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ひげ爺の独り言

髪が薄くなり髭はごま塩の「ひげ爺」、旅行会社を定年退職して16年。 高齢となって転居した大宮での隠居ぐらしを投稿します。

郷土歴史ロマン散歩-3

2015-07-21 08:08:37 | 食楽・年金ライフ 
埼玉西部の嵐山に、鎌倉時代の武将 畠山重忠ゆかりの「菅谷館跡」がある。
その館跡の自生ヤマユリが、見頃との情報を得てかみさんと出かけて行った。
朝9時過ぎに家を出て 下道を西に向かうと、途中から小雨が時々降ってきた。
10時過ぎに目的地「菅谷館跡」に着くと、空は霧雨程度で歩くに支障はない。
複雑な空堀遺構を持つ園内に入ると、林の中に ちらほらとヤマユリが見えた。
さらに進むと、陽当たりの良い土塁の斜面にヤマユリがまとまって咲いていた。
群生とは言えないが 広い範囲に自生し、その白い花はちょうど見ごろだった。

埼玉県西部の丘陵地には、中世に築かれた 城館や砦跡が多く残されている。
その一つが「菅谷館跡」で、畠山重忠が築き 居住した場所と推測されている。
畠山重忠は 源頼朝挙兵後にその配下に加わり、富士川の戦や一の谷合戦
をはじめ 木曽義仲や平家追討で功をあげ 頼朝の信頼も厚かったが、頼朝死
後の元久2年(1205)執権北条氏政によって二俣川で謀殺されたと云われる。
その後の菅谷館は、豊臣時代まで足利氏や後北条氏の重要拠点になっきた。
          
跡地内にある「史跡博物館」を参観し、鎌倉時代の主要道「鎌倉街道」に沿い
北に進み、隣の小川町の古民家「吉田家」で鴨汁そばとそばがきの昼を摂る。
小川町は細川和紙で有名だが、今回は昼食だけで通過して川本町に向かう。
近年深谷市と合併した 旧川本の畠山地区に、畠山重忠公の銅像と墓がある。
その像は、一の谷合戦で愛馬を背に急坂を降りたという 逸話に基づいている。
『源平合戦の武功話は、「マ坂」と云える「ウマ」い話だ 』 と、ひげ爺の独り言。
愛馬を背に 戦は「馬」くいったが、謀反のぬれぎぬは「馬」く避けられなかった。 
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