まほろば自然博物館

つれづれに、瀬戸のまほろばから自然の様子や民俗・歴史や見聞きしたおはなしをしたいと思います。

彼岸花 今日の予定を にしひがし

2015年09月15日 | 今日はすっかりと俳句の世界

 さぬき市地方は高気圧に覆われて瀬戸内側では概ね晴れていたが、気圧の谷や湿った空気の影響で次第に雲が広がる見込みらしい。気温は18度から25度、湿度は88%から63%、風は1mから2mの北東の風が少しばかり。明日の16日は、南海上の前線が北上し、湿った空気が流れ込むため、雨になるらしい。

 

 今日の朝食はこれ。日曜日の「地神さん」のお下がりに頂いた「フレンチ・アップルバイ」入りのパンとミニ・イチジク・・・。これでも、れっきとしたイチジクなのである。

 

 これを左手に受けて、そのまんま口に放り込んでおしまい。変わった植物ができるもんだ。

 

 その後、さぬき市前山にある「おへんろ交流サロン」へ出勤。ここでお遍路さんが納めた「納め札」の調査をやっている。今回は志度町にある「田淵家」の屋根裏にあった「俵」の中から見つかった一千枚ほどの納め札を調べている。

 

 こういう納め札を丁寧に伸ばしてファイルに納めて、デジタルカメラで撮影し画像化してある。それを読み取ってエクセルシートに一枚ずつ、出身地、年号、名前なんぞを記録している。

 

 こちらが整理班。くしゃくしゃに押し込んである紙くずを、丁寧に伸ばしているところ。

 

 こうして、画像化されたものを読み取るにも経験と勘がいる。「美馬郡」というと、「あ、徳島県美馬郡」と、すぐに出てこないといけない。この場合の「刷」の意味は「版刷り」ということで、版木によるなどの「印刷物」を意味している。全体の八割ほどが「手書き」である。時代は「明治から昭和初期」、地域的には徳島県・香川県が圧倒的に多いが、たまに島根とか天草とか延岡とか知多郡とかもある。そして、多くがカタカナ名前の女性遍路である。

 

 今日は、私がエクセルの入力係。私はパソコン担当ということで協力している。

 

 今日は次のイベントで会場を使うというので、11時前に作業をやめたので、私はそのまま、高松市内にある「香川県立図書館」に向かった。皆さんとお茶をしながら情報交換も楽しいが、どうにも甘い物は苦手なのだ。

 

 で、親鸞さんほかの本を返却して、今度はため池関係の本を数冊程借りて来た。

 

 昨日の「弥勒池」にちなむお話が掲載されている本である。讃岐は昔から「水との闘い」が激しかった土地柄なのである。それだけに「水」にまつわるお話も多い。

 

 その帰りに、さぬき市寒川町にある「21世紀館 さんがわ」という施設に寄ってみた。ここで、今日から絵画展が開かれているのだという。

 

 この人は我が大川町の有名な美術の先生なのである。と、言うても、ホントは詳しくないのでググってみた。十河安則(そごう・やすのり)さんは今年92歳。太平洋戦争中に香川青年師範学校(現・香川大学)に入学、軍事訓練・勤労奉仕作業に明け暮れる日々の中、偶然立ち寄った高松市内の本屋の廃棄棚にあった『芥子園畫傳(かいしえんがでん)』を見つけて買った。十河青年は、この廃棄寸前の古本から「こころの中の山水画を描きたい・・」と一念発起したのだという。

 

 戦時中の何もかも踏みにじられてしまう激劣の時代にあって、廃棄棚に忘れ去られたようにあった本との出逢いは奇跡とも言えるが、その本の価値を知る人だったからこその必然的な出逢いと言えるだろう。70年間、戦争を知らなかった私たちに、本当の価値を見る目、真実を見極める目が必要なことを教えていただいたような気がしたものである。

 

 大自然や風物の中に、歴史の深遠さを学び、心洗われる思いで絵筆を運び続けてこられたという十河先生の集大成ともいうべき回顧展である。ほとんどが水彩画で、やわらかなタッチのそれでいて重厚さを感じさせてくれるようなミニ絵画展である。

 

 町内の美術の先生であったということだが、私は、この先生に美術を教わった・・・という記憶は全くない。ただ、学校の中や展覧会や町内の施設などで、先生の水彩画はよく目にしたような記憶が残るばかり。

 

 今日の掲示板はこれ。「好奇心、幼児性を持っていないと、大切な者を見落としてしまう。三歳の子供からでも学ぶことは沢山ある。」という堀威夫さんのことばから。堀さんの人を選ぶ三つの基準は、それが歯と目と声。「歯はビジュアルの面での美しさもそうだけど、もう一つ重要なのは咀嚼力。健康じゃないととてもこの仕事は務まらない。二番目は目。何か事を成すっていう人の目はキラキラしていますよ。イワシの腐ったような目はしていない。そして最後は声です。声っていうのは、大きければいいんです。スピーカーでも出力が大きいスピーカーで小さい音を出すと、聞こえがいい。小さいスピーカーで大きな音を出そうとすると耳障りなわけですね。それに、でかい声を出す人はネアカな人が多いし、根暗の人の声は小さい。」人を見る目もさまざまだなぁと思ったことである。

 

じゃぁ、また、明日、会えるといいね。


人待って 月にはぐれる ススキの穂

2015年09月14日 | ふるさと散歩

 さぬき市地方は高気圧に覆われて概ね晴れていた。気温は19度から24度、湿度は84%から51%、風は1mから3mの北北東の風が少しばかり。明日の15日は、はじめ高気圧に覆われて晴れているが、気圧の谷や湿った空気の影響で夕方からは雲が広がる見込みなのだとか・・・。

 

 朝から、「迷犬ごん」の脱走騒ぎであっちこっち丁稚。徒歩では見つからずに、車で捜索したら、昨日のおまつりの会場になっていた集会場の脇で寝ていた。ま、よそ様のおうちで迷惑を掛けないで良かったが、どうすれば、あのワイヤーの先のフックを外すんじゃろうか・・。

 

 今週末の法話会の準備もできていないのに、11月のマチ歩きのための準備ばかりが気になっている。で、町内の「みろく自然公園」にやってきた。ここは「奥池」とか「上池」と呼ばれる池だが、なぜか、みんなは「みろく池」と呼んでいる。この池の修復工事の際、「弥勒仏」らしき石仏が出土したので、そう呼ぶらしいが、「みろく池」という池は地形上、存在しない。

 

 その奥池堤防上にある「弥勒池碑」である。この漢文を読もうとしてやってきたのだが、朝日を背中に受けて、全く判別不能・・・。それじゃぁ、ダメじゃん、春風亭昇太。

 

 一方、こちらは「軒原庄蔵」という人。水の恩人、軒原庄蔵は、文政十一(1828)年七月高田村に生まれる。水不足に困る弥勒池(さぬき市大川町)の貯水増のため、三ッ石山の岩盤をほりぬき、砕石谷からの導水に成功し多くの農民を救った。

 

 随道工事は、当時田面村の工事監督多田信蔵(霞岳)、富田中村の数学者萩原栄次郎などの協力を得て、安政二(1855)年からほり始め、安政四(1857)年11月14日の夜明けに貫通し、長さ百五間の石穴を貫通させる難工事であった。この画期的な工事を完成させた功績により、高松藩から郷侍格にとりあげられた後、明治二(1869)年満濃池の閘石穴穿鑿工事を命じられ、明治三(1870)年三十間余の石穴を完成させ、讃岐の治水に貢献した。このため、満濃池の恩人とあがめられ、満濃池湖畔の松崎神社に合祀されている。明治二十三年(1890)六十三歳でふる里に没した。

 

 このみろく自然公園内にはさまざまな植物が植えられているが、今の時期にはこれ。リコリス畑である。その一角には真っ赤な彼岸花が・・・。

 

 彼岸花というのはご存じのように、お彼岸頃に咲くから「彼岸花」というのだが、彼岸花にはアルカロイドという毒があるため、「毒花(どくばな)」「痺れ花(しびればな)」などと呼ばれてきて、こどもたちが遊ぶのをやめさせたこともあった。その反面、でんぷんを多く含んでいるため食用可能で、毒は水にさらすと抜けるため、昔は飢餓に苦しい時に毒を抜いて食用にすることもあったそうで、田んぼの畦道に彼岸花が多いのは、その毒でモグラや野ネズミを防除するためだけではなく、飢饉に備えて植えたという説もあり、危険を覚悟してまで口にしなければならなかった昔の苦労がしのばれる。

 

 こんな俳句もある。「まこと お彼岸入の 彼岸花 山頭火」というもの。さぬき市長尾の宗林寺の境内にあったもの。まことに、お彼岸の頃になると出てきて花を開かせる花なのである。

 

 この植物は、春先には葉っぱが伸びて栄養分を球根に貯蔵し、秋になると、このように茎だけが伸びてきて、その先端に花をつける。

 

 午後からはまたもデスクワーク。調べてきた記事をまとめたり、新しい情報を探してみたり・・・。そうそう、11月分と12月分の行事予定も入力しておいた。

 

 まだ、9月の中旬だというのに、11月、12月の行事予定は早いと思うが、月日の流れなんてあっという間なのだ。もうしばらくしたら、来年用の暦とかカレンダーとかを用意しなくてはならなくなる。人生なんてあっという間だ。

 

 時期的に言うと、そろそろと、お彼岸用に自宅の周囲の草刈りやお墓回りの草刈りもやっておかねばならない時期か。明日は納め札の調査と図書館へ本の返却に行く日だな。水曜・木曜と草刈りをすれば、ご法話の準備があれあれあれ・・・になってしまう。

 

 今日の掲示板はこれ。「涼しさや 弥陀成仏のこのかたは」という小林一茶の俳句から。振り返ってみればあれほどの猛暑もいつしか遠ざかり、「さぶぅなったなぁ」と挨拶を交わすようになった。地球温暖化だ、環境保護だと騒ぐことは簡単だが、もはや文明生活を手中にした限り、私たちがそれを手放すことは容易ではない。いまさら、ろうそくや井戸水の生活には戻れないのは百も承知だ。阿弥陀さんはそんな私たちのありさまを救おうと、五劫という永い間、ひたすら思惟してくださり、成仏されたという。人間の思考や歩みをはるかに越えた、悠久の過去から、そしてまだ見ぬ未来へ向けて大きな願い(本願)をかけてくださっているのだとも言う。しかしながら、今のごとき念仏なき生活からは一茶の感じた風ほども聞きとることはできないかもしれないなぁと思ったことだった。

 

じゃぁ、また、明日、会えたらいいね。


曼珠沙華 寝ぼけ眼を 覚まされる

2015年09月13日 | お役目ごくろうさまであらっしゃいます。

 さぬき市地方は、朝方は寒気の影響で雨の残っているところがあったが、次第に高気圧に覆われて晴れていた。気温は19度から27度、湿度は83%から61%、風は2mから4mの西北西の風が少しばかり。明日の14日は高気圧に覆われて晴れる見込みらしい。

 

 今日は集落の「地神さん」の例祭日である。この朝の掃除は午前7時集合となっているのだが、6時25分には、早くもこんなに集まってお掃除をしている。ここのお年寄りはいつも早いのだ。

 

 で、集合時間の7時前にはお掃除が終わってしまった。この左手に水田があって、稲が植えられているのだが、それをサルの軍団が食べ散らかして、このあたりは野猿の糞尿で一杯だった。それに食べ散らかした稲穂とかも・・・。それをさっぱりと片付けてしまって一段落したところ。

 

 私のお仕事は、この石柱を取り巻く「しめ縄」と、正面の「御幣」である。

 

 この五角形の石柱には、上のような神さまの名前が刻んである。その名前と同じのぼりが五本、建てられている。

 

 で、集合時間の7時には、その場を解散してしまって、みんなは自宅に戻ることになる。おまつりは、午後三時からなんだが、これまた、どういう訳か、2時半には全員が集合している筈。ここで、集合を2時半と決めたら、今度は全員が2時に集合することになる。時間的には良いことだとは思うが・・・なんだか、おかしくないはないのか・・・。

 

 で、午前中は「10年メモ」というミニ自分史の更新作業。今日は、2011年12月31日から7月1日までの184日間の出来事を整理していた。半年間のミニ自分史だが、この入力をするのに午前中を費やしてしまった。5年前のことなんぞ、記憶に残っているはずがない。それをブログを読み返しながら記憶の糸をほぐすのだ。

 

 先日に注文したamazonからの荷物が届いていたのだが、なかなかにじっくりと読む間もなかった本・・・。

 

 「あ、そうだ・・・」と、思い出して、午後からはここに行って来た。

 

 しばらく行っていなかった「小砂(こざれ)説教所跡」。長雨の被害もなかったみたい。

 

 「釋正真さん」のお墓も健在。なんまんだんぶのお念仏。ま、庄松さんは、ここに眠ってなんぞいないのだけれど。

 

 「おお、先輩、元気にしておったですか・・・」。少しばかりのご無沙汰ですかな。

 

 少し見ない間にすっかりと曼珠沙華が伸びている。お彼岸が近づくと律儀に芽を出すのだから偉いものだ。自然という者は実直だ。

 

 本当は15時からの例祭と「直会(なおらい)」は、全員が揃った14時半過ぎから始まった。全員と言うても、わずか10軒の小さな集落。これでオールスターということになる。で、15時半過ぎにはお開きになった。

 

 今日の掲示板はこれ。「おこないはおれのもの、批判は他人のもの、おれの知ったことじゃない。」という「勝海舟」先生の言葉から。これは維新後、新政府の要職についた勝や榎本を福澤諭吉が「痩(やせ)我慢の説」という著書で批判をして、二人にその著書を送りつけた。その時に、勝が福澤諭吉への手紙で述べた言葉である。原文は、「行蔵は我に存す、毀誉は他人の主張、我に与らず我に関せずと存候」(世に出るも出ないも自分がすること、それを誉める貶すは他人がすること、自分はあずかり知らぬことと考えています)ということ。江戸開城を止めるために、上野のお山で彰義隊は命を捨てて戦っている最中、福澤は御殿山からその戦いを自分の弟子と一緒に傍観していたらしい。勝にすれば、「お前も曲がりなりにも武士だろう。命を懸けるほどの仕事をしてみい。学者気取りで偉いもんじゃなあ」というのが勝さんの本音だったものと思われる。批判をする方は簡単である。勝手なことを言っていればいいのだから。でも、批判されるほうは堪ったものではない。

 

じゃぁ、また、明日、会えたらいいね。


曼珠沙華 咲いて明日を 考える

2015年09月12日 | 自然ありのままに

 さぬき市地方は高気圧に緩やかに覆われて晴れている所もあったが、気圧の谷や湿った空気の影響で雲が広がってきている。気温は18度から27度、湿度は88%から60%、風は1mから3mの北北東の風が少しばかり。明日の13日は、日本海の低気圧からのびる前線が通過するため、明け方から朝まで雨が降る見込みらしい。午後からは高気圧に覆われて概ね晴れる見込みなんだとか。

 

 朝方はさわやかな秋の天候になったので、またしても、香川県立図書館にやってきた。来週の19日にまたしてもご法話のお話が入ったので、急遽、またしてものお勉強・・・の準備。

 

 どうにも、一回、お話した話題は、二回目になると雑になるというか、緊張感が薄れるというか・・・。いつも緊張感を保つためには新しい話題を仕入れておかなければ・・・みたいなことになってしまう。

 

 さて、昨日は、高松興正寺別院での常例法話会でお話をさせていただいのだが、今日は打って変わって、今度は「神職さん」の代理をやることになって・・・。

 

 で、しめ縄作りやら御幣切りなんぞをやっていた。というのも、明日の日曜日は、この集落の「地神(じじん)さん」の例祭に当たるのだと・・・。それで、うちの班が当番になっている。ところが、この班には男性が二人しか居ない。そこで、この仕事が順番で回って来るのである。

 

 こういう、稲わらでもって、縄を綯(な)う・・という作業が難しい。確かに子供の頃には仕方なくやらされていたので出来ていたのだが、高校生当たりからはそういう作業もなくなってしまったので、とんと、その要領やコツを忘れてしまっている。何度も練習はするのだが、なかなかにカッコ良くはならない・・・。

 

 御幣の切り方は「型紙」を作ってあるので、その通りに切ればいいだけのことだ。本来は「奉書」というものや「半紙」を使うのだが、私は印刷用紙の「A4版」の洋紙を使っている。このほうが慣れているし、雨にも風にも強いのだ。神さんは、和紙であろうが洋紙であろうが頓着なんぞしないはずだ。

 

 で、しめ縄と紙垂(しで)と御幣ができた。にわか神職さんだから、こんなものだ。

 

 わが家の周囲にも曼珠沙華が咲き出した。お彼岸の時期になると不思議と芽を出してくるから「彼岸花」というらしい。植えたわけでもないのに、どんどんと吹き出してくるから不思議な花だ。

 

 ようやく・・というか、とうとう・・というか、国勢調査のIDとパスワードが届いた。

 

 で、さっそく入力してみた。わが家は奥方と二人だけだから、あっという間に入力が終わった。仕事もしていないし働いてもいないから入力する項目がない。なんだか、国民の余り物みたいだなぁと感じたことだった。

 

 いやいや、決して国民の「クズ(葛)」という訳ではない。

 

 今日の掲示板はこれ。「自分だけのために生きる人生は小さくてむなしいけれど、人のために生きれば人生は無間に広がるのよ」という有吉玉青さんの言葉から。有吉玉青(ありよし たまお)は、日本の随筆家、小説家。本名は清水 玉青。大阪芸大文芸学科教授。東京都生まれ。父は興行師だった神彰、母は作家の有吉佐和子。その「美しき一日の終わり」という小説の中の言葉である。

 

 物語は、美妙が70歳を迎えて美しき一日を秋雨と過ごすお話。この美しき一日を迎える前、美妙は高校生の孫娘の里桜に語りながら、自分の生きてきた、ひとすじの道を心に見る。「自分だけのために生きる人生は小さくてむなしいけれど、人のために生きれば自分は無限に広がるのよ」と語りながら。その言葉は、秋雨が姉に求めたの と同じく、美妙が自らの人生を肯定する言葉である。いつか出会えるたった一日のためにがんばって生きる人生がある。その一日は、美しい一日であり、そして、その一日の終わりは…。

 

じゃぁ、また、明日、会えたらいいね。


つゆ草は きらめく露の そのままに

2015年09月11日 | たまにはご法務

 さぬき市地方は高気圧に覆われて晴れている。気温は17度から28度、湿度は86%から54%、風は2mから4mの北北西の風が一時強かった。明日の12日は、気圧の谷や湿った空気の影響で雲が広がりやすい見込みらしい。

 

 朝方はすっきりとして秋晴れの気持ちの良い天候になった。久々の晴れ間だなと思った。

 

 朝の散歩でも、朝露を見るようになって、いよいよ、秋の到来だなぁと実感する。

 

 で、先日の水曜日にここにお邪魔したら、「定休日」だということで施錠されていた。そう言えば、この先の「讃州井筒屋敷」が水曜日が定休日だということを思い出した。それで、このあたり一帯もお休みになるんか・・・。

 

 ということで、「今日は金曜日だから大丈夫!!」ということでやってきたという訳だ。「なんで、こんなところに来るの?」と、思われるかも知れないが、例の手袋の始祖ともいうべき「棚次辰吉」関連なのである。ここは、昔の酒造工場の倉庫だったと聞いたことがある。昭和の30年代になって、このあたり一帯が手袋景気にわき出した頃、ネコも杓子も手袋屋になった。

 

 ここは、その工場跡を、「手袋ギャラリー」として展示・公開しているし、各種の手袋関連グッズも販売している。

 

 それだし、こんな手袋アートも展示している。ま、こういうものを見てもよくわからんし、どこが良いのかもわからないのだけれど。

 

 で、棚次辰吉さんが開発した「簡便飾り縫いミシン」がないのかと店員さんに聞いたけれど、それはどこにもないと仰る。で、これが、ここでは一番古いミシンだと教えてくれた。

 

 これは比較的新しい動力式工業用ミシンである。それぞれの家庭では、内職としては普通の家庭用ミシンを使っての手袋縫製の作業をやっていたように思う。

 

 このあたりでは、これ以上のミシンの探索はできそうにない。讃岐手袋の始祖・両児舜礼(ふたご・しゅんれい)と棚次辰吉(たなつぐ・たつきち)の話しもそろそろとまとめの段階に入らねば・・・。

 

 で、午後からは、高松興正寺別院での常例法話会。このころになると気温がぐんぐんと上昇してきて、久々にエアコンを動かせて冷房モードでの運転になったし、この建物の中は冷房が効いていた。そうそう、簡単には秋にはなれないのだ。

 

 ということで、芥川龍之介の「蜘蛛の糸」のお話をしてきた。

 

 昨年も、9月11日に、ここで常例法話会を勤めさせていただいたように思う。これまた、不思議なご縁だなぁと思ったことだった。

 

 今日の掲示板はこれ。「追えば逃げるぞ赤とんぼ 待てばとまるよ竿の先」というもの。幸せもお金も地位や名誉も健康も・・・そんなものかも知れない。追いかけている間は手に入らないが、ふっと、無心になったときに、「あ、ここにあったのか・・・」みたいにすぐそばにあったりする・・・。

 

じゃぁ、また、明日、会えるといいね。


ふるさとの 花はすなおに 酔芙蓉

2015年09月10日 | ふるさと散歩

 さぬき市地方は上空の寒気や湿った空気の影響で瀬戸内側を中心に雲が広がり、雨の降っている所があった。気温は21度から28度、湿度は94%から61%、風は2mから5mの北北西の風が少しばかり。明日の11日は、高気圧に覆われて晴れる見込みらしい。

 

 おかげさまで、このブログも昨日で、記念すべき「3800日」を迎えていた。単純計算で10年と5ヶ月ということになる。平成17年の4月、高松の社宅の片隅からスタートしたこのブログが、一日の休みもなく続けてこられたのも皆さん方の応援のおかげです。本当にありがとうございます。

 

 さて、雨とかで延期になっていた「さぬき市まちあるき探検隊」のリハーサルの日になった。心配された雨も上がって順調にスタートすることができて、まずはさぬき市津田の「津田の松原・琴林公園」から。その手始めは「平山郁夫画伯・写生の位置」から。案外と、皆さんは、落ち着いてこの松林を歩いたことがないらしい。最近は海水浴もプールで済ませることが多くなって、わざわざ、この津田の海水浴場まで来ることはなくなってしまった。

 

 その次は、版画家「棟方志功絶賛の松」である。「おお、兄弟、ここにおったのか」というのが、棟方志功先生の言葉らしい。「こんなものが、ここにあったなんて知らなかった・・・」という人ばっかり・・。そういうことが話題にならなくなって久しくなってしまったのだ。

 

 松原を後にして、次の現場に行こうとして、「でも、ここの神社、何か変わったものがあった筈・・」と、このお姉さんが言い出して・・。「あ、それなら、これですよ。ここの狛犬は「日本オオカミ」なんですよ・・」と言うと、「あ、それそれ!。これは、みんなにお話しなくては・・」と、急遽、ここもコースの中に入れることになった。本当は、「愛犬ポチ」みたいな狛犬なのである。

 

 時間の関係で、本番とは順番を入れ替えて、さぬき市神前(かんざき)にある「神前小学校」にやってきた。ここには、「香川で最初の文化功労者」になった「真嶋正市」先生の資料が展示してあるのを見学させていただくためにやってきたもの。

 

 この先生が、この小学校の卒業生なのである。この先生が「大川中学校:現在の三本松高校」で学んだ頃は、校舎が間に合わず、「勝覚寺」で勉強したことは少し前のこのブログに書いた通り。

http://blog.goo.ne.jp/h-kimm/e/8cd860b96e4e897792dd4f7a025b6394

 

 次にやってきたのが、さぬき市大川町にある「さぬき市歴史民俗資料館」である。ここには、この地区の水の神様とも慕われている「軒原庄蔵」さんを紹介するためである。この人については、このブログで何度も紹介しているが、わが家のすぐ横を通っている水路を経由して、みろく奥池への導水路を作った人である。

 

 で、田面村と富田村との境になる三つ子山の下をくり抜いて「隧道:トンネル」を掘って水を漏らすことなく通水した人である。

 

 それが、この「みろく石穴」と呼ばれるものである。

 

 この隧道は全長189mしかないが、当時としては途方もない大工事であったのだ。

 

 「これが、その軒原庄蔵だ」と紹介すると、みんなは拍手喝采になった。

 

 そこまでで、現場の案内は終了した。あとは、当日の私の案内の時間配分だけ。これまた、11月の14日と21日。まだまだ先の話である。これは、ひとまず置いておくことにして。今度は、お昼のランチのリハーサル。女性たちは、これが楽しみなんですと・・。

 

 ここは、さぬき市末という地区にある「Cafe 樹樹(ジュジュ)」というお店で、昔は葉タバコ(米葉:ベーハ)を乾燥させるための「ベーハ小屋」だったものを改装したものだという。これが改装前のベーハ小屋である。

 

 今は説明しないとわからないくらいに改装されている。ここは、このあたりにあるベーハ小屋とは少し違っていて、「超屋根」というものがなくて、2本の煙突形式になっていたらしい・・。その名残を残してある設計になっているのが興味深い。

 

 だから、室内からは、こうして青空が見える。もちろん、雨の入らない構造にはしてあるらしい。

 

 室内は、元、葉タバコの乾燥室とは思えないほどのオシャレな作りになっている。

 

 で、肝心のランチだが、今日はオムライスとサラダである。当日は別メニューになるらしい。そういう予約やお値段や写真なども確認しておく。それにマイクロバスの駐車場とかも確認しておかねばならない。

  

 デザートには、こういうケーキとコーヒーがつくらしい。甘い物は苦手なんだが、今日はお仕事だからと食べてみた。ま、やわらかくて(当たり前だ)おいしかった。

 

 県道脇には、こういう目印があるのだが、小さなものだから見逃すとお店にはたどり着けない。そんな山に隠れた、まさに隠れ家的なカフェである。

 

 今日の掲示板はこれ。「小さくてもいいから、鋭いキリで深い穴を開けてみよ。壁の向こうが見えてくる。」という常盤文克さんのことばから。人生において大きな壁に突き当たることは多々あるもの。目指す目標が大きければ大きいほど、その壁は高くなり、厚くなってくる。そんなときは、この言葉のように、小さな穴から活路を見出す努力も必要なのではないだろうか。じっと、こまねいていてはものごとは進まない。

 

じゃぁ、また、明日、会えたらいいね。


雨となり さすがのセミも 啼き飽きる

2015年09月09日 | 時にはぼぉっ~とする時

 さぬき市地方は台風第18号や湿った空気の影響で雲が広がり、雨の降っている所があったし、雷が鳴ったところもあった。気温は20度から26度、湿度は94%から71%としのぎやすくなった。降雨量は1mm/h程度のごく少量。風は1mから3mの西南西の風が少しばかり。明日の10日は、気圧の谷や湿った空気の影響で雲が広がりやすく、明け方から朝にかけて雨が降るらしい。

 

 今日も朝から雨になった。雨ではどうしようもないなぁと、またしても香川県立図書館にやってきた。讃岐では、ほかに行く所がないのか・・と思われそうだが、確かに行く所がない。

 

 と、言うのも、この11日に法話会があるのだが、「まだまだ先だな・・」「まだまだ、先だな・・」ということで、先送りばかりしていたらば、すっかりと目の先までやってきてしまったのだ。あんまり、早くから準備をしてもテンションが揚がらない。「まだまだ、大丈夫だから・・」と思ってばかりいたならば、もう、明日、明後日に迫ってきたではないか・・・。

 

 と、言うことで、法話の材料を今頃になって考えるなんて・・・。でも、今まで、まるきり、そういう気持ちにならなかったのだから仕方がない・・。このお話を頂いたのは6月ごろではなかっただろうか・・。だから、「まだまだ、先だ・・・」ばかりを繰り返してきたような気がする。

 

 で、先週あたりからは気にはなっていたのだが、なかなかにエンジンが掛からない。ま、おおまかには頭の中ではお話はできているのだが、お話のストーリーがうまく組み立てられていないのだ。

 

 シトシトピッチャン・シトピッチャン・・・。雨だれの音でも眠くなるお年頃・・。「それじゃぁ、ダメじゃん、春風亭雄昇(私の芸名)!」

 

 夏休みの終わった小学生みたいに、大慌てで原稿の整理をやっていた。時間は現場あわせになってしまうのだけれど、ストーリーと場面の絵はできた。

 

 その後は、例の10年日記帳の整理。2015年から2014年、2013年と過去へと遡り、2012年7月までが整理できていたので、今日は6月から1月までのブログを繰り読みしながら整理をしていった。

 

 縦軸が月日である。横軸が年で、その1日を一言で残すメモである。これで、おおよその来年の予定が考えられるし、昨年の今頃のメモを見れば、今年はどうするかが見えてくる。これを見ると、図書館通いと病院通いがよく目立つ。

 

 そんなこんなで、今日のお昼はこれ。これとアイスコーヒーであっさりと済ませた。昨日もこんなお昼だったなぁと思いながら・・・。

 

 天候は相変わらず曇ったまんまの湿ったまんま・・・。

 

 そこで、久々に「ロータス・ポンド」のお掃除。落ち葉やゴミが溜まっていて見苦しくなっていたので、メダカの水槽だけの大掃除をやってみた。メダカを流さないように水をくみ上げて流し、ゴミを掃除して、下の川からポンプアップして水を入れ替える。

 

 夏場は「暑いから・・・」とサボっていたのだけれど、そろそろやっておかないと、今度は「水が冷たいから・・」とか、「寒くなったから・・」と言い出しかねないので、思い切って水の交換をやっておいた。

 

 メダカたちは、きれいな水がいいのか、濁った水がいいのかは分からないが、ま、ヘドロのような水よりかは少し住みやすくなったのではないかな・・と思ったことだった。

 

 今日の掲示板はこれ。「若い時に流さなかった汗は、老いてから涙になって返ってくる」という三村仁司さんのことばから。一説には、「世界一愚かなお金持ち、日本人 」という本に出て来る鍵山秀三郎さんの言葉であるとも言われている。「若いうちの苦労は買ってでもせよ」と、よく先輩や年長者から言われた言葉であるが、そういうことなのかも知れない。「若いうちに遊びほうけていたら、年を取ってから苦労するぞ・・・」というのも似たような言葉かも知れない。ふと、アリとキリギリスの童話を思い出した。

 

じゃぁ、また、明日、会えたらいいね。


彼岸花 揺らせて過ぎる 風がある

2015年09月08日 | ふるさと散歩

 さぬき市地方は気圧の谷や湿った空気の影響で瀬戸内側を中心に雲が広がり、雨の降っている所があった。また、夜遅くにも雨が降る見込みらしい。気温はぐんと下がって19度から24度、湿度は90%から84%、風は1mから2mの西の風が少しばかり。明日の9日は、台風第18号が北上する影響で雲が広がり、雨や雷雨となるらしい。

 

 今日も雨である。全く・・梅雨のような秋雨の連続で野菜や米の収穫にも困っているらしい。

 

 連日の雨で、このようなキノコ類がニョキニョキと伸び放題である。食べられるようなキノコではない。

 

 で、恒例となった火曜日の「おへんろ交流サロン」である。毎週火曜日はここで「俵札(俵に入ったお遍路さんの納め札)の調査」が行われる。パソコンが堪能だから・・ということで、緊急動員されているというわけだ。

 

 ここは、お遍路さんたちの情報交換や地域住民との交流の場になっている。また、交流サロン内にある「へんろ資料展示室」には、江戸時代の紀行本や古地図、また接待を受けたお遍路さんが残した江戸中期からの納札や古い納経帳、手形など、四国遍路の歴史を感じさせる貴重な資料となる品々が展示されている。

 

 今日はお天気が悪いせいか、参加者はぐんと減って八人ほどになった。この人たちは、くしゃくしゃになった納め札のしわを伸ばし、一枚ごとにファイルに納め、手前の先生が読み取って整理をしている。

 

 こんな風に、手書きの納め札を読み取って、「整理番号・納め札・弘化3年・備後国・福山市深津・手書き」などと整理をしてくれる。

 

 それをデジタルカメラで撮影して画像化されたものを、私が読み取って、

 

 会長さんが、エクセル・シートに入力して行く。先週は、この仕事が逆だった。私が、この入力当番だったのだけれど、今日はタイピングが素早い女史が来る・・・というていたのだが、欠席したために、やむなく、こうなった。

 

 9時から始まった作業は11時半でおしまいになる。あとは座談会になって、12時に解散になる。今日は、おはぎにシュークリーム、それにいちじくがサービスで出された。ま、みんなの持ち寄りである。私たちは便宜上、「お接待」と呼んでいる。お接待だから、否が応でも受け取っておいしく食べなければならない・・・。

 

 こういうのを、お昼前に食べたらだめだ。それに飲み物はコーヒーである。だから、今日のお昼はお休みになった・・・というか、これらがお昼になった。

 

 この地図は、この「おへんろ交流サロン」から、四国霊場88番札所の大窪寺までのお遍路ルートである。ここの「前山ダム」から大窪寺までには五本のルートがある。このうちの、水色のルートが「花折れ峠道」であるが、私は一度も通ったことがなかった。「それじゃぁ、ダメじゃん、春風亭昇太」ということで、今日は時間もあるから・・ということで、車で走ってみた。

 

ここが、「峠の地蔵」で、七十丁の地蔵とも言われている。大窪寺まで後少しなのに、力尽きて亡くなった人の墓が右側に二基並んでいる。

 

 地図で見ると、一直線に大窪寺に向かっているように見えるけれど、実際には、つづら折りの急な坂道の連続。これを歩いて上り下りするのは大変だろうなぁと思ったことだった。

 

 ま、形としての「おへんろさん」も尊いと思うけれど、これを歩いてお四国を一巡するというのは体力的にも財政的にも精神的にも無理だなぁと思うことだった。

 

 今日の掲示板はこれ。「どんな難局にあっても、「どうにかなる」という楽観性と「自分でどうにかする」という強い決意があれば、そこを切り抜けていくことができる」という塩月弥栄子さんの言葉から。生きていると様々な難局に出会うもの。その難局との出会いでどのような行動をするかで人間性が表れたりするものだ。多くの難局との出会いが人間性を高め、 難局に対して的確に処する術が身についていくのではないだろうか。難局に対しては楽観性と強い決意を持って臨むことが肝要であると、塩月先生は語ってい る。

 

じゃぁ、また、明日、会えたらいいね。


アキアカネ ぐうたら午後を ひとまたぎ

2015年09月07日 | 時にはぼぉっ~とする時

 さぬき市地方は気圧の谷や湿った空気の影響で東部を中心に雨や雷雨となっていた。気温は20度から24度、湿度は92%から81%、降雨量は0mm/hから1mm/h程度のこぬか雨程度。風は1mから3mの北北東の風が少しばかり。明日の8日は、引き続き、気圧の谷や湿った空気の影響で雲が広がり、夜遅くには雨が降る見込みらしい。

 

 朝から雨になっているし、月曜日だから、図書館や資料館・博物館は全体的にお休み。そうなると、自宅待機でお勉強しかない。この週末には法話会もあるし、準講演会もあるしであれこれとお勉強もしたいのだけれど、オツムのほうが動かない。

 

 わが家の周囲も草だらけだし、庭木も伸び放題だから、草刈りやら剪定やらもやらないといけないのだが、雨ではやる気が失せてしまう・・・。

 

 さて、首相官邸のドローン騒ぎから、とうとう飛行禁止の法律まで施行されるようになって、このメーカーも慌てだしてきて、一ヶ月に一回の配本だったドローン講座が、なんと、5ヶ月分を一月に送りつけてくるようになった。だから、奥方が悲鳴をあげている。一ヶ月分の筈が5ヶ月分も請求が来るのだから・・・。

 

 だから、5ヶ月分を一回で作業しようとなると、これまた大変。取り付ける方向を誤ったり、それを修正しようとして、部品をどこかに飛ばしてしまったり・・・。

 

 老眼鏡を掛けたり外したり、ルーペを置いたり外したり、どうにかこうにか、取り付け完了・・・。

 

 で、「23号で提供した部品を・・・」と言われても、どれが22号やら23号やら、こんなちいさな部品には番号も記号もついていない。周囲の状況と勘とで作業するしかない。

 

 どうにか、ワッシャーが組み込めたみたい。これがエンジンである。このモーターが回転軸を回してプロペラが回転する筈なんだが、果たしてうまく回るものかしらん・・・。

 

 だんだんと、それらしくはなっては来るのだけれど。

 

 ということで、8月分の5ヶ月分は組み立てが終わったが、最終の57号が届くのは来年の4月だというのだから、まだまだ気の遠い話だ。

 

 プロポはとっくに到着しているが、これがお役に立つのは来年の5月・・・。

 

 雨は降ったり止んだりを繰り返しているが、小学校の授業のように、図画工作の時間ばかりでは飽きてしまう。ドローンの小さな部品ばかりを見ていると目がおかしくなる。そこで散歩をしてみたくなったり、運動会のように走り出してみたり・・・。

 

 近くの水田の中で暴れ回っていた野猿の一団が、今度は栗の木を見つけたみたい。このあたりのサルは、この実があおいうちに食べてしまう。もう少し待って、栗がはぜて落ちてから食べればおいしいと思うのだが、人間様の感覚とは違うようで、実が若いうちに食べてしまうのが不思議である。

 

 今日の掲示板はこれ。昨夜の「花燃ゆ」の最後に出てきた言葉である。「おもしろき こともなき世を おもしろく」という高杉晋作の辞世の句である。私達の感じている周囲の世界はただの現象世界であり、そこにはどんな意味や価値判断、意図もない。あるのはただの無為自然でしかない。それにひとつひとつ意味付けをしていくのは、私達一人一人の感覚であり、解釈である。高杉晋作はそういうことを詠んでいるのだと私は思う。だから、自分のしていることもしてきたことも、世の中が変わろうとしていることも全て、所詮はその程度のものなのだ、と達観したのではないだろうか。

 

 例えば、出かけようとした時に雨が降ったからと言って、それで私達は不幸になるわけではないし、幸福になるわけでもない。雨は何も考えてもいないで、ただ降っているだけである。それをどう受け止めるかは私達次第。自分だけに降っているように感じて、こんな時に限って・・と、不運な自分を惨めに思うか、何気に今日は家でのんびりせよ、という天の思し召しだなあ~と思って、のんびりするものか・・・。自分の人生を後世の人がどう語ろうと、それは私の心の、私だけがわかっている私の人生ではない・・。そんな意味が込められているのかなぁと思ったことだった。ちなみに、「すみなすものは心なりけり」という下の句は、看病していた野村望東尼がつけたものと言われている。

 

じゃぁ、また、明日、会えたらいいね。


降って止む 雲のしずくの 秋の雨

2015年09月06日 | お役目ごくろうさまであらっしゃいます。

 さぬき市地方は低気圧や前線の影響で雲が広がり、太平洋側を中心に雨が降っていた。気温は21度から28度、湿度は96%から76%、風は2mから6mの南東の風が少しばかり。明日の7日は、低気圧や湿った空気の影響で雲が広がり、夕方を中心に雨が降りやすい見込みらしい。

 

 今日は集落内の「山の神さん」の例祭日だから、朝の7時から掃除に出なければならない。ところが、この集落は、なぜか、30分前に集まる風習がある。それはそれで素晴らしいことかも知れないが、それならば、30分前を集合時間にすればいいと思うが、そうすれば、さらに30分前に集まることになる。それを考えていると、朝の5時に起きてしまった。二度寝をしたら間に合わなくなるので、結局は5時起きの6時にごんの散歩、6時半に山の神さんに出かけて行った。

 

 竹木が倒壊しているのを片付けて、落ち葉を掃除して、しめ縄を飾って、御幣も飾って、のぼりを建てて・・・。7時半過ぎごろ、そこへ朝からものすごい雨が・・。みんなは一目散に逃げ帰ってしまった。ま、準備ができたところだったので、ちょうど、良かったということで・・・。

 

 朝食を食べ終わるとすぐに、四国霊場87番札所の「長尾寺」に向かった。今日は、「おへんろつかさ養成講座」の二回目講座の「長尾寺実地研修」の日であった。私は広報担当の取材と、駐車場案内係。いわゆる「スタッフ」出仕である。

 

 「おへんろつかさ養成講座」も、今年で9回目の「九期生」である。今年は、募集期間が大幅に短くなったが、それでも、30名の応募があったらしい。こうしてみるとご婦人が多いように思う。

 

 9時から講義が始まって、まずは、境内全般の案内から・・・。山門前の「経筒」から、山門、大師堂、本堂、静御前の「剃髪塚」あたりまで。

 

 9時半からは、書院に集まっての座学の講義。1コマ目は、片桐孝浩先生から「さぬき市内の石造物」についての講義があった。道標や標柱、遍路墓、丁石などの、遍路道沿いにある石造物に関する知識とその調査結果報告など・・・。

 

 丁石(ちょうせき)というのは、「大窪寺まであと39丁」とかと、距離を示す石の地蔵さんであるが、これが一丁(ここでは109m)ごとに建てられている。その建設順番とかの話しに重点が置かれた。というのも、三叉路とか四又路とか村境にまず丁石が建てられ、その後、その間を埋めるように建てられたとか・・・。

 

 単なる道ばたの石ころのようなものでも、目の付けようによっては、これが貴重な財産になり、遺産になり、歴史資料になるということである。

 

 続いては、長尾寺木村俊雅住職の講話があった。今回のテーマは「お接待」であった。最近は歩き遍路が減少し、マイカー遍路やバス遍路が主流になって、昔からの「お接待」が減ってしまった。お接待をする機会が減ったのである。そういう中で、どういうお接待をすればいいのか、どういうお接待が喜ばれるのか・・みたいなお話だった。

 

 その後は、本堂、大師堂内へ移動して、そこでお寺の縁起や仏教の歴史、仏教がたどった道などの講義があった。大師堂では、静御前にまつわるお話なんぞを伺った・・・。

 

 夕方の15時からは、「山の神さん」のおまつり。毎年、1月と9月のこの頃におまつりになるが、御神酒さんを頂いて、菓子パン二個とペットボトルのお茶で座談会をしておしまい。それも、最近は30分程度になった。話題はサルやイノシシの話しばかりになる。

 

 これまた、娯楽のなかった時代の名残で、今は集まっても共通の話題がないのがさみしくなった。で、今週は「山の神さん」で、来週は「土地の神さん」で、「地神さん」のおまつりになる。収穫の秋が終われば、山の神さんも、土地の神さんもお役目ご苦労さま・・ということで感謝を申し上げて天上界へお帰り願う儀式なんだろうと思うのだが、今は誰もそんなことにも頓着しない。昔からやっているからやっているだけに過ぎない・・・。

 

 ま、過疎化が進む山あいの集落だから、「安否確認」の意味合いがあるのかなぁと思いながら、私は一言の会話もせずに戻って来てしまった。なにせ、男性は二人だけだで、後の七人は女性ばかりだったので、女性の会話には加われない。その男性二人も共通の話題がないもので黙っているばかりだった・・・。

 

 今日の掲示板は意味もなくこれ。「君は自分の目で確かめたか。自分の足で歩いたか。自分の手で触ってみたか」という、松下幸之助さんの言葉から。私が講演をするなり、本を書くなりする上で、この三要素は欠かせない。法然上人の足跡でも、讃岐の二十四輩研究でも、今の「讃岐の和三盆糖」研究や「讃岐の手袋産業」研究でもそうだけれど、本に書かれていることを、自分の目で確かめ、自分の足で歩いて確かめ、自分の手で触ってみないと納得したものは生まれない。会社時代にやかましく言われた「現地に行こう」「現物に触ろう」は、いまだに身体にしみついていて離れない。

 

じゃぁ、また、明日、会えたらいいね。


涼しさを 弥陀成仏と 頂いて

2015年09月05日 | ふるさと散歩

 さぬき市国地方は高気圧に覆われて概ね晴れていたが、昼過ぎからは気圧の谷の影響で雲が広がり、雨の降る所がある見込みらしい。気温は22度から28度、湿度は90%から65%、風は1mから2mの北北西から南南西の風が少しばかり。明日の6日は、気圧の谷や湿った空気の影響で、雨が降りやすい天候になるらしい。

 

 さて、昨日が東ならば今日は西・・・という訳でもないが、今日は高松市塩江町安原下にある萩寺こと、「最明寺(さいみょうじ)」さんに行ってきた。最明寺は、四国を代表するハギの名所である。境内には現在、宮城野萩、紅萩、姫萩、駒止萩、通天萩など10数種類、約200株のハギがある。このハギは、先々代の住職さんが株分けをし、移植をして基礎をつくり、その意志を継いだ先代の住職さんが、なお一層の増殖と庭園の整備を行ったものである。ハギの花に埋もれた境内は、文字通り、「萩だらけ」なのである。

 

 ただ、まだ、時期が早いのか、境内の萩はほとんど花をつけていない。明日の九日が「流れ灌頂の供養日」だというので、駐車場や境内はきれいに整備されていた。701年、行基菩薩が薬師如来像を彫り、本尊として安置した。古くは如意輪寺、のちに北条時頼が再興し,最明寺と改名した。萩の名所として有名である。

 

 参道筋にある萩は、雨で傷んだものかよれよれになっているものが多かった。境内の萩が咲きそろうのは、もう少し先になるのかも知れない。

 

 そのお寺のすぐ前を通っている道が、「ガソリン道」と言われる、旧塩江温泉鉄道」の線路が走っていた道である。

 

 だから、このような遺跡が残されている。これは、「中村駅」という駅のプラットホーム跡」である。今は、個人に払い下げられて墓地になっている。

 

 また、旧町道部分には、このようなトンネルの跡もそのまま残されて通行できるようになっている。塩江線(しおのえせん)は、かつて香川郡香川町仏生山町(現・高松市仏生山)の仏生山駅と香川郡塩江村(現・高松市塩江地区)の塩江駅を結んでいた琴平電鉄(ことひらでんてつ、現・高松琴平電気鉄道の鉄道路線で、日本内地における、史上唯一の非電化標準軌鉄道線であった。1929年(昭和4年)に琴平電鉄の子会社である塩江温泉鉄道(しおのえおんせんてつどう)の路線として開業したが、経営難により、のち親会社の琴平電鉄に吸収合併されて同社の塩江線となった。1941年(昭和16年)に戦争激化の煽りを受けて廃止となった。

 

 路線は「高松の奥座敷」と呼ばれる塩江温泉に至る国道・県道を沿うように敷設されており、廃止後60年以上を経てなお一部に廃線遺構が残る。また、廃線跡のうち仏生山駅から高松市香川町浅野にかけては道路となっているが、本路線がガソリンカーでの運行であったことから、この道路には「ガソリン道」という通称がある。さらにその先の同市香川町川東下から同市塩江町安原下にかけての廃線跡は塩江香川高松自転車線(香東川自転車道)となっている。

 

 これも、今も残る「安原トンネル」だが、ここは道路ではなく、農家の物置になってしまっている。

 

 その途中にあるのが、「山田蔵人高清」の墓である。五色台・青峰山(高松市中山町)の "牛鬼退治" で知られる、弓の名人「山田蔵人高清」(やまだ くらんど たかきよ)のお墓である。江戸時代の少し前の頃、この地には牛鬼がいて人や家畜に危害を加えていた。そこで弓の名手であった山田蔵人高清に退治を依頼した。高清は3本の弓で見事に牛鬼を退治した。高清は退治した牛鬼の角を切り取り、根香寺に奉納し菩提を弔ったと伝えられている。現在、根香寺にはその牛鬼の角と呼ばれるものと、牛鬼の姿が描かれた掛け軸が伝わっている。

 

 これが、青峰山根香(ねごろ)寺の山門脇に建てられている「牛鬼像」である。

 

 墓碑には、「円密院弓清居士」と刻まれ、文禄三年(1594)2月2日の字が見える。

 

 目のよく見える方は、この看板をご覧になるといい。こういうお墓があると、あのような「牛鬼」がいたのかと・・・本当のように思えてくるのだけれど・・・。

 

 昨日のNHK-TVでは、これを「ヒガンバナ」だと放送していたけれど、これは、このあたりでは「鍾馗水仙(しょうき・ずいせん)というし、単に、「リコリス」と言ったりする。これはどうしても「ヒガンバナ」には見えないのだけれど。

 

 これだって、同じように「リコリス」と言うものなんだと思うのだけれど。

 

 今日の掲示板はこれ。「涼しさや 弥陀成仏のこのかたは」という、小林一茶さんの言葉から。この句の「涼しさ」は残暑に、ふとそよぐ風の涼しさをあらわすものであるという。省みればあれほどの猛暑もいつしか遠ざかり、「急に冷え込みましたなぁ」 と挨拶を交わす時期になった。「秋はどこにいったのか」と環境の変化を嘆く。阿弥陀さまはそんな私たちのありさまを救おうと、五劫という永い間、ひたすら 思惟くださり、成仏されたという。人間の思考や歩みをはるかに越えた、悠久の過去から、そしてまだ見ぬ未来へ向けて大きな願い(本願)をかけてくださって いるという。そんなご恩を、ふと流れてくる涼しさの中に感じたいものである。

 

じゃぁ、また、明日、会えたら、いいね。


秋の日は 言い訳ばかりを 考える

2015年09月04日 | ふるさと散歩

 さぬき市地方は高気圧に覆われて概ね晴れていた。気温は20度から28度、湿度は92%から59%、風は1mから4mの北北西の風が少しばかり。明日の5日は、午前中は晴れるけれど気圧の谷や湿った空気の影響で次第に雲が広がり、夕方から夜のはじめ頃は雨が降る見込みらしい。

 

 今日は久々に晴れていい季候になったので、東かがわ市白鳥田中にある「千光寺」を訪ねてみた。ここは惠日山舎那院千光寺と号する真言宗御室派の寺院である。高校生の頃、ここの経営する「惠愛学園」に勤めている人と知り合いになって、よく遊びに寄せてもらったことがある。ここは、児童養護施設である。

 

 だから・・・、もう、50年ぶりにもなるだろうか。ここには、このような池があって、周囲は全山が墓地になっている。その中心に、大日堂という本堂がある。

 

 この本堂のすぐ横に、「手袋の始祖」とも仰がれている「両児舜礼」という人のお墓がある。元はこの地の塩田で働く農家の息子が岡山の両児山金剛寺に入って修行する。ここで、「舜礼」という名を頂戴して「両児舜礼(ふたご・しゅんれい)」という名になった。本名は、「棚次米吉」であった。31歳の時、この千光寺の副住職として戻ったが、土地のタケノという女性と駆け落ちし、大阪で苦労した。その時、メリヤスと手袋を知り、手袋の基礎を築いたが38歳で病死した。その手袋の芽は、タケノ未亡人といとこの棚次辰吉によって大きく成長し、東かがわ市の基幹産業にまで発展した。

 

 こちらが、「手袋神社」と言われる場所だが、建物も社もない。この石柱が「両児舜礼」の碑であり、銅像が「棚次辰吉」である。

 

 この舜礼は還俗して、「香山舜造」と改名して、托鉢行をやめ、メリヤス手袋の製造に傾注した。38歳の1月、父の死を知った舜造は古里に戻り仏事をこなした。この時に、いとこの棚次辰吉ほか4名を連れて大阪に戻ったが、間もなく舜造は病死してしまう・・・。

 

 その跡を引き継いだのが、この「棚次辰吉」であったというわけ。

 

 近くには、「日本一低い山」と言われる「雄山」がある。

 

 ここが山頂で、境内にある標高3.6mの山頂である。白鳥神社では『日本一低い山』とうたっているが、国土地理院に日本一低い山と認められる為に、国土地理院発行2万5千分の1の地形図に掲載される事を目標としている。また白鳥神社で登山証明書を発行している。

 

 その近くで、奇妙な松を見かけた。どうにも枝の形がおかしいし、葉っぱの出方も妙である。台風かなんぞで、枝がねじれてしまったみたいである。

 

 で、この辰吉の開発した「簡便飾縫機」を探してみたが、どこともが「貴重品」だとして隠してしまってあるらしく、一般の目には触れられないようである。やがて、いつの日にか、この特殊ミシンが展示公開されるのを見てみたいものである。

 

 これは一般に公開されている手縫いミシンであるが、これを参考にして、観音さんから夢告された「歯車」を採用したのが、辰吉の特許らしい。

 

 奥方のけいこばぁが、「東に行くなら、このボールペンの芯を交換してきてよ・・」というので、この文具店に寄ってきた。書けなくなったボールペンを持ち込めば、有料だが替え芯を交換してくれるなんて初めて知った。料金は品物によるが、60円から90円くらいらしい。新品を買っても90円から150円くらいなものだと思うのだけれど・・・。

 

 今日の掲示板はこれ。「自分には人間だものと言い、他人には人間のくせにと言う」というもので、いつもの赤松先生のお寺にあったもの。言い訳をするときに、自分には、「人間だもの」と言い、他人を責める時には、「人間のくせに」と言う。車いすの人を「障がい者」と言い、メガネをかけた人は、「健常者」と言う。足と目の違いだけなのに。

 

じゃぁ、また、明日、会えるといいね。


あきあかね ぐうたら午後を のぞき込む

2015年09月03日 | 今日はすっかりと俳句の世界

 さぬき市地方は前線や低気圧の影響で雲が広がり、雨や雷雨の所があるらしい。気温は22度から25度、湿度は96%から90%、降雨量は1mm/h~4mm/h、風は1mから2mの南南西の風が少しばかり。明日の4日は、高気圧に覆われてくるため概ね晴れるらしいが、気圧の谷や湿った空気の影響で、朝にかけて雲が広がる見込みなのだとか。

 

 で、香川県立図書館の蔵書検索で調べたところ、何冊かの興味深い本が見つかったので、「それ、行け~」っとばかりに、香川県立図書館にやって来たという訳。

 

 さすがに九月になると蝉の声は全く、聞こえない。あれだけ騒がしかった蝉はすっかりと往生してしまったのか。自然の移ろいというものは、残酷でもあるし冷酷でもある。それに、全く興味すら示さずに通り過ぎる人間はもっと冷酷だ。

 

 この、「向山周慶翁伝」「讃岐さとう物語」はともに貸出禁止の本だった。間の、「薩摩の目を逃れて」は借りてきた。少ない貴重な本なのに貸出禁止というのはちと辛い・・・。

 

 この、郷土コーナーというのは、いつも人影が少ない。ま、その分、落ち着いて本を探せるのだけれど。

 

 今日、借りて来たこの本、ともに「松村哲夫」という人の本だが、中身は「小説」というか「物語」であった。中学校の校長を退職して書き上げた「作品集」らしいが、小説では論文の参考にはならない。

 

 この小説では、主人公の「向山周慶」に目を向けるのではなく、奄美大島からやってきたお遍路さんに焦点を当てているが、「当盛喜」という人物が、なぜ、「関良助」になったのかがわからない。江戸時代のことだから、勝手に名前を変えてもいいっていうもんじゃないし、「関さんの勝手でしょ・・」というもんでもないし・・・。

 

 このいかめしい「白鳥(しろとり)町史」は参考になるぞ・・・と期待したが、それこそ、「データー」ばかりで、少しも参考にならなかった。「帯に短したすきに長し」である。物事はなかなかにうまくいかないものだ。

 

 文章部分だけでもと、一応はスキャンをやってみたのだけれど、果たして使えるのかどうか・・・。

 

 ここには、讃岐の糖業と、手袋産業が掲載されているのだけれど、ご法話や町歩きのタウンガイドに、あんまり詳細なデータはいらない。30分もみているだけで、あたまがクラクラとしてきたものだった・・・。

 

 珍しいと思ったのは、人力によるサトウキビ絞りの作業である。ほとんどの場合、牛による搾汁作業が描かれていたが、ここでは二人の男性による作業であった。これは少しばかりきつい作業だったのじゃないか。でも、牛のいない家庭なんぞでは、牛を借りてまでもは作業できないから、こうした方法もヤムを得なかったのか・・・。

 

 昭和の中頃だろうか、昭和の40年代ごろから急速に農家の機械化が進んで、耕耘機やトラクターなんぞが走り回るようになると、急速に牛や馬が農家から消えた。このあたりでも、各農家には必ず、牛がいたものだなぁと、ふつ、思い出したことだった。

 

 今日の掲示板はこれ。「苦しみをなげく人あり 苦しみを活かす人あり」というもの。これまた、どこのどなたの言葉かはわからないのだが、過去に起きた不運な出来事は、すでに過ぎてしまった仕方ないことである。それをいつまでも引きずり、苦しみを背負い続けるか、それとも、それを活かして人のために役立たせるか、その発想には人生のつくられ方がまったく逆になることだろう。大切な一度きりの人生をしっかり見据え、考え、生き方を選択したいものである。

 

じゃぁ、また、明日、会えるといいね。


こおろぎは 世のあれこれを 聞き流す

2015年09月02日 | ふるさと散歩

 さぬき市地方は前線や湿った空気の影響で昼過ぎから雲が広がり、雨や雷雨の所があるらしい。気温は22度から27度、湿度は94%から72%、降雨量は0mm/h、風は1mから4mの北北東の風が少しばかり。明日の3日は、前線や上空の寒気の影響で雨が降りやすく、雷を伴う所がある見込みらしい。

 

 例の「まち歩き」のリハーサルが、今週の土曜日に迫ってきた。こころの準備はできているのだけれども、ペーパーとかの準備は皆目である。どういう資料を何部用意するかもわからないし、どんな形式で資料を作ればいいのかも浮かんでこないのだし・・・。

 

 まずは「現地に行こう」「現物にさわろう」である。

 

 こういう画像がでてきたものだから、今日は、この実物を探しに行こうと決めた。朝方は秋のようなさわやかな天候だったし、暑くもないし、寒くもないし・・・と。でも、お墓って言ってもなぁ・・と、やや不安。田舎は自分んちの屋敷や畑の中にお墓を作ることがあるし・・・。

 

 でも、そんな心配はいらなかった。要所・要所に、こういう案内標識が立てられていた。「顕彰会」というグループが、こんな看板を立ててくれているのである。

 

 青い矢印は、博士が子供のころに通った小学校の位置。お墓は自宅とは少し離れた「熊高山」の中腹、赤い矢印の場所にある。生家は、赤い矢印の下(出発点)あたり。

 

 細い山道を、クモの巣を払いながら登っていくと、幾つかのお墓が見えてくる。この地区の墓地らしいが、数はそんなには多くない。その中ほどに、このお墓があった。

 

 このあたりでは珍しい「院殿号」のついた立派な法号である。詳しくメモしようと思ったが、ものすごい「藪蚊」の襲来を受けて早々に退却した。雨のあとでもあったせいか、藪蚊独特の羽音と顔面にぶつかってくる小さな物体にはお手上げだった。こんなところにもあったのか、「院殿大居士」号が・・・。

 

 真島家の墓域はこういう形式になっていて、お墓は東面している。

 

 これが「神前(かんざき)小学校」で、ここに胸像とか顕彰碑とかが建てられているが、二学期が始まっていたので、中には入れなかった。

 

 その足で、東かがわ市にある「手袋資料館」に寄ってみた。真嶋博士の次は、この地の手袋産業の始祖、「棚次辰吉」氏である。その手掛かりを求めてやってきたというわけ。

 

 これが、その棚次辰吉さんである。明治7年の生まれで、生家は貧しい農家だった。小学校にも行かせてもらえず、檀那寺である教蓮寺という真宗のお寺の奉公に出た。その後、いとこの「両児舜礼」に誘われて大阪に出てメリヤス業に就いた。こうして、彼の作ったミシンを使って「手袋」が作られるようになった。

 

 ま、その手袋の話はずっと先のことになるので、今日はここまで。とにかく、今日は、概略の把握と、これからの作戦の立案のための下調べ・・・というところ。

 

 今日の掲示板はこれ。「不幸には不幸の原因があり 幸福には幸福の原因がある どちらの原因も自分がつくる」という「城たいが」さんのことばから。そもそも、幸福も不幸も、自分のこころのなかの問題なのであるから、自分自身の問題ではある。ただ、私たちはマイナス思考の名人だから、不幸ばかりを追い かけている。新聞もテレビも不幸ばかりをやっていて、それを見て、みんなは安心している。幸福になると、みんなから嫉まれるし嫌われるから、しんどいけれどと、みんな不幸になっている。忙しい・・貧しい・・・苦しい・・・と言い続けて暮らしているのである。

 

じゃぁ、また、明日、会えるといいね。


ようやくに セミの啼かない 頃となり

2015年09月01日 | たまには真剣な研究なども

 さぬき市地方は山陰沖を北上する前線の影響で雨が降り、雷を伴って激しく降っている所があったし、夕方まで雷を伴い激しく降る所があるらしい。気温は22度から27度、湿度は94%から72%、降雨量は0mm~9mm/h、風は1mから6mと、まるで台風禍と思うような雨も降ったり止んだりしていた。明日の2日は、引き続き、前線や暖かく湿った空気の影響で雨が降りやすく、雷を伴う所がある見込みらしい。

 

 晴れているかと思えば、いきなりの暴風雨のような激しい雨になったり、雷が鳴ったり、晴れてみたりと慌ただしいことだった。

  

 そんな雨の中、一ヶ月ぶりにさぬき市前山地区にある「おへんろ交流サロン」にやってきた。実は8月いっぱいはお休みをさせていただいていたのだった。その8月も終わったので、いつまでも夏休み気分ではいられないと、気分一新して、ここにやってきたもの。

 

 で、いつものメンバーと一緒に「俵札調査」の継続である。俵に納められていたお遍路さんの「納め札」を整理し、押し伸ばし、ファイルに挟んで、番号をつけて整理していく。この右手奥では、それをデジタルカメラで画像ファイルとしてデジタル化して格納している。

 

 それを、渡邊会長が解読する。「納め札一枚、手書き、徳島県、名西郡、明治四十二年、仁木トミ、鉛筆書き・・・」

 

 それを、私がエクセル・シートに入力して行くという作業・・・。これを、午前9時過ぎから11時半過ぎまで継続する。時間が来れば、片付けをして掃除をして、会場を元の位置に戻して休憩、お茶をして12時前に解散となる。

 

 「門前の小僧習わぬ経を読む」というが、「これ・・・なんだろうか・・」と、会長がときおり、首をかしげる。私が横からのぞき込んで・・「神前村(かんざきむら)の「権座(ごんざ)」さん・・・などと言う。「え・・・、ホンマかぁ・・・」と、言いながら、そういうことになってしまう。「習うよりも慣れろ」だな・・・とは最近になって思うことである。妙な筆文字がわずかながらだが、読めるようになってきた。

 

 こういう、「梵字」だとか、

 

 こういう「くずし字」だとかが、僅かながらだが「見える」ようになってきた。不思議なものだなぁと思う。まだまだ、会長さんや藤井洋一先生のようには読めないけれど。

  

 で、今日はお天気が悪いからということで、11時半で帰らせていただいた。で、その足で、高松市林町にある「香川県立図書館」にやってきた。先週に借りた本を返却して、新しく三冊の本を借りた。

 

 この三冊である。いずれも、これまでに何回も何回も借りている本である。この本の中に、昨日も探していた、「間嶋正市先生」の記事がある。だから、しっかりと、スキャニングをした筈なのに、HDDのどこを探してもデータがない。だから、またしても、これらの本を借りてきたと云う訳だ。

 

 すると、今まで見たことのない記事が飛び込んできた。間嶋先生が入った頃の「大川中学校」というのは、うちのお寺の「勝覚寺」で授業が行われた・・・という記事だった。昔、お寺で授業が行われていた・・・という話は聞いたことがあったが、間嶋先生が勝覚寺で勉強していたとは初耳だ。そのあたりも整理をしておかなければ・・・と、思ったことだった。

 

 こちらの本は、小学生用の本だから、読みやすくて理解しやすい。この中身もスキャニングをした筈なんだが、データはどこにもなかった。作業が終われば削除してしまったのかも知れない。HDDなんぞは、月に一度程度でバックアップを取ってあるので、左右いずれのHDDにも、同じデータが残っている筈なんだが、どちらにもないというのは不思議なことだ。

 

 今日の掲示板はこれ。「拝む手が とがる世間の 角をとる」というもの。同じ町内の善楽寺さんにあったもの。インド人やネパール人の挨拶は「ナマステー」という合掌である。「ナマス」は敬礼する、「テー」はあなたに・・・ということ。私たちの「南無」は、この「ナマステー」からきたものだという。「右ほとけ 左は我と合わす手の 中ぞゆかしき 南無の一声」とも言って、右手はほとけさま、左は私たち。その両方が一つになって一瞬でもおだやかなこころになってくれればいいがなぁと思うことである。いじめだ、自殺だ、暴力だ、竹島だ、国旗だ、拉致だ、尖閣諸島だ、安保法制だ、再稼働だ・・・とがってばかりいる現代。拝む手で、幾分かでもいいから、角がとれたらいいなぁと思う・・・。

 

じゃぁ、また、明日、会えるといいね。


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