前回千駄塚古墳上の浅間神社をご紹介したが、このあたりから小山宿に入って行く。
国道4号線を進むと(粟宮南)の信号に出る。
交差する道路は県道33号線で、信号を渡ると左手に立派な酒造会社の前に出る。
醸造するお酒は「若盛」地酒である。
最近酒造業だけでなく、どこもレストランなどを併設して好評を博している。
ついでにお酒の宣伝もできるというものだ。
(雨宮南の信号)
(地酒「若盛(ワカサカリ)」の看板)
(歴史を感じさせる酒造業の建物)
酒造会社を探している訳でなく、
このあたりに有る筈の「大橋訥庵(おおはしとつあん)」の旧居跡を探しているのだが、見当たらない。
資料上には、このあたりと思われるが・・・・
しばらく歩くと表札に「大橋」なるものが出てくるが、
攘夷運動の中心人物の旧居らしくない佇まい。
何よりも旧居跡と言うから標柱だけかもしれない。
そう考え直して後戻りしたが、植木屋さんがいるばかりで、
それらしい標柱は無い。
よくよく目を凝らして歩くと、それらしい看板があった。
植え込みの中に(大橋)の看板が無造作に置いてある。
が、これも歴史を物語るに足りない。どうも違うようだ。
それでも見当たらないからこれと決めて、通り過ぎることにした。
(大橋訥庵の旧居跡か?)
大橋訥庵(おおはしとつあん)は、江戸時代後期の儒学者で、
幕末の尊王攘夷運動に大きな影響を及ぼした人物だ。
しばらく歩くと、国道四号線は左へ曲がって行き、
県道265号線(旧日光街道)は直進する案内看板が見える。
そして案内にあるように約300mもすると、
その交差点(粟宮/あわみや)に出る筈だ。
しかし、その手前に「安房(あわ)神社参道入り口」の看板があり左折する。
(国道四号線左の案内看板)
(「安房神社参道入り口」の看板)
間々田商工会によると、
(この神社は、平安時代中ごろの「延喜式」に記載されている古い神社で、
崇神天皇の御代に創建されたと伝えられている。
遠い昔、安房(あわ)の国(千葉県館山市)の安房神社を祀る人々が、
よき土地を求めてここに永住し、神を祀り、
粟(あわ)を栽培したと言われている。――後略)とある。
そんな所から地名の粟宮(=安房宮)になったのだろうか?
やや眉唾な説明に思える。
国道四号線を左折して、参道に向かうが、
出たところは安房神社参道の中間地点、
左の「一の鳥居」と右の「二の鳥居」の間であった。
(一の鳥居が見える参道)
(二の鳥居が見える参道)
二の鳥居をくぐるとすぐ三の鳥居と御手洗場があり、
大きな龍が水を吐いている。
三の鳥居の正面が安房神社の神殿。
右側に由緒ありげな神楽殿がある、祭礼などには氏子で埋まりそうである。
(三の鳥居と御手洗場)
(神楽殿)
手と口を漱ぎ、神前で旅の安全を願い、帰りは三の鳥の前を左折すると、
なんのことはない国道四号線に出て、ここにも鳥居がある。
小山駅方面から来た人たちの参道になる。
(小山方面からの参道になる鳥居)
左折すれば、すぐ(粟宮)の交差点である。
国道四号線は左折し、旧日光街道は直進する県道265号線である。
(粟宮の交差点)
265号線を直進する。
かなりの間ご説明するような場所はない。
やがて国道50号線と交差するところまで来る。
(国道50号線との交差点)
この交差点で信号を見て驚いた。
交差点には土地の名前が入っているのだろうが、
なんと「神鳥谷(東)」と書いてある。
土地の方は読めるのだろうが、初めて見るボクには読めない。
「かみとりや(ひがし)」?「しんちょうや(ひがし)」「かみとりたに(ひがし)」?
この時ボクは読み方を考えることをギブアップした。
皆さん読めますでしょうか?
信号機の地名にローマ字の仮名が振ってある。
「Hitotonoya―East]とある。「ひととのや」と読むらしい。
ボクはこのローマ字をみて唖然としました。
何処をどう読めば「ひととのや」と読めるでしょう。
(「神鳥谷(東)」の「Hitotonoya―East」の信号機)
(Hitotonoya―ひととのやの信号機)
この難解な読み方の地名の信号機のある交差点を過ぎると、
左手になんの変哲もないごく普通の「天満宮」がある。
どうしてこんなものが名所なのか?
(天満宮)
この天満宮について、氏子の総代が残した説明を要約すると、
(この天満宮の創建についてはあまりにも古く分かりません。
現在は、天満宮、稲荷神社と雷電神社が合祀されているが、
天満宮より新しく祀られた稲荷神社の棟板(むないた)に、
明和四年(1767)十二月、社殿の落慶式の祭主は、
東醍醐山 持宝寺の住職であった。
もともと天満宮は持宝寺の末寺である、青蓮寺の和尚が祭主を務めており、
こうした落慶式のような大きなお祭りには、本山の住職が導師となっていたからです。
この青蓮寺は今はありませんが、江戸時代末期、
徳川御三家の水戸斉昭公が、大砲製作のため、
領内のお寺に釣鐘を供出させた時、
青蓮寺の和尚さんは、
「人殺しに仏様の釣鐘を使うてゃ何事か」と反対し、
一夜のうちにどこかへ隠してしまった。―後略)とある。
しばらく旧日光街道を進むと、左手に持宝寺が見えてくる。
(持宝寺)
「新義真言宗 持宝寺」と石柱にあり、門柱左には「弓削道鏡根本開基寺」とある。
(*)新義真言宗=空海(弘法大師)を始祖とする真言宗の宗派の一つで、
高野山内で新たな教義を打ち立てたため「新義」と呼ばれた。
国道4号線を進むと(粟宮南)の信号に出る。
交差する道路は県道33号線で、信号を渡ると左手に立派な酒造会社の前に出る。
醸造するお酒は「若盛」地酒である。
最近酒造業だけでなく、どこもレストランなどを併設して好評を博している。
ついでにお酒の宣伝もできるというものだ。
(雨宮南の信号)
(地酒「若盛(ワカサカリ)」の看板)
(歴史を感じさせる酒造業の建物)
酒造会社を探している訳でなく、
このあたりに有る筈の「大橋訥庵(おおはしとつあん)」の旧居跡を探しているのだが、見当たらない。
資料上には、このあたりと思われるが・・・・
しばらく歩くと表札に「大橋」なるものが出てくるが、
攘夷運動の中心人物の旧居らしくない佇まい。
何よりも旧居跡と言うから標柱だけかもしれない。
そう考え直して後戻りしたが、植木屋さんがいるばかりで、
それらしい標柱は無い。
よくよく目を凝らして歩くと、それらしい看板があった。
植え込みの中に(大橋)の看板が無造作に置いてある。
が、これも歴史を物語るに足りない。どうも違うようだ。
それでも見当たらないからこれと決めて、通り過ぎることにした。
(大橋訥庵の旧居跡か?)
大橋訥庵(おおはしとつあん)は、江戸時代後期の儒学者で、
幕末の尊王攘夷運動に大きな影響を及ぼした人物だ。
しばらく歩くと、国道四号線は左へ曲がって行き、
県道265号線(旧日光街道)は直進する案内看板が見える。
そして案内にあるように約300mもすると、
その交差点(粟宮/あわみや)に出る筈だ。
しかし、その手前に「安房(あわ)神社参道入り口」の看板があり左折する。
(国道四号線左の案内看板)
(「安房神社参道入り口」の看板)
間々田商工会によると、
(この神社は、平安時代中ごろの「延喜式」に記載されている古い神社で、
崇神天皇の御代に創建されたと伝えられている。
遠い昔、安房(あわ)の国(千葉県館山市)の安房神社を祀る人々が、
よき土地を求めてここに永住し、神を祀り、
粟(あわ)を栽培したと言われている。――後略)とある。
そんな所から地名の粟宮(=安房宮)になったのだろうか?
やや眉唾な説明に思える。
国道四号線を左折して、参道に向かうが、
出たところは安房神社参道の中間地点、
左の「一の鳥居」と右の「二の鳥居」の間であった。
(一の鳥居が見える参道)
(二の鳥居が見える参道)
二の鳥居をくぐるとすぐ三の鳥居と御手洗場があり、
大きな龍が水を吐いている。
三の鳥居の正面が安房神社の神殿。
右側に由緒ありげな神楽殿がある、祭礼などには氏子で埋まりそうである。
(三の鳥居と御手洗場)
(神楽殿)
手と口を漱ぎ、神前で旅の安全を願い、帰りは三の鳥の前を左折すると、
なんのことはない国道四号線に出て、ここにも鳥居がある。
小山駅方面から来た人たちの参道になる。
(小山方面からの参道になる鳥居)
左折すれば、すぐ(粟宮)の交差点である。
国道四号線は左折し、旧日光街道は直進する県道265号線である。
(粟宮の交差点)
265号線を直進する。
かなりの間ご説明するような場所はない。
やがて国道50号線と交差するところまで来る。
(国道50号線との交差点)
この交差点で信号を見て驚いた。
交差点には土地の名前が入っているのだろうが、
なんと「神鳥谷(東)」と書いてある。
土地の方は読めるのだろうが、初めて見るボクには読めない。
「かみとりや(ひがし)」?「しんちょうや(ひがし)」「かみとりたに(ひがし)」?
この時ボクは読み方を考えることをギブアップした。
皆さん読めますでしょうか?
信号機の地名にローマ字の仮名が振ってある。
「Hitotonoya―East]とある。「ひととのや」と読むらしい。
ボクはこのローマ字をみて唖然としました。
何処をどう読めば「ひととのや」と読めるでしょう。
(「神鳥谷(東)」の「Hitotonoya―East」の信号機)
(Hitotonoya―ひととのやの信号機)
この難解な読み方の地名の信号機のある交差点を過ぎると、
左手になんの変哲もないごく普通の「天満宮」がある。
どうしてこんなものが名所なのか?
(天満宮)
この天満宮について、氏子の総代が残した説明を要約すると、
(この天満宮の創建についてはあまりにも古く分かりません。
現在は、天満宮、稲荷神社と雷電神社が合祀されているが、
天満宮より新しく祀られた稲荷神社の棟板(むないた)に、
明和四年(1767)十二月、社殿の落慶式の祭主は、
東醍醐山 持宝寺の住職であった。
もともと天満宮は持宝寺の末寺である、青蓮寺の和尚が祭主を務めており、
こうした落慶式のような大きなお祭りには、本山の住職が導師となっていたからです。
この青蓮寺は今はありませんが、江戸時代末期、
徳川御三家の水戸斉昭公が、大砲製作のため、
領内のお寺に釣鐘を供出させた時、
青蓮寺の和尚さんは、
「人殺しに仏様の釣鐘を使うてゃ何事か」と反対し、
一夜のうちにどこかへ隠してしまった。―後略)とある。
しばらく旧日光街道を進むと、左手に持宝寺が見えてくる。
(持宝寺)
「新義真言宗 持宝寺」と石柱にあり、門柱左には「弓削道鏡根本開基寺」とある。
(*)新義真言宗=空海(弘法大師)を始祖とする真言宗の宗派の一つで、
高野山内で新たな教義を打ち立てたため「新義」と呼ばれた。
>皆さん読めますでしょうか?
信号機の地名にローマ字の仮名が振ってある。
「Hitotonoya―East]とある。「ひととのや」と読むらしい。
ボクはこのローマ字をみて唖然としました。
何処をどう読めば「ひととのや」と読めるでしょう。
当て字にしても読めないですね。(苦笑)
神をヒトと読むのでしょうか?
地名は難しい(苦笑)
>安全マークを付けたパンダが愉快な表情をしています。
セーフティスタンドをかわいい動物にしています。
私が関東に単身赴任中は築西市(ちくせいし)は
下館市(しもだてし)と呼びましたね
大阪へ戻る頃に筑西市に変わったような記憶。
だから道路標識が上から塗り替えて書かれた感じですね。
持宝寺って奈良時代に道鏡が下野に流されて
そこで亡くなったと言われてますから
道鏡が最後に住んでいたお寺なのかしら?
よく調べられていますね。感心いたします。
どんなに頭をひねっても読めませんでした。
逆にひらがなから当て字を作ればよかったかもしれませんね。
昔からある土地の名前なんでしょうね。
時には人が何人も入りそうな、大きな樽を干している光景には出会います。
平成の大合併の流れですね。
大きいことは良いことだ、ですかね。
小山市役所に聞けば確かなことが解ると思いますが。
神鳥谷(ひととのや)は元々「しととのや」だったのが訛ったものらしいです。江戸っ子?
神の鳥と書いて『しと』ってカッコいい気もします。神鳥で「しとど」と読んだのか「しんどり」が元なのか分かりませんが、何か伝説でもありそうな地名ですよね。
ちなみにゴルフ場の「神鳥谷カントリークラブ」はわりと有名で、神の鳥のようなマークがデザインされています。
国4沿いの酒造も良い雰囲気の残る建物ですね。
http://blog.livedoor.jp/keinosora/
「ひ」が「し」と発音するのは、東京弁ですね。
ご指摘があって調べましたが、「ひととのや」は、お説の通りで、少しややこしいので、覚えきれません。
ありがとうございました。