まほろば自然博物館

つれづれに、瀬戸のまほろばから自然の様子や民俗・歴史や見聞きしたおはなしをしたいと思います。

水仙に 今朝の朝寝を 見透かされ

2015年01月31日 | 今日もしっかりとお勉強・・。

 さぬき市地方は冬型の気圧配置となっているため、山沿いを中心に雲が広がって、雨や雪の降っている所があった。気温は4度から6度、湿度は76%から54%、風は4mから6mの北西が強くて寒かった。明日の2月1日も、引き続き冬型の気圧配置となるため、雲が広がりやすい見込みらしい。

  

 今日と明日はお出かけをしない日・・・の予定。

 

 というのも、今日と明日は「四国遍路セレクション」ということで、お勉強というかおさらいというかのテレビ研修の日。ま、私の研究とは少し違うのだけれど、「おへんろつかさの会」会員としてはお勉強しておかねば・・・ということで。

 

 ということで、今日も「四国遍路の闇と影」の編集作業。それと平行しながら、テレビ研修。

 

 そそ、昨日に、amazonから、この本が届いた。自由律俳人の「住宅(すみたく)顕信」の「未完成」という句集である。

 

 住宅顕信は、本名・住宅春美(すみたく はるみ)。岡山県岡山市に生まれた。岡山市立石井中学校卒業。1976年4月、岡山市内の下田学園調理師学校に入学。同時に就職し、昼は勤務し夜は通学という生活に入る。4歳年上の女性と知り合い、同棲を始める。この頃より詩、宗教書、哲学書に親しむ。1978年3月、下田学園卒業。1980年、父親の勤務先である岡山市役所に臨時職員で採用され、清掃の仕事に従事。仏教にに傾倒し、1982年9月より、中央仏教学院の通信教育を受講。翌1983年4月、教育課程修了。7月、西本願寺にて得度。浄土真宗本願寺派の僧侶となり、法名を釋顕信と名告る。10月、同棲相手と結婚。両親の援助により自宅の一部を改造して仏間をつくり、浄土真宗の根本経典「無量寿経」に因み、無量寿庵と名付けた。

 

 1984年2月、急性骨髄性白血病を発病し岡山市民病院に入院。6月、長男誕生。不治の病の夫に対して妻の実家の希望により離婚。長男は顕信が引き取り、病室にて育てる。10月、自由律俳句雑誌「層雲」の誌友となり、層雲社事務室の池田実吉に師事。この頃より自由律俳句に傾倒し、句作に励むようになる。特に尾崎放哉に心酔した。1985年に句集『試作帳』を自費出版。「層雲」に権威主義的な疑念を感じ、「層雲」の元編集者である藤本一幸が主宰する自由律俳句誌「海市」に参加する。翌1986年、「海市」編集同人となる。病状が悪化し、この年の12月からは代筆によらなければ投書できなくなる。1987年2月7日23時23分、還浄。享年25。俳人としての創作期間はわずか3年で、生涯に残した俳句は281句だった。(Wikipediaより)

 

 お昼のNHKは、通常の番組になるので、その間に少しだけお出かけ。さぬき市長尾前山にある、「おへんろ交流サロン」に寄って資料の確認。

 

 ここには、「へんろ資料展示室」があって、貴重な資料が保存・展示されている。

 

 幾らかの資料の画像を撮って、メモして・・・。

 

 ここは何度も何度も来ているので、手慣れたもの。お仕事が済めばユーターン。

 

 今日は奥方のけいこばぁが日勤勤務のために、今日の昼食はどうしようかと考えたが、

 

 木田郡三木町にある「手織りうどん滝音(たきね)」である。ここも人気のあるお店で、11時から13時あたりは行列ができるお店。

 

 今日は「肉ぶっかけうどん小の温いん」をお願いした。ここもプチ・セルフのお店で、カウンターで注文して、天ぷらやご飯ものをチョイスして、調理された麺を受け取ってお会計して、好きなものをトッピングして、好きな席に着いて食べる。食べ終われば、食器を返却口に戻しておしまい。

 

 今日の掲示板はこれ。「人間の可能性を閉ざしているのは、他人でもなく、外部環境でもなく、自分の意識である」というもの。いいのも、悪いのも、好きも嫌いも、おいしいのもまずいのも、みんな、自分の意識なのだというのである。確かに、確かに、そうなのだけれど。

 

じゃぁ、また、明日、会えるといいね。


切り出した 遍路の話 みぞれ降る

2015年01月30日 | 今日もしっかりとお勉強・・。

 さぬき市地方は南岸を通過している低気圧の影響で雲が広がり、東部を中心に雨や雪の降っている所があった。気温は2度から8度、湿度は94%から66%、風は2mから4mの西北西の風が少し。明日の31日は、冬型の気圧配置になるため、雲が広がりやすい見込みらしい。

 

 今日は大雪になるという予想だったので、奥方のけいこばぁは、どうして出勤しようかと心配していたが、夜が明けると雨だった。雨ではお出かけもできないと、今日もパソコン三昧、デスクワーク三昧になってしまいそう。

 

 ということで、今日も「四国遍路の闇と影」の編集作業。今日は「市川団蔵」と「団蔵うどん」のお話である。この「団蔵うどん」、市川団蔵さんが結願後に八十八庵に立ち寄り、「時間がないので早くできるうどんを」と注文されたことから生まれたもの。短時間で茹で上がるように初代店主がうどんを細切りにして出したところ、「とても喉ごしがよくて美味しい」と好評だったのだとか。その数日後、団蔵さんは瀬戸内海で姿を消してしまった。

 

 今から約63年前に、 今は亡き歌舞伎役者『市川団蔵』が、四国霊場八十八ヶ所巡礼の旅を終えた後、大窪寺門前にある「八十八庵(やそばあん)に立ち寄り、このうどんを食べ、「こんなうどんは今までに食べたことがない。 はじめて、うどんの味がわかりました。」と感嘆したことから市川団蔵さんを偲んで「団蔵うどん」と名前をつけたという。

 

 「〝老醜″で団蔵の名を汚したくない」。晩年は、そのことばかり考えていたようだ。そして、引退興行の千秋楽の日、こんな感想をもらした。『これがすんだら、重い肩の荷が一度にスーッとして、いい気持でしょうね』」という。また、六代目菊五郎の狂歌に「永生きは得じゃ 月雪花に酒 げに世の中のよしあしを見て」があるが、団蔵は、これをもじって「永生きは損じゃ 月々いやなこと 見聞く憂き世は あきてしまった」という狂歌をつくり、また、周りの人にも見せていたという。

 

 「我死なば 人に迷惑 かけるなよ 仏頼まず さらば地獄へ」と、さらりと言ってのけた。そして旅の途中に、この歌を「我死なば 香典受けな 通夜もせず 迷惑かけず さらば地獄へ」と変えたとも話したという市川団蔵さん。おへんろさんはいろいろな想いで歩き続けているのである。

 

 いよいよ今日は正月の30日、間もなく2月に入るということで、ホームページの更新をしておかねばならないと、作業を切り替えた。

 

 まずは、3月分の予定表の作成から。これまでの「OCN」のほうには、「ここは、2月28日をもって廃止されます。以降は、http://wwwb.pikara.ne.jp/h-kimm に移転します。というメッセージを掲載して、3月分の予定表の更新はしない。

 

 で、これからの「pikara」の方で更新をかけて行く。ここで、アクセス・カウンターを設置することにしたが、その方法がわからず、へとちまとち、しどろもどろ・・・。

 

 なかなかに確認法もわからずに、結果待ちは夕方か、明日の朝か・・・。

 

 一時期には粉雪も降ってはきたが、すぐにあがってしまった。

 

 ホームページの移転作業は大変だなぁと思って居たが、思いの外、簡単に移転ができた。2月末日が、1月末日にと一月の前倒しで完了した。山頭火の句碑集も大詰め、「四国遍路の闇と影」も概ね、峠は越えたように思う。

 

 後は校正とか画像の張り込みとか組み立て・配置なんぞの微調整。三月末には両方とも完成させたいもの。当面、2月の母の三回忌と京都での研修をクリアーしなければ。

 

 今日の掲示板はこれ。「ひとすじに打ち込む そこに道がひらける」というもの。

 「道」
 ひとすじに打ち込む
 そこに道がひらける
 精神誠意ひたすらに
 そのことに打ち込む
 そこに道が開ける
 道を誤っている時は
 いくら走ってても益なし

 

じゃぁ、また、明日、会えるといいね。


朝霜に 今朝の怠惰を 見透かされ

2015年01月29日 | 今日もしっかりとお勉強・・。

 
さぬき市地方は気圧の谷の接近で朝から雲が広がり、夜には雪か雨の降る所があるらしいし、夜遅くから30日朝にかけて大雪のおそれがあるらしい。気温は-0.2度から5度という冷え込みだから、朝方は雪がうっすらと降っていたし、水道も犬の水桶も凍っていた。湿度は72%から62%、風は2mから3mの南南東の風が少しばかり。明日の30日は、四国の南海上を通過する低気圧や寒気の影響で、夕方にかけて雨や雪が降る見込みだとか。

 

 いよいよと冬らしくなってきた今日このごろである。こういう寒い日は出かけない方がいいのだけれど、どうしても参照したいデーターが欲しいので・・・と、いつもの香川県立図書館に行ってきた。

 

 こう寒いと出足も悪くなるのか、駐車場はガラガラ・・・。図書館内部にも十数人がいた程度。でも、毎日、新聞を読みに来る常連さんは健在だった。

 

 県立図書館だから、欲しいものが見つかる訳ではないし、私の欲しいような本は案外と少ない。少ないから、私が作らねばならないのだ・・・と思ってしまうのである。

 

 で、探していたのは、この本。この本もスキャナーで読み込んではあるのだが、些細な図表や数値、データなどが保存できていなかった。本文はあるのだが、「表5-2」とか、「図4-3」というものが見つからない・・・ということでやってきたもの。

 

 帰りに、87番長尾寺さんに寄って、「歌碑」を探してみたのだが、境内には句碑はあっても歌碑がない。どこかにある筈なのだが見つからない。空気が冷たいので早々に帰ることにした。この時間にはお遍路さんは一人もやってこなかった。

 

 今日も「木村食堂」での「カレーうどん」。こんなんだったら、どこのうどん店でも食べられるのに、「お昼、用意しておくから~」と言われると戻って来ざるを得ないのだが・・・・。

 

 少し下がって町のほうに行くと雪はないが、わが家に戻ってくれば、うっすらと雪が残っている。さすが、わが家は「ドーナツ」の「ド」が付く「田舎」だなぁと思ってしまう。

 

 お昼からは「確定申告」用の「医療費控除」のためのデータの整理。ここまでは昨日にやっておいたので、今日はデータの投入作業。

 

 昨年は、母のさっちゃんの分があったので、都合、7万円ほどの還付金があった。今年は、それがないので、ずいぶんと少なくなるなぁと思っているのだが。で、私の医療費が40万円ほど、奥方は4万円ほどの合計、44万円ほど。だから、その一割だと昨年の半分くらいにはなるのかなぁ。

 

 それが終わると、先日の報恩講に使った「お衣装」の片付け。奥方にお願いしてあったのに、「あなたのものでしょ」と、相手にもしてくれない。仕方なく、私が片付けを始めると寄ってきて、「さすがに手慣れたものねぇ~」なんて、ニヤニヤしてはる・・・・。

 

 その後は、「四国遍路の闇と影」の編集作業。この人は「娘巡礼記」を書いた「高群逸枝(たかむれいつえ)」さん。この人は24歳の時に恋愛や仕事上の悩みから一人でお遍路に出た。大正7年のことだから歩いての逆打ちであった。そこで遍路道を外れた危なくも恐ろしい遍路の旅を続けている。その遍路紀行がものすごい・・・。

 

 一方、こちらはハンセン病患者が遍路となって四国をさまよっている人たちを救い出そうと努力をした「小川正子」さん。故郷を追われて、わずかなお接待を頼りに四国を生きている限り歩き続けなければならなかった人たち。それを救うために小川さんは懸命に働いて、過労のために昭和18年、41歳の若さで亡くなった。彼女の死から10年後の昭和28年に「らい予防法」が交付され、「らい病」で呻吟していた四国はやっと病魔から解放されたのであった。

 

 今日の掲示板はこれ。「苦は楽のため、楽は苦のため。一生懸命努力した人だけが楽しい思いをするようになるんです。ただ楽ばかりしておったんじゃ、ろくなことはありません」という、長岡三重子さんの言葉から。「年を取って輝く人っていうのはやっぱりある程度努力をした者ですよね。若い時と同じように、年老いてからも一生懸命努力しなきゃならないと思います。そういう人だけが楽しい思いをするようになるんです。それをただ楽ばかりしておったんじゃ、ろくなことはありません。苦は楽のため、楽は苦のため。そういうことでしょう。」百歳のスイマーのインタビュー記事からだった。

長岡三重子
80歳の時に膝を痛め、リハビリのためプールで泳ぎ始める。
85歳でマスターズ水泳大会で日本新記録を樹立。
90歳で世界大会で3つの銀メダルを獲得。
95歳で世界記録29個を達成。
現在、24個の世界記録を保持している方。

 

じゃぁ、また、明日、会えるといいね。


冬寒は 鬼にも蛇にも なれそうな

2015年01月28日 | 今日もまた、病院に行って・・・。

 さぬき市地方は冬型の気圧配置となり、瀬戸内側を中心に雲が広がっていた。気温は3度から6度、湿度は78%から59%、風は2mから3mの北北東の風が少しばかり。昨日は5月頃の季候だと言うていたのに、一転して今日は冬空に戻ってしまった。明日の29日は、高気圧に覆われて午前中は概ね晴れるらしいが、気圧の谷の接近で夕方からは雲が広がり、夜には雨や雪の降る所があるという。

 

 ということで、月に一度の「予約診察」の日がやってきた。昨日の報恩講に出勤した訳でもないのだろうが、昨夜からまたしても右足が腫れ上がって歩けなくなった。今日はその診察もお願いした。

 

 今日は数ある検査の中から、まずは比較的早い、胸部レントゲン検査から。肺に水が溜まっていないか・・・という検査である。少しばかり飲み過ぎると、おなかに水がたまるのだという。だから、「利尿剤」で排水をしているのだが・・・。

 

 その後は「生理検査室」で、心電図検査。それが終わると「検体検査」という「採血検査」と「尿検査」。採血しながら看護師さんが、「大きな手術でもされるんですか?」というような検査。採血だって、6種類もの検体を採取された。

 

 その後は「頭部MRI検査」。ヘッドホンをかけて、大きな音がゴンゴンとかピュアピュア・・とうるさい検査。ここは放射能検査ではなくて電磁波での検査だから、前のおじさんなんぞ、ズボンからシャツから脱がされていた。とにかく金属のついているものはダメ。入れ歯からメガネから外されてしまう。この検査がお値段するらしい。

 

 その後、眼科での術後検診。眼の検査や眼の写真を撮ったり、ドクターの検診があったりするが、術後は順調とのこと。次回の診察で診察はおしまいになるらしい。その後、整形のドクターの診察があって、最後が内科の診察。朝の9時から11時半の診察まで・・・。

 

 腹水はたまっておらずOK。心電図に不整脈はあるもののさほどの異常はみられない。とりたてて、手術をするような段階ではない。

 

 若い頃に脳梗塞を起こした跡はあると言うものの、その記憶がない。電柱に昇ろうとして偏頭痛を起こして救急車で運ばれたことがあるが、さては、その時なんだろうか。今のところ、それ以外には異常は認められないという。が、やはり、肝臓と膵臓の数値が悪い。お酒は控えてください・・・と毎度の警告。最近は冷たいから、さほどビールは飲んでいないのだけれど。一人酒がよくないのかな。

 

 で、12時を少し過ぎてしまったので、病院近くにある「陣内うどん」に飛び込んで、どうにかテーブルに着くことができた。後のお客さんは数十分待ちになってしまった。

 

 で、久々の「野菜うどん」。おなかが空いていたこともあって、おいしくいただいた。しかしのかかし、今日の病院代だけで17,850円!!。思わずに「はぁぁぁ・・・・」。

 

 午後からは「確定申告の医療費控除」の準備。昨年、一年間に支払った医療費の整理作業。私と奥方にまず分けて。それから、病院別、薬局別に分類して・・・。

 

 今度はこれをA4用紙に貼り付けて整理する。

 

 これを元にして、医療費計算をするのだが、本日の作業はここまで。

 

 こういう形式で集計するのだが、これは、また、明日。

 

 今日の掲示板はこれ。「鬼とは私のことか 豆がまかれる」という住宅顕信さんの言葉から。いつもお世話になっている赤松先生のお寺の掲示板にあったもの。もうすぐ節分。冬と春の分かれ目ということで、暦の上では春になるころである。節分といえば豆まきであるが、豆まきを題材にした俳句を取り上げた時期らしいことばである。「鬼とは私のことか豆がまかれる」 ことば言っても、これは自由律俳句。荻原井泉水、尾崎放哉、種田山頭火などの流れを汲むもので、「住宅顕信」さんは1987年に25歳の若さで急性骨髄性白血病で亡くなった俳人である。この句にも、作者のそうした悲しい背景が忍び込んでいるように感じられるのだけれど。

 

じゃぁ、また、明日、会えるといいね。


やぶ椿 お役目一つを やりとげて

2015年01月27日 | たまにはご法務

 さぬき市地方は気圧の谷が通過して次第に晴れてきていたが、湿った空気や寒気の影響で雲の広がっている所がでてきた。気温は9度から14度、湿度は84%から60%、風は3mから5mの西北西の風がすこしばかり。明日の28日は、引き続き冬型の気圧配置となり、雲が広がりやすく、明け方まで雪か雨の降る所があるらしい。午後からは冬型の気圧配置も次第に弱まる見込みなんだとか。

  

 山頭火研究やらお遍路研究ばっかりやっているように思われているので、たまにはこういうお話もしておかなければ・・・ということで、今日は高松市御坊町にある「高松興正寺別院」にやってきた。心配されていたお天気もすっかりと晴れてきて、気温はぐんぐんと上昇してきた。

 

 今日はここで、「宗祖親鸞聖人報恩講」が行われるというので、見えるようになった眼で、自分で運転をしてやってきたもの。前回は11月の講演会で、運転手付きで来たのがまるで昨日のことのよう・・・。

 

 朝座は午前10時から。私たちは9時半に集合して更衣して、朝の法要の準備をする。出勤者は十数名あまり。

 

 本堂のなかは参詣者でいっぱい・・・。高松から京都は近いと言っても、なかなか、ご婦人方や高齢の方にすれば容易にはお参りできない。そういうこともあって、大勢の方のお参りがあった。

 

 私たちは、御絵伝の掛けられた右余間に着座する。(この画像は昨年のもの:東讃教務所HPより)

 

 御門主さまが登壇されて御親修のもと、各組(地区)の代表出勤者や知堂衆など30名を越える法中(お坊)さん方によって法要が行われた。

 

 法要の後、門主さまから「ご親教(おことば)」が披露された。その後、法話(おはなし)がおこなわれた。

 

 その後の昼食は「お斎(おとき)」ということで、しっぽくそばやしっぽくうどんが振る舞われた。おそばなんぞは滅多に食べられないからと、しっぽくそばをいただいたが、うどんのような食感だった。おそばを食べて、おうどんのおかわりをする人も多かった。

 

 お参りに来られた方々も和気藹々(わきあいあい)と「お斎」をいただいている。

 

 お昼休みの間に、幼稚園の年長さんによる歌やお遊戯が披露されて、お参りのおじいちゃんやおばあちゃんたちから大きな拍手を受けていた。

 

 13時からの昼座の勤行(お勤め)、法話(おはなし)があって、15時過ぎには今日の法要はおしまいになった。

 

 私は半袖シャツだけの夏バージョンなのに、汗が流れて流れて困る一日だった。

 

 今日の掲示板はこれ。「自分は正しい 自分は賢い というところに立っている これが人間の迷いのもとです」というもの。。私たちは「迷い」と聞くと、右に行ったら良いのか、左に行ったら良いのかと迷っている様をイメージしがち。しかし、仏教における「迷い」とは、「こうに違いない」「こうあるべきだ」という「思いこみ」のことを指すのである。思いこんでいる時に、その思いこみに気付くことはないし、気付かないからこそ「思いこむ」というのであろう。その思い込みをやめることはできない私たちだが、そのことに気づくことが大切だというているのである。迷いを断ち切ったりはできないが、その迷いに気づくことが大切だというのである。

 

 じゃぁ、また、明日、会えるといいね。


冬時雨 明日の一歩を 考える

2015年01月26日 | 時にはぼぉっ~とする時

 さぬき市地方は気圧の谷や湿った空気の影響で雲が広がり、雨の降っている所があった。雨は降ったり止んだりを繰り返していた。夕方から雷を伴う所があるらしい。昨日の好天がうそみたいな一日である。明日の27日は、気圧の谷や寒気の影響で雲が広がりやすく、朝晩は雨の降る所がある見込みなんだとか。

 

 ま、天気予報で雨になることは知っていたので、今朝は7時半までゆっくりと寝ていた。

 

 だから、今日もパソコン三昧、デスクワーク三昧ということになる。山頭火句碑集の修正やら、「四国遍路の闇と影」の編集作業を交代でやっていく。どうにも根気もなくなってきた。

 

 小学生のように50分授業みたいな感覚である。あれをやり、これをやり・・・をしないと飽きてしまうようになった。天気が悪いと言うことは気分的にも乗らないように思う。

 

 ついでに、さぬき市内にある他の人の句碑や歌碑の調べ物も間に挟んだりして。

 

 休憩時間には外にも出てみたりして気分転換。もう、昨日のバス研修でお勉強したことは忘れてしまって、どこがどのお寺で、これはどこだったか・・と曖昧な記憶ばかりが。

 

 今日は珍しく奥方の作る「木村食堂」の煮込みうどん。奥方の料理はいつも熱いのが欠点だ。ま、雨の中、出かけて行くのも面倒だから、汗を流しながらのおうどんになった。

 

 雨は降ったりやんだりを繰り返している。

 

 昨日のバス研修で、これを回覧して見ていただいたら、早くも5冊の注文が入った。そうなると、「やらねばならん・・・」というプレッシャーも掛かってくる。いい加減な内容ではだめだなぁとも思ってしまう。ま、私の本は「非売品」だから、作れば作るだけ赤字になるのだけれど。

 

 でも、読んでいただけるということは有り難いことだ。私は「どこの本屋さんにも売っていない、世界で一冊だけの本を作る」というのが夢であった。それが、今も「まほろば工房」の夢である。

 

 この前に、年末だ、お正月だと賑やかだったのに、はや、今週いっぱいで一月が終わってしまう。明日は別院の報恩講。明後日は内科と眼科の診察日になっている。一月はあっというまに行ってしまう。

 

 で、早速に二月の京都行きの高速バスの予約をした。二月も、母の三回忌やなにやらであっという間に逃げていってしまいそう。

 

 今日の掲示板はこれ。「鬼というおそろしきものはどこにある 邪見の人の胸に住むなり」という一休禅師のことばから。鬼は地獄に住むものと子供の頃から教えられてきたが、その地獄なり鬼なりはどこにあるかといえば、みんなこの身や、この心の中にあるというのである。「邪見」はまちがった人生観や世界観である。身びいきや身勝手なエゴイスティックな人生観や世界観が地獄の世界であり、鬼の住むところなのであるというのだ。(松原泰道『一休さんの幸福論』より)

 

じゃぁ、また、明日、会えるといいね。

 


冬晴れは 旅にこころを 奪われる

2015年01月25日 | たまには旅など・・。

 四国地方は高気圧のせいで概ね晴れていた。気温は2度から12度、湿度は80%から51%、風は1mから2mの南西の風が少しばかり。暖かな春のような一日だった。明日の26日は、低気圧の影響で雲が広がり、昼前から夕方は雨が降り、夕方は雷を伴う所がある見込みらしい。

 

 今日は月に一度の「おへんろつかさの会」のバス研修の日である。朝の7時にさぬき市役所に集合・・・と言っても、起きるのは午前6時だから真っ暗闇。家を出るのが6時半、まだまだ暗い。バスに乗り込んでもまだ薄暗い。明るくなったのは高松市内に入ってから。

 

 今回のバス研修は、四国霊場の54番札所の延命寺から、59番の国分寺までの6ヶ寺での実地研修。お寺の歴史や周囲の環境、お作法などを研修する。私たちはお寺に関係するような全てのことをガイドできるように勉強している。

 

 このお寺は56番の泰山寺さん。この石壁に注目。このあたりは河の氾濫が多くて人命も多く奪われた。そのために川石を拾い集めてこのような石垣を築いた。このあたりの民家も似たような石垣がある。

 

 この方が、「おへんろつかさの会」の専任講師の一人の「櫻谷和香」大先達。私の現役時代からの友人でもある。昨年12月に、「権大先達」の「権」がとれて、晴れて「大先達」に昇格した。この人に、お作法やお寺の縁起・歴史などの講義を受ける。

 

 今日は暖かくて、少し歩けば汗ばむほど。今日の参加者は32名。みんなそれぞれのオーソリティーばかりが参加している。この左端のベトナム人みたいな方は「先達」を目指している人。昨年はサンフランシスコを旅してきて英会話のレッスンをしているとか・・・。

 

 これが、今回訪問した「今治市」のマンホールの蓋。来島海峡と村上水軍だろうか。

 

 これは55番札所の「南光坊」さんの境内にあった「松尾芭蕉」の句碑で、「物いへば唇寒し秋の風」と刻まれている。とにかく愛媛県には句碑が多い。

 

 四国霊場の中で、「なんとか坊」というお寺さんはここだけなんだと。ここにも正式な名前があって、「別宮山光明寺金剛院南光坊」というのだそうだが、通称「南光坊」で通っているらしい。

 

 ここの山門は立派なもので、仁王門ではなくて「四天王」が入り口をガードしている。で、今日のお昼は、「今治国際ホテル」の「真珠の間」でのお食事になったが、あいにくとカメラの電池切れとなって撮影できなかった。だけれど、お遍路さんのお昼だから、そんなに豪華なものではなくて、「お弁当」の少しカッコいいものだった。

 

 午後からは、58番の仙遊寺さんから。ここは今治市の高い山、およそ、3Kmの山道を登ったところにある。いろんなお話を聞いたが、お先達さんの顔で、本堂の内陣に入れてもらって、ご本尊さんをしっかりと拝観させていただいた。

 

 私の今回の目的のお寺がここ。57番札所の「永福寺」さん。正面が本堂であるが、

 

 その本堂の前の外縁に奉納されているのが、この「箱車」。15歳の足の不自由な少年が、この箱車に乗ってお四国まいりをしている時、この車を引いていた犬が暴走して少年は箱車から投げ出された。少年はようやくに身体を起こしたところ、足の病が治っていたという。そこで、少年は、この箱車と松葉杖を、ここに奉納したのだという。事実はともかくとして、この箱車はここにある。当時は車輪にタイヤやチューブがあったのだろうけれど、今は金属枠しか残っていない。

 

 今回の研修の最後は、59番の国分寺。もう、この頃になると、私の頭の引き出しは飽和状態。「聖武天皇が・・・・・・」講師の言葉が右の耳から左の耳を通り過ぎていく・・・。しきりに、みんなはメモを取っているが、私はメモする気力さえなくなっている・・・。

 

 今回の研修で、愛媛県は終了した。今日以降の札所は寒くなる前に昨年のうちに打ち終えている。国分寺を15時45分に出て、さぬき市役所に戻ったのは18時15分。すっかりと暗くなってしまっていた。でも、一朝一夕では観光ボランティアにはなれない。経験の積み重ねだなぁと思ったことだった。来月からは香川分に入っていく。

 

 今日の掲示板はこれ。「頂上ばかり眺めずに、まず目の前の一歩をどう歩むかです」という石川真理子さんの言葉から。まさしく、そのとおりである。すばらしい「観光ボランティア」になることばかりを目指すのではなくて、まず、目の前の今日のことを、どう整理しておくかだなぁと思ったことであった。

 

じゃぁ、また、明日、会えるといいね。


ロウバイが 句碑のありかを 指し示す

2015年01月24日 | ふるさと散歩

 さぬき市地方は高気圧に覆われて概ね晴れていた。気温は0度から11度、湿度は77%から59%、風は2mから3mの北北西の風がすこしばかり。明日の25日は、高気圧に覆われて晴れるらしいが、気圧の谷の影響で夕方から雲が広がる見込みだという。

 

 今朝は雪でも降ったのかと思うほど真っ白な朝だった。犬の散歩に出たら、それは大霜で、迷犬ごんは霜の上でころころと転げ回って遊んでいた。全く、変な犬であることよ。

 

 今日は大霜だから日中は暖かくなるぞ・・・ということで、市内にある「宇佐神社」にやってきた。今週頭に、「碑(いしぶみ)の社」と言われているということでやってきたのだが、その数の多さにあきらめたのだが、今回は暖かいからということで再調査にやってきたもの。

 

 ここには30数基の句碑や歌碑があるのだという。そこで、片っ端から写真を撮って、それをプリントアウトして調査するという手法をとることにした。ここの本殿から東側の丘の中に、「碑の石段」という遊歩道があって、その途中に歌碑などが設置されているが、冬場は全く手入れがされておらず、全くの山の中みたい・・・。

 

 こういう境内にあるものはいいのだが、林の中は薄暗くてうまく画像にはなってくれない。

 

 こういうものを、フラッシュを焚いて撮影するとまったくののっぺらぼうになってしまう。結局、ちょうど30基を確認した。

 

 すると、突然にこんなものが顔を見せる。ここにはたくさんの古墳があるらしい。

 

 皇紀・・・・。いまどき、皇紀なんて使う人がいるのだろうか。平成27乙未(きのとひつじ)歳と読むらしい。「ゼロ戦」が正式採用されたのが、昭和15年(1940)・皇紀2600年であったので、「零式艦上戦闘機」と名付けられたと記憶している。あれから・・75年になるのか。

 

 これから先、どうしたもんだかと考えていたが、天気もいいということで、さぬき市多和竹屋敷というところにある「野田屋竹屋敷」に寄ってみることにした。

 

 で、ここにある「お食事処・はなみずき」に入った。ここにうどんがあることは知っていたが、まだ、入ったことはなかった。

 

 うどんやそば、抹茶、コーヒーなんぞがあるという。中は売店も兼ねている。

 

 で、寒いとき限定の「打ち込みうどん」をお願いした。ここは一般店で、850円だった。合わせ味噌で野菜や豚肉などを煮込んだおうどんで、これはおいしいなぁと思った。

 

 今日はお客さんだから園内を思う存分に歩いて歩いて・・・。今まで見つからなかった何点かを見つけることができた。これは、「山頭火没後六十年碑 旅人は鴉(からす)に啼かれ」というものだが、「それが、どしたん?」みたいな。「しら・・・・・・(-_-)」みたいな・・・。山頭火の句でなければ、誰も振り向きもしない句である。

 

 ここには山頭火の句碑が20基、砂井斗志男3基、河東碧梧桐1基の24基が立っている。

 

 今日の掲示板はこれ。「過去のどうにもならないことを悩むより 現在、自分がおかれているところから 将来に向かって人生を切り拓いていこう」という新井正明さんのことばから。住友生命の社長・会長を務められた新井正明氏のはなしである。兵役にあった新井さんはノモンハン事変に参戦して被弾、右足を付け根から切断した。二十六歳だった。
 帰還した新井さんを会社はあたたかく迎えてくれたが、若くして隻脚(せっきゃく)の身となった苦悩は限りなく深かった。その最中(さなか)、新井氏は安岡正篤師の『経世瑣言(けいせいさげん)』で一つの言葉…「いかに忘れるか、何を忘れるかの修養は非常に好ましいものだ」に出会い、翻然(ほんぜん)とする。「自分の身体はもう元には戻らない。ならば過去のどうにもならないことを悩むより、現在、自分が置かれているところから将来に向って人生を切り拓いていこう」
 この瞬間から新井氏は真の人生を歩み始めた。

 

じゃぁ、また、明日、会えるといいね。


水仙は 迷いもせずに 生きている

2015年01月23日 | 時にはぼぉっ~とする時

 さぬき市地方は冬型の気圧配置となっているため、瀬戸内側を中心に雲が広がり、雨や雪の降っている所があった。気温は6度から8度、湿度は84%から55%、風は5mから4mの西北西の風が冷たかった。明日の24日は、高気圧に覆われて概ね晴れる見込みらしい。

 

 今日も雨の朝になった。雨は夜明けと共に上がったけれど案外と薄暗い午前中になった。

 

 連日のデスクワークで、プリンターのトナーがなくなったとアラームが出ているので、町内の家電量販店に行って来た。

 

 どうにも、作業を確認する意味で、紙ベースの資料がないと落ち着かない。もったいないから省略はしたいのだけれど、紙でないと落ち着かないというのは若い頃からの習性だろうか。

 

 その足で、町内にある歴史民俗資料館にも寄ってきた。最近、このブログに「番屋こたつ」を探しに来る人が多い。今更、番屋こたつでもないと思うのだけれど。

 

 この丸いものが「番屋こたつ」。上蓋をあけて、中には木灰が入っていて、その中に炭火や豆炭などを入れて暖ををとった。これは布団の中に入れた。左の赤いものは「足こたつ」。穴の開いた蓋を取って、中に木炭などを入れた。左下の木枠のついたものは「安全こたつ」とか「船こたつ」とかいうもので、どんなに転がしても火や灰がこぼれることはなかった。

 

 これにも「番屋炬燵」と書いてあるが、こちらは焼き物の瓦製・・・。引き出しみたいに四角い箱状の容器が入っていて、その中に炭火を入れて暖まった。これを布団の中に入れて足を温めたもの。

 

 これは「やぐらこたつ」というもの。この中に、番屋こたつを入れていた。上からふとんをかけてみんなで暖をとれるようになった。今の「電気こたつ」の全身である。でも、なぜ、「番屋こたつ」なのかはわからない。

 

 昔なつかしい初代のテレビ。今でも、お年寄りは「チャンネルを回して・・」と言うが、この頃は、チャンネルは回すものだった。

 

 これも初代のパーソナルコンピュータ。この頃はわくわくしながら、それを使ったもの。メディアも2DDとか2HDとかいうペラペラの磁気媒体を抜き指ししたものだった。思えば、ずいぶんと、こうした機器にお小遣いをつぎ込んだものだった。

 

 さて、今日も「四国遍路の闇と影」ということで、今日は「職業遍路」の部分を整理していた。職業遍路というのはお遍路の姿をして、札所の近くやスーパーの前などで立っていて、お金や品物をいただくだけの人。読経もしなければ、托鉢も修行もしない。一日に二千円もいただければ生活していけるのだという。

 

 この人、輪袈裟もなければ金剛杖も菅笠も持っていない。それに晴天なのに長靴ばきのお遍路さんというのは無理がありそう・・・。

 

 こういう人はそれらしいけれど、どうなのかなぁ。それにしても荷物が大きそう・・・。

 

 今日の掲示板はこれ。「真の礼儀とは 人を尊ぶ心を 形にあらわすことである」というもの。最近のコンビニとかファーストフードのお店などで、言葉やお辞儀は丁寧だけれど、人を尊ぶ心がこもっていないから、まるで機械仕掛けの人形のようで、ちっとも嬉しくもないし、ありがたくもない。マニュアル通りの挨拶は「礼儀」とは言えないような気がする。

 

じゃぁ、また、明日、会えるといいね。


水仙に 世のあれこれを 訊いてみる

2015年01月22日 | たまには真剣な研究なども

 さぬき市地方は四国の南岸を東に進む低気圧の影響で雲が広がり、東部を中心に雨の降っている所があった。気温は6度から10度、湿度は95%から80%、風は2mから4mの西北西の風が少し。明日の23日は、冬型の気圧配置となるため雲が広がりやすく、明け方までは雨や雷雨となる所がある見込みらしい。

  

 眼の手術をしてから、あんまり眼を使うと疲れるもので、ついつい、午後の8時か9時には寝てしまう。奥方は7時前から寝てしまっている。だから、朝は6時とかに眼が覚めるが、あたりはまだまだ真っ暗・・・。でも、起き出してパソコンを立ち上げてメール・チェックやらブログ巡りなんぞをやっている。

 

 その間に、いつしか明るくなってくる。そうなってくると、そろそろとお仕事・・・。

 

 山頭火の句碑集が一段落したので、これまた、昨年夏から中止していた「おへんろ文化研究」の「四国遍路の闇と影」についての編集開始。ともかく、左目の白内障が進んでいた時期には、細かな編集作業はつらかったのだ。

 

 午前8時半になったら雨の中をお出かけして、またしても、香川県立図書館にやってきた。

 

 図書館に着いたのは10時過ぎだから、まだまだお客さんは少ない。実に静かな館内であった。

 

 今回はまたしても四国遍路の参考書。これらも何度も何度も借りている本だが、やっぱり、手元にあると心強い本である。

 

 で、朝昼兼用で、11時過ぎに、ここ、たもや林店に入った。ここもお客さんは数えるほど。こんな中途半端な時間におうどんを食べる人は多くはない。

 

 今日はしっぽくうどんの小。と、言っても、かけうどんみたいにどんぶりにうどん一玉を入れてくれる。それを自分でテボで温めて会計に行く。そこで会計を済ませると、別の容器に温めた具材を入れてくれるので、それを自分で麺の上に載せて、あとはフリートッピング。訳のわからんうどんになった。

 

 家にもどると、午前中の作業の続きに入る。今回の研究は、四国遍路の影の部分の「病気遍路」とか「職業遍路」となって、死ぬまで四国を巡り続けなければならなかった人たちのお話。昔の修行僧や聖たちは「托鉢」や「行乞」をしながら山野を歩き巡って修行した。それが、「お接待」という形になり、そのお接待で生きた人たち・・・。そういう闇の部分とかを切り出す作業。

 

 昨年から今年は「四国霊場開創1200年」ということで、各地でイベントや講演会や資料展なども行われてきたし、本尊の開帳とかも各札所で行われているが、その根底で、四国遍路を支えてきた民衆の力・・・というものを書き残しておきたいと考えている。

 

 すでに120ページほどの基礎資料は集まっているので、それらの整理や編集、画像の組み込みや、主題論文の執筆などが残っている。本来は昨年12月の発行予定だったのだが、眼の不調で頓挫していたもの。

 

 「晴耕雨読」ではないが、晴れた日には現地調査、雨の日は資料整理やら編集作業をやっていく一年になる予感。

 

 今日の掲示板はこれ。「失敗する可能性もたくさんあるけれども、まずはやってみなければ何も始まらない」という新浪剛史さんの言葉から。新浪剛史(にいなみたけし)さんは、日本の企業経営者。サントリーホールディングス株式会社代表取締役社長、元株式会社ローソン取締役社長及び会長。 弟は埼玉医科大学教授の新浪博士である。

 

じゃぁ、また、明日、会えるといいね。


生かされて 蝋梅の黄に 安堵する

2015年01月21日 | たまには真剣な研究なども

  さぬき市地方は気圧の谷や湿った空気の影響で雲が広がっていて、夜には雨が降る見込みらしい。気温は3度から9度、湿度は84%から59%、風は1mから3mの南東の風が少し。明日の22日は、四国の南岸を通過する低気圧の影響で、明け方までは雨が降り、雷を伴う所がある見込みらしい。その後も気圧の谷や寒気の影響で雲が広がりやすいらしい。

 

 で、今日もさぬき市長尾西にある「一畑御坊」と呼ばれている「宗林寺」さんに行ってきた。ここは真宗大谷派のお寺さん、いわゆる「お東さん」である。

 

 ご覧のように参道から境内から畑の中から墓地の中まで、こうした句碑が無造作に置いてある。その数はおよそ50基。

 

 昨日、撮影した画像をプリントアウトしてみた結果、幾つかの事実がわかってきた。

 

 たとえばこれ。このはしごを置いてあるこの句は、「お寺の秋は 大松のふたまた」という尾崎放哉の句である。

 

 今日、はしごを外して撮影してきた。

 

 この句碑は、正岡子規の「み佛も 扉をあけて すずみつつ」という句であるが、実はこの句碑の裏側に・・・・

 

 「松はおだやかな汐鳴り」という句が刻まれていた。いくら探しても見つからない筈だ。

 

 それとこれ。無造作に置かれた石板なんだけれど、真ん中の短い文章。これが見慣れた「山頭火」という字である。だから、「日ざかりに空腹がなく」と刻んである。本当の山頭火の句は「日ざかりに空腹が鳴る」である。また、左の「風の明暗をゆく」だが、本当は「風の明暗をたどる」である。この句碑は新しいものらしく、どんな句碑集にも掲載されていない。

 

 昨年の秋にお邪魔した頃にはうっそうとした境内であったが、枝も短く剪定され、雑草もきれいに取り除かれてさっぱりとしたお庭になっていた。この本堂前の荷物もどこかに片付けられたら、もっとさっぱりするなぁと感じたことだった。

 

 で、今日は寒いからと言うことで町内の杉本うどんに駆け込んだ。

 

 で、今日もしっぽくうどん小で400円。今日も汗を流しながら食べたことだった。

 

 午後からは、早速にデーターの修正作業をやっておいた。鉄は熱いうちに打たねばならないし、熱のあるうちに作業をやっておかねば、冷めてからはあきてしまう。

 

 今日の掲示板はこれ。「迷惑をかけずには生きられない「おかげさま」ってほんとうなんだ」というもの。。「人様に迷惑をかけるな」などと、親が子に教えたものだが、人は誰も迷惑をかけずには生きられない。子供は親に迷惑をかけて大きくなり、親は子に迷惑をかけて亡くなる。まだまだ、「おかげさま」とは言えないけれど、これからどうなっていくのかなぁと思う毎日ではある。

 

じゃぁ、また、明日、会えるといいね。


柔らかく 生きてみたいと やぶつばき

2015年01月20日 | ふるさと散歩

 さぬき市地方は高気圧に覆われて概ね晴れていた。今日は暦の上では「大寒」らしいが、暖かい一日になった。気温は4度から10度、車の中では暑いくらいだった。湿度は69%から54%、風は1mから4mの北の風が少し。明日の21日は、気圧の谷や前線の影響で雲が広がり、夜には雨が降る見込みらしい。

 

 今日もまた、香川県立図書館にやってきた。山頭火に関する本を返却して、さぬき市内にある句碑や歌碑に関するものを探してきたが、かいもく、役にはたたない本だった。

  

 で、さぬき市内にある「あがり三ヶ寺」を回ることにして、まずは86番札所の志度寺にやってきた。と言っても参拝ではない。ここにある句碑や歌碑を探すためである。

 

 目的の句碑はこれ。「海女の墓」前にある高浜年尾の句碑で、「盆に来て 海女をとむらふ 心あり」と刻まれている。高浜年尾は俳人で、東京の生まれ。高浜虚子の長男で稲畑汀子の父。虚子から俳誌「ホトトギス」を継承して主宰した。現在は稲畑汀子が引き継いでいる。著作に「年尾句集」や「俳諧手引」などがある。

  

 これが海女の墓周辺にある供養塔群。近くには高松藩主だった生駒親正の墓もある。

 

 これが生駒親正の墓である。このような五輪塔のような墓を「生駒墓」といい、この墓地のあちらこちらに、このような墓がある。生駒家に関するものだろうか。

 

 境内をくまなく歩いて、ほかに句碑や歌碑はないかと探したが収穫はなかった。

 

 ちょうど、11時になったもので、このお店に入った。「溜(たまり)というプチ・セルフのうどん屋さんである。少し時間が早かったものか、お客は数人しかいなかった。

 

 で、今日は「しっぽくうどん小」をお願いした。360円だった。具材が多かったのか食べても食べても減らず・・・汗を流しながら食べたものだった。

 

 お次に向かったのは87番札所の長尾寺さん。ここにも歌碑が数基あるらしいと聞いたのでやってきたのだが、境内のどこを探しても、それらしきものは見つからない。

 

 今の時期、お遍路さんは少ないのか、ここでは誰一人にも会わなかった。志度寺さんでは数組のお遍路さんを見かけたけれど。ここでは全く、収穫なし。

 

 ついでやってきたのは「真宗 宗林寺」さん。ここは「俳諧の寺」として有名なのだが、その俳句の好きな前住職さんが亡くなってからは荒廃していたらしい。今度の住職さんが懸命に手入れをしている最中らしい。本堂前は物置状態になっている。この山門の両脇にあるものも句碑である。

 

 今日は天気もいいので、全ての句碑・歌碑・文学碑を写真に収めたが、山頭火の句碑が21基、その他の碑が32基で合計53基もあった。だが、私の探している句碑は4基ほどが見つからない。丁寧に探したのだけれど。明日の朝、再度、リベンジである。

 

 そして、さぬき市「あがり三ヶ寺」の三番目は88番札所の大窪寺さん。ご覧のように一般の参詣人というか観光気分の方がパラパラと。ここにも「高浜年尾」さんの句碑があるというので探しに来たのだが見つからない。「山門」と書いてあったのだが、山門の周囲を探しても見つからない。さては・・ということで、旧山門、現二天門の近くを探したのだが見つからない。あきらめて本坊のほうに下がっていくと、その途中にこの句碑があった。

 

 「一つ長き夜の藤房をまのあたり」と刻んである。この年尾さんの句碑は、香川では志度寺さん、大窪寺さんと善通寺さんにしかないという。これで、今日の宿題はおしまい。

 

 今日の掲示板はこれ。「欲深き 人の心と降る雪は 積もるにつれて 道を失う」というもの。幕末三舟の一人で、三舟の中でもっとも高潔ともいわれる高橋泥舟の歌である。槍術の天才であり、徳川慶喜に絶対的に信頼された高橋泥舟は、明治の世の訪れとともに旧主にならい隠棲した。その進退を表現して詠った歌もまた、ユーモアに富みつつ、泥舟の器の大きさを感じさせる。

狸にも  あらぬ我が身もつち舟の  こぎいださぬがかちかちの山

 童話の教訓を引用しつつ、泥舟の価値観を見事に感じることができる歌である。同じく三舟の一人、勝海舟は高橋泥舟の愚直さを「泥舟はおおばかだよ。とても才子じゃできない」と、彼らしい皮肉で評価している。言うまでもなく、この歌が彼の号である「泥舟」の起源であるという。ちなみに、「幕末三舟」のあと一人は「山岡鉄舟」である。

 

じゃぁ、また、明日、会えるといいね。


ろうばいの 黄色に居場所を 教えられ

2015年01月19日 | ふるさと散歩

 さぬき市地方は、気圧の谷や寒気の影響で瀬戸内側を中心に雲が広がり、雨や雪の降っている所があった。天候は雨、あられ、弱雨、曇り、晴れと慌ただしかった。気温は2度から9度、湿度は86%から49%、風は1mから5mの西北西の風が冷たかった。明日の20日は、高気圧に覆われて、概ね晴れるらしい。

  

 さて、山頭火の句碑集だが、およそ80基の句碑を集めた物だから80ページほどになる。これを両面印刷したら40枚の薄い冊子にしかならない。だとしたら、ついでに、さぬき市内にある他の俳人の句碑も集めたらいかがなものか・・・と思いついた。ものごと、思いつきで始めたらあかん・・・。

 

 まずは、「句碑の杜」といわれている「宇佐神社」に行ってみた。ま、そうは言っても数基ほどの句碑があるんじゃろ・・・と思ったのだが。

 

 あるわ、あるわ・・・で十数基の句碑がある。句碑というのは筆文字で流れるように書いてあるので、ほとんどが読めない。この句は比較的詠みやすい句碑で、「日の丸に 裏表なし 冬朝日 草田男」と刻んであるが、ほかの句碑は皆目読めない。ここでたちまちにして頓挫。長尾町史でも開けば資料があるんだろうかと、明日に期待。

 

 気分を取り直して、さぬき市前山地区にある「おへんろ交流サロン」に寄ってみた。

 

 ここには山頭火の句碑が4基あるが、それ以外に、「打ち終へて三寸減りし遍路杖    正嗣」という句があるし、読み取れない句碑もある。

 

 で、次に向かったのは大窪寺。このお店は大窪寺の門前にある野田屋さんという食堂兼土産物店。

 

 左に見えるのが「八十八庵(やそばあん)」という、これまた土産物店兼おうどん屋さん。この最初の石段を昇ったところ。野田屋さんの二階の入り口に見慣れたものが建っている。

 

 おお、これだこれだ。「山へ空へ まかはんにゃはらみた心経」と刻んである。これはまさしく山頭火の句碑である。こんな所にもあったのか・・・。思わず絶句。

 

 ここを幾度も幾度も通っていながら、まるきり眼中にはなかったもの。こんな身近な場所にあったのか・・・。

 

 これは、前・香川県知事をしていた前川忠夫(田打男)さんの、「西安の月 長安の月 おぼろ」という句碑。

 

 ほかにも句碑がある筈なのだが、見つけられなかった。

 

 明日は香川県立図書館に行って、さぬき市にある句碑についての記事がないか調べてみたいし、「俳諧の寺」宗林寺さんにも、志度寺さんにも寄ってきたい。

 

 今日の掲示板はこれ。「一度しかない人生だから 自分の道を自分らしく行きたい 人間らしく 自分らしく」というもの。相田みつをさんの言葉らしいが確証はない。たった一度の人生であれば、「自分らしく、人間らしく、生きたい」というのが、多くの人の願いだろう。私も自分の道を自分らしく生きて行きたいと思う毎日である。

 

じゃぁ、また、明日、会えるといいね。


さざんかに 明日の予定を 聞いて見る

2015年01月18日 | 時にはぼぉっ~とする時

 さぬき市地方は高気圧に覆われて晴れていた。気温は2度から8度、湿度は68%から52%、風は3mから1mの西の風が少しばかり。比較的ほっとする天気だった。明日の19日は、気圧の谷や寒気の影響で雲が広がりやすく、明け方から朝にかけて雨や雪の降る所がある見込みらしい。

 

 平年ならば、この時期には多少なりの雪が降る頃なのだが、今年は雪らしい雪は見られない。氷だってまだ珍しい。雪が降らないことはありがたいのだけれど、二月の京都行きの頃、母の三回忌のころに大雪が降らないといいのだけれど。

 

 で、今日は珍しくいい天気になったので、布団を干してみた。

 

 今日は良い天気なもので、どこかに出かけたいものだが、奥方が「灯油やら缶ビールやら重い物を買うのだから一緒に行ってよ。勝手にでかけるのはダメよダメダメ」などと仰る。

 

 仕方がないから、またしても「山頭火の句碑集」の校正作業をやってみた。やればやるほど、修正箇所が出て来る。

 

 昨日までは、「さぬき市を歩いた山頭火」というタイトルだったが、あまりにも中身と違うような気がしてきて。

 

 「さぬき市の山頭火句碑を歩く」に変更した。たいした変更でもない。

 

 ということで、全ての印刷をやりなおすことになった。ま、80ページほどの内容だからたいしたことでもない。

 

 本当は残っている現場調査をやってからにしたかったのだけれど、ついつい、先走りしてしまいたくなる。ほぼ、ゴールは見えているような気になっているのかもしれない。

 

 この「宗林寺」にはほかの俳人の句碑も多いから調べるのが難しい。句碑集には掲載されていても境内や参道にはない句碑も幾つかあるし、山頭火らしいが、どんな句集にもないものもある。この「草は咲くかまどのてふてふ」という句も、どんな句集にも載っていないという謎の句である。

 

 先の句は、「草は咲く かまどの てふてふ」なのか、「草は咲くか まどの てふてふ」なのかもわからない。前者の場合、「かまど」が外にあるのか、室内にあるのか。どちらにしろ、「草が咲く」とはどういうことなのか。どこをチョウチョウは飛んでいたのか。

 

 明日の月曜日の天気は悪く、明日の現場調査は無理らしい。ということは、明日も句碑集の校正作業か・・・。

 

 とにかく、今日は雑用と奥方の運転手と、山頭火で暮れた一日になってしまった。

 

 今日の掲示板はこれ。「乗れば人 歩けば車 邪魔になり」というもの。狭い道で自動車と出くわした時、自分が徒歩だったので、道を譲ると、あいさつもなく走りさった時、「なんてやつだ。本当に車は邪魔なものだ」と腹を立てるだろう。かと思えば、自動車である所へ出かけたが、遅刻しそうになった。ところが、狭い道の真ん中をご老人が悠然と歩いている。どうやらこちらには全く気がつかない様子だ。クラクションを鳴らしてびっくりさせてもと思い、結局イライラしながら後ろを付いていった。内心は「まったく邪魔だ、もう少し気をつけて歩いたらいいのに」と腹を立てるだろう。

 

さて「徒歩の私」も「自動車の私」もどちらも同じ私であるが、どちらの側にあっても腹を立てている。いったい誰が邪魔だというのだろうか。どこまでも「自分の都合」で相手を評価し、選別する人間。そんな中で互いに排除し排除され、いつしか人間であることを見失った社会を作る…それを地獄というのではないだろうか。「私たちは地獄を持ち歩いている」と先日教えられたが、そのとおりだ。私の苛立ちは、苛立つ私にのみ、ついてくる。
 
 
 
じゃぁ、また、明日、会えるといいね。
 

一日は 枯れ葉のように 奪われる

2015年01月17日 | たまには真剣な研究なども

 さぬき市地方は冬型の気圧配置となっているため、瀬戸内側や山間部を中心に雲が広がり、雨や雪の降っている所があった。気温は5度から7度、湿度は70%から58%。風は4mから7mの西風が強かった。明日の18日は、高気圧に覆われて概ね晴れる見込みらしい。

  

 今日は曇っているし、小雨も降っていたし、風も強かったので現地調査はやめにした。だからパソコン三昧の一日になった。

 

 相変わらずの「さぬき市を歩いた山頭火」という句碑集の編集作業。一応の本の体裁はできあがったので「試作版」を作ってみることにした。来週の日曜日の25日には、「おへんろつかさの会」のバス研修がある。そのときに副会長ほかに眼を通してもらうための前段階。

 

 原稿はこうしてワード文書で作成してある。プロトタイプ(試作版)はモノクロ印刷でやってみる。

 

 表紙はパワーポイントを使っての表紙になっている。裏表紙や観光マップも同時に作成してある。

 

 で、両面印刷をやってみる。ページ合わせもうまくいった。

 

 プリントアウトされたものを確認・チェックして製本してみる。

 

 右が原稿、左が試作版。ずいぶんと厚かった原稿も、両面印刷してみると半分以下になった。

 

 中身はこういう感じ。こうしてみると、誤字やデザインのまずさ、画像の配置なんぞがよくわかる。すぐに赤ペンで真っ赤になりそうだ。

 

 こうして、試作版第一号は完成した。

 

 さて、私のホームページのあるプロバイダーOCNが、今年の2月28日でホームページサービスをやめるという。だから、それまでにホームページを移転しなければならない。今度は、現在、さぬき市全域で使っている「ピカラ」という四国電力系のプロバイダー。ケーブルテレビもインターネット環境も電子メールもピカラに切り替わっている。だから、ホームページもここに移転する。

 

 だから、不要なコンテンツなどは省略して移動準備をやってきたので、思い切って、ピカラに転送してみた。思ったよりすんなりと転送ができた。今後はピカラのほうで更新作業をやっていくことになる。

http://wwwb.pikara.ne.jp/h-kimm

 

 なお、メール・アドレスも同様のプロバイダーになっているので、切換や修正をお願い。メルアドは、頭の部分はそのままで、

 ○○○○○○○@md.pikara.ne.jp に修正してください。

 

 今日の掲示板はこれ。「物事はうれしい前に決まって 心配事やら悲しいことがあるんです」というもの。

物事ってえものは、うれしい前にはきまって、
心配事や悲しいことがあるんです。
心配事や悲しいことから、
うれしいことが生まれてくるもんですナ

 という「なめくじ艦隊」からの言葉。「なめくじ艦隊」ー志ん生半生記は古今亭志ん生さんの著作。

 

じゃぁ、また、明日、会えるといいね。


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