少年カメラ・クラブ

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マウンダー極小期について

2011-09-01 09:40:19 | その他
先日のコラムでモノクロ写真のベタ焼について書いたが、この回については読者のみなさんから結構コメントをいただいた。今回は同じような話を別の側面から見てみたいと思う。


表題のマウンダー極小期という言葉を知っている方はどれくらいいるだろう?多分あまりおられないと思う。これは太陽の表面にほくろのように現れる黒点の数が1600年代から1700年代にかけての約70年間にわたって非常に少なくなった時期のことを指す。黒点の数か少ないことは、太陽の活動の低迷を指すのだそうで、地球でもいろいろと異常な気象現象が起きて、現在は全く凍らないロンドンのテムズ川が凍結したりするなどしたらしい。実は現在も、太陽黒点の数が非常に少ない状態にあるらしいのである。過去100年で最低レベルにまで落ちているのだそうだ。そうなると、もしかすると地球温暖化どころか地球寒冷化に向かうのではないかという予想もあるくらいだ。


ということなのだが、実はマウンダー極小期という現象そのものが今回の話題ではない。その極小期を後から見てわかったということは、それを証明するデータがあるということに興味がわいたのだ。つまり、毎日毎日太陽を観察して今日も黒点ゼロ、明日もゼロとつまらないデータをずっと取り続けた人がどこかにいたということに驚いた。実は私も望遠鏡を使って太陽の黒点の観察を時々するんだけれど、ツルッとして何も特徴のない太陽など観察しても全然面白くない。でも、そんなつまらないデータを70年分集めて眺めてみたら、そこに大きな意味が浮かび上がって来たのである。

ある瞬間(あるいはその日)のデータと言うのは、スナップ写真のようなものでそこに留まっている静的なデータでしかない。黒点の観測においても今日の黒点の数は0個でしたという情報はそれ以上の意味をもたらすことはない。でも、それをパラパラ漫画のようにならべていくと、静的だと思っていた情報に動きが生まれる。コマ落しで撮影した朝顔の開花の様子であったり、70年間の沈黙を破って太陽の活動が盛んになったりというような深い意味が顔を出してくるのだ。

もし、全ての物事は要素の集まりであると言う唯物論的な考え方に立つのならば、データを集めたところに生まれてくる意味と言うのは、其々のスナップショットのような情報要素の中に既に埋め込んであったはずであるが、一個のデータを見ただけでは決してその深い意味は生まれてはこないだろう。それでは、その情報はそもそもどこにあったのだろうか。

ベタ焼のようにいろんなデータを空間的にならべてみることも大事だけど、定点観測のように時間軸の上でならべてみることもとても大事らしい。そこには断片のデータでは見えなかった世界がゆらゆらと見えてくるらしい。空間と時間の類似性、だんだん、アインシュタインの世界に近づいてきたかも知れないなどと勝手なことを考え始めた。