この日は、旧日光街道の「栗橋宿」と利根川対岸「中田宿」を歩くことにした。
栗橋宿は江戸から7番目の宿で、利根川対岸の中田宿と合い宿の形態だった。
栗橋駅東口を出て、左手に道を進むと 右側に「静御前の墓」 の小公園がある。
義経を慕って 奥州平泉に向かった 静御前が、この地で義経の死を聞いて 悲し
みのなかで 病に伏した終焉の地と云われ、その遺体を 郷人が弔ったと伝わる。
いったん駅前に戻り、駅前通りを東に進み 旧日光街道の『栗橋宿』を目指した。
10分程歩くと旧街道筋に出て、東三丁目を右折して間もなくの「顕正寺」へ。
そこには、江戸時代初期に「栗橋宿」を開発した 「池田鴨之介」の墓があった。
寺前を北に向かう街並みが「栗橋宿」なのだが、右手にある利根川の堤防拡張
による引堤工事中で、古い町並みの面影は全くなく 空き地や工事用地が多い。
道を進むと本来なら、三大関所の一つ 「栗橋関所」跡や 「池田屋本陣」跡があ
るのだが、利根川のスーパー堤防化工事のために移転し「更地」になっていた。
それでも、宿場の最奥地にある栗橋の鎮守「八坂神社」 は 未だ現存している。
神社が接する利根川に、大正時代まで「房川渡」(ぼうせんわたし)があった。
坂道を利根川堤防上にのぼり、国道四号の橋を渡り 茨城県古河市に入った。
橋詰めを左に下った所が 「中田 」集落ではあるが、そこは 大正初期の河川拡
張工事で 「旧中田宿」 が移転してきた所で、宿場町は川中に 消えてしまった。
静御前の舞衣を保存する「光了寺」まで進み、栗橋に戻って 散策は終了した。
『旧中田宿は河川敷のナカダった、現在のナカタ集落ではナカッタ』 と、独り言。
栗橋の堤防拡張が終われば、堤防上には 新しい「栗橋宿」が出現するはずだ。
栗橋宿は江戸から7番目の宿で、利根川対岸の中田宿と合い宿の形態だった。
栗橋駅東口を出て、左手に道を進むと 右側に「静御前の墓」 の小公園がある。
義経を慕って 奥州平泉に向かった 静御前が、この地で義経の死を聞いて 悲し
みのなかで 病に伏した終焉の地と云われ、その遺体を 郷人が弔ったと伝わる。
いったん駅前に戻り、駅前通りを東に進み 旧日光街道の『栗橋宿』を目指した。
10分程歩くと旧街道筋に出て、東三丁目を右折して間もなくの「顕正寺」へ。
そこには、江戸時代初期に「栗橋宿」を開発した 「池田鴨之介」の墓があった。
寺前を北に向かう街並みが「栗橋宿」なのだが、右手にある利根川の堤防拡張
による引堤工事中で、古い町並みの面影は全くなく 空き地や工事用地が多い。
道を進むと本来なら、三大関所の一つ 「栗橋関所」跡や 「池田屋本陣」跡があ
るのだが、利根川のスーパー堤防化工事のために移転し「更地」になっていた。
それでも、宿場の最奥地にある栗橋の鎮守「八坂神社」 は 未だ現存している。
神社が接する利根川に、大正時代まで「房川渡」(ぼうせんわたし)があった。
坂道を利根川堤防上にのぼり、国道四号の橋を渡り 茨城県古河市に入った。
橋詰めを左に下った所が 「中田 」集落ではあるが、そこは 大正初期の河川拡
張工事で 「旧中田宿」 が移転してきた所で、宿場町は川中に 消えてしまった。
静御前の舞衣を保存する「光了寺」まで進み、栗橋に戻って 散策は終了した。
『旧中田宿は河川敷のナカダった、現在のナカタ集落ではナカッタ』 と、独り言。
栗橋の堤防拡張が終われば、堤防上には 新しい「栗橋宿」が出現するはずだ。