まほろば自然博物館

つれづれに、瀬戸のまほろばから自然の様子や民俗・歴史や見聞きしたおはなしをしたいと思います。

ひなまつり 昔の名前で 呼んでいる

2015年02月28日 | ひなまつり

 さぬき市地方は高気圧に覆われて概ね晴れている。気温は1度から8度、湿度は72%から56%、風は1mから3mの南南西の風が少しばかり。春のような気候になった。明日の3月1日は、四国沖を通過する低気圧の影響で、夕方にかけて雨が降る見込みなのだとか。

 

 これらが私の作った本の一部で「和綴じ」によるもの。上の方に、一部、洋綴じのものも入っているが、これは最近の物。

 

 今度、取り入れたのが簡易製本機の「とじ太くん3000」。

 

 専用のホルダーに挟んで、ここにセットせるだけ・・・。

 

 こういう本ができあがる。事務用ファイルとか提案書とかならばいいのだが、どうにも私の作る本の体裁としては味気ない気がする。他のタイプの専用ホルダーもあるみたいなので探してみなければ・・・。

 

 さて、今日も東かがわ市ひけたの「ひけたひなまつり」に出かけてみた。さすがに土曜日と言うことで人出が多い。

 

 今日のお昼はここになった。かめびし屋さんという醤油屋さん。お店に入るとこうじの匂いが漂っている。

 

 お店の中はこんな感じ。ここもセミセルフ。券売機で食券を買って、カウンターで注文して、できあがった麺をいただいて、好きな席について食べる。食べ終わったら食器を返却しておしまい。

 

 メニューは多くはないが、ここに来たらこれだということで、「もろみうどん」。このもろみをうどんに搦めて食べるもの。醤油うどんより、少し味がしっかりとしている。

 

 さすがに土曜日だということで人出がすごい。こんなにすごいのだから、誰かに逢っても分からないだろうと思っているのに、「きーーーむちゃん!」という声が。そんな風に呼ばれるのは久しぶり。振り向けば、昔の電話局の同僚ではないか。

 

 中学から・・・30歳台くらいまでは、「きむら」の「キムちゃん」だった。その後は「まほろばさん」だったが、近年は坊さんの名前の「暁光さん」になっているが、「まほろば工房」の「まほろば」が依然として根強い。

 

 「こまめちゃん」とこの雛飾りも健在だった。

 

 これは最近のおひなさんらしい。豪華さがひときわ違う。

 

 今日の掲示板はこれ。「人の世は あせらず あわてず あきらめず」というもの。この言葉、あちこちのお寺の掲示板にあるのだけれど、どなたの言葉かわからない。商売のコツ、営業のコツみたいな言葉だけれど、お寺の掲示板にあるのだから、人生のコツというか、生き方のコツにも通じる言葉なのだろう。

 

じゃぁ、また、明日、逢えるといいね。


菜の花に しぐれる空が ついてくる

2015年02月27日 | 時には日々是日

 さぬき市地方は高気圧に覆われて概ね晴れていた。気温は6度から9度、湿度は61%から48%と乾燥気味。風は2mから7mの西の風が強かった。明日の28日は、高気圧に覆われて晴れるけれど、気圧の谷が近づくため夕方からは雲が広がる見込みらしい。

 

 さて、恒例の「引田(ひけた)ひなまつり」が今日から始まった。今回は第13回になるのだという。最初の雛祭りは雨だったと記憶している。あれから、13年が過ぎてしまったのか・・・。

 

 これが、本来の「引田飾り」というお雛さん。初めての女の子が生まれると、一番、いい部屋に、こうした雛飾りを飾った。そうして、みかんやお菓子を配ることが風習になった。子供たちは段ボール箱とか手押し車を押して、「おひなさん、みせていたぁぁ・・」と言って回って、お菓子やみかんをいっぱいにもらった。

 

 夜は、親戚筋が集まってお祝いの宴会が催された。私もあちらこちらでお呼ばれになった。お仕事の方では、おひなさんの前に、電話機を寝室に移転して、おひなさんが終わると、元の居間に戻す工事があった。でも、差し込み電話とか、コードレスになって、そういうお仕事もなくなった。

 

 これは江戸時代後期のおひなさんらしい。こうした古いお雛さんも、あちらこちらで展示されている。

 

 これは漁業で使う浮き球のブイを使った「ブイブイおひなさん」。

 

 これは恒例の洋式陶器製のおひなさん。

 

 近年は、こうした、古い帯を使った軒下飾りが目立つようになった。これも手間暇かかっているなぁと思った。

 

 今日は初日だというので、NHKやら民放各社らの取材が多かった。

 

 引田ひなまつりを見て、高松に向かった時間帯が悪くて、ちょうど、うどん屋さんが混む時間帯。おかげで、今日もお昼は抜きになった。お昼に焼き鳥屋や焼き肉屋は無理。コンビニは少ないし、レストランなんぞない田舎だから、うどん屋を逃せば、食べる処はない。

 

 で、気になっていた「常例法話会」を覗いてみることにした。

 

 輪番さんのお勤めやご挨拶があって、14時から15時までの法話会になった。

 

 今回は丸亀市の「三原兄弟」のご法話。白雪姫に見る「我」とわたしの生きる道・・・みたいなお話だった。

 

 弟さんは、「めんどくさい病」の流行と、その大切さ・・・みたいなお話。しかしのかかし、この兄弟の仲の良さには感動してしまう。いつでも、どこでも、誰とでも・・・この兄弟はいつも一緒なのだ。

 

 今日の掲示板はこれ。「ふりつもる み雪にたへていろかえぬ 松ぞををしき 人もかくあれ」という昭和天皇のお歌から。国敗れ、まさしく山河だけが残ったのが昭和20年夏。わが国の姿であったそうで、食うや食わずの暮らしに始まる7年の歳月は、わが国の長い歴史に訪れた、初めての、そして、最も深い断絶であり、試練であったという。そのころのことを、亡き昭和天皇は、このように歌にしておられた。「ふりつもるみ雪にたえていろかえぬ松ぞををしき人もかくあれ」。雪は、静謐のなか、ただしんしんと降り積もる。松の枝は、雪の重みに、いましもたわまんばかりになりながら、じっと我慢をしている。我慢をしながら、しかしそこだけ目にも鮮やかに、緑の色を留めている。わたしたちもまた、そのようでありたいものだという御製である。昭和21年の正月、日本国民の多くが、飢餓線上にあえぎつつ、最も厳しい冬を、ひたすらしのごうとしていた時に、詠まれたものであるという。

 

じゃぁ、また、明日、会えるといいね。


春の雨 濡れて郵便配達員

2015年02月26日 | 時にはぼぉっ~とする時

 さぬき市地方は前線を伴った低気圧が四国の南岸を東北東に進むため、夕方まで雨が降る見込みらしい。気温は6度から10度、湿度は82%から92%、朝から小雨が降っていて、1mmから2mm/hの降雨量。風は1mから2mの西北西の風が少し。明日の27日は、次第に冬型の気圧配置となり、また気圧の谷の影響で昼過ぎから雲が広がりやすくなるらしい。

 

 朝から雨だというので、「晴耕雨読」ということで、今日もデスクワーク三昧ということになった。まず、手始めは少しばかりのお勉強。荘厳作法集や法規便覧、門徒教本などから基本的なお勉強。

 

 本当ならば雪になる時期なんだが、しっとりとした雨の一日になった。

 

 あれもしたいし、これもやっておかねば・・と思うのだが、どれが最優先かなぁと思案しつつ、今日はとりあえず、「英国士官レキ研究会」の研究結果を香川県立図書館に納本することにした。

 

 この資料は、昨年の三月に講演会で発表したもので、パワーポイントのスライドショーの資料を印刷するもの。県立図書館には三冊(郷土資料保存用1、貸し出し用1、書庫保存用1)と、丸亀市図書館に2冊の計5冊。表紙だけはカラーで、中身はモノクロ印刷になっている。

 

 雨が降っていても、わが家の迷犬ごんは「散歩に行こうよ」と前足を伸ばして催促する。水に入ったり洗われたりするのは大嫌いなくせに、雨の日の散歩にはいそいそと出かけて行く。

 

 両面印刷で80ページ、A4版横とじで5冊が完成した。

 

 この次は、「古川庄八と古川阪次郎そして山口嘉次郎」という三年前の講演会の資料を印刷製本する予定。なんだかんだと遅くなってしまっている。昨年の白内障で気分的にやる気がなくなってしまったこともあって。

 

 だから、今年は「山頭火の句碑集」、「四国遍路の闇と陰」、「英国士官レキ研究」、「古川庄八・・・・」、「しわく広島八十八ヶ所調査報告書」などを、「県立図書館へ納本する予定。

 

 今日は79年前に起きた二・二六事件(にいにいろくじけん)の日。1936年(昭和11年)2月26日から29日にかけて、日本の陸軍皇道派の影響を受けた青年将校らが1483名の兵を率い、「昭和維新断行・尊皇討奸」を掲げて起こしたクーデター未遂事件である。事件後しばらくは「不祥事件(ふしょうじけん)」「帝都不祥事件(ていとふしょうじけん)」とも呼ばれていた。算用数字で226事件2・26事件とも書かれる。(Wikipediaより)子供のころに町の映画館で、これを元にした映画を見た記憶がある。このビラはしっかりと覚えている。

 

 昼からは隣町にある「白鳥(しろとり)温泉」に行って来た。パソコンばかり叩いていたのでは眼も疲れるし肩も凝る。ところが、この日はメンテナンス日ということで、臨時休館。

 

 がっくりとして帰宅・・・。

 

 その後も相変わらずのデスクワークにどっぷりと・・・。

 

 今日の掲示板はこれ。「何ものも「自分のもの」ではないと知るのが智恵である」という、ダンマパダの言葉から。「降れば濡れ 濡るれば乾く袖の上を 雨とて厭う人ぞはかなき」と一遍上人は言った。煩悩にまみれた自分でいいのだと腹をくくると光が見えてくる。「煩悩を断ぜずして 涅槃を得るなり」と親鸞聖人も言った。人生さえも借りものである。清々しく生きられるコツがそこかしこにある。「何ものも“自分のもの”ではない、と知るのが知恵であり、苦しみからはなれ、清らかになる道である」と、『ダンマパダ』に書いてある。考えても仕方のないことを、あれこれ思い悩むのは愚かなことだ。「眠れぬ者に夜は長く、疲れた者に一里は長い。真実を知らぬ愚者に生死の道は長い」とも『ダンマパダ』にあった。

  

じゃぁ、また、明日、会えるといいね。


春めいて 挨拶はずむ 待合所

2015年02月25日 | 今日もまた、病院に行って・・・。

 さぬき市地方は気圧の谷や湿った空気の影響で雲が広がっていた。気温は4度から11度、湿度は94%から50%、風は2mから3mの北北東の風が少し。でも、気分はすっかりと春の雰囲気。明日の26日は、低気圧が四国の南岸を東に進むため、夕方にかけて雨となる見込みらしい。

 

 今日は一ヶ月ぶりの予約診察日。月に一度の診察日でもあり、薬の処方箋を書いてもらう日でもある。特にここが悪いからとかここが痛いからという訳ではない。

 

 前回は頭の中を調べたが、今回はおなかの検査をするのだという。腹部超音波検査が10時20分の予約だった。だから、10時前に病院にやってきた。

 

 こういう検査で、おなかの中を調べるのだが、「肝臓が大きいな。酒飲むんか」などとかわいい顔の女医さんが言うので驚いた・・・。10分ほどの検査だった。

 

 その後、採血があって、検体検査が終わると、内科のドクターの診察があるが、それが11時過ぎに終わった。「脂肪肝」だと言われた。日本酒はやめないといけないなぁと思った。最近は、ビールが冷たいので、ついつい熱燗が多くなっている。

 

 今日はなぜだか患者さんが多くて、ずいぶんと待たされた。

 

 特に眼科は人が多くて、視力検査や眼球の検査などがあって、診察が終わったのは12時半を過ぎていた。眼科は今日でおしまい。左目は裸眼で1.0、矯正して1.5が見えるようになったとのこと。

 

 で、今日の診察料が8,500円に薬代が11,500円。しめて20,000円。だんだんと医療費が高くなっていく。

 

 午後から、追加修正した句碑集の印刷を始めたら、やっぱり・・・の「トナーがなくなりました。交換してください」のエラーメッセージ。

 

 一週間前に交換したばかりなのに、今回はすごく早い。これまた、7,000円の出費。

 

 機械は正直なもので、トナーを交換したらおとなしくお仕事を始めてくれた。そして、なんとか6部の製本が完成した。今週は、そんなにも印刷をしたのかなぁ。

 

 A4用紙で2,000枚が印刷可能ということだが、コピー用紙は一袋が500枚入り。だとすれば4冊というか4袋を使えば2,000枚か。なるほどなぁ。

 

 今日の掲示板はこれ。「大事なものが手に入らないのは 要らないものを持ちすぎているからです」というもの。誰もが幸せになりたいと願っている。そして誰もが幸せになることができる筈。なのに、幸せを実感できていない人があまりにも多いと知っている。多くの人は幸せになるために「何か」や「どこか」が必要だと思い込んでいる。幸せになるために「何か」は必要ないのだし、幸せに生きていくために「どこか」にたどり着く必要はないのである。誤った思い込みが私たちを幸せから遠ざける。幸せになるために大切なのは心がけ。幸せを決めるのは、私たちの心の在り方次第なのだから。

 

じゃぁ、また、明日、会えたらいいね。


あれこれと 悩みのままの 菜の花路

2015年02月24日 | ふるさと散歩

 さぬき市地方は高気圧に覆われて晴れている所もあったが、気圧の谷の影響で雲が広がり始めてきた。また、瀬戸内側では黄砂を観測している。気温は3度から12度、湿度は88%から42%、風は1mから4mの北北西の風だが、すっかりと春の陽気になった。明日の25日は、引き続き高気圧に覆われて晴れる見込みだが、次の気圧の谷の接近で昼前から雲が広がり、夜遅くには雨の降る所がある見込みだそうだ。

 

 昨夜、ブログの巡回中に、さぬき市にこんなものがあるのを思い出した。早くからいろんな人のブログで見聞きしていたのだが、翌日にはすっかりと忘れてしまっていて、ようやく、今日こそは・・・ということで覗いてみた。

 

 さぬき市の津田と志度との境目にある「羽立(はりゅう)峠」。その津田側の国道11号線南側の住宅用造成地の奥の奥に、近年、こんなものまで展示されたそうだ。ジェットの力で飛び上がって、敵の艦船目掛けて突っ込むという「神龍」というものらしいが、完成したときには戦争は終わっていたという。

 

 で、これが「人間魚雷回天」の模型である。回天(かいてん)は、太平洋戦争で帝国海軍が開発した人間魚雷であり、最初の特攻兵器だという。

 

 1944年7月に2機の試作機が完成し、同年8月1日に正式採用され、11月8日に初めて実戦に投入された。終戦までに420機が生産された。終戦までに訓練を受けた回天搭乗員は1375人にも及んだ。そのほとんどが兵学校・機関学校出身の若者、学徒や学生出身の予備学生、20歳に満たない予科練出身者たちだった。年齢も17歳から多くても28歳、大多数は20歳前後の若者であった。回天による戦没者は、搭乗員、整備員他145名、没時の平均年齢は21.1歳である。(周南市HP回天より)

 

 さて、今日のお昼はここになった。高松市六条町にある「和希」というプチセルフのお店である。

 

 あれもおいしそう、これもいいかなぁと悩んだあげく、この「肉うどんの小」で550円。かけうどんの小(一玉)と大(二玉)の差は90円。だいたいがそのくらいの差。ところが、肉うどんの小が550円で、大が580円。カレーうどんも、そういう計算になっていた。お店の事情なんだろうけれど。

 

 さて、早くも火曜日になった。火曜日は、この香川県立図書館に来る日になっている。香川県の偉人などの本を6冊借りていたので返却に来た。

 

 今度はガラリと趣向を変えて、「私家版の作り方」とか「電子出版の仕方」などという、編集や製本技術の本を6冊借りた。ワンパターンの本作りじゃなくて、今度は違った本も作りたいなぁということで。

 

 さて・・・だ。今日は高松興正寺別院で「布教研修」がある日で、それに参加するつもりで高松までやってきたのに、制服とも言うべき「道服」を忘れて来てしまった。略袈裟や念珠などは、いつものバッグに入っているのに、肝心の「道服」がない・・・。あきらめて、ここにやってきた。

 

 ここは高松市香南町由佐にある「高松市香南歴史民俗郷土館」、昔の「由佐城跡」である。

 

 ここで、「拓本展」をやっていると聞いたので足を伸ばしたもの。ここの企画展は、案外と楽しいし、面白い物が多い。

 

 二階に上がって驚いた・・・・。これは、さぬき市長尾西の「真宗宗林寺」境内にあった「良寛さん」の句碑である。私が悩んで悩んで、どうにもならずに句碑集から外したものの拓本である。「来て見ればわがふるさとはあれにけり」と、説明書きにあった。どう、読んでも、そんな風には読めないけれど、そういうことらしい。

 

 それから、これも。「これからまたひとり」という中の二行はわかるのだけれど。実はこれ。「山頭火 山頭火 これからまたひとり 山頭火」と読むのだそうだ。ここには、宗林寺や竹屋敷などの山頭火の句碑の拓本が20近く展示されていたが、この二句が解読できたのがうれしかった。

 

 今日の掲示板はこれ。「ふたたび通らぬ尊き道を今歩いている」というもの。正確には、「再びは通らぬ一度きりの尊き道をいま歩いている」という榎本栄一先生の言葉からである。榎本栄一さんは、少し前に亡くなられた方であるけれど、若いころから詩を書いておられて、途中20年ほど中断されたものの、再び60歳を超えて書きはじめ、その詩集は、7冊を数えているそうである。仏教語をあまり使わずに、念仏の味わいを詩に書きつづられておられた。たった一度きりの人生、その行き先が分からず、ただ快楽を追い求め、あてにはならない地位や名誉や財産を求めている人とは違って、お念仏に出会われた榎本栄一さんには、行き先がはっきり見え、方向が定まっている。すべてを如来さまにおまかせすればよいのだ、今の一瞬に全力を注いで生きることの喜びに気づいておられたのである。

 

じゃぁ、また、明日、会えるといいね。


わかめ干し 洗濯物の 竿を貸す

2015年02月23日 | ふるさと散歩

 さぬき市地方は高気圧に覆われて概ね晴れていたが、気圧の谷の影響で昼過ぎから夕方は雲が広がってきた。気温は8度から14度、湿度は88%から61%、風は1mから6mの西北西の風が一時強かった。なを、「春一番」は昨日に吹いたということだった。明日の24日は、高気圧に覆われて概ね晴れる見込みらしい。

  

 今日は天気もいいことだしと、ここにやって来た。丸亀市綾歌町にある「福成寺(ふくじょうじ)」という浄土真宗本願寺派のお寺さんである。

 

 ここの横にある池のほとりに、「寒桜」が植えられていて、昨日、一昨日あたりが見頃だったのだろうか、今日はハラリはらり・・・と花びらが舞っていた。

 

 今日は絵を描く人(この人たちを何と呼べばいいのだろう)が数人いた。

 

 最近、各地で見かける、この写真撮影用の三脚を立てての写生である。それに荷物搬送用のキャリーを引いている。三脚の上は自作のアタッチメントを装着している。

 

 メジロが人なつっこく近寄って来る。

 

 風は冷たいが、まさに「春爛漫」という風景。

 

  この・・・金色の額が本堂前上段にあって、「当山沿革」と書いてある。以下はその要約。
 浄土真宗本願寺派梵音山真興院福成寺と称す。開基は、聖武天皇の頃、行基の開山と伝えられる。嘉承元年(848)真言宗に、応永28年(1421)、中興の祖、了圓により、真宗に改宗した。
 後小松天皇の応永元年(1394)、長尾大隅守の執権職であった幡多惣左衛門正家が68歳の時、出家し了圓と号し、この地に福成寺を再建した。了圓の後、長尾元高の第9子、高乗をその嗣とし、乗高と号し、当山第二世となった。以後、法灯連綿今日迄及ぶ・・・とある。 諸堂宇も整い大いに盛んであったが、天正の兵火で焼失。以後再建され、天正14年には、羽柴秀吉から京都大仏殿供養に命ぜられている。

 

 今日は風がやや強くて肌寒くて、早々に撤収した。

 

 その帰りに、高松市香川町川東にある「こんぴらや」というプチセルフのお店に寄った。

 

 今日は珍しく、温玉ぶっかけ小の温いんにカボチャの天ぷらを載せてみた。あっさりとした味がさわやかだった。

 

 午後からはまたしてもデスクワーク三昧。山頭火句碑集の些細な修正とか、HPの行事予定の修正更新とか・・・。

 

 今日の掲示板はこれ。「よく自分に問うてください。一度きりの人生をどのようにいきていくのかを・・・・」というもので、今日、お邪魔した「福成寺」さんの入り口にあったもの。「よく自分に問うてください。一度きりの人生を、どのように生きるかを。善人になるより、悪人と気づくことのほうが難しい。」というのが元の言葉らしい。山本有三さんの言葉に「たった一人しかない自分を たった一度しかない一生を ほんとうに生かさなかったら 人間に生まれてきた甲斐がないじゃないか」とある。私たちは一度きりの人生をどう生きるかを、よく自分に問うてみなければならない。人生は何が起こるかわからないもの。時にまさかということも起こってくる。いつ人生が終わるかもわからないのだから、まさに、いまが大事なのである。

 

じゃぁ、また、明日。会えるといいね。


たんぽぽに 世のあれこれを 聞いて見る

2015年02月22日 | たまには旅など・・。

 善通寺市地方は四国付近にある前線の影響で雲が広がり、雨が降ったり止んだりした。気温は6度から13度、湿度は83%から66%、風は2mから3mの北北東の風が少しばかり。明日の23日は、大陸の高気圧に緩やかに覆われるらしいが、上空の気圧の谷の影響で雲が広がりやすいらしい。

 

 今日は、さぬき市の観光ボランティア団体、「おへんろつかさの会」の定期バス研修の日。朝、7時にさぬき市役所を出発して善通寺に向かった。

 

 今日は、四国霊場72番札所の出釈迦寺からの現地研修からである。この人たちは雨具を着ての歩き遍路で、この奥の院の禅定寺まで行くらしい。中高年の団体だが元気あるなぁと見送った。

 

 そこから下りてきて73番曼荼羅寺経由で74番甲山寺。

 

 この研修の講師は、おへんろつかさの会の専任講師の「櫻谷大先達」さん。この方は、引き出しが多いというか、記憶容量がでかいというか、とにかく、いろんなことを機関銃のように発射する。その言葉の乱打に圧倒されっぱなし。

 

 午前中は75番、総本山善通寺で研修はおしまい。「あんたら、きっきょん??」というのが口癖の大先達。私らは確かに確かに聞いているのだが、聞いても聞いても忘れてしまう。「吉祥寺で言うたやろ・・・」と言われても、何ヶ月も前のことなど覚えてはいない。吉祥寺がどこの、どんなお寺だったのかも記憶には残っていない。昨日の夕食に何を食べたかも記憶にない私たちなのだ。

 

 今日のお昼はここ。善通寺市与北町にある。「四国館」という変わったお店。お店の前にはこうしたたくさんの水車が回っているし、お店に入れば「古物商」の看板とともに骨董品や古い農機具などが展示されている。

 

 今日のお昼は、こうした「釜揚げ定食」。左のおかまの中はおうどんが温まっている。真ん中下のおわんに、生玉子、薬味を入れてかき混ぜて・・・。ご飯はキノコ入りご飯とおかずがそれぞれに。

 

 このお出汁にうどんをつけて食べる。

 

 とにかく、讃岐の人はうどん大好きで、うどんは別腹だと言うくらい。

 

 お昼からは、76番金蔵寺から。明治時代に丸亀師団の乃木希典師団長が宿舎としていたお寺である。

 

 77番道隆寺は仲多度郡多度津町にある。こうした観音さんが千体とも二千体ともあるのだという。相変わらず、櫻谷講師の説明は続くが、すっかりと、おつむは飽和状態。

 

 78番郷照寺は、四国霊場唯一の「時宗」のお寺だという。本堂や大師堂前の絵天井は立体的な絵天井になっている。

 

 79番天皇寺は坂出市にある。ここは、この白峰宮と天皇寺の境内が交差しているという変わったお寺。この右下のおじさん、字をかく訳でもなく写生するでもなく、雨の中、座ったり、立ったりを繰り返している。いわゆる「職業遍路」。いくらかの喜捨をお願いして座っているらしい。

  

 今日の最後は、80番国分寺。小雨の降る中での研修になった。メインは、このお寺の後ろにある「国分寺公園」。聖武天皇の頃に全国に作られた「国分寺」の遺跡を発掘し、再現した広大な敷地の僧坊跡や築地塀などの説明を受けた。当時の国営寺院のすごさ・・というものを肌で感じ取った。

 

 今日の掲示板はこれ。善通寺さんの本堂前にあった言葉で、「一つのことばで気が晴れる 一つのことばでありがとう」というもの。一つの言葉で泣かされて、一つの言葉で大笑い。一つの言葉で喧嘩して、一つの言葉で仲直り。一つの言葉で気がめいり、一つの言葉で気が晴れる。一つの言葉で愚痴をいい、一つの言葉でありがとうという、清水 英雄さんの言葉かららしい。一つの言葉はそれぞれに、一つの心をもっている。

 

じゃぁ、また、明日、会えるといいね。


生かされて 白梅の香に 安堵する

2015年02月21日 | ふるさと散歩

 さぬき市地方は高気圧に覆われて概ね晴れていたが、気圧の谷の影響で昼過ぎから雲が広がってきた。気温は0度から12度、湿度は77%から56%、風は1mから4mの南南西の風が少しばかり。明日の22日は、前線が四国付近を通過するため雲が広がり、昼前から雨が降りやすい見込みらしい。

 

 さて、昨日の続きで、今日は東かがわ市引田(ひけた)にある安戸池にやってきた。京都の藤原忠光の娘が小船で安戸浦へ漂着したが、 まもなく亡くなった。村人たちは与治山頂上の京に向いた位置に葬った。その後、ここに祠を建てて祀り、娘の生前の官位に ちなんで祠は清少宮といわれるようになった。そして、娘が安堵したことから「安堵浦」とされ、後に「安戸池」になったという。

 

 こんなカルタがあるようで、ここで初めてハマチの養殖が行われた。それを成功させたのが、野網和三郎であった。

http://www.pref.kagawa.jp/kocho/sanukino/2005/summer/9_10.htm

 

 この方が野網和三郎さんで、

 

 この安戸池堤防上には、このような銅像が建っている。この人、「和三郎」から「ワーサン」と呼ばれていた。だから、今でも「ワーサン」で通用する。

 

 この建物、土産物屋兼海釣り体験「ソルトレイクひけた安戸池」の受付窓口でもある「ワーサン」という建物。食堂兼喫茶室は「ワーサン亭」という。

http://www.saltlake-hiketa.co.jp/

 

 ここでも、オリーブハマチを食べさせてくれる。さすがに「ひけた鰤(ぶり)」は完売とのことだった。

 

 私が小学生だった昭和30年代には、こんな遊覧船が出て、海女さんが船の下から挨拶したりしていた。

 

 これはハマチにエサをやっているところ。もちろん有料でハマチを釣ることもできた。その観光客用の旅館や割烹もあって、ハマチ料理を堪能できた。

 

 それもいつしか飽きられて、閑散とした時期があった。この今も残る杭の上に、そうした旅館があって、安戸池を眺めながらお食事ができた。

 

 さて、その「ワーサン」のお墓探しだが、これは難航した。「ワーサンの墓か・・・。聞いたことがないのぉ・・」という返事ばかり。

 

 あちらこちらの墓地を探してみたが見つからない。「おい、おっさん。ここで、なにをしよんや」と、不審者に間違われたが、「ワーサンのお墓を探しよんやけんど・・」というと、「あ、ワーサンか・・・。そいうたら聞いたことがないのぉ・・・」と、一緒に探してくれたが見つからない。

 

 ワーサンの生家にも行ってみたけれど成果なし(笑)。ここは安戸池を見下ろす高台にある。

 

 昔は安戸池から、こんな山道を登って行くようになっていた。今は裏側から立派な車道が付いて舗装までされている。

 

 東かがわ市歴史民俗資料館にも行ってみたが、ここにもワーサンの資料はあまりなかった。

 

 ハマチは「出世魚」と呼ばれ、9Cm以下をモジャコ。15Cmをツバス、30-40Cmをハマチ、60Cmをメジロ、90Cmをブリと、それぞれ名前を変えるのだそうだ。

 

 今日の掲示板はこれ。「いちばん身近な人のおかげが見えないようでは幸せにはめぐりあえない」という東井義雄先生の言葉から。東井先生が二十五歳の時、ある児童の質問のおかげで、自分の力で生きているつもりだったが、生かされて生きていたことに気付かれたそうだ。これが東井先生の第二の誕生であるといわれている。これを機に、ものの見方が変わった先生は後年、「同年輩や若い後輩の先生方にずいぶん育ててもらった。」「人格、識見、実力ともに抜群な教頭先生に恵まれ、ゆるしてもらいカバーしてもらったおかげで(三つの学校の校長として)勤めることができた」と述べられている。また、いくつかの書物でも身近な人の恵みを語っておられる。

 

じゃぁ、また、明日、会えるといいね。


草萌えて 明日の理想を 詰め込んで

2015年02月20日 | ふるさと散歩

 さぬき市地方は冬型の気圧配置が緩み高気圧に覆われてきたため、晴れていたが、瀬戸内側では東部を中心に雲の広がっている所があった。気温は3度から9度、湿度は68%から52%、風は3mから4mの北西の風が少しばかり。今日は比較的温かいと感じた一日だった。明日の21日は、高気圧に覆われて晴れるけれど、気圧の谷の影響で夕方から次第に雲が広がる見込みらしい。

 

 寒い寒いと言いながら、それでも梅の花が咲き、櫻のつぼみも膨らんできて、春めいては来ているような気がするが、そう、すんなりと春になって行くのだろうか。

 

 図書館で借りてきた、「さぬき人ここにあり」という、小学生向けの本を眺めていたら、「向山周慶(さきやま・しゅうけい)」という人のお話があった。讃岐は米が取れないので砂糖造りを幕府や高松藩が考えて、この向山周慶に栽培・研究を命じたらしい。詳しいことは以下の記事を参照されたい。

http://www.h4.dion.ne.jp/~toso504/renkei/sikoku/Sikoku-furudera-kagawa23.htm

 

 そこで、この記事の「向良(こうら)神社」や向山周慶のお墓を訪ねることにした。この左の川が「湊川(みなとがわ)」で、目的地はこの川の向かい側の先。ふと、この枝を見ると・・・。

 

 ちらほらと、川津桜が咲き出している。まだまだ、数輪だけの開花だ。

 

 これが東かがわ市湊にある「向良神社」である。この大きな石碑は読めないので、以下の文章を掲載しておく。

 

 ともかく、四国巡礼のお遍路さんを助けた御礼に、薩摩の奄美大島から国禁を侵して甘藷の種茎(別説ではサトウキビの苗)を隠して持ち込んで、この地で栽培して砂糖の製造に成功したというお話である。

 

 で、この大きな無縫塔が「向山周慶」のお墓である。この頃は、サツマイモから砂糖を作っていたのか。今、東かがわ市で作られているのは「サトウキビ」から「和三盆」が作られているのだけれど。

 

 で、こちらが関良介のお墓である。彼もまた、周慶の後を追うようにしてこの地で亡くなった。

 

 この向山さんの生家は少し前までは残っていたが、今はこのような石碑が残るばかりである。

 

 サトウキビを絞ったものは「白下糖」という濃い茶色をしたもので、それを押し船や研ぎを三回繰り返して盆に取ることから「三盆糖」と呼ばれるようになったもの。こうした工程を経て、茶色から白い和三盆糖になってくる。その工程に周慶らは苦心したらしい。

 

 江戸時代中頃から、「讃岐三白」と言えば、「砂糖・塩・綿」だと言われ、讃岐の産業の中心だったということである。

 

 今日の掲示板はこれ。「心構えというのはどんなに磨いても毎日ゼロになる能力である。毎朝歯を磨くように、心構えも毎朝磨き直さねばならない」という田中真澄さんの言葉からである。朝起きると、当然のように顔を洗い、トイレに行き、着替えをして朝食を食べて歯磨きをする。それなのに、心を磨き直すという習慣はない。「かけがえのない人生だから、今日を精一杯生きてやる」という心がけも、一度、考えただけで、毎朝は考えない。最後に、二宮尊徳の言葉。「太陽の徳、広大なりといえども、芽を出さんとする念慮、育たんとする気力なきものは仕方なし」発憤カこそ人生をひらく源であることを忘れてはならない。

 

じゃぁ、また、明日、会えるといいね。


すぐそこに 梅の花あり 六地蔵

2015年02月19日 | 時にはぼぉっ~とする時

 さぬき市地方は冬型の気圧配置となっているため、山間部を中心に雲が広がり、雪や雨の降っている所があった。気温は4度から8度、湿度は83%から58%、風は3mから6mの北西の風が吹き荒れて冷たい一日になった。明日の20日は、高気圧に覆われて、概ね晴れる見込みらしい。

  

 さて、2月も大詰めが近づいて来た。私のホームページのあるプロバイダーでは、このホームページサービス「Page on」を2月28日でやめるという。最初は、Quolia というプロバイダーだったが、そこが廃止になり、ocnに移転したのだが、ここも追い出されてしまうことになった。ま、すでに、次の「Pikara」に移転は済ませてはあるのだが。

 

 ブログの「ブログ人」も廃止になり、ホームページも廃止になるのならばと、この、OCNから、全てのサービスを廃止することにした。当然、メール・サービスも廃止になる。これまでの、「@hop.ocn.ne.jp」のメルアドは使えなくなる。今後は、「@md.pikara.ne.jp」になる。頭の「h-・・・・・・・・」という部分は同じだから、@以下を書き換えて欲しい。

 

 だからと言って、生活や暮らし向きが変わる訳ではないのでご安心あれ。ものはついでと言うか、月日の流れは速いなぁと言うことで、4月分、5月分の行事予定を更新した。もちろん、ピカラの方のHPである。OCNの方の更新は行わないことにしている。

 

 さて、昨日に製本ができた山頭火の句碑集であるが、注文を頂いた方に郵送することにした。本来の発行日は12月20日となっているが、それまでのご用がちらほらと入り出してきた。

 

 「できることからコツコツと・・・」 それだし、明日の保証がないという私のこの身体だし。今日、できることは、今日にやっておきたいものだし・・と。

 

 今日は珍しく奥方がお休みだというので、外出禁止になった。そこで、図書館で借りてきた本の印象に残った部分をスキャナーで読み込んで電子ファイルに変換しておくことにした。

 

 本によるとすんなりと読み込むのだけれど、ルビや傍線などがあると、文書がグチャグチャになってしまって、補正や修正に時間がかかってしまう。だから、本を丸ごと一冊・・・などという芸当はできない。最終的には手作業で修正していくしかない。

 

 ただ、こうして苦労して読み込んだファイルも、どこに保管したかが分からなくなって、結局の薬局、用事が終わってから見つかって、究極はゴミ箱行きになってしまうことが多い。

 

 今日のお昼は木村食堂の「カレーうどん」になった。ま、寒い時期だから出かけるのが面倒だから、ありがたいといただいた。

 

 午後からは、山頭火の句碑集に関する資料の整理に入った。一つずつ片付けておきたいと思ったからだ。山頭火の句碑も、どんどんと増えて行くに違いないし、関連する歌碑なども増えるに違いない。それをいつまでも追いかけていたのでは片付かない。あるところで区切りを付けて、今回は2月20日でひとまず完結ということにしておきたいと考えたからである。

 

 振り返ってみれば、今日が母の葬儀から丸二年・・・。あっという間の二年間であった。その間に、あの人も、この人もお浄土にお帰りになった。人の命のはかなさ、もろさなどを感じながら、冬の寒さを耐えねば・・・と思ったことだった。

 

 今日の掲示板はこれ。「わたしは傷を持っている でも その傷のところから あなたのやさしさがしみてくる」という星野富弘さんの言葉から。クリスチャン詩人の星野富弘さんは次のような詩を書いている。「わたしは傷を持っている。でも、その傷のところから あなたのやさしさがしみてくる」と。星野さんは首から下が完全にマヒしており、重い障がいを背負って生きている。しかし、その障がいという重い傷が、多くの人々の優しさに触れる源泉になっている。人はいつの日にかこの世を去って帰って行く。重い病気か事故か災害かあるいは老衰などをとおして帰っていくのである。永遠に生き続けたい人もいるかも知れないけれど、人間は日々「死を背負って」生きている。だとすれば、「傷」はまた与えられた「恵み」と受け取ることも出来るかも知れない。

 

じゃぁ、また、明日、会えるといいね。


思い出は 枯れ葉のように 吹き抜ける

2015年02月18日 | 時には日々是日

 さぬき市地方は冬型の気圧配置が強まるため、雲が広がりやすく、夜は雨や雪の降る所があるらしい。気温は5度から8度、湿度は74%から55%、風は2mから7mの西北西の風が強く冷たい一日になった。明日の19日は、冬型の気圧配置が続くため、雲が広がりやすく、朝にかけて雨や雪の降る所がある見込みらしい。

  

 こんな冷たい日にはデスクワークに徹しようと、山頭火の句碑集の製本をすることにした。3人の方から注文があったので、予備の2冊を考えて5部の印刷になった。

 

 ところが、こうした時になると、「トナーが少なくなりました」というエラーメッセージが。寒いから・・・ということで、それでも印刷を続けていたら、とうとう、印刷不能になって「トナーがなくなりました」という冷たいメッセージが。

 

 奥方の友人が、この「池戸(いけのべ)公民館で、「さぬき里山会 写真展」に出展しているので見に行かないか・・・と言うので、木田郡三木町池戸にある、この会場にやってきた。ここは、大正8年に建てられた、「木田郡役所跡」である。

 

 他人さまの写真を見ることも大切だなぁということで、写真展を見て、その友達の手芸作品なんぞも見せていただいた。

 

 この「七人のこびと」とか木彫の作品とかを鑑賞した。

 

 明治32年4月郡制の改正により三木・山田両郡が合併し、新たに木田郡が誕生した。同月池戸(いけのべ)の西徳寺を仮庁舎として木田郡役所開庁式が行われた。現在、池戸公民館として使用されているこの建物は、大正8年、旧木田郡役所として建設されたもの。屋根にドーマをもつなど洋風建築で県下でも貴重な建物といえるもので、大正12年の郡制廃止後も建物は残され、県蚕業試験場、県農業試験場三木分場などを経て、昭和58年に池戸公民館として開館した。近年、郷土資料展示室として四つのコーナーで土器や壺、古銭、農機具などが展示されている。

 

 これが、ドーマーと呼ばれるもので、室内の採光と外観のアクセントとして設けられる洋風住宅の屋根に突き出した三角屋根の窓のこと。

 

 私はこの「便所」が、なんだかなつかしい感じでいいなぁと思った。

 

 さてさて、今日の話題はそちらではない。隣町にある大型量販店によって、プリンター用のトナーの購入である。

 

 これが、そのトナー・カートリッジである。それと・・・。

 

 東かがわ市にある文具店の「文遊館」に行って、製本用のステップルと製本テープを補充した。

 

 こうして資材が揃ったら、印刷をどんどんとやって、製本して、本ができあがる。

 

 さらに三冊も増刷した。この日曜日に「おへんろつかさの会」のバス・ツアーがあるので、注文を受けた人に納品する予定。

 

 今日は母、さっちゃんの命日である。一昨年の葬儀の時には大雪が降ったし、昨年の法要の時にも雪が降ったが、今年はまだ、積もるような雪が降っていないなぁと思うばかり。あの雪はなんだったんだろうかと。

 

 今日の掲示板はこれ。「なんでもないこと どうでもいいこと 得にならないこと それを大切にする時 人は美しくなる」というもの。私の研究や調査は、それこそ「なんでもないこと」、「どうでもいいこと」「得にならないこと」ばかり・・・。レキの墓研究でも、咸臨丸乗組員のお墓探しでも、二十四輩さん研究でも、それで誰かが幸せになることもないし、生活が豊かになるわけでもない。そんな「どうでもいいこと」「得にならないこと」を大切にしてはいるのだけれど、それで「こころが美しくなる」訳でもなく、「生活や身なりが美しくなる」訳でもないのだけれど。

 

じゃぁ、また、明日、会えるといいね。


やぶ椿 明日の一歩を 考える

2015年02月17日 | ふるさと散歩

 さぬき市地方は気圧の谷や寒気の影響で雲が広がりやすく、夜は雨の降る所があるらしい。気温は6度から12度、湿度は88%から63%、風は1mから4mの北北東の風が一時強かった。明日の18日は、気圧の谷や寒気の影響で雲が広がりやすく、朝まで雨の降る所がある見込みなのだとか。

  

 どこの資料館とか図書館などは月曜日が休館日。だから、火曜日は図書館に来ることが多い。で、貸出期間は2週間になっている。だから、1週間後に返しておく方が安心だから、1週間ごとの火曜日には図書館に来るようになっている。

 

 先週に借りた、お遍路研究の本を返却して、次の研究のネタ探しもしなくては・・・とやってきたのだけれど。

 

 なかなかに次の方向が決められない。そこで、とりあえず、かがわの偉人、おもしろ人物伝なんぞの本を6冊、借りて来た。もちろん、讃岐の庄松(しょうま)さんのお話も入っている。庄松さん没後150年も近いのだから、庄松さんのお話もいいかなぁとも考えてみたり。

 

 で、ふらりとやってきたのは、高松市仏生山町にある「仏生山法然寺」さん。ここの門前にある「竜雲うどん」をお目当てにきたのだが、ここは火曜日が定休日だというのでがっくり。

 

 本堂にお参りして三仏堂(涅槃堂)にもお参りして。今日はおまいりの人もいなくて、境内で写生をしているご夫婦がいただけ。最近の絵描きさんはイーゼルを使わずに三脚を立てて絵を書いている。そういうものが流行しているんだろうか。

 

 ということで、うどん屋さんを探して走り回ったあげく、やっぱり、お馴染みの「溜(たまり)うどん」に落ち着いた。さぬき市造田宮西という地区にあるプチセルフのお店である。

 

 で、今日のお昼は「肉うどんの小」になった。360円だった。今日は時間の経ったうどん玉のサービスがあったのでいただいてきた。

 

 別に古墳に興味があるわけではないが、こういう看板があったので行ってみた。

 

 これが、「大井七つ塚古墳群」である。雨滝山山塊の西に延びた最も低い丘陵上にある大川町と寒川町との境界上に、五世紀後半から六世紀初頭の古式群集墳と考えられる大小の円墳が連なっている。東から一号墳と呼ばれ、西の端が五号墳となり、その西に、今はないが、四基の古墳が所在していたといわれる。向かいの南側丘陵にも一基の円墳が現存している。4号墳は、昭和三十九年の調査で、竪穴式石室から甲冑、鉄刀、鉄鏃など多くの武器類が出土している。五号墳からも、昭和十年頃に、単甲、鉄刀、銅鏡、玉類が出土している。(旧大川町HPから)

 

 この竪穴式住居も、この古墳を所有している田口さんという方が自分で作ったものなのだという。しかし、こんな大きな円墳を幾つも持っている方・・・というのはすごい。草刈りとかの手入れも自分でやるんだろうか。この住居の中には、本当に火を焚く囲炉裏まで作ってある。

 

 うちの町には、こんな前方後円墳があって、「富田茶臼山古墳」と言い、香川県さぬき市にある前方後円墳で、国の史跡に指定されている。四国地方最大の規模で、古墳時代中期の築造と推定される。規模は、全長約139メートル、後円部直径約91メートル、前方部幅約77メートル、後円部高さ約15.7メートル、前方部高さ約11.8メートル。先の七つ塚古墳群は、この古墳よりもずっと後の円墳である。

 

 午後からも蕗の薹探しをやったり、山頭火の句碑集の最後の微調整、ページナンバーの確認とか後書き、前書きの確認作業なんぞをやっていた。

 

 今日の掲示板はこれ。「こんなはずではなかったと言って終わるか これでよかったと言える人生にするか それが仏法」というもの。人は死に直面して、はじめて過去の自分の無意味な生き方に気がつくのである。それまでの自分は、家族を守るため、お金を貯めるために生きてきて、「幸せ」という夢想を埋めるためのものでしかなかった。自分で生きていなかったということに気がつくのである。「こんなはずではなかった・・・」その思いは、「自分だけは大丈夫」だと思い込んでいるために起こるのではないのか。そんな私たちに対して、すべての物事は必ず移り変わるということを、仏教では「無常」と教えてくれているのである。

 

じゃぁ、また、明日、会えるといいね。


薄氷 踏む毎日の あるばかり

2015年02月16日 | 今日はすっかりと俳句の世界

 さぬき市地方は気圧の谷や湿った空気の影響で雲が広がり、西部を中心に弱い雨が降っていた。気温は2度から8度、湿度は78%から52%、風は1mから3mの北西の風が少しばかり。明日の17日は、低気圧の影響で明け方まで雨が降る見込みらしい。その後は、寒気の影響で雲が広がるという。

 

 相変わらず、懲りもせず、飽きもせず、諦めもせずに石碑探しの毎日。どうしても見つからない句碑が2基、資料にはないが意味不明の歌碑が2基ある。それを解明すべく、今日も宇佐神社にやってきた。

 

 左手には懐中電灯と巻き尺、右手には資料集と赤ボールペン。まるで建築関係者みたいないでたちである。

 

 今日は暖かくなりそうだなぁと思ったが、案外と杜(もり)の宮は底冷えがするし、日当たりがない。永くは居られないので確認だけして境内を出た。新しい発見はなかった。

 

 こういう植木の中や木の陰などにあると、なかなかに見つけられないというものだ。

 

 それでは・・・ということで、またしても長尾寺にやってきた。さすがに寒いからか、お遍路さんの数は少なく、地元の方らしいおまいりの方が数人いただけであった。ここに、前住職の村岡楠蔭師の句が2基あるらしいのだが、あと一つが見つからない。今日も境内をくまなく探したのだが見つからない・・・。

 

 この句が、その二つの内の一つ。「一生の只あわただし年の暮」という句である。この方も相当に俳句好きのお方だったらしい。

 

  収穫のないままに戻って来て、編集されたものの再校正作業。

 

 これまで撮った写真を何度も何度も眺めて、読める句碑や歌碑を探し出すのだが、あと数基になって全くのお手上げ状態。拓本を取れば少しは解明できるかも知れないのだが、拓本セットは島の家に置いたきり。島のお墓探しに使ったまんま・・・。

 

  それでも昨夜から今日にかけて4基の句碑を解読した。もうあと数基が残るばかり。

 

 これで、山頭火78基、その他の句碑歌碑が71基、合計149基になったわけだ。150越は間もなくだ。

 

 明日は天気が悪そうだから、香川県立図書館に行って来ようと思っている。借りている本を返却するためだが、次の研究のネタ探しもしなければ・・ということで。

 

 今日の掲示板はこれ。「老病死は自然である その老病死に向き合わず逃げ回っている我々の姿を無明という」というもの。いつもの赤松先生のお寺にあったもの。生まれたいのちは、その瞬間から「老病死」を抱いて生まれている。それが全てのいのちに共通する自然である。その事実に向き合わずに、自分だけは死にたくない、老いたくない、病になりたくない・・と、逃げ回っている姿を「無明」というのである。

 

じゃぁ、また、明日、会えるといいね。


ふきのとう 寝ぼけまなこに 沁みる色

2015年02月15日 | 自然ありのままに

 さぬき市地方は高気圧に覆われて概ね晴れていたが、気圧の谷の影響で夕方からは雲が広がる見込みらしい。気温は0度から13度、湿度は76%から51%、風は1mから5mの西北西の風が少し。明日の16日は、気圧の谷や湿った空気の影響で雲が広がり、夜には雨の降る所があるらしい。

 

 今日は暖かくなって春めく・・・というのだが、奥方が買い物のお手伝いをして欲しいというので、運転手兼の荷物運びをすることになった。

 

 野菜作り用の苦土石灰やら牛糞とか肥料とか・・・灯油とかを買い込んで運んで。

 

 食材やらなんやらと買い物もして、郵便局で荷物を受け取って、お金を引き出して、なんたらかんたらと慌ただしい。

 

 奥方の用事が終われば、これからは私の春探しのドライブ。

 

 春といえばこれ。これを見ないと春らしくない。

 

 今年は遅いなぁと思っていたが、あるところには出ているもので、すっかりと伸びて、こんなになっている。

 

 今年初めての蕗の薹だが、こんなにもあった。これが今夜の天ぷらになる。

 

 午後からは先週の続きの「さぬき市内の句碑・歌碑調査」の編集作業。およそ、八割くらいの進捗だろうか。ゴールは、もう、目前だ。

 

 句碑の漏れがないか、重複しているものはないか、写真が間違っていないかなどを確認しながら最終的な編集作業を行っていく。

 

 それを試験印刷して、最終的なチェックを行う。これらを、先に作成した「山頭火の句碑集」の後半部に挿入する予定。

 

 午後からは雲が出てきて風も冷たくなってきた。これからが冬本番になってくるらしい。それに、明日は雨になる天気予報だった。

 

 今日は涅槃会(ねはんえ)、涅槃講や涅槃忌とも称し、陰暦2月15日、釈迦の入滅(にゅうめつ)の日に、日本や中国などで勤修される、釈迦の遺徳追慕と報恩のための法要である。 現在では、3月15日に行なわれているところもある。 涅槃とは、ニルヴァーナの訳語であり、迷妄のなくなった心の境地を指す言葉であったが、この場合には、釈迦が亡くなったという意味で用いられている。

 

 今日の掲示板はこれ。「眼を開けば どこにでも教えはある」というもの。同じく道を求めても、先にさとる者もあれば、後にさとる者もある。だから他人が道を得たのを見て、自分がまだ道を得ていないことを悲しむには及ばない。眼を開けば、どこにでも教えはある。同様に、さとりへの機縁も、どこにでも現われている。香をたいて香気の流れたときに、その香気の、あるのでもなく、ないのでもなく、行くのでもなく、来るのでもないさまを知って、さとりに入った人もある。道を歩いて足に棘を立て、疼きの中から、疼きを覚えるのは、もともと定まった心があるのではなく、縁に触れていろいろの心となるのであって、一つの心も、乱せば醜い煩悩となり、おさめれば美しいさとりとなることを知って、さとりに入った人もある。「心を平らにせよ。心が平らになれば、世界の大地もみなことごとく平らになる。」という教えを聞いて、この世の差別は心の見方によるものであると考えて、さとりに入った人もある。まことにさとりの縁には限りがない。(仏教聖典・夜の部より)

 

じゃぁ、また、明日、会えるといいね。


紅梅が 精一杯に 手を伸ばす

2015年02月14日 | ひなまつり

 さぬき市地方は、高気圧に覆われて晴れていた。気温は1度から11度、湿度は63%から48%、風は3mから4mの西の風が少しばかり。明日の15日は、高気圧に覆われて晴れるのだが、気圧の谷や湿った空気の影響で、夕方からは雲が広がる見込みらしい。 

  

 「今日は天気がいいから、お土産を配ってきてよ・・・」と奥方が言うので、行くことにした。行かないと、「すぐに出かけたくなるくせに・・・」とかなんとか言われるのがオチだ。

 

 弟二人に、京都のお漬け物の「京都限定版」のお土産。これは日持ちしないので、早くに届けないといけないとかで・・・。そういうことで、木田郡三木町経由、丸亀市から高松市まで行って帰ったら、お昼を過ぎてしまっていた。

 

 で、どこかで何かを食べなければ・・と、東かがわ市の国道11号線を走っていたら・・・

 

 あの、「権平(ごんぺい)うどん」の跡地に、新しいうどん屋さんができている。見れば、「マルタツうどん」の文字が・・・。でも、通り過ぎてしまったので、次回にでも・・。その後、「宮川うどん」の前を通ると・・・閉まっている。土曜日の13時前だというのに・・・。あれれ・・・。

 

 旧の引田小学校のグラウンド跡地は、「井筒屋敷の駐車場」になっていた。そこで、ここに車を停めて、歩いて井筒屋敷に行ってみた。

 

 井筒屋敷というのは、江戸時代から醤油や酒を造っていた商家のお屋敷で、旧佐野邸であった。平成九年頃からは、旧井筒屋に住む人はなく空家となり、建物の傷みも目だって、存在すら危ぶまれる状況となっていた。「貴重な財産をなんとかしたい」という住民からの請願により、平成十三年末に、旧引田町は本宅・倉庫部分の家屋敷を取得することになった。市では旧井筒屋を歴史的な古い町並み景観を活かした観光交流の拠点とし、地域経済の活性化及び地域文化の継承を図ることを目的に再生・創造の改修事業を行ったのだという。

 

 今は、2月27日から3月3日までの「引田ひなまつり」の前哨戦として、母屋内部で、雛人形展をやっている。

 

 これが、この町で飾られていた「引田飾り」というもの。女の子の初めての誕生日の「初節句」には、一番広い部屋に、こうした雛飾りを飾ることが流行した。戦後の昭和40年代から60年代頃までだっただろうか。だんだんと派手になりすぎたので、やまってしまたと聞いたことがある。

 

 それを平成14年だかに、保存されている古いお雛さんを町中に飾ろうということで始まった「引田ひなまつり」も、今年で13回目になるという。

 

 こうした江戸時代のお雛さんも展示されているし、百歳雛という珍しいものもある。

 

 雛道具だって、こんなに大きなかまどまであるのだから貴重な物。

 

 今日も、どこかのテレビ局が取材に来ていたので、私は早々に引き上げた。

 

 いつもの赤松先生のお寺にあった掲示板はこれ。「耐えてこそ 蕾ふくらむ 梅の花」というもの。「寒中でも色あせず花開く」は、少し前の朝ドラ、「梅ちゃん先生」の梅子の名前の由来であったが、梅の花は、辛い時期に耐えて幸せを迎える象徴なのでもあるらしい。しかし、この言葉、人生の応援歌でもあるような気がする。耐え忍ぶ時期が、その後の実りを生む。そんな香りのすることばであった。

 

じゃぁ、また、明日、会えるといいね。


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