まほろば自然博物館

つれづれに、瀬戸のまほろばから自然の様子や民俗・歴史や見聞きしたおはなしをしたいと思います。

豆まきは こんな淋しいものなのか

2016年01月31日 | 自由律俳句

 さぬき市地方は高気圧に覆われて概ね晴れていた。まるで春がやってきたかのような天候になったが、気圧の谷の影響で夜には雲が広がり、雨や雪の降る所があるらしい。気温は4度から10度、湿度は80%から62%、風は1mから3mの西の風が少しばかり。明日の2月1日は、気圧の谷や寒気の影響で、雲が広がる見込みらしい。

 

 いつものように、朝のルーティーンをこなしておいてから、天気がいいので二階のお掃除をやってみた。

 

 おこたを外して布団や敷物を干しながら・・・。

 

 掃除機をかけて綿ぼこりを吸い込んで・・・。どこから、あの綿ぼこりは湧いて出てくるものなんだろう・・・。吸い込んでも吸い込んでも、いつのまにか湧いて出て来る。

 

 で、午前中は、例の田淵家の納め札についての論文作成・・・。これは、どこに提出するものでもなく、どこかに頼まれたものでもない。単なる私の研究としての論文である。ま、一冊の本にはなるだろう。で、県立図書館あたりには納品できるだろう。

 

 昨年秋かに、国立国会図書館から「納本せよ」と言うてきたのだが、納本をしてもハガキ一枚もよこさないし、着いたとも連絡が来なかったので、今後は一切、納本しないことに決めた。私の本など、国会に置くような本ではないのは明白なのに・・・。

 

 この時期になると、このお話。自由律俳人の「住宅(すみたく)顕信」の「未完成」という句集である。 住宅顕信は、本名・住宅春美(すみたく はるみ)。岡山県岡山市に生まれた。岡山市立石井中学校卒業。1976年4月、岡山市内の下田学園調理師学校に入学。同時に就職し、昼は勤務し夜は通学という生活に入る。4歳年上の女性と知り合い、同棲を始める。この頃より詩、宗教書、哲学書に親しんだ。

 

 1978年3月、下田学園卒業。1980年、父親の勤務先である岡山市役所に臨時職員で採用され、清掃の仕事に従事。仏教にに傾倒し、1982年9月より、中央仏教学院の通信教育を受講。翌1983年4月、教育課程修了。7月、西本願寺にて得度。浄土真宗本願寺派の僧侶となり、法名を釋顕信と名告る。10月、同棲相手と結婚。両親の援助により自宅の一部を改造して仏間をつくり、浄土真宗の根本経典「無量寿経」に因み、無量寿庵と名付けた。

 

 1984年2月、急性骨髄性白血病を発病し岡山市民病院に入院。6月、長男誕生。不治の病の夫に対して妻の実家の希望により離婚。長男は顕信が引き取り、病室にて育てる。10月、自由律俳句雑誌「層雲」の誌友となり、層雲社事務室の池田実吉に師事。この頃より自由律俳句に傾倒し、句作に励むようになる。特に尾崎放哉に心酔した。1985年に句集『試作帳』を自費出版。「層雲」の権威主義的な疑念を感じ、「層雲」の元編集者である藤本一幸が主宰する自由律俳句誌「海市」に参加する。翌1986年、「海市」編集同人となる。病状が悪化し、この年の12月からは代筆によらなければ投書できなくなる。1987年2月7日23時23分、還浄。享年25。俳人としての創作期間はわずか3年で、生涯に残した俳句は281句だった。(Wikipediaより)

 

 住宅顕信の人生も俳句もまた、「未完成」のままに終わってしまった。南無阿弥陀仏に出会った人生。彼の人生は「むなしくはなかった」のだろうか・・・。

 

 二月が来ると、なぜか、この夭折してしまった自由律俳人、「住宅顕信」のことが思い出されて仕方がない。

 

 今日の掲示板はこれ。「鬼とは私のことか 豆がまかれる」という住宅顕信の俳句から。いつもお世話になっている赤松先生のお寺の掲示板にあったもの。もうすぐ節分。冬と春の分かれ目ということで、暦の上では春になるころである。節分といえば豆まきであるが、豆まきを題材にした俳句を取り上げた時期らしいことばである。「鬼とは私のことか豆がまかれる」 ことばと言っても、これは自由律俳句。荻原井泉水、尾崎放哉、種田山頭火などの流れを汲むもので、「住宅顕信」さんは1987年に25歳の若さで急性骨髄性白血病で亡くなった俳人だ。この句にも、作者のそうした悲しい背景が忍び込んでいるように感じられるのだけれど。

 

じゃぁ、また、明日、会えたらいいね。


自転車を 押して遍路は 冬支度

2016年01月30日 | ふるさと散歩

 さぬき市地方は気圧の谷や湿った空気の影響で雲が広がっていた。気温は7度から10度、湿度は88%から67%、風は1mから3mの北北東の風が少しばかり。明日の31日は、高気圧に覆われて概ね晴れるらしい。

 

 奥方が5時前に起きるので、つられて私も5時過ぎには起きてしまうが、あたりはまだまだ真っ暗け・・・。「起きたけど、寝るまでとくに用もなし」・・・。

 

 とくに用事もないのだけれど、起きてしまったらどうしようもない。何か用事を造らないと認知が進むだろうし、ボケても困る。取りあえず、朝食を作って食べて、朝ドラを見て、迷犬ごんの散歩とエサやり。9ヶ所のカーテンを開け、雨戸を開ける。これが朝のルーティーン。

 

 で、例の「俵札調査」の論文執筆に取りかかった。データーや図表は準備できているので、まずは概要のまとめから。俵札とはなにか。収め札とは何か。なぜ、この研究を始めたのか。経過はどう進んだのか。その結果はどうなったのか・・・。

 

 メンバーはどういう人たちで、どのような役割分担で・・・。

 

 どういうものが出てきて、それらをどうしたのか・・・。

 

 遍路行者を接待した際に受け取った納札を収める俵を「納札俵」という。接待は遍路行者の行程を扶助するものであると同時に、各家の厄や災いを託す願いも込められた。また、霊場を巡ったのと同じ利益があるとみる。それ故、接待の証左ととなる納札は大切にされ、その集められたる俵を家屋の梁に括り、家内安泰を願った。この俵が稲わら製であることから、五穀豊穣の祈願になるという。今回、調査した俵は三点であったが、小さい物は数十年、大きな俵になると百年間を越える分の納札が収められていた。

 

 気分転換と取材を兼ねて、お隣の徳島県鳴門市まで走ってきた。ここが四国霊場第一番札所の霊山寺(りょうぜんじ)さん。山門のところにいるのはマネキンさん。

 

 こういうお顔をしてはる・・・。

 

 ついでに仁王様も記念撮影・・・。

 

 本堂脇にはこのようなお方が微笑んでいる。あ、笠の下には、こうして手ぬぐいを巻くのか・・・。あごひもの結び方がいまいちわからん・・・。

 

 ここの本堂の照明は印象的。いろんな雑誌や案内書にも掲載される吊り灯籠である。

 

 この建物は、お寺のものか、そうでないのか、よくわからないが、ここでも「納経」をやってくれていた。正式には本堂の中に「納経所」があって、「お遍路用具一式をお求めください」という案内書きが随所にあるのに。で、お遍路用具販売のために、こうしたマネキンお遍路さんが三体、置いてあった。お店にも入ってみたが、話題になるようなものもなかった。

 

 これがまた、なんだかよく分からない。「クジラに乗った孫悟空」らしい・・・。ここには、こうしたアートも幾つか置いてあるが、どういうことなのか意味不明のものばかり。

 

 時期的なものかどうか、菅笠白衣姿のお遍路の姿は見えず、若者が数人、私服姿で納経されているのを見かけた程度。お天気のせいかも知れない。

 

 午後の4時になれば、お風呂の掃除をしてお風呂を沸かし、迷犬ごんの散歩とエサやり。9ヶ所の雨戸を閉めて、カーテンを閉じる。これが夕方のルーティーン。冬の日もあっという間に暮れてしまう。

 

 今日の掲示板はこれ。「福は内にあり 鬼も内にあり」というもの。添え書きに、「福を外に求め、鬼を外に見出す限り安住の地はない」とある。「鬼は外、福は内」などと豆をまく姿は節分の風物詩でもある。素朴に幸福を願い不幸を厭う気持ちは誰にでもあるし、否定はできない。しかし、鬼とは一体何だろうか。自分に不都合な事がらを鬼と呼び、自分に都合の良いものを福と言うらしい。だとすると、どこかに鬼がいるのではなく、自分に都合の悪いものを鬼と感じ、鬼を作り出す心があるようだ。そして、その心こそ鬼かもしれない。自分の思いや計らいを正当化し、限りなく福を外に求め、鬼を外に見出す限り、安住の地はない。

 

じゃぁ、また、明日、会えたらいいね。


寒ツバキ 買い物帰りの 靴の音

2016年01月29日 | 時にはぼぉっ~とする時

 さぬき市地方は前線や低気圧の影響で雨が降っている。気温は7度から8度どまり。湿度は96%から94%、降雨量は1mm/h~4mm/h、風は1mから4mの北北東の風が少しばかり。明日の30日は、気圧の谷や寒気の影響で雲が広がり、雨が降りやすい見込みらしい。

 

 朝方は小雨状態だったのだが、夕方からは本降りになってきた。そんな雨の中でも、山肌を削り取る「防災工事」は続けられている。もっとも、重機による掘削だから雨なんぞものともしないのだけれど。

 

 最近、ひょんなことから、この「おしゃぶり昆布」を口にしてから、中毒みたいにこればかりをなめている。ま、タバコもコーヒーもお茶も飲まないので、口寂しいのかも知れない。けど、幾分かは塩っぽい味がするのだから食べ過ぎには要注意だな・・・とは思うのだけれど。

 

 今どきの雨・・・。気温が低かったら雪になるのだろうか。でも、これだけ降ったら大雪になりそう。朝からずんずんと降り続いているのだから数十センチは越えるかもしれない。雪になる雨と、雪にならない雨とがあるのだろうか・・・。降り続ける雨を見ていて、ふと、そう、思った。

 

 なんだのかんだのとやっているうちに、とうとう、トナーがなくなった。納め札のリスト印刷では50ページほどを打ち出すのだから、トナーも用紙もすこぶる消費が速い。

 

 ついでに、ビールもなくなったからと買い物に出たのだけれど、目の前の車がなんだかおかしい・・。徳島ナンバーのメルセデス・ベンツ。時速15キロから20キロの速度でのろのろと走る。この路線は全線、速度40キロの「はみ出し禁止路線」で追い越しもできない。うかつに追い越そうものなら、どんなお兄さんが出てくるかも分からない。仕方がないから、黙ってじっと、付いていくしかない。

 

 まぁ・・不気味な車である。居眠りのようで居眠りでない。飲酒運転のようで飲酒運転でない・・。あ、スマホいじりながらの運転だろうか・・・。イライラしながら付いていくが、右折も左折もせずにゆっくりとマイペース・・・。

 

 私の方が我慢できずにあきらめて、とうとう、左折して電機屋さんへ・・。私のトナーは、このお店にしか置いていないのだ。

 

 で、買ったのがこのトナーと・・・

 

 このカートリッジ・インクと。「プリンター、インクなければ ただの箱」。

 

 早速にトナー交換して印刷再開。これでしばらくは安泰だ。

 

 インクを充填したのに、プリンターではなくてスキャナーを使うことになった。わざわざ・・でもないが、インクを買ってきたのにスキャナーかい。

 

 この窓のある教室が、私が中学の二年・三年を過ごした旧音楽室。二年間も過ごしたのに、さほどの思い出もない。ただ、上の方の窓硝子に野球のボールを投げつけて割ったことがある。それで、こっぴどく叱られたが、弁償しろとも言われず、校長室に呼びつけられることもなかった。おおらかな時代であった。今だったら「器物損壊」だの「暴力行為」だのと新聞やら週刊誌が書き立てるに違いない。

 

 その昭和25年に新築された木造校舎も、昭和53年に鉄筋コンクリート建ての新校舎になって解体されてしまった。だから、小学校も中学校も高校も・・・思い出らしき思い出は残っていない。

 

 今日の掲示板はこれ。「無病では、話題に困る 老人会」というシルバー川柳から。この山の家でも島の家でも、行事があると集まるのは中高年ばかり。若者がいないのだから子供もいない。だから、話題に上るのはサルやイノシシやシカの話やら病院のことばかり。どこがいたいの、耳が聞こえないの、目がかすむだの、手足が痛いの、動かないの・・・。無病では話題に困る老人会・・・。まことに退屈な半日であることよ。

 

じゃぁ、また、明日、会えたらいいね。


雨となり 枯れ野飛び去る 鴨数羽

2016年01月28日 | 自然ありのままに

 さぬき市地方は気圧の谷の影響で雲が広がり、弱い雨が降ってきた。夜には次第に雨が降り始めるらしい。気温は4度から11度、湿度は84%から73%、風は1mから2mの北東の風が少しばかり。明日の29日は、前線や低気圧の影響で雨が降る見込みらしい。

 

 朝方は暖かな春のような気分の良い朝になった。で、宿題の「納め札調査」のデーター突合作業を、朝の6時から8時半までやっていた。これで、一応の展示用資料は完成した。

 

 今回は、画像データではなくて、実物との照合作業。「本村藤太郎」とあるのを、「木村藤太郎」とかと修正しながらである。

 

 これが、「胆振国(いぶりのくに)虻田郡真狩村」の田尾石之助さんの実物の納札である。遠隔地で10枚、現さぬき市内で84枚、合計94枚を選び出したことになる。後は担当者にお願いすることになるのだろう。

 

 テレビで、「今日は洗濯日和で、明日からは雨になる・・」と言うていたので、洗濯してベランダに干したが、午後からは小雨がポツリポツリとしだしたので、大慌てで取り込んだ。

 

 今日は空き瓶の回収日だもので、空き瓶を集積場まで運んできた。その後、迷犬ごんの散歩をさせてから、さぬき市立志度図書館に行って来た。香川県立図書館が、2月5日まで防災工事をやっているもので、それまでは、ここで用を足すしかない。

 

 今日は平日の木曜日、児童図書コーナーは開店休業状態。係のおねえさんが所在なさそうに片付けをやっていた。

 

 で、今回は、このような本を借りてきた。ま、どうでもいいような本ばかりである。

 

 我が町の中学校の閉校記念誌である。特に思い出もないからと、購入しなかったのだが、明日からは雨になるのだから・・・と、ついでながらに借りてきたもの。

 

 私の中学三年生の時の写真である。「卒業写真」というヤツである。「なるほどなぁ・・」と、思うような人も居る。名前をしっかりと思い出す子もいれば、全く記憶にない子もいる。さて・・・私は・・・というと、この写真の中にはいない・・。なぜだか、左上の別枠に写っている。

 

 中学三年生の春・・・。どうして、記念撮影に間に合わなかったんだろう。制服を忘れた訳ではないし、病気休暇だった訳でもない。50年も昔のことだから思い出せない・・・。

 

 一昨日、奥方の担当の利用者さんが不審死を遂げたというので、警察の事情聴取やなんやらでバタバタしていて、そのとばっちりで、私にも用事が回って来て、あちらこちらと飛び回っていた。郵便局やら銀行さんやらを回って、ようやくに一段落。本屋さんに久々に寄ってみた。amazon.comばかりでは申し訳ないと思いつつ・・・。

 

 で、本屋のおねえさんと目がしっかりと合ってしまったので、仕方なく、そのあたりにあった本を買うはめになってしまった。レジ係がおにいさんだったら、何も買わずにお店を出るつもりであったのだけれど。でも、釋徹宗先生のインタビュー記事だけはしっかりと読ませていただいた。

 

 でも、なんだかんだと言いながら、早くも1月が終わろうとしていて、来週には2月がやってくる。季節も厳寒の時期となる。風邪をひかず、肺炎にもならずに過ごしたいものではあるのだけれど。

 

 今日の掲示板はこれ。「鬼という おそろしきものはどこにある 邪見の人の 胸に住むなり」という、いつもの赤松先生のお寺にあったもの。一休禅師のことばからである。鬼は地獄に住むものと子供の頃から教えられてきたが、その地獄なり鬼なりはどこにあるかといえば、みんなこの身や、この心の中にあるというのである。「邪見」はまちがった人生観や世界観である。身びいきや身勝手なエゴイスティックな人生観や世界観が地獄の世界であり、鬼の住むところ なのであるというているのである。(松原泰道『一休さんの幸福論』より)

 

じゃぁ、また、明日、会えたらいいね。


悔いなしと 落ちる椿の 赤い花

2016年01月27日 | 今日もまた、病院に行って・・・。

 さぬき市地方は高気圧に覆われて概ね晴れていたが、午後からは雲が広がってきた。気温は4度から11度、湿度は72%から60%、風は1mから4mの西の風が少しばかり。明日の28日は、前線や低気圧の接近で雲が広がり、夜には雨が降る見込みなのだとか。

 

 今日は月に1度の定期診察日。目が覚めた5時過ぎから、例の納め札のデーター突合とか展示する納め札の確認作業とかを8時まで。洗濯物を干して、燃えるゴミを処分して・・・。9時半にわが家を出て10時前に病院に入った。

 

 まずは胸部のレントゲン撮影、背中からと右側からとの二枚。おなかに腹水が溜まっていないかの確認。

 

 その後は、心電図検査と・・・、

 

 心臓超音波エコー検査。心臓の動きを確認する検査。ここまでで11時。

 

 私の今日の番号は118番。まずます、順調だった。

 

 で、左肺下にわずかに腹水が見られるとのこと。二週間の入院をして、利尿剤を確認したいとのこと。これからの二週間には京都の本山での研修やら納め札の展示に関する準備やらがあるので勘弁してもらった。「救急車で運ばれたら、お願いして入院させていただきます」と言うと、「それでは手遅れになりますよ」と言われたが、来週はちと勘弁して欲しいもの。

 

 病院を出たのが11時半。すぐ近くにあるうどん屋さんで昼食にした。ここも何ヶ月ぶりかのお店だった。お昼前だったが、すぐに座れた。

 

 で、「梅若うどん」を注文した。ワカメうどんに梅干しが載ったもので400円。久々のうどんだったので、喉につまりそうになって困った。水ばかりを飲んでいた。

 

 で、利尿剤ほかのお薬をどっさり・・・と言うても、大きな袋に一錠しか薬は入っていないから大げさに見えるだけ。薬だけだとどれだけにもならない。

 

 読みやすい本だなぁと思って、amazonで買ったら1円だった。これで商売になるんだろうか・・・と心配したが、他人様のふところを心配しても仕方がない。パラパラと読んでみたが、やっぱり、1円だと読む意欲が上がらないのが不思議だ。午後からは、奥方に頼まれていた用事を数件、片付けておく。銀行に行ったり、薬局に行ったり、魚屋さんに寄ったり・・・。主夫業も大変だ・・・。

 

 先日、師匠の「誠隆如来」さまが、こんな投稿をしていたので、同じようにやってみた。Facebookではシェアしていないのだが、

 

 これでいいのだ・・・。

 

 少し暖かくなると、山からはお猿が下りてきてひなたぼっこだ。これも、どうしようもない。好きにさせておくしかない。夕方には洗濯物を片付けて、お風呂を沸かして、ご近所さんのおばさんのお通夜に出かける予定。あぁ、ややこしや、ややこしや。

 

 今日の掲示板はこれ。「道に迷ったおかげで たくさんのいい人に会えたなあ」という荒了寛さんのことばから。高速道路で一気に走り抜けてしまうと、素晴らしい景色にも出会えないし、ましてや他人様と出会えるなんてことはまずない。最近は北陸だの北海道だのと新幹線ブームだけれど、トンネルばかりを走ったのでは、雄大な自然にはお目にはかかれない。遠回りをして、道に迷いながら歩いてきたからこその出逢いであり、ふれあいであったように思う。

 

じゃぁ、また、明日、会えたらいいね。


冬しぐれ 帰りを急ぐ 犬がいる

2016年01月26日 | ふるさと散歩

 さぬき市地方は寒気の影響で雲が広がり、雪や雨の降っている所があった。気温は0.7度から8.0度、湿度は78%から66%、風は1mから3mの西の風が少しばかり。明日の27日は、寒気の影響が残り、雲が広がりやすい見込みらしい。

 

 今日は全国的に火曜日となったので、恒例のさぬき市前山にある「おへんろ交流サロン」に出勤(?)した。いつもの「俵札」のお仕事である。道路には雪は殆どないが、脇道や町道の山陰や樹木の下には雪が残っていた。

 

 で、先週からの宿題の「田淵家納札」ソート・リストから、100枚の納札を探し出す作業に入った。遠隔地(北海道や新潟・鹿児島など)から10枚、香川県の内から、現在のさぬき市に該当するもの90枚の合計100枚を23,00枚のファイルから探し出すのである。

 

 寒川家や飯田家からは江戸時代のものから100枚を抽出するのだが、私の田淵家は、どういう事情だか明治以降の物しかない。だから、この近くの人のものを展示して身近に感じてもらおうとしているのである。この100枚の中から、展示に耐えられるもの50枚程度に選別する。

 

 お昼からは、さぬき市津田町の古民家散策というイベントに参加した。主催は「さぬき市文化財保護協会津田支部」で、その会長も「渡邊会長」がやっている関係で誘われたのである。

 

 この津田町は、漁業と砂糖会所、砂糖の積み出し港として栄えた町だという。だから、大きな倉庫や大きな商店、海運業者のお屋敷があった。ところが近年は高齢化などで、旧商家などが次々と壊されていき、新しい住宅や駐車場に変貌している。そこで、電気屋さんでもあり二級建築士でもある安藝さんという方の案内で、津田町の古民家を訪ねることになったのだという。

 

 この日、集まったのは保護協会会員さんと私ら一般人らでおよそ20名あまり。私も昭和の50年代から60年代あたりには、この界隈を走り回ったことがあるのだが、電電公社からNTTに変貌してからは訪れたことがなかった。だから、まるで浦島太郎状態・・・。

  

 安藝さんだとか、大眉さんとか板屋さんだとかいう名前はうっすらと記憶にあるが、隣町なのに全くの記憶の彼方だった。

 

 途中でお茶のお接待を受けたりして休憩しながら町並み散策は続いた。

 

 栄華盛衰は世の常ではあるが、明治になり安い外国産砂糖が輸入されると、一気に讃岐三白の「和三盆糖」は衰退し、砂糖の輸送業も廻船問屋も崩壊してしまった。その上に、大型スーパーの郊外進出によって、旧商店街も閉店や廃業に追い込まれてしまった。

 

 今日の最後は、法道寺という真言宗善通寺派のお寺さん。ここは、昨年の秋にも紹介したが、あの「日本ハム・ファイターズ」のオーナー「大社(おおこそ)義規(よしのり)さん」の菩提寺である。檀家さんは大社さんだけ。

 

 で、近藤住職から、お寺の由来や縁起などについてのお話を伺った。

 

 ご覧のように、ファイターズのスタジャンを着用して、「ファイターズ・ミュージアム」の「館長さん」というイメージ。

 

 だから、大社オーナーのユニフォームや、

 

 ヒルマン監督のユニフォームや

 

 2006年の日本シリーズで優勝したときの写真パネルなどが所狭しと掲げられている。本堂には、毎日、北海道から送られて来るファイターズ新聞がお供えされている。

 

 今日の掲示板はこれ。「頼まれたらすぐやる、誠実にやる。それをコツコツ積み重ねることが一番大事」という伊牟田均さんの言葉から。経営不振にあえいでいた九州の名門ホテル「城山観光ホテル」の運営会社、城山観光(鹿児島市)を私的整理後、最高益に導いた伊牟田均社長(65)。野村証券で企業の育成・再生の腕を磨き、再建請負人として38年ぶりに鹿児島に呼び戻され5年半。「お客様も社員も幸せを重ねられる場所がこのホテル」とふるさとへ優しいまなざしを注いでいる。

 

じゃぁ、また、明日、会えたらいいね。


火鉢欲し 山の一人は 暇すぎて

2016年01月25日 | 時にはぼぉっ~とする時

 さぬき市地方は冬型の気圧配置になっているため、雲が広がりやすくなっていたが、晴れ間ものぞいてみるみるうちに雪は溶けてしまった。気温は氷点下2度から5度とまり。湿度は84%から66%、風は3mから5mの西の風が一時強かった。明日の26日は、寒気の影響で雲が広がりやすいらしい。昨夜は旧暦12月15日の「十五夜」だった。

 

 一昨日あたりから、書斎のエアコンの調子が悪くて部屋が暖かくならない。ここも新築して10年になろうとしている。そろそろ、エアコンにもゴミが溜まってきたのだろうか。で、二月頭には上洛するので、頭をきれいにした。いや、中身じゃなくて髪の毛だ。で、頭を洗おうとして風呂に入ったのだが、この寒さのせいだかでなかなかに暖かくならない。頭はクリクリ坊主で寒いし、お湯は湧かないしでブルブルと震えていた。

 

 で、起きたら真っ白けだった。今朝は道路まで真っ白け。奥方が、「今日は送って行ってよ~」というので仕方がない。若い頃には4WDにプラスチック・チェーンとかスコップとかを装備していたが、雪の量が大幅に減ったもので、タイヤ・チェーンも冬用タイヤも買ったことがない。

 

 県道は除雪をしてあるし、融雪剤を撒いてあるので雪はないが、脇道や町道に入るとそのまんま・・。奥方を下ろしてからユーターンしてわが家に戻って来たが、ヒヤヒヤもの。全く、だらしなくなったものだ。

 

 ついでに旧宅跡まで行って来たが、この少しの登り坂で滑って動かなくなったのでギブアップして引き返えしてきた。こんな坂さえも登れなくなったのか・・・。全く、年取ったもんだ。

 

 で、例のお袈裟の資料作りの追加として、法衣用小物として、中啓(ちゅうけい)・夏扇(なつせん)・雪洞(ぼんぼり)も追加した。中啓は檜扇(ひおうぎ)が変化したもので、檜扇は、「笏(しゃく)」を束ねたものという説がある。「笏」は、メモ帳で、それだけでは足りないから25枚もの板を束ねて糸で結んだものという説があった。もちろん、「神職宝鑑」には、そんなことは書いていない。威儀を正すものだとの説明があった。

 

 時間があれば、これもお話する用に、「法具」もまとめておくことにした。

 

 でも、私が子供の頃、60年昔、昭和の30年代・・・。雪は膝まで降っていたが、家には暖房器具らしいものは火鉢くらいなもので、あとはおこたしかなかった。

 

 火鉢は、顔や手は温かくなっても、背中が温まらなかった。でも、江戸時代から、いや、もっと前から、これで人々は暖をとっていたことだろう。少なくとも、高校生くらいまではこれだった。

 

 おこたは、こういう「番屋こたつ」というものだった。その他にも「置きこたつ」というものもあった。

 

 この丸いものも、番屋こたつと言うていた。寝るときには、危ないので、布団から出すように言われていた。昼間は、この上に「やぐら」を乗せてふとんを掛けた。

 

 昔は、これでも我慢するしかなかったように思うし、みんな、我慢をして遊んでいたように思う。考えてみれば、石油ストーブだ、電気こたつだなんていうのは、ごく最近のことのような気がする。

 

 お昼からは、「もう、溶けたかなぁ・・」と、大窪寺方面へ出かけてみたが、車がフラフラするようで、あきらめて帰って来た。全く、だらしのないことだ。

 

 今日の掲示板はこれ。「頂上ばかり眺めずに まず目の前の一歩をどう歩むかです」という石川真理子さんのことばから。

おなごがでたらめになれば世の中がでたらめになります。
目に見えぬものに振り回されぬように心の目を開きなさい。
自由と身勝手をはき違えてはなりませぬ。
一家の安泰は我が身にかかっているということを識りなさい。
お金も物も、この世での借り物と思えばよろしい。
頂上ばかり眺めずに、まず目の前の一歩をどう歩むかです。
逆境こそが己に与えられた宝と心得るのです。
厳寒の中で咲き誇る梅花のようでありなされ。
明日を案ずるより今日を最期と生きるのです。
    石川真理子氏 『女子の武士道』より

 

じゃぁ、また、明日、会えたらいいね。


やぶ椿 さまよう路を 指し示す

2016年01月24日 | お役目ごくろうさまであらっしゃいます。

 さぬき市地方は冬型の気圧配置が強まっているため雲が広がり、雪の降っている所があった。気温は氷点下0.6度から1.6度という、今季初の低気温。湿度は80%から74%、風は5mから8mの西の風が一時は強かった。明日の25日は、冬型の気圧配置が続くため、雲が広がりやすく、明け方にかけて雪が降り雷を伴う所がある見込みらしい。

 

 早寝早起きの奥方は、朝の4時半前から起きて、ケアマネ研修の宿題をやっていた。私は、お風呂に入ったら黒い砂利が詰まっていて、お風呂に入れず、その砂利を窓から投げ出して浴槽をきれいにしていた・・・という悪夢を見て飛び起きた。すると、あたりは真っ白け・・・。

 

 イベント中止のメールが来ないもんだから、8時半にわが家を出て9時前にさぬき市役所に着いた。9時半から開会式。お客さんは90名弱。スタッフも20~30名。寒い中を熱心な方々が多い。

 

 これが今日のイベントの資料。高松市文化財保護協会らの「ふるさと探訪」という文化財学習会である。

 

 こういう予定だったのだが、天候が悪くて寒い・・というので、A班は地蔵寺へ。B班は志度寺へ、この旧道の町並みを歩いて探訪するということになった。町並みに入ると、少しは風も避けられるようになった。

 

 高松市歴史民俗協会とか文化財保護協会とかと言うもんだから、てっきり、おじいさん、おばあさんかと思いきや、案外と若い方が多いらしい。私は最後尾から安全確保しながらついていく。

 

 途中に、旅館いし屋さんがある。「以志や」と書いてある。明治時代中期創業の静かで落ち着いた旅館で、建物は文化庁より「登録有形文化財」として認定されている。主屋は木造厨子二階建て、和小屋組、片母屋造、本瓦葺き。二階は讃岐漆喰彫刻の代表といわれる「隅柱漆喰彫刻」や漆喰虫籠窓が見られ、壁や軒裏は白漆喰塗り籠め仕上げになっている。割烹は季節の旬の食材を使用しており、味が自慢だとか。

 

 で、私たちの受け持ちはここ。四国霊場86番札所、補陀落山清浄光院志度寺である。本尊の十一面観音菩薩立像と両脇士立像は国の重要文化財にしていされている。開創は推古天皇の三十年(625)と古く、凡薗子尼(おおし・そのこに)が十一面観音を新たに刻んで観音堂を造立したのが始まりとされている。

 

 この方が、私たちの会長の渡邊さん。

 

 ここが志度寺の本堂で、国の需要文化財で、寛文十年(1670)、高松藩主松平重公により建立、観音堂ともいい、県下最大級の仏堂である。桁行七間、梁間五間、入母屋造りの本瓦葺で、全面には軒唐破風をつけた三間にわたる向拝を設けてある。

 

 閻魔堂は寛文十一年(1671)、本堂の東南方に西面して建てられ桁行三間、梁間三間、向拝一間で、屋根は宝形造本瓦葺きである。閻魔大王の頭上には十尊を飾っている。こういう説明を講師の会員さんがするので、同じ事を、後続の人たちに私たちが復唱するのである。どうしても、早い人と遅い人の差が出てきて、列は伸びてしまいがち。そのサポートをするのである。

 

 こちらは「奪衣婆堂(だつえばどう)」で、閻魔堂に相対して東面している。間には「放生池」があるが、現在は水はない。形式と大きさは閻魔堂に同じ。奪衣婆とは、三途の川のほとりで、川の渡し賃の六文銭を持って来なかった亡者の着物をはぎ取り、衣領樹(えりょうじゅ)の上にいる懸衣翁(けんねおう)に渡す鬼婆である。懸衣翁は衣領樹に掛けた亡者の衣の重さにはその者の生前の業が現れ、その重さによって死後の処遇を決めるとされている。今でも、棺に紙の六文銭を入れるのはこのためである。

 

 海女の墓、無染庭などは、昨日に触れた通り・・・。

 

 海女の墓のすぐ東隣に隣接した墓地に、高松城主生駒親正(いこま・ちかまさ)の墓塔がある。この生駒家の先祖が「藤原房前(ふささき)」であり、海士の玉取伝説の主役の「房前」である。そのゆかりによって、親正が志度寺を信仰し、墓塔がここに建立されているのである。ちなみに、高松市錦町の弘憲寺にも同じ石材を用いた生駒親正夫妻の五輪塔がある。

 

 志度寺のガイド時には風も止み、雪もなく、気持ちよくガイド出来たのだが、午後からはまた雪がちらつき始め、みるみるあたりは真っ白になってきた。

 

 明日の朝が心配と言えば心配なのだけれど・・・。

 

 今日の掲示板はこれ。「過去のどうにもならないことを悩むより 現在、自分が置かれているところから 将来に向かって人生を切り拓いていこう」という新井正明さんのことばから。住友生命の社長・会長を務められた新井正明氏のはなしである。兵役にあった新井さんはノモンハン事変に参戦して被弾、右足を付け根から切断した。二十六歳だった。 帰還した新井さんを会社はあたたかく迎えてくれたが、若くして隻脚(せっきゃく)の身となった苦悩は限りなく深かった。その最中(さなか)、新井氏は安岡 正篤師の『経世瑣言(けいせいさげん)』で一つの言葉…「いかに忘れるか、何を忘れるかの修養は非常に好ましいものだ」に出会い、翻然(ほんぜん)とす る。「自分の身体はもう元には戻らない。ならば過去のどうにもならないことを悩むより、現在、自分が置かれているところから将来に向って人生を切り拓いて いこう」この瞬間から新井氏は真の人生を歩み始めた。

 

じゃぁ、また、明日、会えたらいいね。


犬啼いて 妻の居ぬ間に みぞれ降る

2016年01月23日 | 自然ありのままに

 さぬき市地方は気圧の谷や寒気の影響で雲が広がり、はじめ晴れていたが、気圧の谷や寒気の影響で昼過ぎから雲が広がり、雪や雨が降ってきた。気温は2度から9度、湿度は89%から75%。風は1mから4mの西の風が一時強かった。明日の24日は、強い冬型の気圧配置となるため雲が広がり、雪が降りやすく、雷を伴う所もある見込みらしい。

 

 今日は寒くなり、雨や雪になるという予報だったもので、デスクワークの日と決めていた。不要不急の用事もないときには無理をしないのが安全策。インフルエンザが流行期に入ったというし、最近はバスの事故も目立っている。触らぬ神にたたりなし・・・などと言うては不謹慎か。

 

 そういうことで、「お袈裟ってなぁに」のスライドの作成作業をやっていた。今日は、この、「如法衣」とか・・・

 

 三緒袈裟とか・・・

 

 地蔵袈裟とか・・という、あまり、知られていないお袈裟の種類の部分・・・。

 

 午後からは、明日の「志度寺案内ガイド」の予習勉強・・・。高松市文化財保護協会の会員さんたち100名がおいでになるらしい。で、さぬき市志度の町並みを見学しながら歩いて志度寺に入られる。その100名さんを三班に分けて、町並み部分は「町並みガイド」さんが案内し、私たちはサポート係。「車が来ますよぉ~」とか、「右側に寄ってくださぁい~」というお役目。

 

 志度寺に入れば攻守交代。ここからが、私たちのガイド役が始まる。この山門の説明、ここにある仁王像のお話・・・なんぞから、高さ33メートルの五重塔のお話なんぞ。

  

 この牢獄のようなもの。これが「謡曲、海士の玉取伝説」にからむ、「海士の墓」と言われるもの。この経筒を削り取る不埒者対策のための防護柵である。

 

 こんな石を削って飲んでも身体にいい筈はないと思うが、全国的に、有名人のお墓を削って持ち帰る人は多いらしい。中には、これを削って販売する人までいるのだとか。買う人も買う人だなぁと呆れたりする。

 

 ここもガイドでは欠かせないところ。「無染庭」という枯山水のお庭である。造園家の鬼才、重森三玲さんが作ったもの。玉取り伝説を表現してあるという。三玲という名は、フランスの画家ジャン・フランソワ・ミレーにちなみ本人が改名したもの。美術学校時代から雅号として「ミレー」を名乗っていたが、やがて出家すれば戸籍を抹消できることを知り、一度出家して戸籍を抹消し、再び戸籍に入る時に三玲と改名した。子供たちに名前をつける時にもヨーロッパの偉人に因み、長男には完途(カント)、二男には弘淹(コーエン)、長女には由郷(ユーゴー)、三男には埶氐(ゲーテ)、四男には貝崙(バイロン)と命名したが、長男の完途は父三玲の西洋趣味に反発し、自らの子供には古事記や万葉集に由来する日本風の名前をつけた・・・というお話なんぞを・・・。

 

 この志度寺さんの閻魔さんは、頭上に十体の観音さんが乗っているという変わったもの。本尊の十一面観世音にあやかったものだと言われている。でも、それより、明日の天気が心配だ。明日はこの冬一番の冷え込みになるのだとか・・・。

 

 夕方になると、お天気があやしくなり始めてきた。

 

 今日の掲示板はこれ。「現在が続いて将来となる 現在を離れて将来はない」という清澤満之先生のお言葉から。清澤先生は文久3年、尾張藩に生まれた。東京帝国大学卒業後、明治21年、京都府尋常中学校の校長に赴任するが、辞任して禁欲自戒の生活に入った。明治25年、『宗教哲学骸骨』を刊行。宗門改革のために雑誌「教界時言」を発刊し一時僧籍を剥奪されるが、僧籍を回復し真宗大学初代学長に就任。明治 34年、雑誌「精神界」を発行。明治36年、愛知県で死去。享年41歳であった。

 

じゃぁ、また、明日、会えたらいいね。


水仙を 活けて句を詠む 山頭火

2016年01月22日 | 時にはぼぉっ~とする時

 さぬき市地方は気圧の谷や寒気の影響で雲が広がり、雨や雪の降っている所があった。気温は3度から8度、湿度は84%から64%、風は1mから3mの北の風が少しばかり。明日の23日は、引き続き気圧の谷や寒気の影響で雲が広がり、朝から昼過ぎにかけては雨や雪が降る見込みなのだとか。

 

 昨夜の夢・・・。本山から「マイナンバーが必要なので12桁の番号を教えて下さい」という連絡があって、探し回ったけれど分からない・・・という、心地の良くない夢だった。気になったので探してみたが見つからない。「大切なものだから・・」と、どこかに厳重に隠したものか、「どうせ、必要のないものだから・・・」と、焼却処分してしまったものか・・。取りあえず、残った用紙の中から、カードを申請しておくことにした。役所に、「私、紛失しました・・」と言うのもシャクなものだし。

 

 その申請用の封筒と浄化槽点検依頼のハガキとを郵便ポストに投函する目的で家を出たが、目的を忘れて、さぬき市立志度図書館にやってきた。

 

 このおばあさんの本などを返却して、別な本を借りる目的もあったし・・・。

 

 開館直後の図書館でも十数人が新聞を読んだり、新刊書を探したりしている。けっこう、暇人が多いんだなぁと思ったが、私もその中の一人なんだなぁと気が付いた。

 

 で、今日は、この五冊の本を借りることにした。郷土資料コーナーにあったものばかり。塩飽の歴史ばかりを調べていて、案外と故郷の歴史や民俗については知らないことが多すぎる。

 

 戊辰戦争と高松藩の歴史くらいは知っているのだけれど、高知や愛媛のことになるとほとんど知らないことばかり。

 

 これもまた、同じ事。讃岐学も満足に語れないのに、四国学なんぞまるきり知らないで生きて来た。

 

 帰ってから、マイナンバーカードの申請用封筒を投函せずに戻って来てしまったのに気が付いたので、今度は方角を変えて東の方に走ってみた。で、目についた、このお店に入ってみた。国道11号線沿いにある「文遊館」という文具のお店。

 

 で、あれこれ迷ったあげく、この千代紙や和紙を買ってきた。何に使うか・・・というと、昨日のこれ。

 

 スペシャル・オリジナル・マイ納め札。

 

 ところが、やっぱり、高級な京千代紙は、表面がザラザラしていて模様になっているため二、インクの乗りが悪い・・。表面の一定になった和紙などはきれいに印刷ができたのだけれど・・。

 

 この日曜日に、志度の町並み案内ボランティアで志度寺あたりをガイドするので、その時のお土産にでも持って帰っていただくつもり。

 

 その後は、このシリーズの校正作業もやっていた。

 

 今日の掲示板はこれ。「失敗する可能性もたくさんあるけれども、まずはやってみなければ何も始まらない」という新浪剛史さんの言葉から・新浪剛史(にいなみ たけし、1959年(昭和34年)1月30日 - )は、日本の企業経営者。サントリーホールディングス株式会社代表取締役社長、元株式会社ローソン取締役社長及び会長(3ヶ月のみ)。 弟は埼玉医科大学教授の新浪博士さん。最初は誰でも初心者だ。最初から成功する確率は低い。失敗する可能性もたくさんたくさんあるけれど、まずはやってみなければ、絶対に成功する筈がない。まずは、歩き出さなければ目的地には着かないのだ。

 

じゃぁ、また、明日、会えたらいいね。


陽だまりの 蝋梅の黄に 安堵する

2016年01月21日 | 自然ありのままに

 さぬき市地方は気圧の谷の影響で西から雲が広がってきていて、夕方から雪や雨の降る所があるらしい。気温は2度から8度、湿度は86%から69%、風は1mから2mの西の風が少しばかり。だから、気温は上がらないが、風がない分だけ暖かいなぁと感じた一日になった。明日の22日は、気圧の谷や寒気の影響で雲が広がりやすく、明け方にかけて雪や雨の降る所がある見込みらしい。

 

 朝方は青空も見えて気分のいい朝になった。今日も奥方は高松へケアマネの研修に行くというので、電車の乗り場までの送迎の日となった。朝は7時過ぎの登りの電車、夜は18時前の下りで帰る。

 

 お遊びで作った、私のオリジナルな納め札である。いざとなると、案外と良いアイディアが出て来ない。何千枚もの納め札を見続けてきたせいか、まともな、オーソドックスな納札しか頭に浮かばない。

 

 朝方、近くのホームセンターに行ったついでに、折り紙を見つけたので買ってきた。それに印刷をしてみた。

 

 きれいな用紙を選んだつもりだったが、やはり、インクの乗る用紙と乗らない用紙があって、なかなかにきれいには出来なかった。

 

 納札は、1回から4回は白、5回から7回は緑、8回から24回は赤、25回から49回は銀、50回から99回は金、100回以上は錦ということになっているらしい。私のものは、このどれにも該当しないように選んでみた。

 

 お寺に納める訳でも、お接待に対して出す訳でもないので、自由な色で、自由な発想でつくってみただけのこと。仲間内での話題作りというところ。

 

 これで、来週火曜日の「俵札調査の日」に、少しでもの話題になるだろうか。私は「パワーポイント派」なもので、これもパワポで作ってあるが、改行マークが残るのが気になっている。

 

 さて、午後からは講演会用のスライド作り。私のブログでも、お袈裟の検索が最も多い。お袈裟のことを知りたい人が多いらしい。私のホームページでも「お袈裟の話」にはアクセスが多い。それだけ、お袈裟の情報が少ないのだと思う。

 

 だから、これらの資料は、私のブログの記事やHPからの記事の転用が主流になる。

 

 今日は、五条袈裟から九条袈裟までを整理した。二十五条袈裟までの言及は必要ないだろう。本来は、おへんろ文化の研究が主体だから、あんまり、お袈裟の奥まで踏み込んでも意味がないと思うし。質問があれば答えることにしよう。

 

 今日は「大寒」だそうだ。1月21日および立春までの期間をいう。太陽黄経300度、小寒から数えて15日目頃。冬の季節の最後の節気で、寒さがさらに厳しくなり、1年中で最も寒い時季にあたる。小寒(1/6)から立春(2/4)までの30日間を寒の内といい、大寒はそのまん中にあたる。寒稽古など、耐寒のためのいろいろな行事が行われ、寒気を利用した食べ物(凍り豆腐、寒天、酒、味噌など)を仕込む時期と言われている。

 

 暦の上では、「大寒」の声を聞いたら、春あと少し・・・なのだが、本当の寒さはこれからやって来ることになる。

 

 今日の掲示板はこれ。「迷惑をかけずには生きられない 「おかげさま」ってほんとうなんだ」というもの。「人様に迷惑をかけるな」などと、親が子に教えたものだが、人は誰も迷惑をかけずには生きられない。子供は親に迷惑をかけて大きくなり、親は子に迷惑をかけて亡くなる。「俺は誰にも迷惑はかけないで生きる」と言う人ほど、世の中に迷惑をかける人になるらしい。まだまだ、「おかげさま」とは言えないけれど、これからどうなっていくのかなぁと思いつつ、生かされている毎日ではある。

 

じゃぁ、また、明日、会えるといいね。


木枯らしが 洗濯物と じゃれている

2016年01月20日 | 時にはぼぉっ~とする時

 さぬき市地方は冬型の気圧配置となっているため、瀬戸内側を中心に雲が広がっていた。気温は1度から8度、湿度は84%から62%、風は4mから5mの西の風がやや強かった。明日の21日は、気圧の谷や湿った空気の影響で雲が広がり、夜には雨や雪の降る所がある見込みらしい。

 

 朝はうっすらと雪だったが、道路上にはほとんど雪はなく、奥方は通常通りに出勤して行った。県道では小型の除雪車が申し訳程度に動いていた。

 

 朝の散歩でも、こうした田んぼや畑ではうっすらと雪が降ったらしいが、道路上には何もない。ただ、橋の上だけは冷えたのか雪がしっかりと残っていた。

 

 思いつくままに、四月の講演会用に「お袈裟」のお話をまとめだした。「ありきたりのお遍路の話は誰でもするが、お坊さんの裏話は聞いたことがない・・」と言う注文だけれど、お坊さんの裏話はともかくとして、お袈裟の歴史や変化の状況は見たことも聞いたことがないらしい。私らだって、「法衣史」や「袈裟史」というのは特別講義でしか聴いたことがない。

 

 お遍路に関係する「おへんろ輪袈裟」から入って、簡略されたものから、進化を逆に辿って、絡子(らくす)、小野塚五条、地蔵袈裟、小五条、五条袈裟・・・七条、九条、大衣・・・と、お袈裟の源流を探って行こうとしている。

 

 途中で、修験道の「梵天袈裟」や「摩紫金(ましこ)袈裟」、種子袈裟などにも触れている。

 

 10時からは、さぬき市志度にある「さぬき立市志度図書館」に行って来た。先週に借りた「昭和の道具類」などの本を返却して、新しい本を借りてきた。昭和の道具とか昭和の遊びとかが書いてあっても、都会と田舎とでは道具も違うし、遊びも違った。似たような遊びでも呼び方が違うし、遊び方も違っていた。

 

 どうにも、借りた本は早め早めに返しておかないと忘れてしまいそうになる。読み残しても、また、借りればいいのだから、いつまでも積ん読状態はいやなのだ。

 

 丸亀城の絵手紙のおばあちゃん、十河博子さんの本である。お城でさかんに勧められたが、買って読むような本ではない。この十河さんのサインが入っているから寄贈されたものみたい。

 

 こういう「絵手紙」が掲載されていて、十河さんのひとことも寄せられている。しかしのかかし、いつ見ても、これはハガキで絵が描いてあるのだから「絵ハガキ」だと思う。でも、どんな本でも、どんな新聞でも、これを「絵てがみ」だと書いてはばからない。これが私にはわからない。

 

 プロの製本屋さんが書いた製本の本だが、和綴じと洋綴じをあたまで少しだけ解説しただけで、後は箱だのメモ帳だのと、「全部見せます」という割には手応えのない本だった。

 

 漫画で読む親鸞さま・・・。ふむふむ・・と眺めていたら、やっぱり、「本願寺出版」さんか。ま、教科書通りみたいな漫画本だった。

  

 これは明日にでも読むとしよう・・・。

 

 今日の掲示板はこれ。「欲深き 人の心と降る雪は 積もるにつれて 道を失う」というもの。これは「高橋泥舟」という人の歌。泥舟は後年の号、若いころの号は忍歳。いわゆる「幕末の三舟」のひとり。(ほか、勝海舟、義弟である山岡鉄舟)。生家の山岡家は槍の自得院流の(忍心流)の名家で、泥舟みずからも槍を修行し、神業に達したと評される。 幕臣として節義を通す姿勢には信頼が厚く、義弟・山岡鉄舟が務めた西郷隆盛との駿府会談はもともとは勝海舟に推薦された泥舟が担当する予定だった。 明治の廃藩置県後は官職には就かず隠棲、書画骨董の鑑定などでして生涯を終える。

 

じゃぁ、また、明日、会えたらいいね。


初雪に 自分の居場所を 奪われる

2016年01月19日 | お役目ごくろうさまであらっしゃいます。

 さぬき市地方は冬型の気圧配置が強まっているため、雲が広がり雪の降る所があった。朝方は粉雪やみぞれが断続的に降ったし、雷を伴う所もあった。気温は2度から5度、湿度は78%から70%、風は4mから12mの強い西の風が吹き荒れて体感的に冷たい一日になった。明日の20日は冬型の気圧配置が続くため、雲が広がりやすく、夕方にかけて雪や雨の降る所があるらしい。

 

 朝方はうっすらと粉雪が積もっていたが、道路上はなんともなくて通常通りに車が走っている。ようやく、讃岐路にも冬がやってきたという感じになってきた。

 

 で、今日は全国的に火曜日になったので恒例の「俵札調査」に出かけた。いつものさぬき市前山にある「おへんろ交流サロン」だが、さすがにこんな日にはお遍路さんの姿は見えなかった。

 

 今年の三月から、ここの資料室で、「おへんろつかさの会による俵札調査結果展(仮称)」が開催されるので、その展示の準備段階に入った。先に調査を始めた、「寒川家」所蔵の840件のデータから100点の納め札を選び出している。ここには、宝永元年(1704)から昭和14年までの納札が発見された。

 

 中島先生は「飯田家」の1130件のデータから100件の納札を選び出している。ここには、江戸時代末期の天保年間(1830)から大正初期までの納札が発見されている。

 

 私は「田淵家」の2340件のデーターから60件を抽出する。この家からは明治元年(慶應4年)から昭和14年までの納札が発見されている。ここには江戸時代の物がないので、数が少なくなっている。

 

 この俵の中身も見たいのだけれど、開けさせてはもらえないそうだ。これは、お遍路資料室に展示をされているもの。「開けてもいいが、現状通りに復旧すること」の条件で、あけたら最後、この俵は粉々になってしまう恐れがあって、開封は不可能らしい・・・。

 

 写真撮影担当の多田先生から、「こんな風に、納札ばかりを眺めていると、自分なりのオリジナルな納め札を作ってみたいものですね」という提案があった。で、みんなで、「納め札コンテスト」をやろうじゃないか・・・ということになった。

 

 私は「お大師さん」を使うのはどうか・・ということで、本山の後堂(うしろどう)の後門扉に描かれている「キリク」の「阿弥陀」という梵字を使うことにした。

 

 という納札を作ってみた。でも、これでは当たり前過ぎて、コンクールでは上位入選は無理かも。もっと、私らしいものを考えてみなければ・・・。それだし、カラー印刷版のほうが目立ちそう。

 

 作業後の打ち合わせ会。二月から四月のイベントの段取りというか、周知方法とか案内の仕方とか・・・。

 

 午後からは粉雪が降り出してきたが、このあたりでは積みそうもない。降って地上に落ちたら溶けて消えてしまう。

 

 夜中から朝方に降り続けたら積もる可能性はあるのだけれど。

 

 今日の掲示板はこれ。「一度しかない人生だから 自分の道を自分らしく生きたい。人間らしく。自分らしく。」というもの。相田みつをさんの言葉らしいが確証はない。たった一度の人生であれば、「自分らしく、人間らしく、生きたい」というのが、多くの人の願いだろう。私も自分の道を自分らしく生きて行きたいと思う毎日であるのだが、「人間らしく」とはどういうことなのか、「自分らしく」というのはどういうことなのか。この「自分」が分かっていないことに気付いてうろたえている・・・。

 

じゃぁ、また、明日、会えたらいいね。


やる気さえ 洗い流すと 冬の雨

2016年01月18日 | 自然ありのままに

 さぬき市地方は南海上の低気圧の影響で、強い寒気が流れ込むため雲が広がり、夕方からは雪や雨の降る所があるらしい。気温は10度から12度とまり。湿度は94%から68%、風は2mから7mの西の風が強かった。明日の19日は、強い冬型の気圧配置となるため引き続き雲が広がり、雪や雨の降る所があるらしい。時に雷を伴う所もある見込みなんだとか。

 

 朝から雨になっていた。テレビでは各地で雪になったらしく、交通事故やら渋滞やら、電車などが動かないとか遅れるとかと大騒ぎになっているらしい。讃岐でも昨年は雪になったらしいが、今年は雨だ。

 

 昨夜、年賀状を調べたけれど、160枚も年賀状があっても、切手シートの1枚も当たって居なかった。十年ほど前には切手シートは必ず当たる物だと思って居たが、数年前程からはかすりもしなくなった。カネがなくなれば運も希望も遠ざかるのかも知れない。

 

 そのせいでもないのだろうけれど、今朝方の夢は悲惨だった。満員の体育館で講演を頼まれて、意気揚々と熱弁を振るいながら、スクリーンの説明をしていて、ふと、振り向くと、体育館の聴衆は一人もいなくなっていた・・・・というもの。こんな悲惨な夢を年明け早々に見るなんぞ・・・。

 

 四月の講演会では、輪袈裟の歴史やら用途なんぞから、お袈裟の成り立ちから変遷や袈裟の意味なんぞをお話しようと思って居たのだけれど、これではウケないのかも知れないなぁと思うようになってきた。熱を入れて、「お袈裟とはなんぞや・・・」とお話をして、振り返ったらだあれもいない・・・。そんなことにはなるまいが、やや、不安な夢であった・・・。

 

 これは、お遍路さん用に売っている「輪袈裟」だと言われているもの。輪袈裟だったら、出家をしていない俗人は着用できないことになる。本来のお袈裟は僧侶の制服であり、お坊さんの象徴であるべきもの。

 

 これに似ているのが、真宗では「門徒式章」と呼ばれるもの。これは在家のご門徒さんが法要や儀式で着用するもの。形はこれにそっくりだ。

 

 違いは、この大威儀や小威儀がないことと、紐があるかないかの違い。幅も少し違っている。

 

 一般的には、「半袈裟」と言う呼び方がいいのだろうか・・。輪袈裟というのは、完全に輪になっているもの。折五条は紐ではなくて小威儀になっている筈。このあたりは、宗派によって解釈が違うのだろうか・・・。

 

 これは民俗学の範疇を超えているかなぁ・・。

 

 午後からは、またしても納め札のデータ確認なんぞをやっていた。これらのデータから、何を解釈し、何を描き出すのか・・。どうやって論文にまとめあげるのか・・を考えていた。

 

 そして、田淵家、寒川家、飯田家のデータを統合していいものかどうか、それぞれ、個別に分析してまとめ上げるのか、トータルで考えればいいのか、そのあたりのコンセプトをどうするのか。ますます、あたまの痛くなるデーター群ではある。

 

  四国霊場58番札所の円明寺にある日本最古の納め札は銅製。江戸初期の慶安3年(1650)のものである。奉納者は伊勢国三宅郡出身で江戸日本橋材木町に住み、京都に移って明暦元年(1655)死亡した。この銅板の納め札は西国から、板東、秩父、六十六都廻国のあとに四国遍路に出た時のもの。「四国仲遍路同行二人 今月今日平人家次」と書かれている。この銅板の納め札は四国遍路納め札では唯一のもの。この納め札を発見したのは大正時代に四国遍路の旅をしていたアメリカ人教授スタール博士だと言われて居る。

  

 今日の掲示板はこれ。「乗れば人 歩けば車 邪魔になり」というもの。狭い道で自動車と出くわした時、自分が徒歩だったので、道を譲ると、あいさつもなく走りさった時、「なんてやつだ。本当に車は邪魔なものだ」と腹を立てる だろう。かと思えば、自動車で出かけたが、遅刻しそうになった。ところが、狭い道の真ん中をご老人が悠然と歩いている。どうやらこちらには全く気 がつかない様子だ。クラクションを鳴らしてびっくりさせてもと思い、結局イライラしながら後ろを付いていった。内心は「まったく邪魔だ、もう少し気をつけ て歩いたらいいのに」と腹を立てるだろう。とにかく、我々は「自分以外は全て邪魔」・・・なのである。

 

じゃぁ、また、明日、会えたらいいね。


山頭火 思い出しつつ 霜の朝

2016年01月17日 | 時にはぼぉっ~とする時

 さぬき市地方は東シナ海で発生した前線を伴った低気圧の影響で雲が広がり、夕方から雨となるらしい。今日の気温は2度から10度、湿度は73%から53%、風は2mから4mの南東の風が少しばかり・・・。明日の18日は、引き続き前線を伴った低気圧の影響で朝まで雨が降る見込みで、その後は寒気の影響で雲が広がり、雨や雪の降る所があるということである。

 

 気温は低くはなったが、風が吹かない分、冬らしくないなぁと思った朝になった。確かに空気は冷たいし、指先は感覚がないほどに冷たくなっていた。わが家の迷犬ごんは、そんな霜の芝生の上で寝ている。冷たくはないんだろうかと思うほどだが、そんな感覚もわからないおばかさんなんだろうか・・・。

 

 で、突然に、何の脈絡もなく、年賀状の整理を始めた。今年、届いた年賀状と、出した年賀状の一覧表を対照したり、住所録のデータと突き合わせをしたり・・。デスクトップPCには年賀状ソフトの「筆自慢」というものがインストールされていて、ノートPCには、フリーソフトの「はがき作家あてな9フリー」というソフトが入っている。単にシステムの二重化ということだけで、深い意味はない。でも、めんどうなことだなぁとは思っている。

 

 ま、こういうことでもないと、なかなかに友人知人親戚筋のデータ確認をすることがない。いざとなって、「あれあれ・・」ということのないように、亡くなられた方のデータを抹消し、あらたに結婚したり、住所が変わった人などのデータを追加・修正したりしておいた。

 

 昼から、奥方が「お風呂に行こうよ」というので、気が進まないが行って来た。さぬき市寒川町神前(かんざき)にある「春日温泉」である。ここは、緑あふれる閑静な山里にある、四季の美しい風光に恵まれた温泉で、良質のラドンを豊富に含んだ療養泉のびわ風呂などが楽しめる。

 

 ちょうど、お食事時の12時過ぎからの入浴になったためか、今日も誰も入っておらず、貸し切り状態となっている。

 

 洗面所も、これ、この通り・・。休憩所には十数人のお客さんが寝そべったり、話し込んだりしていたが、お風呂場の方は無人状態。でも、私らもお昼がまだだから、そんなにゆっくりとは入っていられない。

 

 食堂には数人のお客さんがいたが、写真には入らないようにカメラの角度を調整して撮っている。ここはセルフ方式になっていて、食券を買って、中央のカウンターで係のおねえさんに注文する。料理ができたら、呼んでくれるのでカウンターで受け取る方式。讃岐の人は「セルフうどん」で慣れているから問題はない。食事が終われば、左のカウンターへ食器を返しておしまい。

 

 奥方の注文するのはこんなもの。湯上がりにはこの一杯がおいしい・・・。そうそう、お風呂で体重を量ったら、「65.4Kg」と表示された。年末には62.0Kgだったのが、お正月の間に3.4Kgも増えたことになる。ドクターからは62.0が限度だと言われているのに困ったもんだ。この27日の予約診察日までの10日間で、3.4Kgの減量ができるのか・・・。

 

 それを考えると、このおうどんが半分しか食べられなかった。

 

 平成の大合併が行われる前には、それぞれの町に温泉というお風呂があった。それがさぬき市に合併後、志度町にあった大串温泉が休館となり、長尾のツィンパルながお、寒川の春日温泉、大川のゆ~とぴあみろく、津田のクワタラソさぬき津田の四施設は、株式会社さぬき市SA公社という会社に移管されて運営されている。

 

 最近、このあたりに野猿の捕獲用ケージを置かなくなった。そのためか、相変わらずのサル軍団。どうにかならんものだろうか。そのあたりは、サルの排泄物でいっぱい・・・。なんらの対策もやっていないように見えてならない。

 

 どんどんと子ザルも増えていて、ますますサルの数は増える一方。一時は、あちこちに「ワナを仕掛けてあります」というプレートが掛かっていたが、最近は、このあたりのどこにも見えない。

 

 今日の掲示板はこれ。「物事はうれしい前に決まって 心配事やら悲しいことがあるんです」というもの。

物事ってえものは、うれしい前にはきまって、
心配事や悲しいことがあるんです。
心配事や悲しいことから、
うれしいことが生まれてくるもんですナ

 という「なめくじ艦隊」からの言葉。「なめくじ艦隊」ー志ん生半生記は古今亭志ん生さんの著作。

 

じゃぁ、また、明日、会えたらいいね。


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