まほろば自然博物館

つれづれに、瀬戸のまほろばから自然の様子や民俗・歴史や見聞きしたおはなしをしたいと思います。

いわし雲 魚嫌いの 峰がある

2015年10月25日 | 今日もしっかりとお勉強・・。

 さぬき市地方は高気圧に覆われて晴れていた。気温は16度から22度、湿度は72%から44%、風は2mから5mの北北西の風が少しばかり。明日の26日は、高気圧に覆われて晴れる見込みらしい。

 

 今日は秋晴れのいい天気になったが、少しばかり休養と言うことでわが家でのんびりとしていた。ところが、貧乏性というのか、少しもじっとしていられない性分だからあれこれと手仕事を少しばかり・・・。

 

 県立図書館で借りてきたこの本を少しばかり読み込んでいたらば・・・。

 

 2005年のアンケート調査の結果であるが、四国遍路の宗派別の数字である。ここで「真宗」が二位を占めていることに着目した。

 

 これもその頃のものだが、同じような並びになっている。

 

 これは「西国33観音霊場」の巡拝者数だが、ここでは「真宗」がトップにいる。数字だけを眺めていると、そんなにも気にはならないのだが、こうしてグラフ化して並べてみると、意外な姿が見えてくる。

 

 これは、四国霊場会公認先達さんへのアンケート調査からのデータであるが、ここでも「真宗」の方がお先達さんになっていて、その数が二割にも達している。

 

 この方は「おへんろつかさの会」の専属大先達の櫻谷さんで、この方の指導で、先達を目指している人が何人かいるが、その中のお二人も真宗の方だそうだ。ま、ご趣味といえばご趣味かもしれないのだが・・・。ちなみに全国の宗派別の信者さんの数をしらべてみると・・・。

 

 やはり、同じような姿が見えてくる。ということは、四国のお遍路さんに見る真宗の門徒さんの数は全国の仏教者の姿をそのまんま投影しているということになりそうだ。

 

 そういうことで、こういう白衣も売っているのだが、こういう白衣や笈摺(おいずる)を着ているお遍路さんは見かけたことがない。「白衣」は袖のあるもの。「笈摺」は袖無しのもの。

 

 これは集印用の白衣で、

 

 こういう、納経用のお軸まで用意されているのは納得できる。ただ、納経帳は霊場会指定のようで真宗用は見かけたことがない。

 

 ということで、午後からは宿題となっていた、「古川阪次郎さんと山口嘉次郎さん」について資料を見つけ出してきて整理をした。11月7日の「歴史研究会」用の講演用資料も整理できた。島の文化祭「ふれ愛まつり」の準備もできたし・・・。あとは11月を待つばかり。

 

 今日の掲示板はこれ。「生きていれば立ち止まることもある そんなときは進みすぎたと思えばいい」という植西聰さんの言葉から。植西聰(うえにし あきら、1947年-)は、東京都出身の日本の著述家、産業カウンセラー、心理カウンセラー。学習院大学卒業後、資生堂に就職。退職後、心理学・東洋思想・ニューソートなどに基づいた人生論の研究に従事する。1986年、研究成果を体系化した「成心学」理論を確立した。1995年、「産業カウンセラー」(労働大臣認定)を取得する。著書多数。

 

じゃぁ、また、明日、会えたらいいね。


秋の雲 手持ちぶさたの 昼下がり

2015年10月13日 | 今日もしっかりとお勉強・・。

 さぬき市地方は高気圧に覆われて概ね晴れていた。気温は14度から21度、湿度は71%から47%、風は1mから4mの西の風が少しばかり。明日の14日は、引き続き高気圧に覆われて晴れる見込みらしい。

 

 今朝の朝食はこんなもの。丸い物はミニいちじく。で、火曜日はいつものルーティン・ワーク。

 

 さぬき市前山地区にある「おへんろ交流サロン」である。今日も数人の歩き遍路の方が休憩されていた。歩き遍路には歩きやすい季節になったようで、団らんする会話の調子も元気で弾んでいた。

 

 この三連休中は、10日の日にはここで、「おへんろつかさ養成講座三回目」が行われ、さぬき市内の、仏像の見方研修会が行われ、香川県立ミュージアム学芸員の三好賢子先生の講義を受けた。また、11日は有志たちによって、小豆島霊場巡拝会が行われ、昨日の12日は高松短大のお接待が行われ、お遍路大使3万人突破があった。そして、今日は恒例の「俵札・納め札調査」の日と、四連チャンの会員さんもいたようである。

 

 私たちの作業は分類する係、ファイルする係、読み取り解析する係などに別れて作業する。根気の要る作業を、それでも雑談を交えて楽しくやっている。

 

 私は、なぜ、こんなことを始めたのか、これをどうするのか・・・と言った詳しいことは知らない。ただ、パソコンが堪能な方を・・・というのでやってきて、収集されたデータを黙々とパソコンに入力しているだけ。

 

 今日は相棒の中島先生がお休みしたので、二台のノートPCを操作して、右のPCで画像を開いて読み取り、左のPCのエクセルシートにデータを投入していく作業を繰り返していた。案外と簡単なようだが、数が多いと首筋が痛くなってくる。こういうことは現役の頃はザラで、多くの同僚は三台のPCを操作するのが当たり前だったが、老化が進んだのか、ちと、しんどい作業になってきた。

 

 でも、「慣れ」というのはすごいもので、明治時代の人が書いた筆文字が読めるようになってきた。ま、これらの納め札では、住所と名前と年代が主な物だから、前後の関係で読めるようにはなるものらしい。

 

 ということで、今日は一人だから、二時間半で、150件のデータ投入しかできなかったが、ま、ノルマがあるわけでもないので多くても少なくてもたいしたことではない。

 

 で、11時半から12時までは反省会というか意見交換会というか・・・。お茶を飲んでお菓子を食べての情報交換会。私は幾つかの宿題を頂いて、「おへんろつかさの会」のホームページの更新を依頼された。

 

 これが、11月中旬に行われる「彫像会」のパンフレットである。京都の仏師さんをお招きして、「わらべ地蔵」というお地蔵さんを彫る体験講座である。昨年に、私もこれを体験したが、思うようには彫れないものだ。やはり、センスというものが必要らしい。「鉛筆を削れる方ならば誰でもOK」とはいうものの、なんでもいいならば彫れるけれど、やはり、お地蔵さんともなれば、そうはいかない。

 

 で、こういうスケジュール表ほかを修正して更新をかけた。

 

 で、今月の24日には、四国霊場88番札所大窪寺での「臨地研修」ということで、第四回目の養成講座がある。今月の予定も粛々と進んでいるらしい。

 

 今日の掲示板はこれ。「教えてもらったものは忘れる。自分で盗んだものは忘れない」という小野二郎さんの言葉から。小野さんは7歳で地元の料理店に奉公に出た。その後、東京で修業。昭和26年(1951)に鮨職人となる。昭和40年(1965)に独立して、銀座の現在地にすきやばし次郎を開店した。 70歳で心筋梗塞を患って以降、禁煙している。手の保護のため、外出時は必ず手袋をはめているそうだ。寿司職人に限らず、サラリーマンでも農家でも主婦でもおなじこと。教えてもらったことはすぐに忘れる。学校で習ったことも忘れてしまう。でも、自分が苦労して体験して身につけたものは忘れない。

 

じゃぁ、また、明日、会えたらいいね。


盆の墓 大きな仕事を 残しつつ

2015年08月12日 | 今日もしっかりとお勉強・・。

 さぬき市地方は対馬海峡付近にある前線を伴った低気圧の影響で雲が広がり、雨が降っていた。今日の香川県は、低気圧や前線の影響で雲が広がり、雨が降りやすい天候になった。気温は24度から29度、湿度は81%から88%、風は2mから1mの南南西の風が少しばかり。明日の13日は、引き続き低気圧や前線の影響で雲が広がり、朝を中心に雨が降る見込みらしい。

 

 朝の涼しい間にお墓の掃除をしてきた。でも、どこからか人間様の臭いをかぎつけて、アブやブヨが攻撃してくるので早々に作業を切り上げた。どうにも、こういう虫たちには弱いのだ。

 

 来月末にも、東かがわ市で講演会があるので、その取材を兼ねて、徳島県板野郡上板町にある「岡田製糖所」にやってきた。言い伝えでは旅の修行僧が立ち寄ったとき、九州において同じような土質で砂糖黍が栽培されていた事を土地の者に伝え、それを知った丸山徳弥(後年、丸山姓をもらう)と言う若者が単身日向の国に赴き、砂糖黍の苗と製法を修得して帰って来て、この地に砂糖黍栽培の礎を築いたと言われている。

 

 だから、讃岐の和三盆糖と、この阿波和三盆糖とは、全く別の発端から始まり、全く異なった歴史を持っていて、全く関連のない和三盆糖であることがわかる。ここは、岡田製糖所の資料館である。

 

 当時作られていたのは白下糖であり、これだと簡単な設備で製造できた。やがて白下糖を精製して白い砂糖を作り出す技術があみ出され、和三盆糖の製造が始まることとなった。世界にも例をみない、水で研ぐという和三盆糖精製の方法は、どのようにして発見されたかは良くわかっていない。「昔、樽に入れた白下糖を運ぶおり、過って川に落としたものを引き上げたところ、上部が水で洗われて白くなっていた。」と言う話も有るのだが、物語としておくべきかも知れない。石の重石を架けて、てこの原理で糖蜜を絞り出す「押し舟」と言う方法は、明らかに当時の酒屋の糟絞りを流用したものと思われる。

 

 ここには、明治から大正、昭和までのさまざまな機械類が展示されている。省力化、生産性の向上のために、いろいろと工夫した様子が見て取れる。

 

 すぐ近くにあった、「上板町立歴史民俗資料館」にも寄ってみた。ここは210円の入館料が必要だった。

 

 町立の資料館ということで、町内外の雑多な資料が所狭しと並べられている。ここは、男性職員が直々に案内をしてくれて説明までしてくれた。この一番奥に、砂糖に関する資料が展示されていた。

 

 これがサトウキビを絞る「締め機」であるが、讃岐の物とは石材が違うが、構造や洋式はまるきり同じもの。道具もほぼ同じものが使われていたが、讃岐との交流なんぞは微塵もなかった。

 

 これらの野道具の多さには驚いた。とにかく、なんでもかんでも投げ込んである・・・という感じ。

 

 新しいお客さんがやってきたので、交代して私は資料館を出た。そして、今度は大坂峠を越えて香川県東かがわ市に戻って来て、「東かがわ市歴史民俗資料館」を訪ねた。

 

 ここにも若干の製糖器具が保管されていたが、民具や漁具の方が目立っていた。

 

 これで見ると、讃岐の「白砂糖」がダントツであることがわかる。薩摩の特産品であった砂糖は「黒砂糖」だったのか・・・。そして、阿波の和三盆糖も高順位につけている。

 

  この三連式の締め機は、久米通賢が改良したものだと言われている。

 

 この砂糖締め機(圧搾機)は、簡易締め小屋や、こうした「常小屋」に据え置かれていた。

 

 これは、平賀源内が紹介した中国の圧搾機である。最初はこれをコピーして使っていたらしい。で、圧搾胴は、木製であったらしい。これを、久米通賢が讃岐の庵治石に替えて効率化を図ったという。

 

 これは、大坂に送られた全国からの砂糖の流通量である。ここでもダントツで讃岐高松が多い。これで、讃岐三白のうちの、讃岐二白(砂糖・塩)が讃岐高松藩の特産品であったことが伺い知れる。あと一つは讃岐丸亀藩からの「綿」であった。

 

 今日の掲示板はこれ。「わたしでは役に立たぬとなげきつも お礼を申す大仕事あり」というもの。 私たちは親の愛情や苦労を当たり前のことと思ってばかりではないだろうか。一生懸命働く親の姿に目が向かず、お礼申すことを忘れ、自分のことばかりに目が向いていることが多々あるというもの。 親はそんな子供の姿に関係なく、子供のために一生懸命なのである。朝から晩まで働きづめの親であったのだ。お盆に入ってみて、あらためて生前の母を思い出してみると、私は母の休んでいる姿を見たとこがないように思う。私たち子供のために、朝早くから夜遅くまで一生懸命に働く母の姿ばかりが思い出て来る。一生懸命働いた母にありがとうとお礼を言ったことは一度もなかった。その、お礼を申すという大仕事が残っている・・・。

 

じゃぁ、また、明日、会えるといいね。


蝉ひとつ ベランダで啼く 空の青

2015年08月04日 | 今日もしっかりとお勉強・・。

 さぬき市地方は高気圧に覆われて晴れていた。気温は26度から34度、場所に依ったら35度を超えていたかも知れない。湿度は91%から67%、風は1mから2mの南南東の風が少しばかり。明日の5日は、引き続き高気圧に覆われて概ね晴れるらしいが、午後は大気の状態が不安定となるため、雨や雷雨となる所がある見込みなのだとか。

 

 朝の5時起きで、水中ポンプの修理をして、東の津田川からの水をポンプアップして、奥方は野菜の水やりに余念がない。

 

 恒例の「俵札調査」も一段落したので、八月いっぱいはお休みさせていただいて、夏休みの自由研究の調査活動。あそこがいいか、ここがいいか・・と考えていたが、その途中でトイレ休憩のために立ち寄ったところ・・・。

 

 あの有名な「肝試しポイント」の前だった。ま、昼間だから怖くはないので、その前で失礼して・・・。しかしのかかし、こんな立派な建物を残して教祖様はどこへ行ったんだろうか・・。もったいないが、私はここに住みたくはないので早々に失礼した。

 

 で、13位ぐらいの目的地の「坂出市塩業資料館」に寄ってみた。香川県は、かつて坂出を中心に広大な塩田が開発されてきた。塩は、砂糖・綿と並んで”讃岐三白”のひとつに数えられ、坂出は全国でも有数の塩生産地として、その名を知られるようになった。この資料館では古代からの、主な塩づくり方法を見ることができる。ごく初期の土器製塩の頃の出土片からはじまって、入浜式塩田がどのように行われていたかを多数の道具とリアルな模型で見せるゾーンから始まる。

 

 藻塩製塩、揚浜式製塩、入浜式製塩と続き、昭和になると、「枝条架式製塩」が行われるようになる。

 

 久米栄左衛門が開いた塩田をきっかけとして,香川県では全国の塩の3分の1を生産するほどになったが,昭和30年代になって労力10分の1,生産量2倍という流下式塩田(枝条架を併設)が導入された。しかし、この画期的な塩田もわずか15年でその歴史に幕を閉じ、代わってイオン交換膜を用いてかん水をとる現代の方法が開発された。その後、製塩技術の発達とひきかえに、広大な塩田はしだいに工業用地や住宅に姿を変えてしまったけれど、そうした歴史を忘れてはならないなぁと思ったことだった。

 

 この人が「久米栄左衛門通賢」さんである。次には、この人を取り上げてのお話を考えている。

 

 で、今日の目的地はここ。瀬戸内海歴史民俗資料館である。瀬戸内海歴史民俗資料館は、瀬戸内地方の歴史、民俗等に関する資料の収集、保管、展示、調査及び研究を行うことによって、郷土の歴史と文化財に対する認識を深めることを目的として設立された施設である。

 

 夏のテーマ展では、「くらしの中の信仰-祈祷札(きとうふだ)・守り札・魔除け(まよけ)の民俗-」展がはじまっている。医者もいない、医者にかかる費用もない時代に民衆は何に助けを求め、何に癒やしを求めたのか・・・ということを考える展示である。このお札は、田植えの前、苗代に水口(水の導入口)に飾った、「水口(みなくち)まつり」の「ゴオウサン(牛王さん」のお札である。これで、稲の収穫と豊作を願ったのである。

 

 これは、しわく広島、江の浦に伝わる「ウシハナシ」の牛の飾りである。でも、私が聞いた限りでは、「そんなことはしなかった・・」と誰もが言ったのだが・・、未だに記録では、「広島・江の浦のウシハナシ」となっている。

 

 これは、門飾り、玄関飾りの「魔除け」である。「わが家には、鎮西八郎為朝さまという強い人がお泊まりである」という看板である。

 

 これは、カニの甲羅の魔除けである。いろいろと考えたものだなぁと感心するばかりだった。

 

 これは、今でも塩飽本島で行われている「虫送り」の行事である。古くから日本では、農業、漁業ともに自然頼み神頼みであり、多くの祈祷札や守り札が寺社から出され信仰されてきた。また、日々のくらしの中では、疫病や邪気を防ぐためのまじないや魔除けが欠かせないものだった。ここでは、家内安全や五穀豊穣、大漁祈願、航海安全、魔除けといった、くらしと密接に関わったお札などの収蔵資料を中心に紹介し、そこに生きた人々の祈りや願いについて考えることになっている。

 

 今日の掲示板はこれ。「夏たけて 掘りの蓮の花みつつ 仏の教え思う朝かな」という昭和天皇のお歌である。 夏の訪れと共に、毎年思い出して胸を詰まらせる、昭和天皇の辞世のお歌として知られている。不治の病に苦しまれた晩年のある日、静かに詠まれたこの一首が最後の辞世の歌となった。皇室の宗教は「神道」であるが、仏教にも深い関心を寄せておられたことがうかがえていたましい。ご存じの通り、天皇家は皇宮神道の宗家本元。その家元さんが蓮の花を愛でて、お釈迦様の教えを改めて知った・・・というお歌を詠まれている。キリストさんがお釈迦さんの説法に感激した・・・みたいなことだ。実に謙虚で誠実な人柄が偲ばれるではないか・・・。私たちにもそんな謙虚さや誠実さがあるだろうか・・・。

 

じゃぁ、また、明日、会えるといいね。


堂々と 悩んで生き抜く 百日紅

2015年07月30日 | 今日もしっかりとお勉強・・。

 さぬき市地方は高気圧に覆われて概ね晴れていた。気温は26度から33度、湿度は86%から63%、風は1mから4mの北北東の風が少しばかり。明日の31日は、引き続き高気圧に覆われて晴れる見込みらしい。

 

 昨夜のお月さん、トイレに起きたとき、あまりにも外が明るいで満月かなぁと思って撮ったけれど、明日が満月らしい。

 

 さて、来る8月1日が親父の命日になる。1970年、大阪万博のあった年の8月1日だった。私がまだ22歳、二男が20歳、三男が18歳の高校生だった。その頃、昭和は45年だったと記憶している。親父は46歳、母が45歳という若さだった。

 

 これが、そのときの写真である。野辺位牌を持っているのが私、写真を持っているのが二男、三男は就職試験のために不在だった。骨壺を持っているのが母のさっちゃんである。この日も暑い暑い8月1日であった。

 

 ということで、お墓の草刈り。若い頃には「墓参休暇」という「特別休暇」があって、お休みをしてお墓の草刈りをしたことがあった。そういうお休みもいつしか有名無実になって消えてしまったけれど。明日には島の家に出かけてしまうので、草刈りやお墓掃除は今日一日だけしかない。

 

 朝の涼しい間にと思って、5時半から出かけて草を刈ったけれど、そういう時期には「ブヨ」がいっぱい・・・。目の前をウンカのように盛り上がって集まってきて、目から鼻から口からと攻撃してくる。だから、見えるところ、邪魔になる所だけを刈り払って草刈りからは撤退した。ブヨは日が昇らない時に飛び回り、日光が強くなると木陰に隠れてしまうのだとか。でも、そうなったら、今度は私が熱中症で倒れてしまう・・・。

 

 右足は、ご覧のようにほぼ完治した。階段の上下も普段通りに痛みもなくできるようになった。だから、草刈りも普段通りに痛みもかゆみもなくできてしまった。なんとも不思議な右足であることか。やっぱり、想定通りに、「五日目」であった。

 

 6時半に帰宅して、シャワーを浴びて着替えをして朝食を食べて一休みした後、町内にある「さぬき市歴史民俗資料館」に行ってみた。今日から「夏季企画展」ということで、「守る・攻める 城と館」展をやっているというのでのぞいてみた。

 

 さぬき市内にある城跡を紹介したパネルを展示し、長宗我部氏の讃岐侵攻から豊臣氏の讃岐支配時期のさぬき市の状況を分かりやすく説明する・・・と、上の看板には書いてあるが・・・

 

 石垣や石積みなどの写真やパネルばかりで、ちっとも頭には入らない。

 

 興味のある人にはそれなりに価値のある展示なんだろうけれど、私にすれば「ネコに小判」「子供に金の延べ棒」・・・。少しもありがたくはない。

 

 近くの産直市場で仏花を買って、お墓に挿しておしまい。

 

 その後は、明日のモーニング・セミナーの準備とリハーサル、明後日の、中学生歴史講座の準備とリハーサル・・・。ああだ、こうだといいながら、とうとう、今日だけになってしまった。早めに準備をして、荷物をまとめておいて、明日は4時半起きの5時出発の5時半会場到着してパソコンのセットなんぞの準備。

 

 午前6時開会の6時15分から講演。6時50分にはおしまいにして、片付けをして朝食会。それが終われば、すぐさま、丸亀に向かう・・。忘れ物のないようにしておかねば・・・。そういうものの、毎回、あれだこれだと忘れ物ばかり・・・。

 

 今日の掲示板はこれ。「人生は、近くで見ると悲劇だが、遠くで見ると喜劇である」という、喜劇王・チャップリンの言葉からである。自分の不幸は自分にとっては悲劇だが、他人から見れば、それは喜劇にも見える。他人の不幸は蜜の味。落ち込んでいてばかりではつまらない。明日になれば、きっと、喜劇のように大笑いできるかも知れない・・・。

 

じゃぁ、また、明日。会えればいいね。


海にいて 海を見ている 浜ぼうふ

2015年07月25日 | 今日もしっかりとお勉強・・。

 丸亀市地方は高気圧に覆われて晴れている。気温は24度から32度、湿度は85%から61%、風は1mから3mの北の風が少しばかり。明日の26日は、高気圧に覆われて晴れるらしい。台風が来るというので、ボートの係留に来たのだが、全く、そういう気配はない。

 

 昨日はなんともなかったのに、今日は右足の膝小僧が痛んで歩けない。打ったとか転んだとかムカデに刺されたとかの記憶は全くないし、傷跡もない。ただ、膝全体が赤くなっている。少しばかり熱もあるようだけれど。この島には薬局も病院もない。島の診療所があるが、休日はお休み。本当の急病ならば、漁船をチャーターして丸亀本土の病院に行くか、防災ヘリでも呼ぶかだが、そこまでの大げさな痛みでもない。たかが、足の痛みだけだ。

 

 そんな足を引きずりながら、家の周囲の草刈りをやった。こうして、歩き出すと歩けるのだが、立ち止まって歩こうとすると激痛が走る。朝の間の涼しいうちにと思ったが、8時過ぎからだとクラクラするような暑さになった。

 

 家の表の見えるところだけを刈った。家の裏側は、来週でもいいじゃないか。

 

 とにかく、見えるところだけでも刈っておけば気分がいい。

 

 島の歴史講座のお世話役の「みちこ先生」からの年表修正の原稿を受け取るために、船の待合所にやってきた。すると、こんなのぼりが揚がっている。「島歩き案内所」だって・・・。

 

 フェリー客の待合所の奥に、こんなコーナーが出来ていて、観光案内所のようになっているが、詳しいことはわからない。

 

 で、みちこ先生からの修正原稿を頂いて、できることからこつこつと。中学生の歴史の教科書に出て来るような事柄だけを残して、島の小さな歴史やシルビア号などの関係の無い事項は削除することになった。ただ、先生が夢中になっている「花燃ゆ」に関係する事項は追加する。「吉田松陰処刑」なんか、中学生には必要ないのだけれど・・・。

 

 「薩長同盟は必須だわ・・・」と仰るが、それも関係ないと思うのだが、いろいろと調べて追加することになった。新撰組の近藤勇は登場するが土方歳三さんは無視されている。

 

 歴史講座まで、あと一週間。はてさて、どうなることやらではある。

 

 今日は土曜日ということもあって、島には子供たちの声が響いている。マイ・ボートでやってきた本土からのお客さんである。

 

 かつては賑わった「江の浦海水浴場」で泳いでいるのは数人だけ。それでも。沖には監視船が二隻。島の漁師さんが雇われているのだろうけれど、その舟の中で何をしているんだろう・・・。昼寝をしていたら監視にはならないだろうし、かと言って、サメがやってくるのを見張っているふうでもない。

 

 気分は海にでも入りたいような暑さだけれど、この膝の痛みでは海に入ったら溺れてしまいそう。かといって、海を見ているだけでも暑くてたまらない。

 

 島で見かけた奇妙なキノコ。先日の雨の後に生えてきたものらしい。

 

 今日の掲示板はこれ。「誰でも口からプラスのこともマイナスのことも吐く。だから【吐】という字は「口」と「+」と「-」でできている。マイナスのことを言わなくなると「-」が消えて【叶】という字になる。」というもの。お寺の「お説教」でよく聞くことば。それはそうだと納得しながら、「でもな、マイナスだって必要なんだぜ」と、ふんぞり返っている私がいる。

 

じゃぁ、また、明日、会えるといいね。


磨かれて うぐいすの声 鐘三つ

2015年05月25日 | 今日もしっかりとお勉強・・。

 さぬき市地方は高気圧に覆われて概ね晴れていたが、気圧の谷や寒気の影響で夕方から雲が広がり、雨の降る所があるらしい。気温は16度から25度、湿度は88%から44%、風は2mから3mの南風が少しばかり。明日の26日は、高気圧に覆われて概ね晴れるらしいが、気圧の谷や寒気の影響で、昼前まで雲の広がる時がある見込みなのだとか。

 

 さて、明日の火曜日が、「おへんろつかさの会・公式ホームページ」と、WordPress版の引き渡しの日なのだが、今日になって、とんでもないことに気が付いた。WordPress(ワードプレス)は、オープンソースのブログ・ソフトプェアで、PHPで開発されており、データベース管理機能システムとしてMySQLを利用している(中略)。単なるブログではなくCMSとしてもしばしば利用されている・・・・なんたらかんたら・・。

 

 私はホームページ制作を依頼されたのだけれど、その後継は、WordPressだから・・とも言われている。単に、ホームページとブログをやればいいのだろうと、軽い気持ちだったのだが・・・。

 

 これが、一筋縄ではいかない代物。泰平の世の中で、10年前のホームページと、10年来のブログを更新し続けてきたのだが、突然、背後から「ペルリ」が大砲を撃ちかけて来たみたいな慌てふためきよう・・・・。

 

 急いで本屋さんに走ったのだけれど、まるでちんぷんかんぷん。みんなでホームページにアクセスして、そこで意見交換をしたり、品物を注文したり、意思決定をしたり、その統計がすぐさま出たり・・・みたいな・・ブログという印象。

 

 さて、昨日の、この歌。「寒くとも たもとに入れよ 西の風 弥陀の国から吹くと思えば」という歌だった。これは、いくら調べても、親鸞聖人の歌で、枕石寺に関するものだということになっている。

>Yosyiaki Ootuka 比叡山を降り吉水入室後、親鸞聖人は和歌を好んでおられません。そうすると、この道歌は法然上人作の方がふさわしいかも・・・。合掌 南旡阿弥陀仏

 というコメントが・・・。

 

 で、またしてもやってきたのが、「まんのう町十郷宮田」にある「西光寺」さん。一般的には「宮田の法然堂」と呼んでいる。

 

 上人が讃岐に配流中、霊験の地、金毘羅大権現にご参詣の折、南の方で紫雲がたなびいたので、ここまでやってきた。ここではしばらく滞在されて、「寒くとも 袂に入れよ西の風 弥陀の国より吹くと思えば」と詠まれ、日夜別時念仏を修せられた・・・と祈念碑にある。ふむ、師弟が別々に詠んだ歌が、まるきり同じだったというのは、どういうこと??

 

 しかしのかかし、今頃になって、こんなものが出てくるとは・・・。はてさて、この歌は、親鸞さんの歌なのか、法然さんの歌なのか・・。それが、どうして、讃岐に伝わって、供養碑や石碑に刻まれることになったのか・・・。

 

 アルコールを休んで、今日で8日目。幻覚症状が出てきているのかしらん。親鸞さんの歌を讃岐で法然さんが詠む筈はないし、たかが、ブログがホームページ作りよりも難しいなんて筈はないし・・・。困った、困った、こまどり姉妹・・・。参った、参った、マイケル・ジャクソン。

 

 でも、確かにここは、「法然堂」なのであるし・・・。

 

 帰りに、本屋さんで悩んだあげくに、この本を買った。買うには買ったのだけれど、中身はさっぱりとわからん・・・。ダッシュボードだの、CEOだの横文字がいっぱい・・・。長州沖に英国艦隊が押し寄せたみたいなもんだ・・・。

 

 ま、明日、会長さんにあって、公式ホームページの確認と、ドメインへの転送プロトコルを調べねば・・。とりあえず、第一弾は公式ホームページの更新と運用開始だ。それを動かしておきながら、WordPress用のサーバーのレンタル契約とかをやってもらっておかねば。実際に動かしながらでないと、状況が掴めない。

 

 どこを、どう、設定したら、どこが、どう、動くのか・・というのを確認しながら・・カスタマイズしていくことにしよう。

 

 今日の掲示板はこれ。「なんでもいいから、まずやってみる。それだけなんだよ。」というもの。岡本太郎さんの言葉だが、今日の私には、まさにそういう気持ち。みんながやってるんだから、私にもできる筈。会長が知ってるくらいなら、私にも理解できるはず。「やってやれないことはない」。

 

じゃぁ、また、明日、会えたらいいね。


夏が来た 空一杯の 伸びやかさ

2015年05月22日 | 今日もしっかりとお勉強・・。

 さぬき市地方は上空の気圧の谷の影響で薄雲が広がっていた。気温は14度から24度、湿度は81%から46%、風は1mから3mの南南西の風が少しばかり。明日の23日は、気圧の谷の接近で雲が広がり、夜遅くには雨が降る見込みなんだとか。

 

 禁酒のせいで眠りが浅くなったものか、なんだか昼間は眠たくなる。相変わらず、利尿剤の影響で1時間ごとにトイレに起きるせいでもあるかも知れない。「春眠なんたら・・」の時期は終わったように思うのだが・・・。

 

 今日は、取り立てての約束も用事もないので、朝からこれのお勉強・・・。会長さんの言うことには、「公式ホームページ」と、「ホームページ・ビルダーSP」を使っての、「WordPressサイト」経由のブログを立ち上げて、会員相互の連絡場所にする・・とのこと。10年来のホームページ・ビルダーユーザーなんだが、「SPって、なんじゃい・・」、「ワード・プレスって、なんじゃらほい・・」の世界なのである。

 

 これが、その、「ホームページ・ビルダーSP」の立ち上げ画面。左のテンプレートを選ぶを開いて、好きなタイプの画面を選んで、真ん中で編集していく。サイトを公開する手順書がないので、転送プロトコルやパスワードが分からないから、サイトを公開するところまではいかない。

 

 こういう、テンプレート(ひな形・画面)を参考にしながら、カスタマイズ(個別化)していく。これまでの、カット・アンド・ペースト的に、どんどんと貼り付けていけばいいものではなくて、いちいち、メニューを開いて、マウスで選択して・・・と、面倒なこと、このうえない。初心者には、こちらが便利なんだそうである。

 

 一応の、デザイン・シートを作成してあるので、それを、左から右にコピー&ペーストすればいいようなものだが、それは問屋が卸さない。クラシッック版はクラシック版、SP版はSP版。簡単にはコピ・ペはできない仕組み・・・。一般店のおうどんをセルフのお店で食べるということはできないらしい。

 

 たまには休憩をして、昨年度の活動実績表とか、今年の活動計画表などをノートに整理して、今年の「取材ノート」を作成しておく。今年は、ホームページ担当兼ブログ管理者も兼任して、電子広報担当みたいなお仕事をするらしい・・・。

 

 何度も、ここでも書いているが、「おへんろつかさの会」というのは、「さぬき市商工観光課内」に所属する「観光ボランティア」で、「上がり三ヶ寺(86番志度寺・87番長尾寺・88番大窪寺)周辺のおへんろ文化を全国に発信する団体である。宗教的なことは、「公認先達」さんにお任せをする。と、言いつつ、そこいらのお先達さんよりすごい猛者もずいぶんといる。

 

 これは、眞念の道標を解説する渡邊会長。自分は主催者だから、自分の写真がない。だから、HPが更新できん・・・と仰る。ふむ、で、私が、写真を撮って、HPに掲載する訳か・・。ま、健康増進のために、すこしばかりやってみるとしようか・・・。

 

 今年の活動計画を見ると・・・再来年の秋まで予定が入っているぞ。その上に、私の講演会があるし、法話の予定も入っているし・・・。自分の予定とも調整が大事になるな。

 

 ま、お相撲さんの決まり文句みたいに、「一番、一番を頑張るだけっすっ」だな。

 

 モーニング・セミナーの事務局からも講演会の確認電話があった。7月31日に日程変更になったとのこと。チラシやパワポの日時変更をやっておかねば・・・。

 

 今日の掲示板はこれ。「時 あなたを待つ時間の長いこと あなたという時間の短いこと 計れば同じ時間なのに」というもの。ご存じ、「あいだみつを」さんの言葉である。仕事だって、遊びだって同じ事で、じっと待っている時間、いやなことをやっている時間、いやな相手といる時間はなんと長いことか。反面、好きなことを楽しくやっている時間のなんと短いことか。つまりは、時間の長さは同じなのだけれど、いかに自分の心が充実しているか否かの相違なのである。

 

じゃぁ、また、明日、会えたらいいね。


このままで 暮れて自然の 山つつじ

2015年04月29日 | 今日もしっかりとお勉強・・。

 さぬき市地方は気圧の谷や湿った空気の影響で雲が広がっていた。夕方からは雨の降る所があるらしい。今日の気温は17度から22度、湿度は86%から58%、風は3mから2mの南南西の風が少しばかり。明日の30日は、気圧の谷や湿った空気の影響で雲が広がり、午後は雨の降る所がある見込みなんだとか。

 

 今日は所属する「おへんろつかさの会」の定例総会の日。場所は、さぬき市前山にある「長尾公民館前山分館」で、この「おへんろ交流サロン」の横にある建物である。

 

 で、私たちは「駐車場案内係」で、制服のジャンパーを羽織って、お客さんの車を誘導する。参加会員さんは70人。単純計算で70台の車がやってくる計算になる。

 

 この会は、さぬき市において、四国遍路の知識を伝え、さぬき市を観光的歴史的側面から全国に発信する活動をしている。主には、86番志度寺・87番長尾寺・88番大窪寺の3ケ寺の案内や春と秋に遍路道を歩くまち歩きイベントやお遍路文化に関する講演会などを開催している。会員数は200名少し・・・。

 

 午前9時から総会は始まって、さぬき市大山市長さんからの挨拶を受けたあと、

 

 渡邊会長から活動報告・決算報告・活動方針・予算などが報告された。ま、当たり前の総会風景。

 

 その後、香川県立ミュージアムの渋谷啓一専門学芸員さんから、「四国へんろ展を振り返って その成果と課題」という記念講演が行われた。

 

 講演会には70名余が聴講した。この「四国へんろ展」というのは、昨年10月中旬から11月中旬に行われた、「四国霊場開創1200年記念4県連携事業・空海の足音 四国へんろ展香川編」のこと。約40日の会期中、2万人弱の入場者があったそうだ。

 

 その後は懇親会。懇親会には50名ほどが参加した。ここで、山頭火の句碑集が6冊、「四国遍路の闇と影」が5冊納本できた。皆さんの意見を聞いて、12月の正式版に備えたい。

 

 時節柄、ノンアルコール・ビールがほとんどだった。中には一升瓶を据えて飲んでおられる方もいたし、焼酎だ、ウィスキーだという強者もいた・・・。

 

 私はなぜか、汗が出て・・ひどく息苦しくなって、早々に会場を後にしてわが家に戻った。湿度が高くなったせいだったのかも知れない。わが家に戻ると正常になった。おかげで、どれだけも食べられずに戻ったので、夕食が待ち遠しいのに、けいこばぁは、畑仕事に余念が無い。

  

 4月29日は、もともと昭和の時代に「天皇誕生日」という祝日だった。それが、昭和64年(1989)1月7日に昭和天皇が崩御されたことを受けて、年号が平成に改まり、「天皇誕生日」も平成元年(1989)から「みどりの日」となった。しかし、多くの国民の要望を受けて、平成17年に国会で「国民の祝日に関する法律」(祝日法)が改正され、平成19年(2007)より「昭和の日」とすることになった。1年に一度廻ってくるこの日に、昭和天皇とともにあった昭和の時代を改めて見つめ直してみるのもいいかも知れない。

 

 それまであった、「みどりの日」は5月4日に移動して存続している。もともと4月29日の「みどりの日」は、昭和の時代、「天皇誕生日」という祝日だった。それが昭和天皇の崩御にともない、「天皇誕生日」は今の天皇陛下のお誕生日である12月23日となり、4月29日は昭和天皇が自然を愛したことにちなんで、平成元年から「みどりの日」と名称を変えて祝日になった。自然をこよなく愛された昭和天皇は、「全国植樹祭」にも必ずご臨席になり、ご自身の手により植樹をされてきた。その伝統は、今の天皇陛下にも受け継がれている。

 

 今日の掲示板はこれ。「他人とくらべるのやめると 人生はぐっとらくになるよ」という、いつもの荒了寛さんの言葉から。私ら団塊の世代は「比べられっこ」で子供の頃から育ってきたが、それはいつの世でもそうなんだなぁと思うようになった。今はお仕事もやめて、自由気ままに暮らしているから、自分では誰かと「比べっこ」はしていないつもりだけれど、誰かからは「比べられっこ」されているのかもしれない。でも、その分、楽にはなったけれど、さみしくもなった。背比べの相手がいない・・・というのは、鬼のいない鬼ごっこみたいだなと思った。

 

じゃぁ、また、明日、会えたらいいね。


緋ボタンの 赤に勇気を もらう朝

2015年04月26日 | 今日もしっかりとお勉強・・。

 さぬき市地方は高気圧に覆われて晴れていた。気温は10度から23度、湿度は72%から53%、風は2mから1mの北東の風が少しばかり。明日の27日は、引き続き高気圧に覆われて概ね晴れる見込みらしい。

 

 さて、恒例の「おへんろつかさの会・バス研修」も最終回になった。今日は7時にさぬき市役所を出発して、81番白峯寺から88番大窪寺までの8ヶ寺を回る最終コースである。

 

 今日は季候もいいし日曜日ということもあって、どこのお寺さんもお遍路さんが多い。県外ナンバーのマイカーがわんさかと集まっている。ここは81番白峯寺さん。

 

 「おへんろつかさの会」というのは、さぬき市の観光案内ボランティアで、お遍路さんの指導や案内は、公認先達さんにお任せずるが、私たちは、おへんろ道周辺の観光案内をするボランティアである。

 

 例えばこれ。82番札所の根香寺(ねごろじ)さんの山門横に立っている「牛鬼」像である。こういうものは、公認先達さんは説明をしない。中には説明する人もいるかもしれないが、札所とは関係ないので素通りしてしまう。ここでは先輩が一通り説明した後を、私が補足説明した。

 

 公認大先達の櫻谷さんがチェックしている。今日は最終試験みたいなものだ。

 

 84番札所の屋島寺はものすごいお遍路さんたちであふれている。ここでは説明も案内もできる状態になかった。

 

 今日のお昼は、85番札所、八栗寺手前にある「手打ちうどん山田家」さん。ここも県外ナンバーの車であふれていて、お店の入り口には長蛇の列が。私たちは予約してあるのでスムーズに店内に入った。

 

 今日のお昼は「うどん定食」。

 

 昼食が済むと、85番札所の八栗寺へケーブルカーで登る。お遍路さんが多いため、臨時便を出してくださった。

 

 こういう狛犬も私の担当である。これは。「招魂社形」と呼ばれる狛犬で青銅製が多い。

 

 86番札所からはさぬき市内の「上がり三ヶ寺」ということで、ここからが本来のテリトリーになる。

 

 このおじさんは私と同期の七期生で、平賀源内の子孫にあたる「平賀さん」。志度寺で源内さんの講義をしている。櫻谷大先達の真剣なチェックを受けている。

 

 87番長尾寺では、長尾さんが山門の仁王像の説明などをしているし、

 

 お世話役のみゆきさんも長尾寺の本堂の彫刻などについて講義をした。

 

 かわいい子供遍路にみんなの拍手が送られた。

 

 この石井さんという人も、案内の達者な方で、大窪寺の二天門の説明をしてくれた。

 

 この方が、おへんろつかさの会の堀尾さん。今期は副会長ということになっている。大窪寺の不動明王像のお話をされた。

 

 私は、この「御衣黄(ぎょいこう)桜」や山頭火の句碑について説明をした。ともかく、昨年の春から始まった四国遍路バス研修は、ひとまず終わった。習ったことや説明されたことはたくさんあったけれど、片っ端から忘れ去っていく私である。

 

 今日の掲示板はこれ。「自分の都合で他人を善人したり悪人にしたりはしない」というもの。とかく私たちは、自分に得をさせてくれる人は善人であり、損をさせる人は悪人である。相手が善人であるかどうかではなくて、自分にとってどうであるか・・。損か得かで善人にしたり悪人にしたりするかだけのことなのである。

 

じゃぁ、また、明日、会えるといいね。

 


寒椿 メール一つを 受け取って

2015年03月19日 | 今日もしっかりとお勉強・・。

 さぬき市地方は前線の影響で雲が広がり、昼過ぎまで雨が降り続いていた。気温は12度か14度、湿度は86%から94%、風は1mから2mの北西の風が少しばかり。3日連続の濃霧の朝になった。明日の20日は、高気圧に覆われて概ね晴れるらしいのだが。

 

 昨日から孫のはやて君が遊びに来ていたのだが、今日は公立高校の入学試験の合格発表の日だというので、7時までに屋島のおうちまで送って行かねばならないというので早起きした。ま、急いで行かなければならない訳ではないが、親としては早く結果を知りたいのだと思う。

 

 それだから、濃霧の中を屋島まで一走りしてきた。

 

 で、今日は津田町史の宗教という部分をスキャナーで読み込んで電子化する作業に入った。「さぬき市寺院名鑑」「さぬき市神社名鑑」、いずれも仮称だけれど、その事前準備。

 

 さぬき市にはおよそ70の寺院がある。神社の数はまだ分からないが、途方もない数の小宮がある。ちなみに、今日の津田町には寺院が10ヶ寺、神社は7社だが、小宮は約100社ほどある。ま、どこまでをカウントするかだなぁと思いながらスキャニングを繰り返していた。

 

 これは2010年8月の写真だから、この子たちは小学5年生だっただろうか。この左側が孫のはやて君。右は神戸のたつや君。ともに今日が高校受験の発表日。

 

 二人ともに公立高校に合格したとの連絡があった。めでたしめでたし。

 

 雨の中でも桜は咲いたようだ。ひとまず安堵したことだった。

 

 午後からは、読み込んだデーターを原本通りに修正していく作業。どうにも「は」を「ほ」と読むらしく、これらを修正したり、漢字の誤変換を直していく。しかしのかかし、神さんの名前の難しいこと。お坊さんの名前もなかなかに難しい。読めない漢字は手書き入力して、その漢字を探し出して修正する。「豈」これを「あに」と読むのは難しい。そんな作業を延々と繰り返すのだ。

 

 ふと、こんなことを前にもやったなぁと思い出した。中学2年生の頃に、当時の「大川郡」、今のさぬき市と東かがわ市のお寺を調べてスクラップブックに写真を撮って貼り付けて「寺院名鑑」を作ったことを思い出した。夏休みの自由研究だった。中学校の資料室に保管されていたが、その中学校も廃校になったので、おそらく処分されてしまったに違いない。

 

 それに、2002年に、「東讃の狛犬」という本を作った時には、旧大川郡の全神社を回って狛犬や神社の由緒縁起を調べたこともあった。とういうことは、今回は思い切って切り口を替えて調査しなければならないなぁと思った。

 

 ま、とりあえずは、さぬき市の5町の町史から寺院と神社の部分を電子化しておく。それから方針を決めて現地調査や写真撮影をするのだが、大きな寺院や神社はすぐに分かるが、庵やお堂、小宮などは地図にもないことが多い。考えただけでも気の遠くなる作業だ。

 

 そうそう、神社は高い山の上にあったり、お堂は地区の集会場の中にあったりで、入れないことも多くあった。また、個人宅のような場所が観音堂であったりする。また、信仰する人がいなくなって廃絶したり倒壊した神社やお堂もあった。

 

 今日の掲示板はこれ。「努力した人ほど運が良かったと言い、努力が足りなかった人ほど運が悪かったという」というもの。誰の言葉かはわからないが、あちらこちらで見かける言葉である。努力と運とが関係するのかどうかもわからないが、要は自分の気持ち次第だと言うてるのだと思う。若い頃には「運がいいとか悪いとか人は時々口にするけど、そういうことって確かにあるとあなたを見ててそう思う・・・」という歌が好きだった。今は、運だ、天だと考えることもなくなった。加齢なんだろうか・・・。

 

じゃぁ、また、明日、会えるといいね。


行く今日を 追いかけもせず やぶ椿

2015年03月09日 | 今日もしっかりとお勉強・・。

 さぬき市地方は、四国の南海上を進む低気圧の影響で、一日中雨が降っていた。気温は5度から9度、湿度は89%から90%、風は1mから2mの北西の風が少し。明日の10日は、強い寒気が流れ込み冬型の気圧配置が強まるため雲が広がりやすく、雪や雨の降る所がある見込みらしい。

 

 昨日は春のような陽気だったのに、今日は一転して寒くて冷たい一日になった。

  

 雨では出かけても楽しくないので、今日はデスクワーク三昧になった。例の「塩飽小坂小誌」の解読作業である。この本は昭和10年の発行になるものだが、旧漢字字体だし、前編カタカナ書きになっているので、「読んde!ココ」というOCRで読むと半分以上が文字化けしてしまう。

  

 それを丹念に解読しながらワード文書に直していく。一気にかな漢字交じり文にすればいいのだが、なるだけ原本通りに写して行く「𦾔」とか「仝」とか、滅多に使わない漢字に悪戦苦闘中。

 

 どうにか、「小坂騒動」や「大山神社」という部分を処理することができた。維新前後の、無くなってしまった「人名権」を守ろうとする権力側と、その「人名権」を返せ・・という漁師たちの戦いだった。480人が捕虜となり、18人が犠牲となった歴史の間の悲惨な争いだった。

  

 これは、塩飽史談会の中西先生が現代文に書き写したものだが、これを電子化してくれていると有り難いのだが、この現代語訳を参照しながら、旧字体で打ち込んで、そこから、この現代語訳に落としていく予定である。なんとも面倒なことをするものだが、この手書きの原稿ではOCRが読み取ってはくれないからである。

 

 これが大山神社という小坂の氏神さんである。ここに、小坂騒動を鎮撫した「宮地彦三郎」をまつる「八島神社」がある。

 

 雨は降ったり止んだりを繰り返しながら、まるで梅雨時の雨のように降っている。

 

 ここには、法然上人が塩飽島(塩飽本島)に宿泊した時の様子も記載されている。今日はここまでを読み込んだ。ここには、まず、小坂に着いて上陸して休憩してから、笠島の地頭高階保遠西忍の所に向かったとあるが、それは少し違う気がする。西忍の館から子松庄に向かう途中に小坂に寄ってから丸亀に向かったとする説が圧倒的に多いのだ。

 

 これが小坂の阿弥陀寺で、ここに、上人船繋ぎの名号石が保存されている。

 

 これがその、船繋ぎ石で、上人は紙に六字の名号を書いて与え、それを土地の人びとが、この船繋ぎ石に六字の名号をノミで掘ったというもの。

 

 わが家のサンシュウユの花もきれいに咲きだしているし、

 

 梅の花も遅まきながらきれいに咲きだしている。花壇のチューリップもすくすくと成長してきている。

 

 今日の掲示板はこれ。「たとえどんなに辛くても 春を迎えぬ冬はない」というもの。同じような言葉に、「止まぬ風はない」、「あがらぬ雨はない」、「山よりでっかい獅子は出ぬ」、「明けない夜はない」、「来ない朝はない」などが思い出される。「秋が来ない夏はない」、「春が来ない冬はない」シリーズみたいなことだ。明日からは荒れた冬の天候になるらしいが、どんなに寒くても辛くても悲しくても・・・春を迎えぬ冬はないと信じて今日に感謝したい。

 

じゃぁ、また、明日、会えるといいね。


突き抜ける 風の剣に 身をかわす

2015年02月01日 | 今日もしっかりとお勉強・・。

 さぬき市地方は冬型の気圧配置となっているため、瀬戸内側の東部や山沿いでは雲の広がっている所があった。気温は1度から6度、湿度は70%から54%、風は3mから4mの北西の風が少し。明日の2日は冬型の気圧配置が緩むため、概ね晴れる見込みらしい。

 

 朝は雨になったりみぞれが降ったりと寒い一日になった。だから、今日もお出かけはやめにした。

  

 だから、今日も「四国遍路の闇と影」の編集作業。今日で、おおまかな形ができあがってきた。あれも入れたり、これも入れたいと思って居たけれど、これは資料が難しいから省略。これは「闇」にも「影」にもならないから削除・・・ということで整理したり。

 

 今日も、NHK総合で、「四国遍路セレクション」ということで、今日は「趣味Do楽 はじめての四国遍路旅」の再放送。これが朝の10時過ぎから夕方まで一気放送・・・。

 

 こういう感じで、パソコンで編集をやりながらテレビも「ながら」で鑑賞しつつ・・。ま、何回も見ているので適当に適当に・・・。「あ、やってたなぁ・・」とか、「あ、こういう場面があったのか・・・」などと。

 

 今年は「四国霊場開創1200年」ということで、NHKさんもいろいろな番組をやっている。

 

 この浅川先生の本がたいへん参考になっているし、

 

 山本先生の「四国遍路の民衆史」も参考になった。病気遍路や職業遍路にならざるを得なかった人びとの苦しい生活。少し前の四国には、そういう人たちが大勢いた。

 

 この本は、そういう人たちのことを記録した「社会民衆史」でもある。

 

 今日も木村食堂での「肉うどん」。冷たい一日だから、こうした暖かいおうどんはおいしいと思った。

 

 いよいよ、今日から2月。カレンダーの掛け替え、差し替え作業も終えた。ホームページの月間予定表の更新も済ませた。Pikaraに移送したホームページも順調に動いているみたい。リンクの張り替え作業もうまく行ってるみたい。

 

 奥方のけいこばぁは、この寒い中で、玄関の掃除やら、バラ園の剪定をやっている。来週の母の三回忌の準備だとか。けいこばぁは、ゆっくりとできるのは、日曜日しかないものだから。

 

 今日の掲示板はこれ。「人間は自分の都合で鬼と言い、福と言う」というもの。本多恵さんの「いのちのことば」から。昨日の掲示板にも関連するのだけれど、自分を閉ざすも開くも、ものごとの善し悪しも、鬼も福も、自分の意識次第だというているのである。私が見ている空も、海も、山も、雲も、雨も、嵐も、自分のこころ次第で良くもなったり、悪くもなったりするのである。

 

じゃぁ、また、明日、会えるといいね。


水仙に 今朝の朝寝を 見透かされ

2015年01月31日 | 今日もしっかりとお勉強・・。

 さぬき市地方は冬型の気圧配置となっているため、山沿いを中心に雲が広がって、雨や雪の降っている所があった。気温は4度から6度、湿度は76%から54%、風は4mから6mの北西が強くて寒かった。明日の2月1日も、引き続き冬型の気圧配置となるため、雲が広がりやすい見込みらしい。

  

 今日と明日はお出かけをしない日・・・の予定。

 

 というのも、今日と明日は「四国遍路セレクション」ということで、お勉強というかおさらいというかのテレビ研修の日。ま、私の研究とは少し違うのだけれど、「おへんろつかさの会」会員としてはお勉強しておかねば・・・ということで。

 

 ということで、今日も「四国遍路の闇と影」の編集作業。それと平行しながら、テレビ研修。

 

 そそ、昨日に、amazonから、この本が届いた。自由律俳人の「住宅(すみたく)顕信」の「未完成」という句集である。

 

 住宅顕信は、本名・住宅春美(すみたく はるみ)。岡山県岡山市に生まれた。岡山市立石井中学校卒業。1976年4月、岡山市内の下田学園調理師学校に入学。同時に就職し、昼は勤務し夜は通学という生活に入る。4歳年上の女性と知り合い、同棲を始める。この頃より詩、宗教書、哲学書に親しむ。1978年3月、下田学園卒業。1980年、父親の勤務先である岡山市役所に臨時職員で採用され、清掃の仕事に従事。仏教にに傾倒し、1982年9月より、中央仏教学院の通信教育を受講。翌1983年4月、教育課程修了。7月、西本願寺にて得度。浄土真宗本願寺派の僧侶となり、法名を釋顕信と名告る。10月、同棲相手と結婚。両親の援助により自宅の一部を改造して仏間をつくり、浄土真宗の根本経典「無量寿経」に因み、無量寿庵と名付けた。

 

 1984年2月、急性骨髄性白血病を発病し岡山市民病院に入院。6月、長男誕生。不治の病の夫に対して妻の実家の希望により離婚。長男は顕信が引き取り、病室にて育てる。10月、自由律俳句雑誌「層雲」の誌友となり、層雲社事務室の池田実吉に師事。この頃より自由律俳句に傾倒し、句作に励むようになる。特に尾崎放哉に心酔した。1985年に句集『試作帳』を自費出版。「層雲」に権威主義的な疑念を感じ、「層雲」の元編集者である藤本一幸が主宰する自由律俳句誌「海市」に参加する。翌1986年、「海市」編集同人となる。病状が悪化し、この年の12月からは代筆によらなければ投書できなくなる。1987年2月7日23時23分、還浄。享年25。俳人としての創作期間はわずか3年で、生涯に残した俳句は281句だった。(Wikipediaより)

 

 お昼のNHKは、通常の番組になるので、その間に少しだけお出かけ。さぬき市長尾前山にある、「おへんろ交流サロン」に寄って資料の確認。

 

 ここには、「へんろ資料展示室」があって、貴重な資料が保存・展示されている。

 

 幾らかの資料の画像を撮って、メモして・・・。

 

 ここは何度も何度も来ているので、手慣れたもの。お仕事が済めばユーターン。

 

 今日は奥方のけいこばぁが日勤勤務のために、今日の昼食はどうしようかと考えたが、

 

 木田郡三木町にある「手織りうどん滝音(たきね)」である。ここも人気のあるお店で、11時から13時あたりは行列ができるお店。

 

 今日は「肉ぶっかけうどん小の温いん」をお願いした。ここもプチ・セルフのお店で、カウンターで注文して、天ぷらやご飯ものをチョイスして、調理された麺を受け取ってお会計して、好きなものをトッピングして、好きな席に着いて食べる。食べ終われば、食器を返却口に戻しておしまい。

 

 今日の掲示板はこれ。「人間の可能性を閉ざしているのは、他人でもなく、外部環境でもなく、自分の意識である」というもの。いいのも、悪いのも、好きも嫌いも、おいしいのもまずいのも、みんな、自分の意識なのだというのである。確かに、確かに、そうなのだけれど。

 

じゃぁ、また、明日、会えるといいね。


切り出した 遍路の話 みぞれ降る

2015年01月30日 | 今日もしっかりとお勉強・・。

 さぬき市地方は南岸を通過している低気圧の影響で雲が広がり、東部を中心に雨や雪の降っている所があった。気温は2度から8度、湿度は94%から66%、風は2mから4mの西北西の風が少し。明日の31日は、冬型の気圧配置になるため、雲が広がりやすい見込みらしい。

 

 今日は大雪になるという予想だったので、奥方のけいこばぁは、どうして出勤しようかと心配していたが、夜が明けると雨だった。雨ではお出かけもできないと、今日もパソコン三昧、デスクワーク三昧になってしまいそう。

 

 ということで、今日も「四国遍路の闇と影」の編集作業。今日は「市川団蔵」と「団蔵うどん」のお話である。この「団蔵うどん」、市川団蔵さんが結願後に八十八庵に立ち寄り、「時間がないので早くできるうどんを」と注文されたことから生まれたもの。短時間で茹で上がるように初代店主がうどんを細切りにして出したところ、「とても喉ごしがよくて美味しい」と好評だったのだとか。その数日後、団蔵さんは瀬戸内海で姿を消してしまった。

 

 今から約63年前に、 今は亡き歌舞伎役者『市川団蔵』が、四国霊場八十八ヶ所巡礼の旅を終えた後、大窪寺門前にある「八十八庵(やそばあん)に立ち寄り、このうどんを食べ、「こんなうどんは今までに食べたことがない。 はじめて、うどんの味がわかりました。」と感嘆したことから市川団蔵さんを偲んで「団蔵うどん」と名前をつけたという。

 

 「〝老醜″で団蔵の名を汚したくない」。晩年は、そのことばかり考えていたようだ。そして、引退興行の千秋楽の日、こんな感想をもらした。『これがすんだら、重い肩の荷が一度にスーッとして、いい気持でしょうね』」という。また、六代目菊五郎の狂歌に「永生きは得じゃ 月雪花に酒 げに世の中のよしあしを見て」があるが、団蔵は、これをもじって「永生きは損じゃ 月々いやなこと 見聞く憂き世は あきてしまった」という狂歌をつくり、また、周りの人にも見せていたという。

 

 「我死なば 人に迷惑 かけるなよ 仏頼まず さらば地獄へ」と、さらりと言ってのけた。そして旅の途中に、この歌を「我死なば 香典受けな 通夜もせず 迷惑かけず さらば地獄へ」と変えたとも話したという市川団蔵さん。おへんろさんはいろいろな想いで歩き続けているのである。

 

 いよいよ今日は正月の30日、間もなく2月に入るということで、ホームページの更新をしておかねばならないと、作業を切り替えた。

 

 まずは、3月分の予定表の作成から。これまでの「OCN」のほうには、「ここは、2月28日をもって廃止されます。以降は、http://wwwb.pikara.ne.jp/h-kimm に移転します。というメッセージを掲載して、3月分の予定表の更新はしない。

 

 で、これからの「pikara」の方で更新をかけて行く。ここで、アクセス・カウンターを設置することにしたが、その方法がわからず、へとちまとち、しどろもどろ・・・。

 

 なかなかに確認法もわからずに、結果待ちは夕方か、明日の朝か・・・。

 

 一時期には粉雪も降ってはきたが、すぐにあがってしまった。

 

 ホームページの移転作業は大変だなぁと思って居たが、思いの外、簡単に移転ができた。2月末日が、1月末日にと一月の前倒しで完了した。山頭火の句碑集も大詰め、「四国遍路の闇と影」も概ね、峠は越えたように思う。

 

 後は校正とか画像の張り込みとか組み立て・配置なんぞの微調整。三月末には両方とも完成させたいもの。当面、2月の母の三回忌と京都での研修をクリアーしなければ。

 

 今日の掲示板はこれ。「ひとすじに打ち込む そこに道がひらける」というもの。

 「道」
 ひとすじに打ち込む
 そこに道がひらける
 精神誠意ひたすらに
 そのことに打ち込む
 そこに道が開ける
 道を誤っている時は
 いくら走ってても益なし

 

じゃぁ、また、明日、会えるといいね。


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