ひげ爺の独り言

髪が薄くなり髭はごま塩の「ひげ爺」、旅行会社を定年退職して16年。 高齢となって転居した大宮での隠居ぐらしを投稿します。

秘湯大平と西吾妻の紅葉

2013-10-29 08:29:21 | 旅行・秘湯・巡礼 
紅葉が例年よりも遅れていて、西吾妻山の周辺はちょうど良い状況だと云う。
しかし台風27号が心配なうえ、28号も北上するとの予想に 不安があった。
その上に妻や義兄の体調が気になる状態で、躊躇しながらの旅立ちだった。
厚い雲のもと 東北道を進み、まずは二本松の霞ケ城で菊まつりを観賞した。
時節がら、NHKの大河ドラマに関した菊人形が多く出品され華やかだった。
市内の「千の花」と言う店で昼食をとって、飯坂IC経由で大平温泉に向かう。
運良く台風は沖縄沖で待っていてくれて、上空は曇りながらも雨も風もない。

米沢市の大平集落から山道に入り、急坂や急カーブを進んで駐車場に着く。
リックサックを背に、下りの山道を20分程歩き急坂を下ると最上川の源流。
周辺の山や谷は紅葉真っ盛りで、吊り橋を渡ると大平温泉の滝見屋がある。
西吾妻山の裾に湧く秘湯は、標高は1050mで来月から冬期休業になる。
川に沿い露天風呂が四つあり、女性専用を除き(覗きではない)全て浸った。
陽射しはないものの雨もなく、内風呂からは紅葉の中に火焔の滝が望めた。
携帯は圏外で自家発電の宿。部屋は清潔で食事やサービスも最高である。

私は早朝に携帯通話圏内まで歩き、自宅に電話し不安解消して宿に戻る。
食事後は荷物を宿の運搬に依頼し、急な山道を30分上って駐車場に着く。
台風の速度が遅く、まだ影響がないようで白布温泉でも雨は降っていない。
ロープウエイの窓から、天元台の綺麗な紅葉と懐かしい思い出を味わった。
スカイバレー経由喜多方に出て、山都で名物の蕎麦を食べ帰路に着いた。
『台風が我々に遠慮したのか、旅は傘不要で終わった』と、ひげ爺の独り言。
30分の急坂登りで筋肉痛が出るとは、いよいよ「歳をとった」という事らしい。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

懐かしの越谷をウオーク

2013-10-22 08:20:40 | 地域活動・つながり
午後からは雨という予報ながら、心配しないで済みそうな 曇り空の午後一時。
越谷駅前に集まったオジサン達70名、それは春日部高校の卒業生達である。
毎年持ち回りで開催している同窓会行事で、「春高ウオーク」の三回目になる。
年齢幅が広く服装もまちまち、男だけの異様とも云える集団が出来上がった。
旧制中学卒の86歳から平成卒業の35歳まで、親と子に孫が集まったようだ。
地元役員の受付から進行し、元衆議院議員の今井同窓会長の挨拶になった。
続いて コース説明や注意事項が伝えられ、4班に分かれて1時半に出発した。

先ず 市街地から元荒川を渡り、越谷総鎮守である久伊豆神社の参道に進む。
第三の鳥居は平成5年の伊勢神宮遷宮の際、神宮から下賜された貴重な物。
当時私は越谷支店勤務だったので、参拝旅行やお木曳などのお手伝いした。
次に、日本文化伝承を目的に近年建設された花田苑を訪問「能楽堂」を見学。
そして建物を取りまく、6500坪ある回遊式純日本庭園を散策してくつろいだ。
バブルの遺産とも云えるが、こんな立派な日本文化施設はもう出来そうにない。

花田苑からバスでレイクタウンへ移動、「まちづくり館」でビデオ説明を受ける。
洪水対策の大相模調整池を中心に、親水文化創造都市づくりが進んでいる。
平成20年に「越谷レイクタウン駅 」が開業し、都心への利便が一段と増した。
226ヘクタールの土地に、22,400人の住む新しいタウンが完成しつつある。
最後は、武蔵七党の一族「大相模氏」の館跡を見学して懇親会場に移動した。
『来年の開催地が、我が支部 「北川辺で」と発表された』 と、ひげ爺の独り言。
渡良瀬遊水地を中心とした「ワイルドなウオーク」で、オ モ テ ナ シ する事だ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

西国観音霊場巡り 第四回

2013-10-15 08:21:02 | 旅行・秘湯・巡礼 
台風24号は山陰沖を東に進んでいたが、向き合う形で新幹線は京都に着いた。
昼食は弁当で済ませ、駅から地下鉄で烏丸三条のホテルに行き荷物を預けた。
この日の札所巡りは徒歩の予定、早速 三条通を東に進み 河原町 賀茂川を越
え 東大路の先を右に入り、清蓮院 知恩院 円山公園から八坂神社を参拝した。
高台寺下から二・三年坂を上って清水坂から西国十六番札所「音羽山清水寺」。
舞台造りの本堂で納経し、帰りは音羽の滝をまわって 茶碗坂から五条通りに。
五条通りを途中で右折して進むと、十七番札所「補陀洛山六波羅蜜寺」に着く。
参拝の後にタクシーを拾ったら雨が降り出して、途端に土砂降りになってきた。
それがホテル到着直前に止んでくれる幸運、夕食は市内をぶらついて食べた。

翌日はレンタカーの巡礼予定だったが、肝心の免許証を忘れたため予定変更。
四条から阪急電車で茨木市にある二十二番札所の「補陀洛山総持寺」を参拝。
総持寺駅から歩いて10分程の高台にあり、立派な山門に勇壮な本堂がある。
京都の四条に帰り、お蕎麦の昼を食べて 地下鉄で今出川まで上がり、相国寺
境内と同志社大学を通って京都御苑内を散策して早目のチェックインとなった。

最終日は、歩いて本能寺を参拝し寺町通りを上って西国十九番「革堂行願寺」。
街中の狭い境内に、小さいながら豪壮な屋根を持つ本堂と大きな石標があった。
さらに進んで、NHKの大河ドラマで知られた「旧新島邸」を10時から見学した。
それから今出川通りを東進し「女紅場跡」から賀茂川を越え、平安神宮を参拝し、
岡崎公園から南禅寺を拝観し、参道の「順正」で名物豆腐料理のお昼をとった。
蹴上から地下鉄でホテルに戻り、荷物を受けとり 京都駅経由の帰路に着いた。
『今回は多く歩く旅、運が良かったのか・悪かったのか?』 と、ひげ爺の独り言。
台風も避けてくれて快晴に恵まれた三日間、でも免許証を忘れる大失態だった。
  歩いた歩数は、一日目22,276 二日目14,678 三日目17,489 合計54,443歩。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

田中正造翁 没百年記念行事

2013-10-08 07:36:48 | 地域活動・つながり
足尾銅山鉱毒事件の解決のため、命がけで奔走した佐野市出身の義人 「田
中正造」が、1913年9月に亡くなってから 今年で100年目を迎えている。
記念すべき年にあたり、渡良瀬川流域の各地で記念行事が開催されている。
ひげ爺が住む 加須市の北川辺でも、記念事業や式典が執り行われている。
その中心的行事が10月4日、分骨墓祠前と北川辺西小学校で開催された。
一つは霊祠の改築と記念碑の建立を披露、合わせて101 回忌法要である。
もう一つは、小学生の参加や翁と地域を語る講演等による記念式典である。

田中翁と北川辺の関わりは、 足尾の鉱毒による農業被害に 立ち上がっただ
けでなく、政府による地域の買収と遊水地化政策に反対する戦いであった。
翁と先人達は、国の政策に反対し撤回させて北川辺の地を守ったのである。
それらは日本の公害闘争の原点であり、唯一の勝利闘争と評価されている。
一方で谷中村は、地域の事情や政府の強硬対応等で廃村・遊水地化された。
そこには、鉱山利益を持つと栃木県と持たない埼玉県、被害に地域差のある
広範囲性と同一被害の限定地域性、渡良瀬流路と利根川流路などがあった。

正造翁の活動中で、最も重要な明治35年の記録が殆ど残っていないという。
翁の直訴が34年12月で、遊水地化の発覚と相愛会結成が35年1月 利根川の
決壊が9月で村民大会が10月、県の遊水地化断念が12月と言う一年である。
講演者日経新聞社元専務の山岸一平氏によると、膨大な文書を残した 正造
翁の日記(書きとめ・メモ)も、その一年分だけが全く残されていないという。
『何かの事情があって、すべてを廃棄してしまったのだ 』 と、ひげ爺の独り言。
翁の日記一年分は惜しまれるが、私のブログは 何年分あっても価値はない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

田んぼアートと のぼうの城

2013-10-01 09:02:06 | 食楽・年金ライフ 
埼玉県の北東部にある行田市は、利根川と荒川に鋏まれた低地帯にある。
稲作が伝わった縄文時代に、低地の特性が地域文明を大きく発展させた。
古墳時代には相当大きな集団があった事を、古墳群の存在が教えている。
五世紀後半から七世紀にかけて、市内の数か所に古墳群が築かれている。
その代表的な埼玉(さきたま)古墳群は、埼玉県名発祥の地になっている。
そこは「さきたま風土記の丘」として整備公園化され、多くの人々が訪れる。

近くには植物園的な「古代蓮の里」があり、1500年の眠りから覚めた古代
蓮「行田蓮」をはじめ、日本と世界の蓮が数多く栽培・展示されている。
そこのオニバスは、私たちが保護している北川辺のオニバスの弟分らしい。
園内には高さ50mの展望棟があり、関東平野と周辺の山々を一望できる。
この日、400円を支払って展示室を見学し エレベーターで展望室に上った。
蓮の花が終わった今は、水田をキャンパスとした「田んぼアート」が目玉だ。
異なる七種類の稲を田圃に植え付け、その色彩の違いでアートを描くもの。
今年のアートは、古代ロマンをイメージした「古代蓮の精」 を描いたという。

また行田は、ひげ爺が住む北埼玉の郡都だったので行政出先機関が多い。
江戸時代は「忍(おし)」と云い、徳川家直参による10万石の城下町だった。
そのまた昔、秀吉の関東征伐に際し 最後まで落城しなかった所でもある。
水攻めの攻防は、小説や映画の「のぼうの城」によって有名になっている。
『題名の「のぼう」は、デクノボウのノボウなのだが・・』 と、ひげ爺の独り言。
町人町の「行田」に統合されて、武家町「忍」の名は あまり使わなくなった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする