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灯台(とうだい)は、岬の先端や港内に設置された、船舶の航行目標「航路標識」の一種であって、その外観や灯光によって位置を示す「光波標識」の中の夜標として位置づけられている。
塔状の建造物で、最上部には遠方からでも識別可能な強力な光源を有する。夜間には光源が明滅(大型のものでは光源に前置されたレンズが回転)し、航行する船舶が場所を識別する目印となる。現在多くはコンクリート製だが、木造や石造、煉瓦造や鉄造のものも見られる。
これが明治初期に建てられた坂出市沖合にあった鍋島灯台の待息所で、英国技師のR・H・ブラントンが設計したもので、石造の建物で明治6年に竣工した。壁は奥行き60センチの切石を積み、間取りは中廊下式で部屋には暖炉が置かれ、外側に浴室や便所などが張り出す構造になっている。
内部は洋式で、テーブルやいすが置かれ、事務机、暖炉、ピアノやオルガンなども置かれていた。
この建物は昭和30年まで本来の宿舎として使用されたが、その後は海上保安庁の通信施設となっていた。
これは淡路島北端にあった江崎灯台の待息所。これもブラントンの設計によるもので、我が国八番目に点灯した洋式灯台であった。先の阪神・淡路大震災で被災したため、この地に移転復元されたもの。本格的な石造建築で」当初の木造トラス構造を残すなど「洋式灯台の黎明的な建物である。
この待息所は、「おいら 岬の灯台守は・・・」という主題歌で有名な「喜びも悲しみも行く歳月」という映画で知られる・・・灯台守たちの労苦のしみこんだ住居であった。最果ての岬や絶海の孤島で灯火を守り、沖行く船の安全を支えた灯台吏員とその家族たちの哀感はいかばかりであったか・・・。
我が国の洋式灯台の初点灯は明治二年元日、東京湾入り口に当たる観音崎灯台であった。江戸幕府が米・英・仏・蘭と結んだ条約により灯台が建設され、その事業は明治政府へと引き継がれた。
いわゆる「お雇い外人」の指導の下に、建設の第一歩を踏み出した。中でも英国の技師R・H・ブラントンは日本国内に28基の灯台を設計・監督し、「日本の灯台の父」と呼ばれている。
待息所も時代とともにその内部は変遷し、愛媛県松山市沖にあったクダコ島灯台は明治35年に着工し、翌年に竣工・初点灯したが、この建物はレンガ造りのモルタル仕上げ。内部は左右二つに分かれて二家族用になっていて押し入れ付き和風の畳敷きで、かまどや風呂もレンガ造りとなっているのが興味深い。
この待息所は明治後期の建築であり、部屋も和風の「要素が強くなっている。洋式灯台初期のものとはいくつかの点で違いが見られ、我が国の灯台建築の変遷を知るうえで貴重な資料となるだろう。
瀬戸内海ののどかな島に、調査と工事のために訪れた黒船と碧眼紅毛の異国人に素朴な島民は驚き、長老は裃袴を着用し、刀を携えて出迎えたと紹介されている。
時は流れ・・・昭和30年代になって、灯台は次々と無人化され、電子化されてゆき、人々の喜びや悲しみを見守ってきた灯台吏員待息所はその役割を終えていったのであった。
じゃぁ、また、明日、会えるといいね。