お彼岸すぎの24日、日光街道の江戸から6番目の宿場『幸手宿』に出かけた。
改築中の東武鉄道幸手駅は、室町時代初期に 一色氏の城があった所らしい。
迷いながら改札を出て、駅前通りを東に進むと右側に「一色稲荷神社」があり、
その先が「旧日光街道」との交差点で、その左(北西)方向が 旧幸手宿になる。
交差点の手前右に「明治天皇行在所跡」、道路向かいにはかつての醤油醸造
業の「岸本家住宅」があり、その右先は 日光街道と御成り道の結節地になる。
交差点に戻り 北西に旧幸手宿を進むと、文政時代創業の 旅館「朝萬」があり
さらに進んだ左側に、荷さばき用のトロッコで親しまれる 「永文商店」 がある。
その先右側が問屋場跡で、左側の料理屋「義語屋」が「本陣知久家跡」という。
宿の中心地らしく、「平井家」「飯村家」「関薬局」等の 古い建物が残っていた。
街道を左折して離れ、幸手の総鎮守「幸宮神社」を訪問してから路地を西北に
とり、江戸時代に将軍家の休憩所をつとめたと云う「菩提山聖福寺」へ回った。
勅使門や芭蕉句碑を見学し、宿場筋に戻って 桝形地から街道に道を取った。
しばらく進むと4号国道に合流し、昼になったので「かつ太郎」で昼食を摂った。
食後に隣の「権現堂堤」 に立ち寄ったが、桜はまだ蕾で 来週末に賑いそうだ。
中川の橋を渡り、何の変哲もない国道にそって側道をしばらく進むと久喜市に
入るが、さらに進むと 墓地の一角に「小右衛門の一里塚」の案内板があった。
街道に沿った集落を通り、至近の駅「南栗橋」まで歩いて今日の散歩は完了。
『車でよく通る道も、歩いてみると 結構な距離があった 』 と、ひげ爺の独り言。
電車で160円の一区間、昔の旅人を想うと 電車賃もガソリン代も安いもんだ。
改築中の東武鉄道幸手駅は、室町時代初期に 一色氏の城があった所らしい。
迷いながら改札を出て、駅前通りを東に進むと右側に「一色稲荷神社」があり、
その先が「旧日光街道」との交差点で、その左(北西)方向が 旧幸手宿になる。
交差点の手前右に「明治天皇行在所跡」、道路向かいにはかつての醤油醸造
業の「岸本家住宅」があり、その右先は 日光街道と御成り道の結節地になる。
交差点に戻り 北西に旧幸手宿を進むと、文政時代創業の 旅館「朝萬」があり
さらに進んだ左側に、荷さばき用のトロッコで親しまれる 「永文商店」 がある。
その先右側が問屋場跡で、左側の料理屋「義語屋」が「本陣知久家跡」という。
宿の中心地らしく、「平井家」「飯村家」「関薬局」等の 古い建物が残っていた。
街道を左折して離れ、幸手の総鎮守「幸宮神社」を訪問してから路地を西北に
とり、江戸時代に将軍家の休憩所をつとめたと云う「菩提山聖福寺」へ回った。
勅使門や芭蕉句碑を見学し、宿場筋に戻って 桝形地から街道に道を取った。
しばらく進むと4号国道に合流し、昼になったので「かつ太郎」で昼食を摂った。
食後に隣の「権現堂堤」 に立ち寄ったが、桜はまだ蕾で 来週末に賑いそうだ。
中川の橋を渡り、何の変哲もない国道にそって側道をしばらく進むと久喜市に
入るが、さらに進むと 墓地の一角に「小右衛門の一里塚」の案内板があった。
街道に沿った集落を通り、至近の駅「南栗橋」まで歩いて今日の散歩は完了。
『車でよく通る道も、歩いてみると 結構な距離があった 』 と、ひげ爺の独り言。
電車で160円の一区間、昔の旅人を想うと 電車賃もガソリン代も安いもんだ。