埼玉西部の嵐山に、鎌倉時代の武将 畠山重忠ゆかりの「菅谷館跡」がある。
その館跡の自生ヤマユリが、見頃との情報を得てかみさんと出かけて行った。
朝9時過ぎに家を出て 下道を西に向かうと、途中から小雨が時々降ってきた。
10時過ぎに目的地「菅谷館跡」に着くと、空は霧雨程度で歩くに支障はない。
複雑な空堀遺構を持つ園内に入ると、林の中に ちらほらとヤマユリが見えた。
さらに進むと、陽当たりの良い土塁の斜面にヤマユリがまとまって咲いていた。
群生とは言えないが 広い範囲に自生し、その白い花はちょうど見ごろだった。
埼玉県西部の丘陵地には、中世に築かれた 城館や砦跡が多く残されている。
その一つが「菅谷館跡」で、畠山重忠が築き 居住した場所と推測されている。
畠山重忠は 源頼朝挙兵後にその配下に加わり、富士川の戦や一の谷合戦
をはじめ 木曽義仲や平家追討で功をあげ 頼朝の信頼も厚かったが、頼朝死
後の元久2年(1205)執権北条氏政によって二俣川で謀殺されたと云われる。
その後の菅谷館は、豊臣時代まで足利氏や後北条氏の重要拠点になっきた。
跡地内にある「史跡博物館」を参観し、鎌倉時代の主要道「鎌倉街道」に沿い
北に進み、隣の小川町の古民家「吉田家」で鴨汁そばとそばがきの昼を摂る。
小川町は細川和紙で有名だが、今回は昼食だけで通過して川本町に向かう。
近年深谷市と合併した 旧川本の畠山地区に、畠山重忠公の銅像と墓がある。
その像は、一の谷合戦で愛馬を背に急坂を降りたという 逸話に基づいている。
『源平合戦の武功話は、「マ坂」と云える「ウマ」い話だ 』 と、ひげ爺の独り言。
愛馬を背に 戦は「馬」くいったが、謀反のぬれぎぬは「馬」く避けられなかった。
その館跡の自生ヤマユリが、見頃との情報を得てかみさんと出かけて行った。
朝9時過ぎに家を出て 下道を西に向かうと、途中から小雨が時々降ってきた。
10時過ぎに目的地「菅谷館跡」に着くと、空は霧雨程度で歩くに支障はない。
複雑な空堀遺構を持つ園内に入ると、林の中に ちらほらとヤマユリが見えた。
さらに進むと、陽当たりの良い土塁の斜面にヤマユリがまとまって咲いていた。
群生とは言えないが 広い範囲に自生し、その白い花はちょうど見ごろだった。
埼玉県西部の丘陵地には、中世に築かれた 城館や砦跡が多く残されている。
その一つが「菅谷館跡」で、畠山重忠が築き 居住した場所と推測されている。
畠山重忠は 源頼朝挙兵後にその配下に加わり、富士川の戦や一の谷合戦
をはじめ 木曽義仲や平家追討で功をあげ 頼朝の信頼も厚かったが、頼朝死
後の元久2年(1205)執権北条氏政によって二俣川で謀殺されたと云われる。
その後の菅谷館は、豊臣時代まで足利氏や後北条氏の重要拠点になっきた。
跡地内にある「史跡博物館」を参観し、鎌倉時代の主要道「鎌倉街道」に沿い
北に進み、隣の小川町の古民家「吉田家」で鴨汁そばとそばがきの昼を摂る。
小川町は細川和紙で有名だが、今回は昼食だけで通過して川本町に向かう。
近年深谷市と合併した 旧川本の畠山地区に、畠山重忠公の銅像と墓がある。
その像は、一の谷合戦で愛馬を背に急坂を降りたという 逸話に基づいている。
『源平合戦の武功話は、「マ坂」と云える「ウマ」い話だ 』 と、ひげ爺の独り言。
愛馬を背に 戦は「馬」くいったが、謀反のぬれぎぬは「馬」く避けられなかった。
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