浜田屋遼太

世の中のために何の役にも立たないブログ  お暇なお方は是非どうぞ(^^♪

スープ

2021-03-26 | 日々是好日

スープにもいろいろあるが、フランス料理に出てくるコンソメとかのスープ。

あれはどういう対処をしながら人生を過ごしたらいいのか。

とても困っている、あるいはとても怒ってます。

ああいうスープにはなるべく出会わないように人生を送っているのだが、それでもときどき避けきれない。

結婚式の披露宴では必ずといっていいほど、あのスープが出てくる。

最初にオードブルが出てきて、次がコンソメスープという場合が多い。

我々の普段の食事は、ゴハンを一口食べ、次は焼き魚をほじり、その次は味噌汁をすすっていくというふうに、一口ごとに変化していくのだがフランス式はそういうことを許さない。

スープのときはスープだけ。

スープのときはスープ以外のものを口にすることを許さない。

というよりスープ以外のものが卓上にない。

それを全部飲んだら次のものを出してあげますからね、と無言で言われているようなものだ。

だからスープが出てきたらまず一口スープを飲んでその次もスープ、そのまた次もスープで人間同じことを繰り返す。

すっかり飽きてもまだスープ。

「ああ」と天を仰いでまたスープ。

「もういい加減で勘弁してくれ」と思いつつまたスープ。

「なにかこれ、罰ゲームのつもりか」と嘆きつつまたスープ。

「俺、何か悪いことしたか」とうなだれつつまたスープ。

「何か一口、違うものを口に入れたい、梅干しでもいい」とため息をつきつつまたスープ。

ホテルや一流店のコンソメスープは確かにおいしい。

スープを作る手間暇も大変なものらしく、半日がかり、一日がかりという店も多いという。

だから最初の一口は充分楽しめる。

三口、四口目ぐらいまでは味わったりしているが、そのうち味はどうでもよくなってくる。

単純な繰り返しがつらい。

もはや楽しむどころではなく、難行苦行のたぐいになってくる。

この「スープの部」を一刻も早く済ませたい。

そうしてこの難を一刻も早く逃れたい、と思うようになるのであった。

先日ドコモショップに予約を入れて行ったら、こんな粗品をいただいた。

春雨スープ          

これも具だくさんのスープの一種。

OLとかが買いそうなスープですが、オジサンは決して買わない。

オジサンはスープよりも味噌汁が似合ってる。

 

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昭和の匂い

2021-03-26 | 定年波止場

時代色という言葉があるように、時代にも匂いがある。

だが令和には何故かあまり匂いを感じない。

昭和となると俄然匂いを感じる。

インクの匂い、鉛筆の匂いなんか懐かしい。

学生時代はまだ万年筆があって、ボールペンより万年筆のほうが好きだった。

パーカーやセーラーの万年筆を使っていたと記憶する。

鉛筆は折りたたみ式のナイフで削った。

鉛筆の木の部分を削っていくと木材の匂いがし、芯のところになると工業の匂いがした。

筆箱の中は鉛筆の匂いでいっぱい。

いい匂いだなぁ、と思いつつ「昭和は遠くりにけり」でした。

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山椒

2021-03-25 | 日々是好日

山椒の苗を買ってきました          

山椒を腹いっぱい食べたいとは思わないが、ちらし寿司やウナギのかば焼きなどの薬味にピッタリ。

麻婆豆腐にも合うかな。

彩と香りを楽しみます。

小鉢に一本あれば嬉しいものですよね。

 

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通販

2021-03-25 | 日々是好日

還暦を過ぎたジジババには昭和の時代が懐かしい。

物販の世界が穏やかだった。

物流の世界も静かだった。

デパートは繁盛し、八百屋さん、魚屋さんも威勢がよかった。

そのうち少しづつ世の中が変わり、昭和から平成に移った。

コンビニが出現したあたりから街の様子が変わってきた。

宅急便の会社が忙しくなり、物流が大きく変化した。

通販の時代がやってきたのだ。

えげつない時代がやってきたのだ。

通販の番組はなぜあのようにえげつないのか、不思議でならない。

あそこは普通の穏やかで、ときには知性に訴えユーモアで呼びかけたりすることが通用しない世界なのか。

誰がああいう世界に仕立て上げたのか。

通販の番組は次のように展開する。

まず司会者が商品を褒める。

絶賛しまくる。

これまでどこにもなかった製品である、まさにこういう製品を前から欲しがっていたのだ。

その待ちに待った製品が、いま、ここにこのように出現しました。

どうです、欲しいでしょ。

そうすると、どこでどう招集したのか、司会者の周辺に若くはない男女が集まって口々に「欲しい、欲しい」と言う。

そうしてお決まりの「でも」の段階になる。

「でも、お高いんでしょ」「さぞかしお高いんでしょ」

その表情はまさに不安、真顔で真剣に心の底から不安そうに不安がる。

周辺の人々の中の一人のおばさんの不安そのものの表情がクローズアップになる。

この不安はすぐ「でも、ご安心ください」で解消する。

なぜご安心かというと「このたび…」の段階になり、「皆様の長年のご愛願にこたえ、創業30周年を記念して全製品5割引きセールを」

ということになり、パールのネックレスが「なんと」ということになる。

この「なんと」は必殺パターンで、これまでの通販番組史上「なんと」なしで値段が発表されたことは一度もない。

「この大粒の真珠のネックレスが、なんと、3万9800円」

サンキュッパも通販番組の定番である。

サンキュッパが発表されたとたん、一同どよめく。

安すぎる。

大きく目を剥いて上半身をのけぞらせ、上の空のおばさんもいる。

中にはおじさんも混じっていて、おじさんものけぞってみせる(ネックレスなのに)

とにもかくにもここでは大袈裟が尊ばれる。

ここには真の人間の姿はない。

すべてが演技なのだ。

ここに集まっている人々のほとんどは、実をいうとプロの演技者たちなのである。

プロ、というか元プロというか…

話をサンキュッパのところに戻る。

ほとんどの人がのけぞったのに、一人しぶといおばさんがいる。

「もう一声」といつの間にか登場している業者に詰め寄る。

苦悶する業者。

更にナンダカンダ詰め寄るおばさん。

本当に一歩近づいて詰め寄り、腕を組んでハゲシク苦悶する業者。

そしてついに決断。

「サンマン…ゴセンエン」

「もう一声」

「サンマン…エン」

もうギリギリ、もうどんなことがあっても「サンマンエン」と業者は声を絞り出す。

真柏と言えば真柏、リアルといえばリアル。

なのだが、実はこれはすべて台本どおり。

そういえば昨日の夜の番組でもそのおばさんがその業者に詰め寄っていたし、その業者は昨日も苦悶していたのでした。

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ボケの花

2021-03-24 | 日々是好日

小さな花ですが、今年も花をつけました          

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首相の一日

2021-03-24 | 日々是好日

各新聞の「首相の一日」を読んでいると、政治家の実務とは動き回って「人に会うこと」であり、「部屋を出たり入ったりすること」であるような気がしてくる。

それ以外のことはしていないのだ。

何のため人に会ったり、部屋を出たり入ったりするかというと、それは「根回し」をするためで、結局「政治は根回しである」という気がしてくる。

あと何だろう。

そうだ、政治家にとって不可欠で重要な仕事、それは演説である。

ただ今の政治家の演説は、演説というより読んでいる、といったほうがいいのかもしれない。

原稿をただ読んでいるだけなのだが、それをいかに演説らしく見せるか、そっちのほうの才能が問われる。

テレビの国会中継を見ているとわかるが、野党の質問をするほうも紙に書いたものを読んでいる。

ただ読んでいるだけなのだが、それをいかに質問しているらしく見せるのか、その才能というか演技力というか、そっちのほうが大切なのだ。

ときどき声を荒げて怒ったりするが、そこのところも実は書いたものを読んでいるのだ。

答弁するほうはもっと読む。

衆議院予算委員会における質疑、などともっともらしい名前が付いているが、実態は読みっこ対読みっこ。

読みっこごっこというごっこの世界なのだ。

ごっこというのは電車ごっことか鬼ごっこ、お医者さんごっこ。

そういうお遊戯のことを言います。

とか言いつつも、一国の経済も方向性も、そのごっこで決まっていくところが恐ろしいのである。

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がんばれうな重

2021-03-24 | B級グルメ

うな重を食べるとき、重箱の中をしきりに掃除しながら食べる人がいる。

重箱の中の食べ散らかしが気になってしょうがないんでしょうね。

さて、うな重はどのあたりから食べ始めるのか。

重箱の左の一番下のところからかな、あるいは右の一番下に箸を入れるか。

上半身から食べ始めるか、下半身から食べ始めるかという問題にもなる。

うな丼を食べているときは、「丼の中が散らかっている」と感じたことはないが、うな重だとなぜか散らかっている感が強い。

うな重は底が浅い、というのがその理由だと思う          

うな丼ならば、箸の先をウナギの層とゴハンの層の奥深く入れたいと思えば差し入れられるのだが、うな重の場合は何だか急に箸の先が重箱の底に突き当たってしまう。

あれ と思うほど早く重箱の底に到達してしまう。

箸の先が充分に深く入らないから、充分な量のゴハンがすくい取れない。

その結果、ゴハンもウナギも箸先からこぼれ落ちて、あたりが散らかってくることになる。

食事の中盤を過ぎ、後半にさしかかった段階になると、重箱の中は廃棄物処理場の様相を呈してきた。

重箱の底全域に展開している廃棄物を少しずつ、根気よく集め、重箱の隅のところに集め、これを一挙に口の中に入れようとする。

それをするには重箱を手に持ち、逆さに高くかかげ、重箱の隅のところに口を当て、箸で掻きこみ掻きこみをしなければならない。

この姿を人に見られたくないな、と思うのであった。

 

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恥がなくなった

2021-03-23 | 日々是好日

日本人は恥だけはかきたくない、みんなそういう思いで生きてきた。

恥をかくぐらいなら腹かっ切って死ぬ、という人さえいた。

そして今、日本は急に「恥OK」の時代になった。

昨今の社会状況の随所において、それは顕著である。

恥の一つや二つ、謝罪会見さえすればそれは急に無かったことになる、という風潮になってきた。

最近はやりの「忖度」、みんなはうっかり見逃しているが、これは巧妙なズルである。

忖度は一見ズルに見えないが、忖度を「おべっか」という言葉に置き換えてみると、その実態は明らかになる。

もうみんな忘れてるかもしれないが、例の「森友学園疑惑」のとき、財務省元理財局長の国会での数々の証言。

あれはすべて安倍首相に対してのおべっかであった。

ズルはズルいのでズルく作られる。

ズルく構築されているので人はなかなかズルに気がつかない。

気がついてみたらあれはズルだった、ということはよくある。

人はなぜズルをするかというと、ズルは得につながっているからである。

人はズルによって何らかの利益を得る。

「このたび世間をお騒がせして」くらいのことなど確かに大したことではないかもしれないが、それにしてもたびたび「お騒がせ」がある。

そのたびに謝罪会見があると、これでいいのだろうかと思わざるを得ない。

みんな慣れっこになっていて、いとも簡単に軽々と頭を下げる。

4人とか5人とかが一列に立ち並び、そのうちの一人が「このたびは世間をお騒がせしてウンヌン」

と言い終わると、お互い目配せしてセーノで一斉に頭を3秒ほど下げ、また目配せして「こんなもんでいいんじゃないの」と頷き合い一斉に頭を上げる。

行事化とでもいうのか儀式化というのか祭事化というのか、そういう傾向になりつつある。

いくらなんでもまずいでしょ、この傾向は。

ズルは恥ずかしいことであったのに、恥ずかしくないことになってきた。

恥を恥とは思わなくなっているのだから始末が悪い。

個人的には艶っぽい御婦人が羞恥心を失うことは大歓迎だが、禿げ頭が揃って頭を下げるシーンにはいささかウンザリするのであった。

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がんばれ中華丼

2021-03-23 | B級グルメ

中華丼は美味しい。

だがどうもこの頃、世の中全体が中華丼に対して冷たいような気がしてならない。

内閣支持率というものがときどき発表されるが、最近の中華丼の支持率はどうなっているのだろう。

支持する     23パーセント

支持しない    47パーセント

あとの30パーセントは関心がない、といったところではないか。

世の中の大部分の人が「そういえばここ数年、中華丼食べてないね」的状況、及び「そういえば中華丼なんてまだあるの」的状況にあるに違いない。

昔は中華丼の支持率はもっと高かったように思う。

中華丼はなぜ生き延びているのか。

中華丼は白菜、筍、椎茸、キクラゲ、豚肉などを油で炒め、これに片栗粉でトロミをつけてゴハンの上にドロリとかけたものだ。

つまりこの材料、全部中華屋の冷蔵庫にいつもあるものなのだ。

中華丼のために仕入れたものなど一つもない。

注文さえあれば、いつでもたちどころに作れる。

しかし中華丼は魅力に乏しい。

しかし中華丼はいつでもすぐ作れる。

これが中華丼がいかに衰退しようとも滅びない理由なのだ。

中華丼は見た目もよくない。

色彩的に訴えてこないし、何だかまずそうでもある。

しかし、食べてみると意外に美味しいんですね。

中華丼は白っぽい塩系のものと、やや茶色っぽい醤油系のものがあるが、湖北の谷屋んのは醤油系だ。

中華丼700円          

中華丼はレンゲで食べる。

ゴハンと具をすくい上げて食べるので、パワーショベルの運転手のような心境だ。

最後の一口分のゴハンがなかなかすくい上げれない。

追いつめるカタチになるのだが、追いつめると相手は逃げる。

それにしてもこの「中華丼」というネーミング。

外国人なんかが見たら「全中国料理を代表する華麗な丼料理だな」と思うに違いない。

中華丼と称しているが、八宝菜丼とでも改称したほうが良いのでは…

などと思ったりするのであった。

 

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散歩の勧め

2021-03-22 | 日々是好日

散歩が趣味、という人が結構多い。

趣味には釣りとかテニスとかゴルフとかいろいろあるが、道路をブラブラ歩いていると、それを見た人は「散歩してるんだな」と思う。

と同時に「暇なんだな」と思う。

と同時に「お金かかってないな」と思う。

ゴルフバックを担いでいると、それを見た人は「お金がかかっているな」と思う。

と同時に「いい暮らししているんだな」と思う。

と同時に「会社じゃ偉いんだな」と思う。

これまで散歩の社会的地位は低かった。

運動としての地位も低かった。

散歩の一つ上のクラスにウォーキングというのがある。

そのもう一つ上にはジョギング、そのもう一つ上にはマラソンがある。

散歩に対する世間の評価を総合的に考えると、散歩している人=(イコール)たいしたことない人、という公式になる。

だがここにきて突如、評価が大きく変わった。

コロナ禍で「ステイホーム」というお達しがお上から出て、外出を控えるように申し渡された。

お上というのは政府であり東京都知事であるが、特に都知事がうるさかった。

剣幕というですか、血相というんですか、それに一般国民はヤラレタ。

動くな、と厳命しその剣幕に恐れをなして国民が家の中に引き籠った。

一方話が少しそれるが、スポーツ庁という役所(お上)があるが「安全にウォーキングやジョギングに取り組むための留意点」という文書を公表している。

その内容は「マスクを着用」「一人で」「他人との距離はウォーキングで5メートル」「ジョギングだと10メートル」「無風状態では5~10メートル」などなど風速にまで言及したお達しなのだ。

このお達しにはウォーキングとジョギングには言及しているが、散歩については一言も触れていない。

散歩はOKと解釈した。

みんな家からぞろぞろ出てきて歩き始めた。

出てきて改めて散歩のヨロコビを噛みしめることになった。

散歩が脚光を浴びることになったのだ。

これまで我々は散歩をあまりにも軽く考えていた。

散歩というのは何の考えもなく、何の目的もなく、思いつくまま気の向くまま、とりあえず前に進んで行くことだと思っていたが、そうではなかったのだ。

健康維持とか、気分転換とか、探求心などのちゃんとした目的を持って出て歩き回るのだ。

さあ、時はあたかもコロナ禍ではあるが桜咲く春である。

宣言も解除された。

久しぶりに散歩でもしてくるかなぁ。

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