彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

べらぼうの時代(3)

2025年02月27日 | その他

 井伊直幸を大老に迎えた田沼意次だったが、御三家や御三卿などをはじめとする親藩や譜代大名らからの反発を受け、後ろ盾であった十代将軍徳川家治が急死したことから急激に権力を失ってゆく。また各地で起きた天変地異や打ち毀しの責任も意次が負わされた。こうして田沼時代は終わり、徳川吉宗の孫である松平定信が老中首座に就き「寛政の改革」が始まる。

 田沼意次失脚後の天明8年(1788)蔦屋重三郎の耕書堂から発刊された黄表紙である朋誠堂喜三二の『文武二道万石通』では、定信が推奨する文武のどちらにもかからない「ぬらくら武士」のひとりとして井伊直幸と思われる人物も描かれていて(画像左上「伊」の紋を付けた人物、向かい合って七曜紋を付けているのが田沼意次)、重三郎らも直幸と意次の深い繋がりを理解しながら田沼時代の終焉を歓迎していた風潮も見受けられる。それと同時に定信の政治に対しても皮肉を込めた物語であった。この作品は江戸での評判が高くベストセラーとなる。翌年には喜三二の友でありライバルでもある恋川春町が『鸚鵡返文武二道』を発表。これにより定信の怒りが爆発した。秋田藩留守居役であった朋誠堂喜三二は断筆、駿河小島藩年寄本役であった恋川春町は幕府からの呼出に応じないまま急死(自害との説が有力)する。耕書堂の二枚看板であった二人を失った蔦屋の巻き返しは黄表紙ではなく浮世絵を中心に行われることとなり、ここから喜多川歌麿や東洲斎写楽を世に送り出すこととなるが、同時に幕府によって規制され罰も受けることとなる。

 このように、江戸幕府が庶民に考え方を押し付けて活気がなくなりつつある空気を明確に示した狂歌がある。
「白河の清きに魚も住みかねて 元の濁りの田沼恋しき」
 (白河藩主である松平定信の清い政治は暮らしにくい、黒い噂があったとしても田沼時代の濁りが懐かしい)
「世の中は蚊ほど煩きものはなし ぶんぶぶんぶというて夜も眠れず」
 (世の中にこれほど煩いものがあるだろうか? 文武文武と言ってこられては安心して眠ることもできない)

 田沼意次を汚れた賄賂政治家と決めつけて天変地異すらも意次の責任とし、意次の息子・意知を暗殺した佐野善左衛門を世直し大明神とまで崇めた江戸市民たちであったが、失ってから初めて田沼時代は自由な風が流れていて庶民の権利すらも認められていたことに気付いたのだった。意次は蝦夷地開拓からのロシアとの貿易、その航路として必要になる運河の役割も果たす印旛沼の開拓、金・銀・銭の三つの貨幣が入り乱れていた経済を統一した通貨を流通させて明朗化しようとした経済改革など日本が開国し近代化する礎を築く政策を行っていた、しかし現代にいたるまで田沼時代は賄賂に汚れた汚職政治の時代としか見られないのである。

『文武二道万石通』国立国会図書館デジタルコレクション
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『べらぼう』の話(8)『金々先生栄華夢』

2025年02月23日 | その他
盗作疑惑で幕府の罰を受けた鱗形屋孫兵衛ですが、これによって鱗形屋がなくなった訳ではありませんので釈放された鱗形屋は版元としての仕事を再開しました。

ちなみに、盗作や海賊版については上方では1世紀近く前から問題になっていて版元としては強い抗議があるのも当然だったようです。

さて安永4年(1775)、駿府小島藩士の倉橋格が恋川春町の名で描いた物語『金々先生栄華夢』を鱗形屋から発刊します。
これは、目黒不動尊にお詣りに来た金屋金兵衛という貧しい者が、門前で粟餅を食べようと店に入った時に眠ってしまい、その間に金持ちになり没落するまでの夢を見た話で、故事にもなっている『邯鄲の枕』を元ネタに吉原に詳しい者でしか描けない滑稽さがふんだんに含まれてしました。

(恋川春町作・画『金々先生栄花夢:2巻』国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2537596)






これは、各藩の外交役が接待として吉原を使っていたことから、武士たちが吉原の遊び方に詳しかったことが関わっています。
久保田藩(秋田藩)留守居役の平沢常富は自らを「宝暦の色男」と称して吉原通を自負し、平沢と交流が深かった倉橋も同様に吉原通であったと考えられるのです。

『金々先生栄華夢』は、その色から黄表紙との分類がされていますが当時は「青本」と呼ばれていました。
「青本」は子ども向けだった「赤本」より大人向けになった草双紙でしたが、若草色に近い本でした。
しかし、紫外線の影響で経年劣化すると青系の色が落ちて黄色になってしまうため、後年の研究者が「黄表紙」と呼ぶようになったのです。
ですので、歴史的分類として『金々先生栄華夢』が最初の黄表紙とされていますが、鱗形屋孫兵衛も恋川春町もその認識はなかったと考えられます。
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『べらぼう』の話(7)冷やかす

2025年02月16日 | 史跡


現在では山谷堀は埋め立てられて公園になっていますが、浅草から吉原に行く時にここを歩くと当時の気分に浸れるかも?

吉原に行くにはこの日本堤を歩くか、山谷堀を猪牙舟に乗って行くことになります、猪牙舟はスピードが早かったみたいですが、お金がある人の移動手段だったみたいですね。



今も橋柱を見ることができますが、その中でも注目したいのが「紙洗橋」です。


これは古紙を回収して熱して溶かして冷やして砕いて漉き直す、いわゆる安価なリサイクルの紙でした。

このため、職人たちは紙を溶かしてから冷めるまでの空いた時間に吉原見物に行っていたのです。

見物だけで、客になる訳ではないので、買う気持ちがないのに見に行くだけの行為を「冷やかす」と言うようになりました。

紙洗橋は、「冷やかす」語源の地なのです。




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『べらぼう』の話(6)佐野政言

2025年02月09日 | 史跡
佐野家は藤原秀郷の子孫基綱が源頼朝の御家人として下野国佐野荘地頭に任ぜられて佐野姓を称しました。その孫の実綱には多くの子がいて所領を子らに分割相続させます。その中の1人重綱が田沼の地を得て田沼姓を称し佐野家の家臣となったのです。
佐野善左衛門が田沼家が家来筋であったことを主張するのはここに起因します。
このままでしたら田沼意次は、姓名を「藤原意次」と記さねばなりませんが、史料では「源意次」と書いています。これは田沼重綱の五代後の田沼光房に男子がいなかったため娘の嫁ぎ先から孫を養子として迎えて家を継がせました、この養子は田沼重綱(初代と同じでややこしい)と名乗りますがその父は高瀬忠重という人物で清和源氏新田家の末だったのです。この時から田沼意次の田沼家は源姓を使うことになります。

つまり、厳密に両家に主従関係を求めるなら鎌倉時代の短い期間と考えねばなりません。
佐野善左衛門が名家佐野家の系図を田沼意知に渡したのは、当時の武士が出世の足掛かりに家格を重視した風潮から「名門佐野家を利用していいぞ」との意味を含めたとされています。





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『べらぼう』の話(5)須原屋

2025年02月02日 | その他
書物問屋須原屋市兵衛は、江戸で大きな商いを行っていた須原屋の店舗のひとつ
伊勢国北畠氏の子孫との伝承もあります。

前回も書いた通り、出版関連は上方が中心で江戸に下って行くのですが、五代将軍徳川綱吉の頃に江戸で出版事業を始めたのが須原屋茂兵衛でした。以降須原屋茂兵衛家は明治まで9代に渡って商売を行い、現在も続いています。

そんな須原屋は江戸時代を通して分家やのれん分けなどで店舗を増やして行き、そのなかでも田沼期から寛政の改革期に大きく活躍したのが須原屋市兵衛でした。
有名な出版としては杉田玄白らが記した『解体新書』。他にも平賀源内の著書も発行しています。
そして、林子平の『三国通覧図説』も発行していましたが、子平の著書が松平定信の怒りに触れたため『三国通覧図説』は版木の処分、須原屋市兵衛は重過料の罰を受けるのです。
須原屋市兵江衛は蔦屋重三郎とは違った形ではありますがこの時代の出版界をけん称される版元であることは間違いありません。

須原屋は『武鑑』も発刊しています
僕の手元には萬延元年(1860)の物がありますが、桜田門外の変で井伊直弼が暗殺されたあとの形もちゃんと反映されています



また文化年間の『孟子』には江戸に須原屋平助(日本橋通三丁目)、京都に須原屋平衛門(富小路通三条下る)もありました

他にも、須原屋茂兵衛と共に『江戸名所図会』を発刊した須原屋伊八
『一目千本』の絵を描いた北尾重政の父である須原屋三郎兵衛
北尾重政の墓の正面に墓がある荻生徂徠との交流が深かった嵩山房(小林新兵衛門)

などが歴史に業績を残しています。
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