奈半利町、田野町から安田町へと戻ってくる。ここまで国道55号を海岸線を走って大型駐車場にバスは止まる。ここからはタクシーで山中に入る。

 

 山道などをおよそ4Kmほどタクシーで登ると「神峰寺:こうのみねじ」に着く。神峯山中腹の標高450メートルに山門、境内が広がる。幕末のころ、三菱財閥を築いた岩崎弥太郎の母が、20km離れた家から急な坂道を21日間(三・七日)日参し、息子の出世を祈願した話は、いまも伝わっている。
 縁起による歴史の古さは屈指で、神功皇后(在位201〜69)の世に勅命で天照大神などを祀る神社が起源とされる。聖武天皇(在位724〜49)の勅をうけた行基菩薩が天平2年に十一面観音像を彫造して本尊とし、神仏合祀を行った。その後、弘法大師が伽藍を建立し、「観音堂」と名付けたのが大同4年(809)のころとされている。

  

 明治初期、新政府の神仏分離令により、天照大神などを祀る神峯神社だけが残り、本尊は26番金剛頂寺に預けて一時廃寺の悲運に遭った。明治中期に、もと僧坊の跡に堂舎を建立して本尊を帰還させ、霊場は復活した。だが寺格がないため、大正元年、茨城県稲敷郡朝日村の地蔵院を移して認可を得るなど、苦難の道を歩んで今日にいたっている。昭和30年代、愛知県の水谷繁治さんの妻しづさんが「脊髄カリエス」で大学病院にも見放されたが、夫婦はこの峰で霊験を得て奇跡的に全治したという実例がある。

 

じゃぁ、また、明日、会えるといいね。


五月晴れ 犬に散歩を せがまれる

2014年05月24日 | 時にはぼぉっ~とする時

 さぬき市地方は高気圧に覆われて晴れていた。だから、ようやくにお布団を干した。気温は13度から27度、湿度は90%から65%。風は2mから4mの東南東の風が少し。明日の25日は、引き続き高気圧に覆われて、概ね晴れる見込みらしい。

 

 今日もいい天気だが、明日のバスアツーの準備やら26日の心臓電気ショック(電気的除細動)治療のための入院準備ほかでバタバタとしていた。

 

 明日の高知へのバスツアー研修は朝6時半に市役所集合ということで、5時半には起きないといけないし、戻って来るのは20時過ぎになるという。で、26日の朝に入院するというのだから慌ただしい。そんなに永くは入院する必要はないと聞いたけれど。

 

 電気的除細動(じょさいどう)は、不整脈に対しての治療の一つで、電気的な刺激や薬物等の外力によって異常な電気信号経路を遮断し、正常の電気信号経路への改善を促す方法。いわゆる「電気ショック治療」。ドクターによると、心房細動の場合の電気ショックは一応の麻酔操作を行ってからのショック治療で、電流量は少ないものだそうだ。これによって、心房細動を停止させて心臓のリズムを正常化させることができれば、その後はリズムを維持するための治療に入ることになる。

 

  その合間に集落内の散歩をしてきたが、1時間ほど歩いたら汗が流れるほどに気温がぐんぐんと上がってきた。いよいよと夏になってきたなぁと思ったことだった。今日はこの工事現場はお休みだった。

 

 明日の高知の旅も暑くなりそうな予想。バスの中は快適なんだろうが、石段や坂道は苦手だが、石段や急な坂もあるというのだから最初から気が重い。

 

 ま、室戸岬から国道55号線の海岸線を楽しんで来ることにしよう。さて、ある時期、土佐藩と大洲藩あたりは「遍路禁令」と云うものが出されて、「遍路狩り」と云うものが行われたと聞く。名目上は「道路の損壊」とか「災害のために道路が封鎖されたとか・・・。土佐ではいかなることがあったのか・・・。それも明日、肌で感じてきたいものだ。

 

 こういう納経帳を見ると、阿波の霊場を打ち終えると、石鎚を超えて、伊予の霊場を目指している。つまり、土佐藩は遍路を追い返したり、捕縛して追い返しているのである。

 

 これは、いわゆる「邊土」と呼ばれる「似非遍路」や「病気遍路」を通さなかった文書である。

 

 このように、本来の「お四国さん」でも、土佐藩や大洲藩には通行が許可されなかった。こういう悲しいお遍路の歴史もまたあったのである。そうした事跡を尋ねてきたいと思っている。

 

 今日の掲示板はこれ。「人と同じきものを着ても 人と同じにはならない」というもの。いつもの荒了寛さんのことばから。人と同じ物を着て、同じ物を食べて、同じ物を飲んでも、同じ人にはならないし、なれない。人と同じ学校で、同じ先生に、同じ教育を受けても、同じ人にはならないし、なれない。十人十色のオンリーワンである。

 

じゃぁ、また、明日、会えるといいね。


石楠花が 投げ入れてある 遍路塚

2014年05月23日 | 時にはぼぉっ~とする時

 さぬき市地方は高気圧に覆われて、概ね晴れていた。朝方は少しばかり雲がかかっていて、お布団を干す元気が出なかったが、お昼前からはきれいに晴れた。気温は15度から25度、湿度は80%から58%。風は1mから4mの北北東の風が少しばかり。明日の24日は、引き続き、高気圧に覆われて、晴れる見込みだとか。

 

 すっきりと晴れてまさに「五月晴れ」。今朝も救急車で前のおうちのおじさんが運ばれたらしい。野次馬のけいこばぁが駆けつけてお世話をしていたらしい・・・。ま、いつもお世話になっているおじさんだからね。

 

 今日のお山はこんな風になってきた。重機一台で簡単に地形が変わってしまう。

 

 奥方のけいこばぁが、血相を変えて走って来て、「掃除機が壊れたの。どうしたらいい??」と云うのだが、別に慌てることはない。二階専用の掃除機を持って下りればいいじゃないか。「そうじゃなくて・・・」私に修理しろ・・・と云うてるんだ。

 

 調べてみたらば、筒の部分に何やらプラスチックくずが詰まっているらしい。園芸用のパイプを突っ込んでみたら、アリ退治用の薬のケースが飛び出した。それで一件落着。「さすが電気屋さん!!」とお褒めの言葉を頂いたが、私は元は「電話屋さん」。

 

 昔のお遍路さんは、こういう車を引いて回っていた。この車に生活用具一式を積み込んで歩いていた。いわゆる「ヘンド」と呼ばれた人たち。札所を回ることなく、裏道や脇道を歩いて喜捨を貰って歩いていた。今なら、マイカー遍路と云うんだろう。

 

 今日も四国巡礼と、レキ墓研究のまとめなんぞを細々とやっていた。こんなにいい天気なのに行くアテがないのもさみしいものだ。藤の花は終わったし、花菖蒲やあじさいはまだだし・・・。アイリス園やシャクナゲ園も見て来たし・・・。

 

 このあたりに「芍薬園」と云うものは聞いたことがないな。我が家の花も一応は終わったみたい。奥方のバラ園は虫に食べられたと憤慨していたが・・・。裏庭のあじさいのつぼみが膨らみ始めてきている。

 

 とにかく花の名前は聞いても聞いても忘れてしまう。花だけではない。人の名前も出て来なくなったし、食べモノの名前も出てこない。

 

 最近は近所で工事をしているもので、サルも近寄らないのかと思っていたが、敵もサルもの。工事現場のすぐ下で堂々と草を食べている。ずいぶんと人馴れしてしまっている。近くまで行っても逃げたりはしない。むしろ、大きな歯を見せて威嚇するのだから、それはさすがに怖い。噛みつかれたら大けがしそうだ。

 

 このあたりの水田の稲はしっかりとしてきた。これから気温が上昇するとぐんぐんと伸びて来る。お盆を過ぎたら収穫だ。

 

 今日の掲示板はこれ。「欠点は直さなくて良い。見方を変えれば個性になる。持ち味になる。味わいになるから。」と云うもの。私たちは自分の「欠点」を嫌い、そのままでは人に嫌われてしまう、と思って、何とかそれを直そうとしたり、隠そうとしたりしてしまうもの。しかし、そういう態度は私たちを完璧主義に仕立て、むしろ、人との間に壁を作ったり、遠ざけたりしてしまうようになってしまう。実は「欠点」そのものが問題ではなく、「欠点をどう扱っているのか?」がとっても大切なことで、つまり、隠すのではなく、オープンに、直すのではなく、受け入れることが大切なことなのである。オープンになれなるほど、その欠点は嫌われることなく、あなたのひとつの個性として受け入れられ、愛されるようになっていくものである。

 

じゃぁ、また、明日、会えるといいね。


山あざみ 切れぬはさみの もどかしさ

2014年05月22日 | 自然ありのままに

 さぬき市地方は、朝方は雲が多かったが高気圧に覆われて晴れていた。気温は13度から26度、湿度は88%から51%。風は3mから6mの北北西の風が少し。日中はエアコンをかけて走ったほど。なんだか蒸し暑いなぁと感じたから・・・。明日の23日は、引き続き高気圧に覆われて、概ね晴れる見込みらしい。

 

 ときおり出てくるこの風景。我が家から南を見た風景なんだが、最近は少しずつ風景が変わっている。この真ん中の部分・・・。ズーム・インしてみたらこうなる。

 

 下の方の道路には防災板による防護壁が立っていて片側通行になっている。で、昨日にはチェーンソーで雑木を切り倒して、今日は重機が山を登り始めた。地震が起きると、地盤の軟らかくなっているこの山が崩壊して道路をふさいでしまう恐れがあるのだとか。それで、山肌を切り取って防護するらしい。

 

 これは昨日の画像だが、この正面のおうち。昨日の夕方、救急車でおじさんが運ばれて行った。三月の地神さんの例祭にはニコニコとしてお参りしていたのに、その後、車に乗れなくなり、トラクターにも乗れなくなり、動けなくなって、今は寝たきりになったとか・・。「くどれるのが早いなぁ・・」と云うていた。「衰弱するのが早いなぁ・・」と云う意味だ。

 

 おとといの事だったか、しわく広島のセンター長さんから「レキ墓研究会」の成果報告書を書いて下さい・・・という電話をもらったのは・・。とりあえず、昨年の報告書はプリントアウトして、そのまんまにしてあった。報告書の様式をどうしたもんだか・・・と思案していたのだ。

 

 すると、今朝になって、「報告書の形式は、前回は①活動の目的 ②活動の過程 ③今後の課題という形式でしたが、今回は①活動の目的 ②活動の経過 ③活動の成果 ④今後の課題ということでお願いします・・・というメールが来た。やらな、しょうがないな(苦笑)。

 

 福武財団というところから、研究助成ということでいくばくかのお金を頂いているもので、成果報告は仕方がない。ま、A4版用紙二枚程度・・・というので、軽く考えていたが、いざ、まとめ出すと・・・中身がない。画像をいっぱい貼り付けようと思ったが、それも面倒になってきて。実に飽きっぽい性分なのだ。

 

 ということで、二時間ほどかかって、ようやく二ページの原稿を書き上げて、メール添付でしわく広島コミュニティーセンターへ送信しておいた。あとは適当にお願いしたいものだが、おそらく、そのまま、福武財団に転送されておしまいになるのかも。

 

 「英国士官レイクの墓」

 明治元年十二月二十日、この広島沖に二隻のイギリス軍艦が停泊していた。一隻は燈台技師ブラントンの乗った燈台敷地調査船のマニラ号、もう一隻は護衛艦のアーガス号。日曜日の礼拝のために錨泊中、フランク・ツーベイ・レイクという十九歳の航海士官候補生が急死した。
 燈台寮の会計官権判事であった長谷川三郎兵衛が島の役人に「英国海軍人を埋葬したい」旨申し出て、レイクの棺を医光寺所有地の砂地に埋葬した。葬儀では東京の役人上野敬助が短いスピーチをした。最後に儀仗兵による弔銃の一斉射撃が行われ、船からは弔砲が発射された。式の後、村人が榊の小枝を捧げるのを見て、ブラントン一行は日本人の優れた性質に感激して帰っていった。

 

  明治二年、英国測量船シルビア号が瀬戸内海測量のために来航した。艦長はヘンリー・クレイブン・セント・ジョンだった。彼は広島にあった英国士官レイクの木の十字架を目にして墓参した。
 その後、十字架は風雨や霜や雪などで朽ちて倒れた。明治四年(1872)になって、江の浦の庄屋で医師の岡良伯は、村長であった寺脇儀右衛門らと相談して花崗岩で「英国士官レキの墓」という墓標を同所に建てた。
 その後、明治九年(1876)になって、再び近海をシルビア号が航行したとき、艦長のセント・ジョンは、乗組員一同を連れて広島に上陸し、同国人の墓参りをした。一行は立派な石碑が建ち、墓前にたくさんのお供えや美しく供えられた花を見て、島民の温情や厚意に心を打たれた。セント・ジョン艦長は帰国するにあたり、ジョン艦長から島の人たちに感謝状が送られた。

 

  さらにまた、明治三十二年(1899)、神戸の領事館のジョン・C・ホールが、瀬戸内海の小島に英国海軍人の墓があることを耳にし、香川県の吉原県知事に調査を依頼した。その報告書が東京の英国公使であったアーネスト・サトウに届けられ、青木周蔵外務大臣にも感謝状が届けられた。これがイギリスの新聞「タイムズ紙」に掲載されて話題になった。
 このことは明治初期における博愛と人道の精神と行為が国境を越えて人の心に届き、国際親善となった心温まる美しい話である。
                                   「イギリス士官レキ研究会」

 

 以上が私どもが調べた結果を整理したものだが、なんの驚きも感動も残らない。私たちは何をやったんだろうか・・・みたいなむなしさばかりが残ったようなことだった。もっとも、こういうものを文学的に書くのもどうか・・・みたいなこともあったのだけれど。

  

 今日の掲示板はこれ。「自分のことより ちょっと他人のことを考える こんな人を心豊かな人という」と云うもの。雪山 隆弘著 『ブッド・バイ -み仏のおそばに-』より。最近、何かにつけて、車の運転や道を歩いていても、クラクションを鳴らしたり、すぐカッとなってイライラしている私を見かけます。ほんの数秒のことなのに、お先へどうぞとは言えないのである。待つ 親切をされる 怒られる 注意される しかしのかかし、自分だけの世界しかみられないから、さらにイライラしてしまうのだ。それぞれがこの地球に共存しているし、自分だけの空間ではないのだが。

 

じゃぁ、また、明日、会えるといいね。


びわの実が ふくらんでいる 雨になる

2014年05月21日 | たまには真剣な研究なども

 さぬき市地方は気圧の谷の影響ではじめは雲が広がっていたが、昼前過ぎからは高気圧に覆われて次第に晴れてきた。気温は15度から24度、湿度は94%から47%。風は4mから7mの北西の風がときおり吹き荒れていた。明日の22日は、高気圧に覆われて概ね晴れる見込みらしい。

 

 朝方は曇っていて、しかも小雨が降っていて、これでは出掛けても楽しくはならないなぁ・・・と云うことでお出かけを諦めた。

 

 で、昨日に図書館で借りてきた本をスキャニングする作業に入った。プリンターに内蔵されているスキャナーを使って本の資料や画像なんぞをパソコンに取り込む作業。

 

 この「巡礼の文化人類学的研究」という本の「邊土:へんど」に関する部分をスキャニングしたが、450Pもある論文集のわずか26Pしか読み込めなかった。内容が濃いもので読み込んでは確認し、修正したりしながらの作業だから・・・。

 

 私の家はお遍路さんが通る「へんろみち」沿いではなかった。それでも、子供の頃には大窪寺(四国霊場88番札所)に向かうらしい「おへんどさん」がぞろぞろと歩いていた。家族も近所の人たちも「おへんどさん」と云うていた。「いうことを聞かん子はへんどに連れていてもらうぞ!」などと叱られたこともあった。だから、「おへんどさん」はおそろしいものだと子供ごころにも感じておった。

 

 汚い服を着ていたり、泥んこのままで遊んでいると、「へんどみたいな姿をするな」とか、食べながら歩いたりすると「へんどみたいにするな」とかと、なにかにつけて叱られた。そう云われると、意味もわからぬままにおとなしくしたものだった。

 

 気が付けば、そういうおへんどさんはいつの間にかいなくなっていた。そして、昭和40年頃からか、「お遍路ブーム」と讃岐うどんブームがわき起こった。あの「おへんどさん」は何だったんだ・・・という、永年の疑問を、いまさらながらのように掘り起こしてみたいと考えたのだ。

 

 つまり、次男・三男の口減らし、結核やハンセン病だと宣告された人たち、仕事や家庭を失った人たち、犯罪などで古里を追われた人たち、身体障害者や労働に耐えられない人たち・・・。そんな世の中からはじきだされた人たちが、四国の「お接待」というシステムの中で、「お四国」と呼ばれるシステムの中でいのちをつなぎながら・・・四国の土になった。

 

 このグラフは、西国三十三ヶ所を回った人の宗派別の巡礼者数。昭和62年から63年にかけての年間の巡礼者だという。ここは観音霊場なのだが、なぜだか浄土系で参詣者の52%を超えている。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%9B%BD%E4%B8%89%E5%8D%81%E4%B8%89%E6%89%80

 

 こちらは秩父三十四観音霊場の宗派別参詣者数。ここでも浄土系が二割ほどいる。これは平成2年から3年の数値である。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%A9%E7%88%B6%E4%B8%89%E5%8D%81%E5%9B%9B%E7%AE%87%E6%89%80

 

 こちらはお四国霊場のお遍路さんの数値。」平成8年から9年の数値である。ここでも浄土系が二割をキープしている。ま、一般的に言って、浄土系の信者さん、門徒さんの数が圧倒的に多いから・・・ということも関係しているようだが。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E5%9B%BD%E5%85%AB%E5%8D%81%E5%85%AB%E7%AE%87%E6%89%80

 今日の掲示板はこれ。「毎日毎日の足跡がおのずから人生の答えを出す きれいな足跡にはきれいな水がたまる」という相田みつをさんの言葉から。一日はあっという間に過ぎて行くもの。小さい出来事しかないかもしれないのだが、一日一善という言葉が、多くの人に受け入れられるように、一日一日は大切なものであり、貴重なものであったりするのである。だから、精一杯の出来ることをするように心がけて、悔いのないように生きる努力をしていきたいものだと思うばかりである。

 

じゃぁ、また、明日、会えるといいね。


アイリスを 買って帰って 雨になる

2014年05月20日 | ふるさと散歩

 さぬき市地方は気圧の谷や湿った空気の影響で雲が広がり、夕方から雨となり、夜のはじめ頃からは雷を伴う所がある見込みとか。気温は18度から25度、湿度は83%から86%。風は意外に強くて6mから7mの南東の風が。だから、鉢物の植木が軒並み倒れて転がっている。明日の21日は、前線を伴った低気圧が四国の南岸を通過するため、明け方まで雨や雷雨となるらしいが、その後は次第に晴れる見こみなんだとか。

 

 今日は奥方がいない日。だったら、私もどこかにお出かけだな・・・と云うことで、久しぶりに「香川県立図書館」に行くことにした。出掛けてしばらくして、なんと言う本を借りるか、メモした用紙を忘れて来たことに気づいた。それじゃぁダメじゃん、春風亭昇太。

 

 アキニレの若葉があざやか・・・。9時過ぎの図書館はこんなもの。でも、若い女性がわんさかといるなぁと思ったら、「松市立幼稚園PTA総会」が、この図書館の会議室で行われるのだとか・・・。

 

 私は歴史のお勉強のために、さぬき市の「おへんろつかさの会」に入っているのだけれど、前々から気になっていた「お遍路の闇と陰」についてのお勉強をやっている。今年は「四国霊場開創1200年」ということで、華やかに、「お遍路の光と伝統」をPRしているが、へそ曲がりの私はその裏を覗いてみようと考えている。

 

 それが「病気遍路」「行乞(ぎょうこつ)遍路」「厭世遍路」などと云う「辺土:へんど」と呼ばれた人たち。飢饉や流行病で古里を追われて四国に流れ着いた人々・・・。犯罪者や夜逃げや死に場所を探して歩く人たちもいた。

 

 この本の半分以上は、そうした「辺土」についての論文やデーターが掲載されている。そうした人は数こそ減ったけれど、今も四国のあちらこちらに住み着いている。

 

 空が明るくなっている間に、ここに寄ってきた。丸亀市郡家町の郡家アイリス園で、アイリス(西洋アヤメ)が咲き始めたと聞いた。色鮮やかな大ぶりの花が初夏の風に揺れ、園芸愛好家らの目を楽しませているらしい。同市柞原町の愛好家重成博さんが十数年前から約40アールの休耕田で栽培し、一般開放(無料)している。年々株は増え続け、今年は600種約4万株になった。ジャーマン種・ルイジアナ種他カラフルな花々が咲いている。

 

 毎年初夏の風物詩として地元で人気を呼んでいて、今日も県内外から訪れたファンが爽やかな風に揺れる花々を愛でたり、写真に収めたりしていた。濃い赤紫が気高さを一層引き立てるルイジアナアイリスなど、これからも多彩な花が咲き始めると言う事で、今月一杯は艶やかな姿が楽しめそうだと云う。

 

 そんなところへ、奥方から「お弁当を忘れたの~。持って来てよ・・・」という電話が。「夕食までにお願い」と云うので仕方なく帰るはめに。

 

 お昼過ぎからは雲が厚くなってきて、2時過ぎからは雨になった。洗濯物を取り込んだり片づけたり・・・。アマガエルの声も聞こえだしてきた。アマガエルがいるんだ・・・と、新鮮な驚き。

 

 そんなところへ、丸亀市広島町のセンター長さんから「英国人レキ研究会の活動報告書を提出してください」との連絡が・・・。あ・・もう、五月もおしまいなんや・・・と、大慌てで昨年の資料を探し出してきて・・・。でも、明日やな。覚えていたらば・・・。

 

 今日の掲示板はこれ。「晴れた日と雨の日があって ひとつの花が咲くように 悲しみも苦しみもあって 私の人生が深くなる」と云うもの。

 「悲しみの意味」

   冬があり夏があり
   昼と夜があり
   晴れた日と雨の日があって
   ひとつの花が咲くように

   悲しみも苦しみもあって
   私が私になっていく
                   星野富弘

 

 「雨はイヤだ。」と言う人もいれば「恵みの雨」と喜ぶ農家の方もいる。病気をしたからこそ健康のありがたさがわかったり、空腹だからこそ、一つのおにぎりが最高のご馳走だと感じたり、辛く悲しい思いをしたからこそ、人のここころの痛みに寄り添えたりするように、悲しみも苦しみもあって私が私になっていく。

 

じゃぁ、また、明日、会えるといいね。


初夏や 庄松の寺の 鐘の音

2014年05月19日 | たまにはご法務

 東かがわ市地方は朝方は薄曇りであったが昼前からは高気圧に覆われて概ね晴れていた。気温は14度から24度、湿度は86%から57%とやや高めで蒸し暑かった。風は2mから4mの南南東の風が少し。明日の20日は、気圧の谷や湿った空気の影響で雲が広がり、夕方からは雨となる見込みらしい。

 

 今日は所属寺院の「海暁山海暁閣勝覚寺」の春季永代法要の日。例年は5月18日となっていたのだけれど、今年はなぜか19日になっていて、少し予定が狂ってしまった。ま、私の予定なんぞあってないようなものなんだけれど。
http://user.shikoku.ne.jp/s2521/history.htm

 

 法要は13時半からだけれども、私たちはいつも10時半くらいに出仕する。ところがどうしたことか兄弟子の弘昭さんがやって来ない。急遽、18日から19日に変更になったからお仕事の段取りがつかなかったのかと心配をしたものだった。

 

 この人が私どもの寺の有名人「庄松(しょうま)同行」。いわゆる「妙好人(みょうこうにん)」と呼ばれた人の一人。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A6%99%E5%A5%BD%E4%BA%BA

 

 ま、それはさておき、今日は春の永代経の法要日。兄弟子の弘昭さんも「わっせとった~(忘れていた)」と、法要ぎりぎりに駆けつけて来てくれた。

 

 予定通り、想定通りに法要も終わって、柴田先生のご法話になる。柴田先生は高松市西植田町「花の寺」で有名な「勝名寺」の住職さん。
http://uetakouku.com/shomyoji.html

 

 お寺でしか聞けない、お寺でしか話せないような、そんなお話を堪能したことだった。ま、お寺に来ているのだからあたりまえのことか。お寺でTPPの話をしても仕方がないし。でも、お浄土に渡る「弥陀の願船」には「往復切符がある」と云うのは新鮮なお話。普通は「死んだらおしまい」って、ことで、「お浄土に往った人は戻ってこない」というお話なんだけれど。

 

 「弥陀の願船」に乗って、西方浄土に行くのだけれど、そこには「往復切符」があって、お浄土に往っても「往還回向」という報復切符で戻って来て、生きている人のこころに戻って来る・・・というお話だった。

 

 話はそれとして、昨年までは会うこともなかった、お寺の次男坊の英海さんと三男坊の善海さんに会って一緒にお仕事ができた。二人とも学生さんとかで京都に出かけていて、全く顔を合わすことがなかったのだけれど、みんな大きくなって戻ってきていた。時の流れだなぁとあらためて自分の歳を教えられた。

 

 うちのお寺もこうした若い力でやっていくんだなぁとしみじみとしたことだった。

 

 今日の掲示板はこれ。「一人では何もできないが 一人から初めなければ何もできない」と云うもの。

 一人の手
作詞:Pete Seeger・日本語詞:Rutsuko Honda
作曲:Alexis Comfort

一人の小さな手 何もできないけど
それでも みんなの手と手をあわせれば
何かできる 何かできる

一人の小さな目 何も見えないけど
それでも みんなの瞳でみつめれば
何か見える 何か見える

 そんな感じの言葉です。

https://www.youtube.com/watch?v=PRSvfT3y-V8

 

じゃぁ、また、明日、会えるといいね。


山あざみ 洗濯物の 揺れる午後

2014年05月18日 | 自然ありのままに

 さぬき市地方は朝方は薄曇りだったが、高気圧に覆われて概ね晴れていた。気温は13度から25度、湿度は94%から42%。風は1mから3mの南の風が少し。明日の19日は、引き続き高気圧に覆われて、概ね晴れる見込みらしい。

 

 本来ならば、今日は所属寺院の「春期永代経法要」の日だったのだが、明日の19日に順延になって、ぽっかりと予定の空いた一日。さて、今日は何をして過ごすべぇかと思ったところに・・・。「ちょっと、お願いがあるの!」と地上から携帯電話が・・・。

 

 なんだろうと、外に出て見ると、みずやり用ひしゃくの柄が折れた・・・とのこと。「すぐに直して欲しいの・・・」と仰る。それも2本も・・・。

 

 「はいはい」と、直したら、今度は、水やり用ホースが短いので、長いものと交換して欲しい・・・という注文が・・・。体のいい「便利屋」さんではないのだろうか。

 

 さて、我が家の横のこの水路。今日は当番さんがやってきて水路掃除の日らしい。

 

 と、このようになった。

 

 こちら側の水路も・・・。

 

 このようにきれいにしてくれた。実はこの水路は・・。1828(文政12)年に有馬胤滋によって津田川・砕石(われいし)から弥勒池まで全長2.6km の大掛井(導水路)が完成しても、漏水が多く十分な水が弥勒池に届かなかった。

 

 こうしたありさまを憂慮した富田中村の庄屋であった軒原庄蔵は,弥勒池と津田川を隔てる尾根の地下に石穴(隧道,トンネル)を通して導水すれば水不足が解消できるのではないかと考えた。尾根部の地下は固い岩盤なので大掛井のように漏水する心配が殆どなくなるほか,水路の距離が短くなるので,水路の勾配を大きくとることができて水が通りやすくなるという利点もあったようだ。
http://doboku7.sakura.ne.jp/kikou/dobokukikou84.pdf

 

 これが「みろく石穴」と呼ばれるもので、中は人がしゃがんでようやくに通れるほどの狭くて低いもの。
http://ew.sanuki.ne.jp/rekimin/ikemiroku.html

 

 江戸時代末期ごろのことだから、こうした工事風景だったのだろう。

 

 こうして、昔の富田中村・富田西村・田面(たづら)村あたりの水田が潤ったのだという。そういう歴史的な水路だから、今も受益者たちの手で、この水路が守り継がれているというわけ。だから、私も年に数回は、我が家の周辺の水路掃除をお手伝いさせていただいている。

 

 午後からも「お遍路学」というか、「遍路の闇と陰」の部分についての資料集めをやっていた。

 

 今日の掲示板はこれ。「いまから ここから。あしたはあてにならぬから」という「相田みつを」さんの言葉から。最近、似たような言葉を選んでいるような気がしないでもないが、深い意味などあるはずもない。年がいくと物忘れが多い、気のついたときすぐに処理しておかないと忘れてしまう。思い出そうと思っても、どこの引き出しに入れたのかがわからないから出てこない。思い出したときには手遅れで、それが他人に及ぼすときはなおさら困る。

 

じゃぁ、また、明日、会えるといいね。


芍薬に 今日の感謝を 述べてみる

2014年05月17日 | お役目ごくろうさまであらっしゃいます。

 さぬき市地方は高気圧に覆われて概ね晴れていた。気温は12度から26度、湿度は82%から40%。風は1mから3mの北北西の風が少し。風が止むと暑い日差しになった。明日の18日は、引き続き高気圧に覆われて、概ね晴れる見込みらしい。

 

 今日は孫の「なぎちゃん」の小学校最後の運動会だというので、カメラマンとして出かけて行った。朝の間は雲がかかっていたので、楽な運動会になるなぁと思ったのだが、すっきりと晴れ渡って運動会日和になった。

 

 私らが子供の頃には保護者や親戚の人たちはゴザや敷物を敷いて応援したと思うけれど、テントの下に座れるのは児童だけ。ここだけなのかも知れないが、みんな、こうして立って演技を見ている。これも疲れるものだなぁと思った。

 

 それだし、「秋季大運動会」などと云うておったのだけれど、今は「初夏」にやるようで、秋には何をやるんだろうか・・・。娘の運動会などの記憶は全くなくなってしまっているし・・。

 

 新しい演技や競技も入って居るし、相変わらずの「玉入れ」や「騎馬戦」も残っていた。

 

 運動会の記憶もほとんどないのだが、何種類もの競技に次から次に出たような印象があるが、そうでもなかったのか。今回の孫の場合、「徒競走」と「騎馬戦」と「組み立て体操」の三度だけだったような・・・。ゆとりだろうかねぇ。クラスが多いせいもあるのかも知れない。

 

 こういう、流行の演技もあって、なかなかに盛り上がりもあって退屈はしなかったけれど。

 

 今日のお昼は娘の作ったお弁当。今年は私と娘と孫の三人だけ。三人でこれだけ。小学校の学校行事だから「禁煙・禁酒」のお願いがあった。でも、小学校の運動会でビールや焼酎・・・というのは記憶にはない。昔からそうだったのかも。

 

 ま、実にかわいいお昼ご飯になった。おいしいビールは我が家に帰ってから・・・。

 

 こういう組み立て体操もやったなぁ・・・と思いつつ。孫のなぎちゃんの思い出作りの写真撮影・・・。 これが「メイン・イベント」だった。

 

 と云うことで、すっかりと日焼けをしてしまって真っ赤になった顔に驚いた。

 

 今日の掲示板はこれ。「生きるとは何かに一所懸命打ち込んでいく、命を燃やしていくこと」という言葉である。、栗城さんはこう云っている。「私は決して死というものが悪いものだとは捉えていません。終わりがあるからこそ、いまがあることに感謝し、一所懸命生きることができると思うんです。生きるとは、長く生きるかどうかではなく、何かに一所懸命打ち込んで、
そこに向かって命を燃やしていくことだと思います。たとえ90歳まで生きたとしても、夢も目標もなく、何にもチャレンジしない人生はつまらない」と。

 

じゃぁ、また、明日、会えるといいね。


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