ひげ爺の独り言

髪が薄くなり髭はごま塩の「ひげ爺」、旅行会社を定年退職して16年。 高齢となって転居した大宮での隠居ぐらしを投稿します。

渡良瀬遊水地なう〔初秋〕

2016-08-30 08:40:10 | 地域活動・つながり
20日には、台風11号が福島沖を北に抜け10号も房総沖から西に離れた。
そして22日に 9号が千葉県に上陸し、都市型洪水や土砂災害が発生した。
発生順に番号の付く台風だが、8月における日本接近は逆順になっていた。
八丈島沖で発生した10号は、通常に逆行し 沖縄の先まで移動していった。
そこで大型化し、迷走しUターンして来るブーメラン台風はまるで酔っ払いだ。
雨と風の強いその10号は、今朝8時現在 銚子の東沖を北西に進んでいる。
そんな台風の幕間ともいえる26日、渡良瀬遊水地に 秋を求めて出向いた。

まずは「道の駅」隣接の「遊学館」へ、3階から展望し2階の展示資料を見学。
次に藤岡の「遊水地会館」へ、そこは 渡良瀬遊水地管理の中枢的施設で遊
水地アクリメーション財団の事務所も置かれ、栃木市資料館にもなっている。
資料館内を一回り見学して、資料などを求めてから 堤防脇の一角に 保護さ
れている湿地植物を見ていると、アクリ財団の白井専務が顔を見せてくれた。
そこには、絶滅危惧種に指定されている ミズアオイや アゼオトギリや ミクリ
ヒメシロアサザのほか、シロネや エゾミソハギなどが 花を咲かせていた。

次に車で 北エントランスから地内に入って、ウォッチングタワーに昇った後に
周辺散策を試みたが、暑さに負けて早々と「体験活動センター」に逃げ込む。
しかし幸いに、ホソバオグルマ の群生と タコノアシを見ることだけは出来た。
その日時点の遊水地は、台風の被害もなく植物の姿には初秋が感じられた。
『むかし良く聞いた話は、「酒と女は2ゴウまで」 と言う 』 と、ひげ爺の独り言。
我が家周辺は稲刈りの最適期、常識外の進路をとる10号は迷惑の極みだ。
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新盆の今年は 新米と五輪

2016-08-16 08:28:51 | 食楽・年金ライフ 
暑さが厳しさを増した7月下旬には、全国各地で熱戦を繰り広げてきた 高校野
球の各県代表校が決まり、8月7日からは甲子園での選手権大会が始まった。
毎年お盆の期間中は、故郷への帰省と相まって高校野球への関心が高くなる。
生まれたところが現住所のひげ爺は、埼玉の代表校と関東勢を応援している。
甲子園も楽しんではいるが、今年のこの時期は オリンピックも開催されている。
南米ブラジルのリオデジャネイロで、8月5日(日本時間6日朝)に開幕したオリ
ンピックも、日本選手の予想を超える活躍が 感動を与えてくれている。

我が家のお盆は 母の新盆にあたるので、それなりの用意をすることになった。
お坊さんのご都合を調整し、見舞い客の人数を想定してそのお返し品の注文。
そして 13日の朝は、ご先祖様を迎える精霊棚 いわゆる「盆棚 」 づくりである。
四本の柱を持つ木製棚を組み立て、前面の柱に笹竹を立てマコモの紐を垂ら
し色紙やホーズキなどを飾り、後背面には真言十三仏の掛け軸などを掛ける。
棚上後方の段上は 位牌を置き、棚にはマコモのゴザを敷いて 蓮の葉や仏花
や果物野菜にナスとキュウリの牛馬を添え、三具足や輪などの仏具を置いた。

14日午前には 住職様に読経していただき、以降 見舞客を迎えることになる。
お客様へのお返し品として 一般的な品は用意してあったが、天候事情と友人
の好意を得て、11日に収穫し13日に精米した「新米」を加えることが出来た。
早期栽培の「あきたこまち 」 で、この地の初物を 少しだけ持ち帰ってもらった。
『今年は母の新盆だから、久しぶりに 盆棚づくりをした 』 と、ひげ爺の独り言。
数年前まで 毎年作った盆棚、お米はシンマイでも 盆棚作りはシンマイでない。
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街なか散歩 5 「越ケ谷宿」

2016-08-02 08:45:27 | 旅行・秘湯・巡礼 
東武鉄道では 電車の運行を変えたことを機に、路線の呼び名を一部変えた。
伊勢崎線が スカイツリー ラインで、野田線が アーバンパーク ラインだと云う。
そのスカイツリー線の新田駅が、越ケ谷からは離れているが 今日の出発点。
駅前から大通りに出て東に向かい、4号国道を横断して進むと綾瀬川に出る。
橋を渡って川沿いの小道に左折すると、前方の橋の袂に 小さな杜が見える。
そこが「蒲生の一里塚」で、埼玉県内に残る日光街道で唯一の一里塚である。

電車で 新田から越谷駅まで戻り、駅前から東に歩き 旧4号国道を左折する。
そこは20年前に勤務していた街だから、道を尋ねたり地図を見ることもない。
その道が 旧街道「日光街道」で、少し進むと「越ケ谷宿」に入るのだが 宿場町
の面影はほとんどなく、古い木造瓦葺の商家が何軒か残っていてだけである。
「越ケ谷宿」は、旧越ケ谷宿と旧大沢宿が江戸時代に統合公認されて栄えた。
本町で旧街道を離れて右折、国道を越えて 東に路地を進むと御殿町になる。
元荒川に突き当たると、小さな空間に 「越ケ谷御殿跡」の石碑が立っていた。
鷹狩に来た徳川家康や秀忠のため、休息用の御殿が建てられていたと云う。
後に明暦の大火で江戸城が焼失した際、御殿は解体され江戸城に移された。

遠回りして元荒川を渡り、対岸の越ケ谷総鎮守「久伊豆神社」 に立ち寄った。
帰りは 川沿いの道を「旧街道」まで戻り、橋詰を右折し「旧大沢宿」 を進んで
北越谷駅に出ると、ちょうど12時だったので昼食をとって予定終了した。
『ここでは、「越ケ谷」と「越谷」の両方が使われている 』 と、ひげ爺の独り言。
市名や駅名など、広い意味や新しい呼び名 つまり若い方には 「ケ」 がない。
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