ひげ爺の独り言

髪が薄くなり髭はごま塩の「ひげ爺」、旅行会社を定年退職して16年。 高齢となって転居した大宮での隠居ぐらしを投稿します。

街なか散歩12 〔栗橋/中田〕

2017-09-12 07:59:44 | 旅行・秘湯・巡礼 
この日は、旧日光街道の「栗橋宿」と利根川対岸「中田宿」を歩くことにした。
栗橋宿は江戸から7番目の宿で、利根川対岸の中田宿と合い宿の形態だった。
栗橋駅東口を出て、左手に道を進むと 右側に「静御前の墓」 の小公園がある。
義経を慕って 奥州平泉に向かった 静御前が、この地で義経の死を聞いて 悲し
みのなかで 病に伏した終焉の地と云われ、その遺体を 郷人が弔ったと伝わる。
いったん駅前に戻り、駅前通りを東に進み 旧日光街道の『栗橋宿』を目指した。

10分程歩くと旧街道筋に出て、東三丁目を右折して間もなくの「顕正寺」へ。
そこには、江戸時代初期に「栗橋宿」を開発した 「池田鴨之介」の墓があった。
寺前を北に向かう街並みが「栗橋宿」なのだが、右手にある利根川の堤防拡張
による引堤工事中で、古い町並みの面影は全くなく 空き地や工事用地が多い。
道を進むと本来なら、三大関所の一つ 「栗橋関所」跡や 「池田屋本陣」跡があ
るのだが、利根川のスーパー堤防化工事のために移転し「更地」になっていた。
それでも、宿場の最奥地にある栗橋の鎮守「八坂神社」 は 未だ現存している。
神社が接する利根川に、大正時代まで「房川渡」(ぼうせんわたし)があった。

坂道を利根川堤防上にのぼり、国道四号の橋を渡り 茨城県古河市に入った。
橋詰めを左に下った所が 「中田 」集落ではあるが、そこは 大正初期の河川拡
張工事で 「旧中田宿」 が移転してきた所で、宿場町は川中に 消えてしまった。
静御前の舞衣を保存する「光了寺」まで進み、栗橋に戻って 散策は終了した。
『旧中田宿は河川敷のナカダった、現在のナカタ集落ではナカッタ』 と、独り言。
栗橋の堤防拡張が終われば、堤防上には 新しい「栗橋宿」が出現するはずだ。
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